はんどろやノート

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原子模型と量子力学の誕生

2010年06月22日 | らくがき
 「電子」の発見者であるイギリス・ケンブリッジのキャベンディッシュ研究所所長J・J・トムソンは、1903年、「プラム・プディング型原子モデル」を提唱した。これは基本的には、グラスゴーの重鎮ケルヴィン卿の唱えたものと同じである。
 「プラム・プディング」と言われてもわかりにくいが、要するに「ぶどうパン型原子モデル」である。パンが「原子」で、その中にぶどう、すなわち「電子」が存在している、というのものである。


 次いで日本の長岡半太郎は1904年、「土星型の原子モデル」を発表した。これはJ・C・マックスウェルの「土星リングの研究」への尊敬心から生まれ出たものらしい。無数の「電子」が、土星をとりまくリング(小さな岩石の欠片)のように周回している、というモデルである。 (土星リングが無数の岩石の欠片であることを、計算によって証明したのがマックスウェルである。)
 けれども長岡のこの原子モデルは、「誰が見てもおかしい」と思われる理論的な‘欠陥’があったのである。


 1911年にマンチェスターにいたアーネスト・ラザフォードが「太陽型の原子モデル」を発表する。原子の中には「原子核」というものがある、という実験的結果による確信が生んだ発想であった。
 長岡半太郎のモデルが空想的だったのと大きく違って、ラザフォードのそれには実験的な根拠があった。(アルファ粒子線を金箔にぶつけると一部が跳ね返ってきた、というもの。その跳ね返り方をラザフォードは研究した。)
 ところが、長岡モデルにあった‘欠陥’は、ラザフォードモデルでも解消されてはいなかったのだ。だから今では教科書に載っているラザフォード原子モデルも、発表当時は大いに疑いの眼でみられていたのである。


 では、その‘欠陥’について話そう。 それほど難しいことではない。

 「原子核」が中央にあって、その外はスカスカの広い空間がある、その外周部を「電子」が周っている、それがラザフォード原子モデルである。電子の電荷は「マイナス」、そして原子核は電荷「プラス」である。 そしてプラスとマイナスは‘引き合う’はずである。
 それならば、なぜ、「原子核」と「電子」はくっつかないでいられるのか?

 これが問題なのだった。「長岡モデル」も「ラザフォードモデル」も、その単純な疑問への答えがないのだった。
 太陽と惑星の場合ならば“遠心力”で説明がつく。ところが極小の世界である「原子核」と「電子」の場合、“遠心力”では話にならないほど弱くて駄目なのだ。 対して、‘引き合う’電気の力は大きい。
 おかしいじゃないか!!



 それを説明するために登場した男が、デンマーク人ニールス・ボーアである。
 ボーアは、ラザフォード原子模型に、「プランク定数」を持ち込んだ。そうすることで強引に、「電子」が「原子核」に落ち込まない理由をつくり上げた。
 これが「量子力学」のはじまりである。


 ニールス・ボーアは最初、J・J・トムソンのいるケンブリッジ・キャベンディッシュ研究所で学ぶために夢を抱いて渡英したが、トムソンはボーアの話し相手になってくれなかった。(ボーアという人は、誰かと話しながらでないと勉強できないという性質があった。) ボーアは落ち込んだが、そこにトムソンの弟子であったラザフォードがマンチェスターから遊びに来て、彼と話してみると気持ちが明るくなった。それでボーアは「マンチェスターに行きたい」と思い、願い出てそれは許可された。
 このマンチェスターで、「量子力学」が生まれたのである。

 ラザフォードにすれば、自分では説明のできなかったことを説明する理屈を考えてくれたわけだから、ボーアを応援しない理由はなかった。それでも、ボーアのその「理論」は、あまりにも突飛で、強引な辻褄合わせのようにもみえた。
 ところがそこ(マンチェスター)には、オックスフォードからラザフォードのところに学びに来ていたヘンリー・G・J・モーズリーがいた。モーズリーは特性X線に興味をもち調べていたが、彼の実験結果とボーアの理論とを照らし合わせてみると、じつにピッタリと合うのである。(→『カギムシと「モーズリーの法則」』)
 ラザフォードとボーアとモーズリー、この三人の理論と実験、そして鋭い直感が、欠陥だらけだがふしぎな魅力に満ちた新理論「量子力学」を、ともかく世界へと送り出したのだ。



 とはいえ、「量子力学」は、まだまだ矛盾だらけの欠陥品に見えた。説明できないことが山ほどあった。しかしだからこそ、これから何かを成し遂げんと野望をもつ若者にとっては、“魅力的な荒野”だったのである。
 ニールス・ボーアは、自身のかわいい息子である「量子力学」を、ドイツに投入した。ドイツは当時“もっとも物理学の進んだ地”であった。そして数学のメッカ・ゲッチンゲン大学があった。ボーアの新しい理論に食いついたのは、ゲッチンゲン大学のマックス・ボルン、それからミュンヘン大学のアーノルト・ゾンマーフェルトである。そしてミュンヘンのゾンマーフェルトの教え子には二人の天才がいた。ハイゼンベルグパウリである。


 おもしろいことに、ラザフォードは彼らが嫌いでしようがなかったらしい。‘彼ら’とは「理論物理学者」のことである。 実験家のラザフォードから見れば、数式を一日中こねくりまわし喋っているだけの「理論物理学者」というものは、‘屁理屈ばかりのくそ野郎ども’だったかもしれない。


 最後にもう一度、「長岡半太郎の原子モデル」に触れておこう。
 このモデルは理論的にはあまり見るところのないものである。なにしろ、根拠がない。
 しかし、ラザフォードが実験的に「原子核」というものを発見する(1909年)よりも前、1904年に、「原子核」といえるもの(土星のこと)を想定していたことは、注目しておいてもよいだろう。
 長岡は1910年に、イギリスのラザフォードの実験室と自宅を訪ねている。その実験室をみて、数々の大発見をなし得たラザフォードの実験道具があまりにも簡素だったことに、たいへん驚いたようだ。