電子の「スピン」、その考えに人類史上、最初に辿り着いたのは、アメリカ人のラルフ・クローニッヒという男であった。1925年のことである。
彼がそれを思いついたときの環境は、ニールス・ボーアのいるデンマーク・コペンハーゲン、その地にはボーアの生んだ物理学の未開の荒野「量子力学」を学び研究するために、若い才能ある頭脳が集っていた。ハイゼンベルグ、パウリ、クラマース、クライン、そして仁科芳雄ら日本人の姿もあった。(朝永振一郎著『スピンはめぐる』の中には、仁科とクローニッヒが一緒に写った写真が載っている。)
クローニッッヒのその「電子スピン」のアイデアは、しかし、彼らによってすぐに否定されてしまった。それでクローニッヒは、それを追求することをやめた。これだけ優秀の精鋭達が「だめ」というのだからそれはきっと駄目なんだろう…。
この瞬間、「スピン」のアイデアは、彼の元を去っていった。
それは次にオランダへと飛んでいった。
それから3ヵ月後、オランダ・ライデンで二人の若者が、全く同じアイデアを思いつき、論文に仕上げることとなった。カウシュミット(ゴーズミット)とウーレンベックである。
二人はその「電子スピン」の論文を、彼らの先生であるポール・エーレンフェストに見せた。エーレンフェストはこう言った。「このアイデアは大変に重要かナンセンスかどちらかだ。」 そしてエーレンフェスト先生は、ローレンツ教授にも話して感想を聞いてみなさい、と二人に指示したのである。
ヘンドリック・ローレンツ―――オランダの偉大な物理学者で、当時70歳を越えていた。(1902年ノーベル物理学賞受賞者である。)
老ローレンツ教授は、カウシュミットとウーレンベックの持ってきた論文の写しを見て、「これは面白い。」と述べそして検討してみようと彼らに約束した。幾日かしてローレンツは、自分が計算したものを書いた紙を二人に見せながら、「どうやらこれは駄目だ。うまくいかない。ほら、ここで磁気的なエネルギーが大きくなりすぎて、そうすると電子の速度が光速の10倍にもなってしまうんだよ。」
光速の10倍! そんな物質はあってはならない!
「ああ…。そうか、だめなのか。」
ウーレンベックは、あわてた。 急いで先生のエーレンフェストのところに行き、あの論文の提出を取り下げてくださいと告げた。 すると、なんと先生はこう言ったのである。
「もう遅いよ。あの論文はもう(発表するために)送ってしまったよ。」
「ええっ!?」 なんてことだ!
ウーレンベックは「ああ大変だ! なんで送ってしまったんですか!? ローレンツ教授の計算では、あのアイデアは…」などと嘆いたが、エーレンフェストは平然とこう言ったのである。
「君たちは若いんだから、いいんだ。馬鹿なことをしても許されるんだよ。」
結局、「電子のスピン」は世に認められたのである。 なにしろ、ボーアやアインシュタインがそれを承認したのだから。それなら、おおむね、問題なしだろう。
では、ローレンツの言ったあの“光速の10倍になってしまう電子”の問題はどうなったのか。
ボーアは、「その問題はやがて(誰かによって)解決されるのではないか」などと、おおらかにも思ったようである。(歴史に残るほどの学者というのは不思議なほどに“正しいカン”をもっている。) そして実際、そのとうりになったのだった。
数年後、イギリス・ブリストル生まれのポール・ディラックが登場し、電子の速度の、正しい計算ができるよう道を切り開いたのである。 「スピン」は生き残った。
「スピン」を最初に思いついたクローニッヒも、もしもボーアに直接そのアイデアを話していたら、「それは面白い。その研究をすぐ論文にしなさい。」となったかもしれないのである。
クローニッヒがそのアイデアを述べたとき、ヴォルフガング・パウリもそこにいたのだが、パウリはすぐにそれを否定した。だが、後になって「スピン」の考えを取り入れてみると、パウリの有名な定理「パウリの排他律」をうまく説明できるのであった。 クローニッヒには“運”(あるいは執念か)が足らなかった。
このようにして、「電子スピン」という考えが生み出され、認知された。
この発見物語の主役は、エーレンフェスト先生だろう。ウーレンベックとカウシュミットに、二人でなにか研究しなさい、と命じて二人をくっつけたのは彼であるし、それによって「スピン」のアイデアがオランダに生まれたのだし。二人の論文が世に出たのも、上に書いたように、エーレンフェストの柔軟な人格によるアシストがあったからなのだ。
そのエーレンフェストは、ウィーンの生まれで、有名なボルツマンの弟子である。
彼がそれを思いついたときの環境は、ニールス・ボーアのいるデンマーク・コペンハーゲン、その地にはボーアの生んだ物理学の未開の荒野「量子力学」を学び研究するために、若い才能ある頭脳が集っていた。ハイゼンベルグ、パウリ、クラマース、クライン、そして仁科芳雄ら日本人の姿もあった。(朝永振一郎著『スピンはめぐる』の中には、仁科とクローニッヒが一緒に写った写真が載っている。)
クローニッッヒのその「電子スピン」のアイデアは、しかし、彼らによってすぐに否定されてしまった。それでクローニッヒは、それを追求することをやめた。これだけ優秀の精鋭達が「だめ」というのだからそれはきっと駄目なんだろう…。
この瞬間、「スピン」のアイデアは、彼の元を去っていった。
それは次にオランダへと飛んでいった。
それから3ヵ月後、オランダ・ライデンで二人の若者が、全く同じアイデアを思いつき、論文に仕上げることとなった。カウシュミット(ゴーズミット)とウーレンベックである。
二人はその「電子スピン」の論文を、彼らの先生であるポール・エーレンフェストに見せた。エーレンフェストはこう言った。「このアイデアは大変に重要かナンセンスかどちらかだ。」 そしてエーレンフェスト先生は、ローレンツ教授にも話して感想を聞いてみなさい、と二人に指示したのである。
ヘンドリック・ローレンツ―――オランダの偉大な物理学者で、当時70歳を越えていた。(1902年ノーベル物理学賞受賞者である。)
老ローレンツ教授は、カウシュミットとウーレンベックの持ってきた論文の写しを見て、「これは面白い。」と述べそして検討してみようと彼らに約束した。幾日かしてローレンツは、自分が計算したものを書いた紙を二人に見せながら、「どうやらこれは駄目だ。うまくいかない。ほら、ここで磁気的なエネルギーが大きくなりすぎて、そうすると電子の速度が光速の10倍にもなってしまうんだよ。」
光速の10倍! そんな物質はあってはならない!
「ああ…。そうか、だめなのか。」
ウーレンベックは、あわてた。 急いで先生のエーレンフェストのところに行き、あの論文の提出を取り下げてくださいと告げた。 すると、なんと先生はこう言ったのである。
「もう遅いよ。あの論文はもう(発表するために)送ってしまったよ。」
「ええっ!?」 なんてことだ!
ウーレンベックは「ああ大変だ! なんで送ってしまったんですか!? ローレンツ教授の計算では、あのアイデアは…」などと嘆いたが、エーレンフェストは平然とこう言ったのである。
「君たちは若いんだから、いいんだ。馬鹿なことをしても許されるんだよ。」
結局、「電子のスピン」は世に認められたのである。 なにしろ、ボーアやアインシュタインがそれを承認したのだから。それなら、おおむね、問題なしだろう。
では、ローレンツの言ったあの“光速の10倍になってしまう電子”の問題はどうなったのか。
ボーアは、「その問題はやがて(誰かによって)解決されるのではないか」などと、おおらかにも思ったようである。(歴史に残るほどの学者というのは不思議なほどに“正しいカン”をもっている。) そして実際、そのとうりになったのだった。
数年後、イギリス・ブリストル生まれのポール・ディラックが登場し、電子の速度の、正しい計算ができるよう道を切り開いたのである。 「スピン」は生き残った。
「スピン」を最初に思いついたクローニッヒも、もしもボーアに直接そのアイデアを話していたら、「それは面白い。その研究をすぐ論文にしなさい。」となったかもしれないのである。
クローニッヒがそのアイデアを述べたとき、ヴォルフガング・パウリもそこにいたのだが、パウリはすぐにそれを否定した。だが、後になって「スピン」の考えを取り入れてみると、パウリの有名な定理「パウリの排他律」をうまく説明できるのであった。 クローニッヒには“運”(あるいは執念か)が足らなかった。
このようにして、「電子スピン」という考えが生み出され、認知された。
この発見物語の主役は、エーレンフェスト先生だろう。ウーレンベックとカウシュミットに、二人でなにか研究しなさい、と命じて二人をくっつけたのは彼であるし、それによって「スピン」のアイデアがオランダに生まれたのだし。二人の論文が世に出たのも、上に書いたように、エーレンフェストの柔軟な人格によるアシストがあったからなのだ。
そのエーレンフェストは、ウィーンの生まれで、有名なボルツマンの弟子である。