この稿は、じつはすでに先々月に書いていたもの。なんとなくそのままにしていたのですが、やっと画をつけました。 (長いッスよ~。詰め込みすぎ…ですかね?)
「ノーチラス。 北緯。 90度。」というのは、世界的に有名なセリフなのだそうです。(僕はこの歳になるまで知りませんでしたが。)
アメリカの原子力潜水艦ノーチラス号がついに北極点に到達した時のアンダーソン艦長がワシントンに打った電報の言葉です。1958年8月3日のこと。
同じ年1958年の暮れ12月に、日本ではプラモデル「原子力潜水艦ノーチラス号」(1/300)が発売された。これが“日本初のプラモデル”なのだそうだ。発売したのは東京浅草のマルサン商店というブリキ玩具のメーカーで、「プラモデル」という言葉もそのメーカーがつくりだした。(世界では「プラスチック・モデル」という。) ただしこのプラモデル「ノーチラス号」はオリジナル製品ではなく、アメリカのラベール(レベル)社製(1953年発売)のコピー商品である。
値段は250円。
250円という値段では、子どもには買えない。
1958年といえば、昭和33年。あの映画『三丁目の夕日』の年で、東京タワーが建設途中である。翌昭和34年には初の週刊少年漫画誌『少年マガジン』と『少年サンデー』が誕生する。その値段は30円だった(はじめ『マガジン』は40円だったが、すぐに下げた)。
だから子どもにはこの「ノーチラス号」は高すぎる。 しかし“プラモデルブーム”の波は確実に近づいてきていたのだ。マルサン商店が「ノーチラス号」を発売しなかったとしても、2ヵ月後には、別のメーカーの潜水艦の模型が発売されていたはずである。
それがニチモ(日本模型)による「伊号潜水艦」である。こっちは、純国産プラモデルだ。 このニチモ「伊号潜水艦」は、年が明けて昭和34年の2月に発売された。 これは100円という値段で、そして、よく売れた。
続いて、三共模型、三和模型というメーカーが30円という低価格商品を売り出したから、ついに子供達のハートに一気に火が点いた。
さらに昭和35年11月には、イマイが「鉄人28号」を発売。 さらに田宮模型が参入、36年12月「パンサータンク」(ドイツ戦車)を発売し―――といった具合に昭和模型少年を熱狂させていったのである。
プラモデル(プラスチック・モデル)の発祥の地は、イギリスだという。
1936年にフロッグというメーカーが「ペンギン」という名のシリーズで1/72スケールのイギリスの爆撃機、戦闘機の模型を発売したのがはじまりだそうだ。「ペンギン」というのはつまり「飛ばない鳥」という意味のネーミングである。(イギリス式ユーモアってやつだね。)
大戦後、この熱はアメリカに飛び火して、アメリカでは飛行機にとらわれず、自動車や戦艦の模型が作られるようになったのであった。
ところで、本物のアメリカ製「原子力潜水艦ノーチラス号」のほうの話をしよう。この画期的な新式の潜水艦が建造されたのは1952年からで、1954年12月に進水。ついに「原子力潜水艦」が産声をあげたのである。「ノーチラス」と名付けられた。
「ノーチラス」はもちろん、ジュール・ベルヌ作『海底二万マイル』からとったネーミングである。「ノーチラス」とは「オウムガイ」のことだが、ジュール・ベルヌがこの小説の潜水艦にこの名前を付けたのには別の理由がある。アメリカのロバート・フルトン(もともとは画家だった)という人がいて、1800年に、「ノーチラス号」と名付けた潜水艦の設計図を書いて、フランス政府に売り込んだのである。もちろんこれはおもちゃではなく、本物の潜水艦の設計図である。ただしその売り込みは実らなかったが。 フルトンのこの潜水艦は3人乗り、動力は「手動式」であった。
さて、浅草マルサン商店の「原潜ノーチラス号」が発売された1958年、本物の原潜ノーチラス号は、ある‘挑戦’にトライしていた。(「サンシャイン作戦」と名付けられた。)
潜水艦によって、北極の氷の下を潜って、太平洋から大西洋まで通りぬけたのである。(ベーリング海峡→北極点→グリ-ンランド)
‘原子力’には酸素がいらない。これが画期的なことだった。「原子力」を手に入れることによって、ついに潜水艦は、永続的に潜ることを可能としたのである。そういう意味でも、『海底二万マイル』のノーチラス号並みの能力を、このとき人類はやっと手に入れたことになる。‘原子力’によって。
ただし、この「原子力潜水艦ノーチラス号」の水中での速度は、案外速くない? 20ノットほどだから、時速40キロ未満である。(それでも、大戦中の潜水艦の3倍の速度なのだ。) いやいや、船よりも速い。
この世界初の原子力潜水艦は、1980年に引退した。
‘原子力’―――(ウランの)「核分裂」が最初に発見されたのは、ベルリンの実験室である。
1938年12月ドイツ・ベルリンのオットー・ハーンと助手フリッツ・シュトラスマンの実験室でそれは起こった。予期せぬ結果が出た。ハーンは、その“不可解な結果”を手紙で物理学者のリーゼ・マイトナーに知らせ、「何が起こったのだろう?」と相談した。 マイトナーはもともとこのチームのメンバーで――というより、この核研究実験のチームを立ち上げたのは彼女(リーゼ・マイトナーは女性である)なのだ。オーストリア生まれのリーゼ・マイトナーは、ベルリンの街が大好きだったのだけれど、ユダヤの生まれだったために泣く泣くスウェーデンに亡命したばかりだった。
マイトナーは考えた。 彼女は自分達のベルリンの実験チームの実力を信頼していたから、ハーンの送ってきた実験結果にまちがいはないと、ハッキリ確信できた。
この(奇妙な)実験結果は“正しい”。 それならば、結論はこうだ。
「信じられないこと」が実際に起こったのだ!!
ウランの核が二つに割れたのだ!
しかし、なぜ“割れた”のか。そんなことがありえるのか? いや、すでにそれは起こったことなのだ! 物理学者としては、その理由を説明できなければならない…。
「ウラン235」は、「陽子92個、中性子143個」の核をもっている。この巨大な「核」を、たった1個の「中性子」がふたつに分割したのだ。(バリウムとクリプトンに。) そこにはどんな“物理学”が働いているのか?
リーゼ・マイトナーにとって、“物理学”は、恋人だった。
1938年のクリスマスの前日、コペンハーゲンからオットー・フリッシュがやってきた。フリッシュは、リーゼ・マイトナーの甥であり、彼もまた物理学者である。彼女は、フリッシュにハーンからの手紙を見せた。「信じられないな…。何かの間違いだ。」とフリッシュは言った。「でも、これが本当に起こったとしたら…どういうことが考えられるかしら?」 そんなことは起こらない、不可能だと言いながら、フリッシュはやがてそれを考えることに夢中になった。 二人は、「核が二つに割れた」その原理について考えた。「原子核は液滴のようなものではないか」とニールス・ボーア(デンマークの物理学者)が以前に発言したことを彼らは思い出していた。「液滴」…つまり「水の粒」のことだが、その「水の粒」が二つに割れるための条件はなんだろう?
…そのようにして「核分裂」の理論がそこで誕生したのである。場所はスウェーデン・クングエルブ村。
核は二つに割れ、そして、エネルギーが生まれる…。 F=m×c(2乗)、アルバート・アインシュタインの発見したあの式によれば、失われた質量の分だけエネルギーに変わるはずである…!!
そのエネルギー量は…
200000000eV !! (←2億電子ボルト)
二人が考え出した核分裂の理論より生じるエネルギー、アインシュタインの式から計算されるエネルギー、両者のその大きさがピタリと一致した!
フリッシュは、興奮した。
「ウラン核」は、割れる。
この重大な結論を、オットー・フリッシュは、デンマーク・コペンハーゲンへ戻り、ニールス・ボーアに伝えた…。
ボーアは、その時、アメリカへと旅立つ直前であった。(アインシュタインに会う予定があった。) ボーアは、フリッシュから‘それ’を聞くやいなや、自分の額を手でたたいて、こう叫んだ。「ああ、私たちはなんて馬鹿だったんだ!」 いつでも鋭い、ニールス・ボーア博士の偉大な直感力は、それが“正しい”と瞬時に認めたのであった。当時のヨーロッパの優秀な物理学者達をモヤモヤと悩ませていた「ウランの謎」、その答えがそこに示されたのだ。明解に。
「核分裂」の発見は、こうして1939年1月、ニールス・ボーアの口からアメリカ東海岸を中心にたちまち広がっていったのである。フリッシュ(とマイトナー)がそれを論文に書いて出すよりも前に。 「しまった…」と思ったがもう遅い。 ボーア博士はあわてて、フリッシュとマイトナーのために、その理論の優先権を確保しなければならなかった。
ボーアがアメリカでお喋りをしてる間に、フリッシュは、実験を行って確認した。 「ウラン核」は、ほんとうに、割れた。
フリッシュはその新しく見つかった現象に、「フィッション(核分裂)」と名前を付けて論文を書いた。
このベルリンでの核分裂は、「ウラン235」に「減速した中性子」を衝突させることで起こった。 この「ウラン235」と、「減速した中性子」というのが、絶妙な組み合わせだった。
というのは、まず、天然のウランはほとんどが「ウラン238」(99%)で、「ウラン235」はわずか0.7%しかない。そして「ウラン238」ではこのタイプの核分裂は起こらない。(「ウラン235」が重要なのだ、と気づいた最初の人は、ボーアである。)
そして、「減速した中性子」。 これはイタリア・ローマのエンリコ・フェルミ(後にアメリカに亡命)によって見いだされた画期的なアイデアであった。(これによってフェルミはノーベル賞を受賞した。) 中性子を、パラフィン(ろうそくの材料)を通過させることで「減速」するのである。「減速」しないと、やはりこの核分裂は起こらない。
この、「ウラン235」と、「減速した中性子」との組み合わせをベルリンチームは(別の目的をもって)たまたま実験したのだが、彼らの頭の中には(イタリアのフェルミのチームにも)、「核を二つに割る」などという予測図は、まったくなかったものなのであった。 実を言うと、ローマのフェルミの実験の中でもこの「核分裂」は起こっていたのだった。ただ、ドイツ人化学者ハーンの観察がとくべつにすぐれていたのである。エンリコ・フェルミは本物の天才だった。そもそも「ウランに中性子をぶつけると何かがおこる」と気づいて発表した最初の人物は彼なのだ。しかしもともとフェルミは“理論物理学者”で、突然に“実験物理学者”にかわったのは4年ほど前だった。ところがオットー・ハーンの実験者としての経験は40年ほどもあり、しかもフェルミとは違って“化学者”だった。物理の理論のことは深くはわからないが、化学分析は超一流だ。そうした条件が、ハーンに、この「大発見」をもたらしたのであろう。
フェルミらもハーンらも、じつは一生懸命、未知の「93番元素」を探していたのである。
‘それ’は、つまり、偶然に発見された‘パワー’だったのだ!
彼らが望んでいたわけではなかったのに、‘それ’は、その時、現われたのだ。(いま戦争がはじまろうとするその時に!)
もし、ハーン、シュトラスマン、マイトナーの実験チームがウランの「核分裂」を発見しなかったとしても、いずれそれは誰かが見つけたことだろう。(おそらくはエンリコ・フェルミが。)
だとしても、その発見が、何年か、あるいは何ヶ月か遅れたとしたら…
その場合は、広島、長崎に住む人々の運命も、確実に、違うものになっていたはずである。
さて、ところで、日本初のプラモデル「原子力潜水艦ノーチラス号」を発売したマルサン商店は、今は存在していません。 ただしその「金型」は現在童友社が所有しており、再発売もされたこともあるようです。 →これ
また、原寸大の原潜ノーチラス号と同じ頃に、手塚治虫の「アトム」も誕生しました。
「ノーチラス。 北緯。 90度。」というのは、世界的に有名なセリフなのだそうです。(僕はこの歳になるまで知りませんでしたが。)
アメリカの原子力潜水艦ノーチラス号がついに北極点に到達した時のアンダーソン艦長がワシントンに打った電報の言葉です。1958年8月3日のこと。
同じ年1958年の暮れ12月に、日本ではプラモデル「原子力潜水艦ノーチラス号」(1/300)が発売された。これが“日本初のプラモデル”なのだそうだ。発売したのは東京浅草のマルサン商店というブリキ玩具のメーカーで、「プラモデル」という言葉もそのメーカーがつくりだした。(世界では「プラスチック・モデル」という。) ただしこのプラモデル「ノーチラス号」はオリジナル製品ではなく、アメリカのラベール(レベル)社製(1953年発売)のコピー商品である。
値段は250円。
250円という値段では、子どもには買えない。
1958年といえば、昭和33年。あの映画『三丁目の夕日』の年で、東京タワーが建設途中である。翌昭和34年には初の週刊少年漫画誌『少年マガジン』と『少年サンデー』が誕生する。その値段は30円だった(はじめ『マガジン』は40円だったが、すぐに下げた)。
だから子どもにはこの「ノーチラス号」は高すぎる。 しかし“プラモデルブーム”の波は確実に近づいてきていたのだ。マルサン商店が「ノーチラス号」を発売しなかったとしても、2ヵ月後には、別のメーカーの潜水艦の模型が発売されていたはずである。
それがニチモ(日本模型)による「伊号潜水艦」である。こっちは、純国産プラモデルだ。 このニチモ「伊号潜水艦」は、年が明けて昭和34年の2月に発売された。 これは100円という値段で、そして、よく売れた。
続いて、三共模型、三和模型というメーカーが30円という低価格商品を売り出したから、ついに子供達のハートに一気に火が点いた。
さらに昭和35年11月には、イマイが「鉄人28号」を発売。 さらに田宮模型が参入、36年12月「パンサータンク」(ドイツ戦車)を発売し―――といった具合に昭和模型少年を熱狂させていったのである。
プラモデル(プラスチック・モデル)の発祥の地は、イギリスだという。
1936年にフロッグというメーカーが「ペンギン」という名のシリーズで1/72スケールのイギリスの爆撃機、戦闘機の模型を発売したのがはじまりだそうだ。「ペンギン」というのはつまり「飛ばない鳥」という意味のネーミングである。(イギリス式ユーモアってやつだね。)
大戦後、この熱はアメリカに飛び火して、アメリカでは飛行機にとらわれず、自動車や戦艦の模型が作られるようになったのであった。
ところで、本物のアメリカ製「原子力潜水艦ノーチラス号」のほうの話をしよう。この画期的な新式の潜水艦が建造されたのは1952年からで、1954年12月に進水。ついに「原子力潜水艦」が産声をあげたのである。「ノーチラス」と名付けられた。
「ノーチラス」はもちろん、ジュール・ベルヌ作『海底二万マイル』からとったネーミングである。「ノーチラス」とは「オウムガイ」のことだが、ジュール・ベルヌがこの小説の潜水艦にこの名前を付けたのには別の理由がある。アメリカのロバート・フルトン(もともとは画家だった)という人がいて、1800年に、「ノーチラス号」と名付けた潜水艦の設計図を書いて、フランス政府に売り込んだのである。もちろんこれはおもちゃではなく、本物の潜水艦の設計図である。ただしその売り込みは実らなかったが。 フルトンのこの潜水艦は3人乗り、動力は「手動式」であった。
さて、浅草マルサン商店の「原潜ノーチラス号」が発売された1958年、本物の原潜ノーチラス号は、ある‘挑戦’にトライしていた。(「サンシャイン作戦」と名付けられた。)
潜水艦によって、北極の氷の下を潜って、太平洋から大西洋まで通りぬけたのである。(ベーリング海峡→北極点→グリ-ンランド)
‘原子力’には酸素がいらない。これが画期的なことだった。「原子力」を手に入れることによって、ついに潜水艦は、永続的に潜ることを可能としたのである。そういう意味でも、『海底二万マイル』のノーチラス号並みの能力を、このとき人類はやっと手に入れたことになる。‘原子力’によって。
ただし、この「原子力潜水艦ノーチラス号」の水中での速度は、案外速くない? 20ノットほどだから、時速40キロ未満である。(それでも、大戦中の潜水艦の3倍の速度なのだ。) いやいや、船よりも速い。
この世界初の原子力潜水艦は、1980年に引退した。
‘原子力’―――(ウランの)「核分裂」が最初に発見されたのは、ベルリンの実験室である。
1938年12月ドイツ・ベルリンのオットー・ハーンと助手フリッツ・シュトラスマンの実験室でそれは起こった。予期せぬ結果が出た。ハーンは、その“不可解な結果”を手紙で物理学者のリーゼ・マイトナーに知らせ、「何が起こったのだろう?」と相談した。 マイトナーはもともとこのチームのメンバーで――というより、この核研究実験のチームを立ち上げたのは彼女(リーゼ・マイトナーは女性である)なのだ。オーストリア生まれのリーゼ・マイトナーは、ベルリンの街が大好きだったのだけれど、ユダヤの生まれだったために泣く泣くスウェーデンに亡命したばかりだった。
マイトナーは考えた。 彼女は自分達のベルリンの実験チームの実力を信頼していたから、ハーンの送ってきた実験結果にまちがいはないと、ハッキリ確信できた。
この(奇妙な)実験結果は“正しい”。 それならば、結論はこうだ。
「信じられないこと」が実際に起こったのだ!!
ウランの核が二つに割れたのだ!
しかし、なぜ“割れた”のか。そんなことがありえるのか? いや、すでにそれは起こったことなのだ! 物理学者としては、その理由を説明できなければならない…。
「ウラン235」は、「陽子92個、中性子143個」の核をもっている。この巨大な「核」を、たった1個の「中性子」がふたつに分割したのだ。(バリウムとクリプトンに。) そこにはどんな“物理学”が働いているのか?
リーゼ・マイトナーにとって、“物理学”は、恋人だった。
1938年のクリスマスの前日、コペンハーゲンからオットー・フリッシュがやってきた。フリッシュは、リーゼ・マイトナーの甥であり、彼もまた物理学者である。彼女は、フリッシュにハーンからの手紙を見せた。「信じられないな…。何かの間違いだ。」とフリッシュは言った。「でも、これが本当に起こったとしたら…どういうことが考えられるかしら?」 そんなことは起こらない、不可能だと言いながら、フリッシュはやがてそれを考えることに夢中になった。 二人は、「核が二つに割れた」その原理について考えた。「原子核は液滴のようなものではないか」とニールス・ボーア(デンマークの物理学者)が以前に発言したことを彼らは思い出していた。「液滴」…つまり「水の粒」のことだが、その「水の粒」が二つに割れるための条件はなんだろう?
…そのようにして「核分裂」の理論がそこで誕生したのである。場所はスウェーデン・クングエルブ村。
核は二つに割れ、そして、エネルギーが生まれる…。 F=m×c(2乗)、アルバート・アインシュタインの発見したあの式によれば、失われた質量の分だけエネルギーに変わるはずである…!!
そのエネルギー量は…
200000000eV !! (←2億電子ボルト)
二人が考え出した核分裂の理論より生じるエネルギー、アインシュタインの式から計算されるエネルギー、両者のその大きさがピタリと一致した!
フリッシュは、興奮した。
「ウラン核」は、割れる。
この重大な結論を、オットー・フリッシュは、デンマーク・コペンハーゲンへ戻り、ニールス・ボーアに伝えた…。
ボーアは、その時、アメリカへと旅立つ直前であった。(アインシュタインに会う予定があった。) ボーアは、フリッシュから‘それ’を聞くやいなや、自分の額を手でたたいて、こう叫んだ。「ああ、私たちはなんて馬鹿だったんだ!」 いつでも鋭い、ニールス・ボーア博士の偉大な直感力は、それが“正しい”と瞬時に認めたのであった。当時のヨーロッパの優秀な物理学者達をモヤモヤと悩ませていた「ウランの謎」、その答えがそこに示されたのだ。明解に。
「核分裂」の発見は、こうして1939年1月、ニールス・ボーアの口からアメリカ東海岸を中心にたちまち広がっていったのである。フリッシュ(とマイトナー)がそれを論文に書いて出すよりも前に。 「しまった…」と思ったがもう遅い。 ボーア博士はあわてて、フリッシュとマイトナーのために、その理論の優先権を確保しなければならなかった。
ボーアがアメリカでお喋りをしてる間に、フリッシュは、実験を行って確認した。 「ウラン核」は、ほんとうに、割れた。
フリッシュはその新しく見つかった現象に、「フィッション(核分裂)」と名前を付けて論文を書いた。
このベルリンでの核分裂は、「ウラン235」に「減速した中性子」を衝突させることで起こった。 この「ウラン235」と、「減速した中性子」というのが、絶妙な組み合わせだった。
というのは、まず、天然のウランはほとんどが「ウラン238」(99%)で、「ウラン235」はわずか0.7%しかない。そして「ウラン238」ではこのタイプの核分裂は起こらない。(「ウラン235」が重要なのだ、と気づいた最初の人は、ボーアである。)
そして、「減速した中性子」。 これはイタリア・ローマのエンリコ・フェルミ(後にアメリカに亡命)によって見いだされた画期的なアイデアであった。(これによってフェルミはノーベル賞を受賞した。) 中性子を、パラフィン(ろうそくの材料)を通過させることで「減速」するのである。「減速」しないと、やはりこの核分裂は起こらない。
この、「ウラン235」と、「減速した中性子」との組み合わせをベルリンチームは(別の目的をもって)たまたま実験したのだが、彼らの頭の中には(イタリアのフェルミのチームにも)、「核を二つに割る」などという予測図は、まったくなかったものなのであった。 実を言うと、ローマのフェルミの実験の中でもこの「核分裂」は起こっていたのだった。ただ、ドイツ人化学者ハーンの観察がとくべつにすぐれていたのである。エンリコ・フェルミは本物の天才だった。そもそも「ウランに中性子をぶつけると何かがおこる」と気づいて発表した最初の人物は彼なのだ。しかしもともとフェルミは“理論物理学者”で、突然に“実験物理学者”にかわったのは4年ほど前だった。ところがオットー・ハーンの実験者としての経験は40年ほどもあり、しかもフェルミとは違って“化学者”だった。物理の理論のことは深くはわからないが、化学分析は超一流だ。そうした条件が、ハーンに、この「大発見」をもたらしたのであろう。
フェルミらもハーンらも、じつは一生懸命、未知の「93番元素」を探していたのである。
‘それ’は、つまり、偶然に発見された‘パワー’だったのだ!
彼らが望んでいたわけではなかったのに、‘それ’は、その時、現われたのだ。(いま戦争がはじまろうとするその時に!)
もし、ハーン、シュトラスマン、マイトナーの実験チームがウランの「核分裂」を発見しなかったとしても、いずれそれは誰かが見つけたことだろう。(おそらくはエンリコ・フェルミが。)
だとしても、その発見が、何年か、あるいは何ヶ月か遅れたとしたら…
その場合は、広島、長崎に住む人々の運命も、確実に、違うものになっていたはずである。
さて、ところで、日本初のプラモデル「原子力潜水艦ノーチラス号」を発売したマルサン商店は、今は存在していません。 ただしその「金型」は現在童友社が所有しており、再発売もされたこともあるようです。 →これ
また、原寸大の原潜ノーチラス号と同じ頃に、手塚治虫の「アトム」も誕生しました。
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