ぐらのにっき

主に趣味のことを好き勝手に書き綴っています。「指輪物語」とトールキンの著作に関してはネタバレの配慮を一切していません。

名前のこと

2004年07月16日 | 雑記
真の名前を他人に教えると支配されてしまうので、普段は通称名で通して、本当の名前はみだりに他人に教えない、というのは「ゲド戦記」や「クリスタル・ドラゴン」で読んでとても好きな世界観?だったりするのですが、ケルト文化をはじめ、実際にそういう風習を持った文化は結構あったみたいですね。
日本も、平安貴族などは本名はあまり表に出さず、役職で呼ばれることが普通でしたが(女性の場合は夫や父親の役職で)、これも似たような考えなのかもしれませんね。まあ、魔術的な意味合いというよりは、慎み?の文化なのかなあ、とかも思うのですが。
とまあそんなことに興味はありつつも掘り下げて調べたりはしてないんですが(汗)とりあえず現代に生活していたら、二つの名前を使い分けるなんてことはないよな、と思っていました、以前は。
ところが、ネットを始めたらそういう事態になるのですよね。つまりHNと本名と、で。(ケルト文化の話からいきなりHNの話・・・ものすごいレベルダウン(笑))
個人的には匿名とかHNとかあまり好きじゃなかったのですが、ネット上ではさすがに本名は怖いので、HN使うことにしました。
最初のうちは別に良かったのですが、だんだんネット上で知り合う人というのが出てきました。
私は個人的に知り合った人には、特に実際に会う場合には本名を明かす(ちょっと「真の名前」っぽい!?(笑))ようにしているのですが、一度HNに慣れ親しんでしまうと、なかなか本名呼びに移行しにくいものですね。
深く考えずに犬の名前をHNに使ってしまった私はいまでも激しく後悔してます・・・(大汗)名前を変えるのにも抵抗があって、結局ずるずるとこの名前で来てしまってますが。
しかし、この本名を明かすタイミングというのも難しいですね・・・。
特に、真面目な問い合わせがあった時などちょっと悩んでしまいます。いきなり本名は明かしたくないし・・・でもこんな間抜けな名前をいつまでも名乗っているのもなあ・・・と(汗)
あと、HNでちょっと恥ずかしいのは、私のHNを知らない普通の知り合いに誤ってHNの署名でメール送ってしまったりする時ですね・・・(大汗)間抜けなHNなだけに恥ずかしさ倍増・・・
そう言えば、「マトリックス」を初めて見た時に受けた衝撃。マトリックスワールドではHNだった名前が現実世界では本名になるということでした。マトリックスワールドでのHNは、自らがつけた「真の名前」ということになるのかな、というのは深読みしすぎでしょうか。
しかし、もし私がマトリックスワールドに生きていて、現実世界に目覚めたら・・・私の本名「ぐら」になっちゃうんでしょーか(大汗)「そんなのいやだあぁぁぁぁ!!」と思わず心の中で絶叫したのでした・・・(いやなら名前変えろよ・・・)
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原作未読の人のRotKの感想

2004年07月16日 | 指輪物語&トールキン
まずは昨日のサントラ話に書き忘れたことを。6月のアトランタ、7月のヒューストンのコンサートに現れたアラン・リーですが、フィラデルフィアには現れなかったようです。
フィラデルフィアに来なかったのなら、ピッツバーグにはまず来ないだろうなあ。ちょっと残念。
しかし、アラン・リーって今アメリカ南部に住んでるんでしょうかねえ? もしかしてフロリダあたりに住んでたりして・・・

先日、ブログで検索してたら、シネプレックスで初めてRotKを見たという方の感想を見つけて、ちょっと新鮮でした。
結構テレビ放映でハマったという人がいるみたいで、自分が原作を知っていたので、映画だけ見てハマるかどうかは客観的に判断できないもので、そういう人の話を聴くと「やっぱり面白い映画なのかあ」とちょっと嬉しくなったりします。
さて、その人はRotKでやはりかなり感動していて、その感想を読んでいたら、まあ大筋で私が初めて原作を読んだ時の感想と似たような感じだったので、そうかあ、と思いました。そういう意味では、PJ映画もおおまかな線はハズしてなかったかもなあと。
朝日新聞のPJとの対談が好評?だった村上隆氏をはじめ、原作を読まないでかなり核心をついた感想を述べていた人たちもいましたし。
ただ、細かい部分(なんて言ったら怒られそうだけど(汗))がきっと誤解されたままだろうなあ、と思うと歯がゆいような気がしてしまいます。メリーのこととか、デネソールのこととか・・・フロドとゴラムに関してはかなり深刻に誤解されいてる可能性大だし。サムもなあ・・・
映画でハマった人たち、お願いだから原作も読んでね! とこっそりここで力説しておいたりして(笑)
ちなみに、原作未読でフロドの旅立ちの理由を理解した(そしてエオメルとファラミアの見分けが今イチついていない(笑))妹は、映画RotKではアラゴルンの「For Frodo!」に一番感動したのだそうです。映画では皆がフロドのために戦っているというのが黒門前の戦いでようやくはっきりしますからねえ。「王の帰還上」を読んで、「『フロドのために』いつ出てくるかと思ったのに・・・」と言ってました(笑)
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イリアス(まだ途中)

2004年07月15日 | 読書
「イリアス」ぼちぼち読んでます。今第五歌かな。相変わらず読むの遅いです(汗)
トロイ戦争は10年続いたと聞いてたのですが、イリアスはその9年目(10年目?)からの話なんですね(汗)ということは、映画の「トロイ」と大まかな時間の流れはそんなにかわらないということでしょうか。
まあ、パリスがヘレンを攫って来たのはもっとずっと前ということになると思いますが。しかし、そのあたりの話はまた別の本を読まないといけないのかあ・・・(汗)
もともと「トロイ」がもとの話とどれだけ違うのかを知りたくて読み始めたのですが、意外に原作どおりの部分があってへえー、と思いました。
パリスとメネラオスの対決って、もともとあんな?だったんですねえ。まあ最後が違うけど・・・
パリスって「イリアス」でもヘタレじゃないですかー(汗)しかも、負けておいてアプロディテに助けてもらったというのに、いきなりヘレンを寝室に誘うか!? トロイ軍の兵士たちにも一人残らず嫌われてたとか書いてあるし(汗)ヘレンも無理やり連れ去られたみたいな書かれ方だし。なんか「イリアス」では悪役なんだなあ、と(汗)ギリシア人向けの物語だから当然なのかもしれませんが。
それを思うと、映画のあのパリスはなかなか面白いアレンジなんじゃないの、と思うんですけど。
しかし、一応ギリシア側からの物語だと思うのですが、どちらが主役でどちらが敵役、というのが、まあやはりギリシア寄りだとは思うのですが、意外にトロイ側のこともしっかり描いていてびっくりしました。
戦いの場面の記述を読むと、描写は結構残酷なんですが(汗)殺された戦士一人一人のことを述べ立て、父親が故郷で待っているけれど帰らなかったとか、いちいち語られているのが興味深かったです。神々がそれぞれに両軍に肩入れして援護したりして、神々の我侭勝手ぶりにもうならされますが(笑)、「勧善懲悪」みたいな単純な物語でない点が新鮮でした。戦争を娯楽のごとく描いていたりもしますが、美化もしてないなあと。
そういう点は、映画の「トロイ」でも踏襲されているかな、と思いました。トロイ側にもより思い入れのある描き方をすることで、さらに現代的な物語にしていたかなあと。
ギリシア神話の神々って、エゴイズムがすごいと思いますが、なるほど、古代ギリシアの人々は、神々の気紛れな寵愛の変転のせいで人間の運命が変わってしまうのだ、と解釈してたのかなあ、なんてことを考えたりしました。
というわけでなかなか面白いです、「イリアス」。いつ読み終わるんだかわかりませんが・・・(笑)
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サントラがらみの話

2004年07月15日 | 指輪物語&トールキン
13日にはフィラデルフィアでLotRコンサートがありましが、TORnで早速たくさんのレポートがupされてました。
東京でも振るジョン・マウチェリーの初指揮となったわけですが、(本当は22日のオタワが初めてだったはずなのですが、ショアが急に振れなくなってしまってピンチヒッターになったので)なかなか好評だったようです。
コンサートの冒頭には、ショアが振ることができなくなったことを謝罪する映像が流れたそうです。ジョン・マウチェリー氏との交流について説明するくだりもあったそうで、この映像使い回して東京でも流してくれたらいいなあ、と思いました。東京はもともとジョン・マウチェリーでアナウンスしてたからダメかなあ・・・当初はショアが指揮する予定で計画進めていたようですけどね。

ところで、以前BBSで教えていただいた、「BSあなたが選ぶ映画音楽」の第二回「ファミリー・ファンタジー映画」の放送が7/18(日)にあります。公式サイトはこちら
出演者の顔ぶれを見て「・・・」新聞のテレビ欄を見たら、曲名も宮崎アニメの曲とかが多くて、まあファミリー・ファンタジーだから仕方ないかなあと思いつつも、ちょっと疑問が。
実は1回目の「ミュージカル映画」の回も見たのですが、その時も確か歌ばかりで、まあミュージカルだから歌なのは当然かな、と気にしてなかったのですが、今回も歌ばかりだとすると、うーむ、ですね。
そう言えば、この前歴代映画音楽ベスト100とかいうのが発表されてましたが、それを見ても皆サントラというよりは「歌」だったんですよね。
もしかして、映画音楽っていうのは主題歌のことを言うんでしょうか、一般的には・・・(汗)
だとすると、LotRの渋いサントラが演奏される可能性はかなり低いのではないかと(汗)もしかしてLotRが選ばれたとしても、May it beが歌われるだけかも・・・?(汗)
そうすると、人気はあるだろう「ハリーポッター」なんて主題歌ないからかなり不利?なのでは・・・
元々映画見ない人なので、どうこういう資格はないのですが、まだまだ映画のサントラに対する評価って低いのかなあ、と思いましたね・・・
さて、日曜にはLotRは演奏されるでしょうか。演奏されるとしたら本当にMay it beだけなのでしょうか(笑)そしてもしMay it beをやるなら・・・誰が歌うんだろう???
というわけで一応見る予定にはしてます(笑)
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エオウィンのこと

2004年07月13日 | 指輪物語&トールキン
「ハリポタ」を観て、ハーマイオニーの大活躍に喜んでいる私ですが(笑)最近は女の子が元気で、ともすればヒロインの方が主人公より行動的な映画が普通になりましたが、昔はなかなかそういう話がなかったんだよなあ、としみじみ思いました。
私がファンタジーに飢えていた(?)80年代から90年代初頭には、女性が活躍するファンタジーはあまりありませんでした。どうしても男性登場人物の添え物的な女性が多かったように思います。
女性が主人公のファンタジーと言えば、宮崎アニメなんかもそうだと思うのですが、私はどうも宮崎アニメのヒロインは好きになれなくて(汗)なんかいい子すぎるというか、どうしても男性から見て素敵な女性、という域を出ていないような気がします。少なくとも私は共感できないヒロインなのです。
そんな私が唯一気に入っていたのは、あしべゆうほの「クリスタル・ドラゴン」くらいでした。やっぱり男性が描くヒロインは女から見て魅力的になり得ないのかなあ、なんて思っていたものです。
それが、気がつけば女性が強いのが当たり前の時代になり、映画の世界でもヒロインが強いのが当たり前というか、そういうヒロインでないと女性の共感を得られないかのような時代になっていたのですね。おかげでリヴ・アルウェンはあんなになってしまったんだなあ、と思うと複雑です(汗)
そんな中で、思い浮かぶのがエオウィンのことです。
初めて「指輪物語」を読んだ時、エオウィンの活躍には鳥肌が立ちました。魔王を倒してしまったエオウィンの潔さ、カッコよさにシビれたものです(笑)
しかもエオウィンは、男性から観て都合の良い素敵な女性、には見えませんでした。その誇り高さ、閉塞感と焦燥感、そしてファラミアによって癒された心、どれも女性からも共感できる人物像だと思います。少なくとも私はかなり共感しました。
トールキンは1950年代以前にこんなヒロインを描いていたという事実に、長い間理想のヒロイン像?を求めていた私は衝撃を受けました。いや、これはすごいことだと。
これは、トールキンの、英雄物語へのパロディ的な精神から来ているのかもしれないと思いました。力ある強き者ではなく、弱き者が功を遂げるという発想から。ホビットが主人公な点からしてそういう精神に満ち溢れていると思います。
エオウィンはファラミアによって心を開かれ、「私はもう盾持つ乙女にはなりませぬ」と戦士として生きることを捨てるといいますが、これが不思議なことに「いきがって戦闘に出て行った女の子が恋に目覚めて女らしくなった」という陳腐な展開にちっとも思えなかったのですよね。
これは、エオウィンのそれまでの苦悩がリアルに描かれていたこともあるでしょうし、主人公であるフロドもまた「二度と武器を持つことはない」と言っているように、優れた戦士であることが必ずしも最善のことではない、という精神が根底にあったためとも考えられると思います。
とにかく、あの時代にこんな女性を描くことができたトールキンという人にとにかく驚いてしまいます。
トールキンがこんなに魅力的な女性を描くことができたにもかかわらず、女性の登場人物がほとんど出てこないことについてずっと疑問に思っていましたが、「或る伝記」と「終わらざりし物語」の中の「アルダリオンとエレンディス」を読んで一つの仮定にたどり着けたと思いました。
トールキンは、鋭い洞察力の賜物か、女性の心情をある程度理解できたのだと思います。そうでなければ、エオウィンのような人物を描くことはできなかったと思います。
でも一方で、男性の方が女性よりも優れている・・・とまでは行かなくても、所詮女性には男性の心は理解できないのだ、とでもいうような意味での男尊女卑的思想も感じました。と言っても、一般的に言う「男尊女卑」よりも、トールキンはずっと女性に敬意を持っていたと思いますが。エディス夫人への愛情がそれを示していますし、ガラドリエルのような優れた女性の存在もまたそういった敬意の表れのようにも思います。
とにかく、エオウィンは女性から見てとても魅力的な人物で、それをあの時代に描いていたトールキンはすごいなあ、と思うのです。
PJ映画のエオウィンは、ミランダ・オットーの役に対する深い理解のおかげもあって、あれはあれでとても好きなのですが、強いヒロインが普通な今の時代に、あのエオウィンのキャラクターを鮮烈に描ききることができなかったのは失敗だったかもしれません。TTTで無理に三角関係にしようとしたのがかなり悪かったと思いますが・・・(汗)
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「アズカバンの囚人」のサントラ

2004年07月12日 | 映画
昨日ハリポタの感想で書き忘れたことがひとつ・・・
音楽が、ガラっと変わっていて本当にびっくりしました。え、これ本当にジョン・ウィリアムズ!?と真剣に疑ってしまいました。
ルネサンス・中世風の音楽が中心で、リコーダー?とか、ダルシマーも活躍してましたね。音楽自体はなかなか良かったですが、「これがハリポタかあ」とちょっと違和感が・・・
漏れ鍋でも、ホグワーツのなかでも、サントラに合わせて楽器を吹いている生徒の姿があったりしたのも面白いなあ、と思いました。映像と連動しているということは、監督の指示なのかな・・・
もうひとつ、主にルーピン先生の授業のシーンで、ジャズ?というか、かなり「ウェストサイド・ストーリー」っぽい音楽が流れていたのにも、もうびっくり、でした。これも、ルーピン先生が自分のレコードをかけていたりして、劇中の場面と連動していました。ということはやはり監督の指示なのでしょうね。
今日の朝日新聞の夕刊に、キュアロン監督が「この映画はゴシック・ホラーだ」と発言していたのが書いてありました。ゴシック・ホラーだったかどうかはなんとも言えませんが(汗)あの音楽の変化にはそういう意図があったのかな、とか。
ジャズっぽい音楽には、子供たちの私服姿が増えたこととの関連を感じたりもします。
その辺の話が読みたかったのに、プログラムには何も書いてなくて、うーむ、でした。そもそも今回のプログラム、文字少なすぎ(汗)やはり子供向けなんだなあ・・・
色々と新しい試みをしていて面白いなあ、と私は思いますが、1、2作目に思い入れのある人たちには不満もあるかもしれませんね。「賛否両論」という理由がよくわかったような気がしました。
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「ウィロー」と「指輪物語」

2004年07月12日 | 指輪物語&トールキン
昨日、ファンタジーは好きだけど実はあまり読んでいない、ということを書いたのですが、実は映画についても同じだったりします。
最初にめぐり合ったファンタジー映画は「ネバーエンディングストーリー」だったのかな。(監督ヴォルフンガング・ペーターゼンだったんですね~)
後に原作の「はてしない物語」を読んで、あの映画に対する評価も変わりましたが、でも今でもファンタジー初体験として思い出に残る映画です。
その後もファンタジー映画が公開されるとよく観に行きましたが、ハズすことが多くて、次第に足が遠のいてしまいましたね。最悪な思い出はトム・クルーズ主演、リドリー・スコット監督の「レジェンド-光と闇の伝説」でしたね。同時上映の「プロジェクトX~飛べバージル」がすごく良かったのが救いでした・・・
そんな中でわずかに気に入った作品に、「プリンセス・ブライド・ストーリー」と「ウィロー」があります。
どちらも、どことなく正統派ファンタジーを皮肉っている部分があって、そこが気に入ったのかもしれません。
特に「ウィロー」は、カッコ良くもなく、力もない小人が主人公だという斬新な設定にびっくりしたものでした。最後がウィローの「手品」で決着がつくあたりもとても気に入りました。
それから10年以上経って「指輪物語」を読んだ時、「『ウィロー』の元ネタはこれだったのか~」と思いました。後で聞いた話ですが、ジョージ・ルーカスは「指輪物語」を映画化しようとしていて、断念した末にあの「ウィロー」になったのだとか。
「指輪物語」を読んで私が一番感動したのは、やはり力もなく魔法が使えるわけでもない小さなホビットたちが世界を救った、という斬新な筋書きでした。
ところが、「指輪物語」が熱狂的に支持された結果生まれたファンタジーというジャンルには、エルフやドワーフ、魔法使い、剣で戦う戦士など、表面的な部分だけが模倣されて残ったようで、そのことが不思議でなりませんでした。私が真似するなら、まず「力のない主人公が大きな使命を成し遂げる」という点なのになあ、と。
だから、「ウィロー」が小人の主人公という点で「指輪物語」を模倣しているのだとわかったことは、とても嬉しいことでした。
さて、その「元ネタ」が映画化されたPJ映画ですが、まあ基本的に好きなんですけど、時々疑問を感じる部分はあります。
そしてふと思うのですが、もしかして、「ウィロー」の方が、ある意味では「指輪物語」の精神を正しく受け継いでいるのかもなあ、と。
若くて見目麗しいイライジャ・ウッドをフロドに据えたPJ映画より、それまではスタントでしか出番がなかった、本当に身長が低い役者を使って小人を表現した「ウィロー」の方が、ホビットが主人公であるという精神?をより正しく受け継いでいるのではないかと思ってしまうのです。
三部作全て通して観て、やはりフロド・サム・ゴラムルートに一番問題があるなあ、としみじみ感じてしまうので余計にそんな思いが強くなってしまう今日この頃・・・
もしジョージ・ルーカスが「指輪」の映画化を実現していたら、どんな映画だったんだろうなあ、なんてことも考えてしまいます。
まあ、ジョージ・ルーカスの映画は個人的には手放しで絶賛できるわけでもないので、微妙ですけど・・・。
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「指輪物語」との出会い

2004年07月11日 | 指輪物語&トールキン
前の日記に書いたことがあるような気もするのですが、最近「ゲド戦記」とか「ハリーポッター」とか、「指輪」との出会いのきっかけになる作品を読んだり見たりしたので、「指輪」との出会いについて書いてみようかなあ、という気になりました。
そもそもの始まりは、ベストセラーらしいと聞いて「ハリーポッターと賢者の石」を読んだことでした。映画になる前です。
いやー、つまらなかったんですよねー(汗)本当にどこが面白いのか理解できずに苦しみました(汗)「ハリポタ」については、3巻あたりからようやく面白いかな、と思うようになりました。
私は良く考えたらファンタジー作品はほとんど読んでいなかったのですが、にもかかわらず何となくファンタジーは好きでした。
で、なんだかもっと硬派の(!?)ファンタジーが読みたくなって、とりあえず有名どころで「指輪物語」「ゲド戦記」「ナルニア国ものがたり」あたりかな、と思いながら、まず「ゲド戦記」を読むことにしたのでした。
「ゲド戦記」の静謐な筆致と、その物語にこめられたいくつもの主題に感動した後、次に読むことにしたのが「指輪物語」でした。この時点ではまだ映画化されるということは全く知りませんでした。
最初は冥王サウロンといった絶対悪のような存在が古臭いなあ、と思っていましたし、最初の方のホビットたちの物語は、つまらなくはなかったけれど「ゲド」から受けた衝撃を感動を凌ぐものにはとても思えなくて、かなり懐疑的に読んでいたのです。
それが、ブリー村で馳夫さんと出会ったあたりから、先が気になって仕方なくなりました。「旅の仲間」終盤はすごい勢いで読んだような記憶があります(笑)
そして気がつけば、トールキンの世界の虜になっていました。セオデンの復活と死に泣き、木の鬚の深遠さと悲しさに心を揺さぶられ、ファラミアがサムに向けた賞賛の言葉に感動し、エオウィンの閉塞感と開放に涙し・・・トールキンの自然描写の美しさにも心惹かれました。
そして、衝撃の指輪の棄却の結末、もっと衝撃だった灰色港での別れ。読後に感じた脱力感となんとも言えない悲しみは、今でも原作を読み返す度によみがえって来ます。
読了後すぐに映画化の話を知り、翌年映画を観てからは怒涛のようにトールキンの世界にハマって行くことになりましたが(汗)
今年に出た「ゲド戦記外伝」に、「ゲド戦記」の舞台となるアースシー世界の文化や歴史についての記述が出ていましたが、やはりトールキンが長い年月をかけて緻密に作って言った中つ国の世界観に比べると薄いなあ、という感じを受けました。まあ、トールキンほどの世界観を作れる人は滅多にいないと思うんですが(汗)
書かれた年代の古さもあり、「指輪」には古臭い部分もあると思うのですが(絶対悪の存在とか、人種差別的な部分とか)、圧倒的な世界観と、キリスト教精神に貫かれた(と私は思うのですが)貴い精神性は、今でも他の追随を許さないものだと思います。
そんな訳で、今や先に読んでいた「ゲド戦記」よりも「指輪」とトールキンの世界にハマってしまっているのでした。PJ映画の存在も大きいと思いますが。
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ハリーポッターとアズカバンの囚人

2004年07月11日 | 映画
今日は「ハリーポッターとアズカバンの囚人」を見て来ました。
日曜ということもあり、周り中行儀の悪い子供に囲まれてしまってどうしようかと思いましたが(汗)始まったら結構おとなしく観ていたのでホッとしました。やはり子供が集中して見られる魅力のある作品なんでしょうねえ。
さて、以下ネタバレ感想です。
実は、3作目にして初めて(汗)面白かったと思いました。
今までの2作は、正直子役のかわいさだけで観てました(汗)映画としては今ひとつ物足りないものがあったのです。
そもそも原作からして3巻で初めて「面白いかも」と思ったくらいなので、単純には比べられないと思うのですが、やはり監督が変わるとかなり変わるなあ、と思いました。
今までの2作は、原作に忠実に作ることが大前提だったのではないかと思うのですが、原作の再現に腐心するあまり、イベントを追うだけで手一杯になってしまい、登場人物の心理描写がかなり物足りなかったのですよね。まあ、原作でもあまり描かれてなかったかもしれませんが・・・
特に2作目は、全体的にかなりはしょった感じになっていて、3作目は原作もっと長いのに大丈夫かいな・・・と思っていたものでした。
ところが、今回観ていて、原作の内容を事細かに覚えていないからかもしれませんが(汗)原作は一番長いにも係わらず、今までで一番無理なくまとめていたように思えました。
今回の映画では、私が嫌いでいつも読むのが苦痛なダーズリー家でのハリーいじめや、マルフォイやスネイプ先生の嫌がらせなどの場面は最小限に抑えられて、その分ハリーたちの心理描写に時間が割かれていたのが良かったと思いました。ダーズリー家での事件など、かなりコミカル(そしてちょっとブラック)に描かれていて、笑いながらさらっと観られてしまったのも良かったですし。
特に、ルーピン先生がハリーに両親のことを話す場面や、ハグリッドがバックビークを可愛がっている様子が丁寧に描かれていて、ああ、今までの2作にはこういうのが足りなかったんだよなあ、と思いました。
最後の方はさすがにアクションが中心で慌しい感じにはなりましたが、その前にじっくり静かな場面を描いていたので、全体としては決してはしょった印象ではなかったですし。
最後にシリウスから新しい箒が届いてめでたしめでたし、というくだりも、原作ではかなり鼻についたのですが、全然そんなことはなく素直に観られました。
ホグズミードで透明マント(正式名称忘れました(汗))をかぶってマルフォイたちを追い払ったハリーが、姿を消したままロンの帽子やハーマイオニーの髪の毛をちょんちょん、と引っ張るシーンも、静かな感じで3人の絆を描いていて、なかなか良かったです。ホント、今までこういうシーンがなかったんだよなあ・・・
これは、3人の子役の成長もあるのかなあと。いよいよ思春期突入?の学園ラブコメな4作目がどうなるのか、今から楽しみです(笑)
あと、今回はハーマイオニーが大活躍で嬉しかったです(笑)考えてみたら、原作でもそうだったんですが。映画で観たいなあ、とか思っていたことをすっかり忘れていました(笑)
他の子役たちも皆大きくなってましたねえ。パーシーはあんまり変わってなかったけど(笑)フレッドとジョージの双子がすっかり大きくなってしまっていてびっくりでした。もう大人の顔だし。この双子の登場シーンも、双子らしい?演出で面白かったですね。
今回配役が変わったダンブルドアは、お茶目な感じになっててなかなか良かったと思いました。出番は少ないながら、影からさりげなく見守っている感じで良かったのではないでしょうか。
とまあおおむね良かったのですが、でも映像の美しさは今までの2作と比べると落ちるかもしれませんね。CG映像が増えて、しかもあまり出来がよろしくなかったような(汗)
バックビークのCGも今ひとつでしたが、一番違和感だったのは、妙に毛の薄い狼人間だったでしょうか・・・(汗)なんかゴラムを思い出してしまいましたよ(汗)プログラムによると、今までのステレオタイプな狼男にしたくなかった、ということだったようなのですが・・・原作者はステレオタイプな狼男をイメージしてたんじゃないかと思うんですがねえ(汗)
とまあそんな訳で、今までになく私としては高評価なハリポタでした。次回作が楽しみです。また監督変わるのでどんな感じになるかわかりませんが・・・
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ゲド戦記外伝(まだ途中(汗))

2004年07月10日 | 読書
本読むのほんっとーに遅い私ですが(汗)5月に発売されていた「ゲド戦記外伝」、半分くらいようやく読み進みました。
以下ネタバレ感想になります。
「カワウソ」「ダークローズとダイヤモンド」「地の骨」の3作を読み終わりました。
「カワウソ」は面白かったですねー。ロークの学院の成り立ちを描いた物語なのですが、同時に一人の魔法使いの一生を描いているという点では、「ゲド戦記」本編の縮小版とも言えるような気がしました。本編5巻の中で出てきた要素がほとんど繰り返されていたような気がしますし。
印象的だったのは、アニエブですね。最初のカワウソを助けるあたりも泣けましたが、最後の方で再びメドラを導くために現れるあたりとか・・・良かったですね。彼女がなぜ石垣のこちら側を歩いていたのか、というのはよく理解できませんでしたけど・・・
あと、モエサシが、恋をすると魔法が使えなくなるのかと聞かれて、「そんなことはないと思う。力の源は一つだもの」というようなことを言うのも印象的でした。
「ダークローズとダイヤモンド」では、「自分らしく生きる」ということについて考えさせられる話でしたが、でもダイヤモンドのように自分が何をやりたいのか、とはっきり感じられる人は幸せだよなあ、なんて思いましたが。
「地の骨」は、ル=グィン自身の前書きを読んで、話の筋はわかってしまったし、実際予想通りだったのですが(汗)にもかかわらず大泣きしてしまいました。
オジオンの師匠が口数も多くてどちらかというと短気な人だった、というのはとても意外でした。その人が、恐怖に震えながら、オジオンと別れてからも一人でオジオンに話しかけつづけながら術をかけて行く様が、もう泣けて泣けて仕方なかったです。
オジオンが、ハイタカが、テナーがすごしたあのル・アルビの家が出てきたのは嬉しかったですね。オジオンが魔法使いになったいきさつが簡単にですが書かれていたのも嬉しかったし。
そんな訳で、まだ途中ですが、やっぱり「ゲド」は面白いなあ、と思いつつ読んでいます。
今回の外伝に共通しているのは、「帰還」以降描かれ始めた、ロークの学院が中心になっているアースシーの魔法世界に対するアンチテーゼだと思いました。これは5巻の「アースシーの風」で結論を見ることになるのですが。
自分が作った魔法世界を否定(と言ったらおおげさでしょうか)する物語を書き始めたル=グィンという人のすごさを改めて感じたりしています。
そう言えば、ちょっと前に朝日新聞の書評で高橋源一郎氏がこの「ゲド戦記外伝」の評を書いていて、その中で「帰還」以降の物語は書かれない方が良かったという人たちがいることに触れて、その人たちは「ファンタジーの世界に現実の無粋なフェミニズムを持ち込むなんてとんでもない」というような意見なのだと書いてあって、へええー、と思いました。いや、「帰還」以降がない方が良いという意見があるのは知っていましたが、なんでかなーと思っていたので。
私自身は、女だからかもしれませんが、「帰還」以降の作品もとても好きなんですけど・・・。特に「アースシーの風」でこの世界の魔法とは何か、という結論が書かれたのはとてもよかったと思うし、ゲドとテナーが静かにオジオンの家で暮らすという結末(とはちょっと違うけど)も嬉しかったし。
「ファンタジーにフェミニズムを持ち込むな」という意見って、きっと「帰還」以降のロークの学院の保守的な長たちと同じ考え方の人たちなんだなあ、なーんて思ったりもして(汗)
私は、ファンタジーの世界に現実の思想が盛り込まれている作品の方が好きなんですけど、トールキンは「寓意」を物語に盛り込むのは嫌っていましたね。ル=グィンはもちろんトールキンの影響を受けているわけですが、果たしてトールキンは「ゲド戦記」を読んだらどんな感想を持ったのでしょうか。
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