へそ曲がりおじさんのひとり言

常識にとらわれるのが嫌い。
他人と同じ事が嫌い。
世の中、別な角度から見ると新しい物が見えるから。

富士山で4人が遭難

2007年11月06日 04時35分03秒 | Weblog
救出後の映像を見て、「呆れて物が言えぬ」状態に成りました。
「夏山の延長」と言った感じで、私などの若い頃には「考えも及ばない」格好では、「無謀」「気違い沙汰」としかい言い様が無い。
「道に迷い、アイスバーンで動けなくなった」、「バカも休み休みにしてくれ」と言いたい。
「過保護に育てられた、情報化?社会の申し子」と言っていいだろう。
私の若い頃(この様な言い方はしたくないのだが)は、情報と言うものは、自分から求めなければ手に入らなかった。
当然の話ではあるが、「無用な情報」などは殆ど入ってこない。
しかし、インターネットが発達した現代では、「望むと望まざるとに拘わらず」情報は勝手に入ってくる。
「ここに大きな問題がある」と言うことに気が付いて欲しい。
情報があふれている「情報・過・社会」では、ともすると「必要な情報」が、「どうでもよい情報」の中に「埋没」してしまい、「情報・禍・社会」になってしまっている。
人間の「脳力」には限界がある。
「どうでもよい情報」に「脳力」が使われてしまえば、「当然の結果」として、「必要な情報」の入り込む余地はなくなってしまう。
情報に振り回され、「危険予知能力」「状況判断能力」に欠ける人が増えている。
危険予知、状況判断とも、同じ様なものではあるが、事前に情報を流す事は難しい。
「経験の積み重ね」によって養われるものであって、外部から与えられるものではないはずである。
「清潔思考」が、アレルギー発生の原因だと言われているように、「過度に危険要因を無くす」と言う事は、「新たな危険を生む」と言う事になるのでは?。
免疫と同じ様に、「ある程度の危険」には、目をつぶる勇気が必要だと思う。
小さな事に気を取られ、「その陰に潜む」、「より大きな問題」を忘れてはならない。
「有り余る情報」の中から、どれを選ぶかは「自己責任」でするしかない。
情報化社会を、「情報・過・社会」や「情報・禍・社会」にしないように気を付けないといけない。
何事も「過ぎたるは及ばざるが如し」である。
余談ではあるが、何年か前に、警察の救助隊に「ヘリコプターによる救助」を要請した中年の女の話を思い出した。
「下山出来ないので救助して欲しい」と言う話に、救助隊が「ヘリは出動中なので民間のヘリを頼みますか?」と言う問いかけに、「それなら結構です」と答えたそうである。
「少し疲れたので、下るのが面倒」と言うのが理由である。
警察のヘリは無料だが、「民間のヘリではお金がかかる」と言う事を知っていての行動である。
救急車をタクシー代わりにする人もいると聞く。
「ナンとも呆れた世の中」になったものである。
民主党の小沢代表も、「同類」では無いだろうか?。
コメント (1)
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