へそ曲がりおじさんのひとり言

常識にとらわれるのが嫌い。
他人と同じ事が嫌い。
世の中、別な角度から見ると新しい物が見えるから。

ナンとも不可解な事

2008年05月31日 03時57分40秒 | Weblog
最近各地で、食品への「異物混入事件」が続発しているのだが、その中で「混入していた1.5センチの金属片が胃の中から見つかった」と言う事件が有ったのだが、1.5センチもある金属片をどのようににして食べたのであろうか?。
菓子パンの中に混入していたと言うのだが、1.5センチもある金属片に気が付かないと言う事は、「噛まずに飲み込んだ?」と言う事になるのだろうが、そんな事が出来るのだろうか?。
薬品の臭がする餃子を食べて中毒になった「毒入り餃子事件」などもおなじことがいえるのだが、それにしても最近は、思わず「エッ?」と言いたくなるような事が多すぎる。
メール依存症とかアルコール依存症とか、最近やたらと「依存症」が問題になっているのだが、メールやアルコールなどに限らず、「すべての事を他人に依存する」と言う人が増えているように感じてならない。
情報化時代になり、有り余る情報に囲まれて「自分の意思で判断する」と言う能力が退化してきているようである。
次から次へと様々な事件が続発している事を考えれば、「自分の安全に注意を払う」と言うことが必要になると思うのだが、それさえも「他人に依存する」と言う風潮があるのは嘆かわしい限りである。
多くの場合、問題が起きない限り他人が守ってくれると言う事は無い。
問題が起きてから騒いでも「後の祭り」でしか無いだろう。
出来る限り「自分の身は自分で守る」と言うことを心がける事が必要だと思うのだが・・・・。
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後期高齢者医療制度

2008年05月24日 00時38分24秒 | Weblog
制度の存続を巡って与野党が激しい論戦を繰り広げているのだが、「民意を反映する」と言う理屈から言えば、民主党が主張する「廃止」がよいのだろうが、廃止したとして「その後をどうするか」と言う部分には「マッタク」と言ってよいほど触れていない。
「ガソリンの暫定税率廃止」の時もそうなのだが、今の民主党は、単に「国民を味方につけて自民党から政権を奪う」と言うことしか考えておらず、「政権をとった後どうするか」と言うことが全く考えられていない。
多くの国民もまた然りで、「目先の欲得」にばかり目がいって「その結果何が起こるか」と言う事は考えていない。
ここで何故に「後期高齢者医療制度」が導入されたのか考えてみたい。
高齢化社会を迎えた現在、一般的に考えて「高齢者は若者より多くの医療を必用としている」と言うことが言えるだろう。
私自身は来月には66になるのだが、血圧も肝機能も血中脂肪も正常値で、糖尿にもなっていないと言う、少々例外的な存在なのだが、多くの人の場合は「何らかの持病で病院に通っている」と言うのが実情で、それだけ「高齢者は多くの医療費が必要になる」と言うことになり、健康保険制度に「大きなひずみ」が生じているのである。
このひずみを解消するためには、「税金で穴埋めをする」か「保険料を引き揚げる」と言う方法があるのだが(診療報酬を引き下げると言う方法もあるが、これ以上引き下げれば、医師のなり手がなくなってしまうのでとても無理)、若い世代の負担が重くなり「不公平感」が強くなってしまう。
更に別な問題も有るように感じるのだが・・・・。
「救急車をタクシー代わりに使う」と言うことが問題になっているが、一部の高齢者の中には「必要もないのに医者に行く」と言うことも問題にするべきだろう。
実際の話し、近くに住む80くらいのお婆さんなどは、一人暮らしで話し相手もいないため「近くの医者の所に行けば話し相手がいるので、具合が悪いふりをして行く」と言うのである。
医者の方もわかってはいるのだろうが、「具合が悪い」と言われれば診察しないわけにも行かず、待合室で「近頃○○さん来ないけどどうしたのかネー?」「具合が悪いんじゃない?」などと言う笑い話が出来上がるのである。
このようにして「必用の無い医療が医療財政を圧迫する」と言う問題も起こしているのである。
「一部の人の不心得で、多くの人が迷惑する」と言う何とも困った問題は、他にも沢山あるのだが・・・・。
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14インチの白黒テレビが14万9千円

2008年05月23日 04時29分19秒 | Weblog
昭和30年ごろの話である。
当時のサラリーマンの給料が、月に1万円にもならなかった頃の話で、如何に高価であったかわかると思う。
「街頭テレビ」が出来る前の事で、テレビがあるのは一つの町内で1軒か2軒と言う時代である。
「街頭テレビ」などといっても知らない人が多いだろうが、殆どの家にテレビが無かった時代のことで、主要な駅の駅前広場などにテレビが設置されていて、大勢の人が見ていたのである。
我が家にテレビが来たのは町内で2軒目なのだが、「来た」と言うように、買ったわけではないのである。
家業が酒屋で、たまたま或る酒造会社がお酒の景品に「テレビが当たる三角くじ」を付けていたのだが、売れ残ったくじの中に「当たりくじ」があったのである。
プロレスが人気を集めていたため、放送がある日の夜は近所のお得意さんが20人30人と我が家に上がりこんで見ていたもので、今ではとても想像がつかないだろう。
自動車にしても同じことが言えるだろう。
当時「国産車」と言えば、「クラウン」「セドリック」「コロナ」「ブルーバード」だけで、全部合わせた販売台数も「月に1万台余り」と言う時代で、数年後に「ブルーバードが月販1万台を達成」したのである。
正に「隔世の感」と言ったところである。
今の時代「生活が苦しい」と言う話を耳にするが、当時の苦しさとは「全く次元の違う話」と言うほか無いだろう。
当時なかったものを、有り余るほど手に入れた結果起きた「生活の困窮」と言うことなのだから、「生活が大変」と言う意味も違ってくるだろう。
4人家族で月に5万円ものお金を携帯に使って「生活して行けない」と言っている人を知っているが、それでも携帯を手放そうとは思わないのである。
せめて半分にする努力でもすれば、「かなり生活が楽になる」はずなのだが、それすらもしようとしない。
最早「携帯依存症」ではなく「携帯の奴隷」と言ってよいだろう。
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物価が高くなって生活が苦しい

2008年05月22日 00時01分46秒 | Weblog
近所のお婆さんと話していて聞かされたのだが、「うちに来る人が皆、物価が上がって生活が苦しくてしょうがない」と言うのだそうである。
殆どが80代で、戦中戦後の厳しい生活を経験して来た人たちだと言うのに。
近所のお婆さんと私では、23も年が違うのだが、不思議な事に話が合うのだ。
そのお婆さんに言わせれば、「戦中戦後に比べれば、今のほうが遥かに楽だ」と言うが、私も同感である。
「卵が高くて買えない」と言う話をよく聞くのだが、昭和20年代の頃は、卵1個の値段は15円位していたように記憶している。
その頃の大卒の初任給は1万円以下だったはずで、コッペパンにジャムやアンコを付けて貰って15円で、ラーメンが30円くらいだったと思う。
バナナも1本30円くらいしたので、めったに食べる事も出来ず、食べられたとしても、兄弟6人で2本か3本を分け合うであった。
何しろ1円と言うお金にも立派なネウチが有り、50銭(1円の半分)でお菓子が買えたのである。
電話はもとより、電化製品なども何も無く、せいぜいラジオがあればよいほうで、それすらない家庭も沢山あったのだ。
それに比べて現在の生活は、ありとあらゆる電化製品や贅沢な食べ物に囲まれ、当時と比べれば「格段に豊かな生活」を享受している。
ガソリンの値段にしても、私が初めて車を買った35年余り前は1リトル55円位していたが、当時の大卒初任給は5万円以下だったはずだから、今の値段に直すと200円以上になるのではないだろうか?。
昭和20年・30年代の給与水準で考えると、とても今の生活など出来ないだろう。
「ノドもと過ぎれば暑さ忘れる」と言うように、過去の苦しかった生活など当の昔に忘れてしまったのだろう。
それに比べて私や近所のおばあさんは、昔の事を忘れずにいるため「昔に比べればこの程度の事はどおって事無い」と思っている。
ここで一つ忘れてならないことがある。
後期高齢者に当たる人たちは、戦中戦後の厳しい時代を経験してきているのだが、その一方で、「高度経済成長期には、その恩恵を最も受けている」と言うことである。
人間誰でもそうなのだが、「一度楽な思いをしてしまうと、少しの苦労でも辛くなる」と言うことである。
「苦あれば楽あり」と言うが、その反対の「楽あれば苦あり」と言うこともあるのだが、どちらがよいかは言わないでおく。
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自給率4%

2008年05月20日 22時14分32秒 | Weblog
食料の自給率ではなく、エネルギーの自給率の事である。
正直な話、食料の自給率に関してはしばしば報道があるので理解してはいたのだが・・・・、エネルギーの自給率に関しては迂闊にも注意を払っていなかった。
「資源少国」と言う程度の表現は過去にしているのだが、それ以上に踏み込んではいなかったのである。
エネルギーの自給率が4%だとすると、鉄・アルミ・銅・ニッケル・・・・等の「工業原材料の自給率」は、「それ以下」と言うことも考えられるだろう。
このように考えてくると、日本の「食料自給率39%」と言う数字は、「かなり水増しされた数字」と言ってもよいのではないだろうか?。
「フードマイレージ」と言う言葉が話題になっているように、生産地で作られた農産物や海産物が、我々の口に入るまでにはどれ程のエネルギーが費やされている事か・・・・。
エネルギーだけではない、農機具・輸送用トラック・加工設備・船・・・・と、多くの工業原材料を必用としている。
これらの要因を加味して計算したとすれば、食料の自給率は、「39%」どころか、その半分にも満たない数字になるのではないだろうか?。
39%の自給率の中でも、かなりの割合を占めている「米」について考えてみれば良くわかると思う。
米作りの殆どを機械に頼っている現状から、殆ど全ての機械がなくなってしまえば、昔ながらの「田植え風景や稲刈り」が見られるようになるのだが・・・・、その「生産効率」は大幅に低下して、現在のような生産量は維持できないであろうし、それ以前の問題として「農作業をする人手が足りない」と言う問題に直面するであろう。
民主党のお歴々は一体何を考えているのであろうか?。
単純に「政権を奪う」と言うことだけを考えているのであれば、次の総選挙で勝利(勝つ確率が高くなってはいるのだが)したとしても、その先に待っている物は「次世代の国民を地獄に陥れる」と言う事になるであろう。
今の日本社会には「小手先の対症療法」を施すと言う事は、「かえって状態 を悪くする」と言う事になるであろう。
「抜本的な荒治療」が必要だと思うのだが・・・・・。
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小・中学生の携帯所持について思う事

2008年05月18日 04時21分05秒 | Weblog
昔話で恐縮なのだが、昭和20年代(私が小学生だった頃)には、「パチンコは子供でも出来た」と言うことは以外に知られていない。
私の家の近くにもパチンコ屋があり、よく行ってお菓子を稼いでいたものだったのだが、正に、ある日突然「子供はダメだ!」と言う事になってしまったのである。
「射幸心を煽るので、子供にはよく無い」と言う理由である。
出入り禁止になってしばらくは、非常に恨めしく思ったものだが、後になって考えて見ると、「あの時禁止されてよかった」と思っている。
もしもあの時禁止されていなければ、ほぼ間違いなく「パチンコにのめり込んでいた」であろう。
50年以上も昔のことなので確かな記憶は無いのだが、10円玉1個で遊べて、殆ど毎日のように通い、50円か100円くらいのお菓子を稼いでいたのだから、法律で禁止されていなければ「パチンコ中毒」になっていたであろう。
大人でさえ「理性で押さえる」と言うことが難しいのに、理性が未成熟な子供には「理性で押さえる」などと言う事は、「到底不可能」と言うべきだろう。
一部の「有識者」が、「小・中学生の携帯の所持を禁止せよ」と言っているのだが、「親の力では抑えることが難しい」と言う現状を考えれば、一つに手段として考えるべきでは無いだろうか?。
過去に何度も書いているのだが、「中国製食品の危険性より、遥かに高い危険性がある」と思うのだが・・・・・。
「利便性」ばかりが強調されているが、その陰に潜む「危険性」と言う事にも注意を払う必要があるのだが、「商業主義に裏打ちされた情報」が氾濫しているようでは難しいのかもしれないが・・・・。
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小学生がメール中毒に

2008年05月16日 03時54分42秒 | Weblog
NHKの放送で「小学生のメール依存症」をテーマにした放送があった。
前にも書いているのだが、「依存症」と言う言葉には「違和感」を感じてならない。
「依存する」と言う言葉には、「当てにする」「寄りかかる」「頼りにする」と言った様な意味があるのだが、小学生に限らず「メールに熱中している人」の多くは、どう見ても「メールに縛られている・支配されている」と言ってよいだろう。
「縛られている・支配されている」と言う言葉を、別な表現をすれば「奴隷になっている」と言うことも出来るだろう。
麻薬中毒が薬物中毒に言い換えられ、更に「薬物依存症」に変わって感じるのは、「言葉の持つインパクトが薄くなった」と言うことで、「罪の意識も薄くなる」と言えるのではないだろうか?。
小学生・中学生・高校生に、何故に携帯電話を持たせなければいけないのであろうか?。
いろいろな理由があるのだろうが、果たして本当にそうなのであろうか?。
「有れば便利」「無いと何かの時に不便」などと、「有用性・利便性」が強調されているのだが、その裏に「大きな代償」が伴ってくる事も考えなくてはいけない。
最近の物価高で少しでも家計を助けようと、スーパーの特価品を買おうと何軒ものお店をはしごする人がいるが、よくよく考えると「ガソリン代のほうが高かった」と言うのと同じ事では無いだろうか?。
「片時も携帯を手放さない」と言う状態では、「落ち着いて何かをする」などと言う事は到底出来ないだろう。
学力が低下するのは「至極当り前の話」で、日本の「国際的地位の低下」は益々ひどくなるであろう。
かつて「テレビは人間を白雉化させる」と言われていたのだが、今度は「携帯が人間を無能化させる」のではないだろうか?。
携帯ばかりではない、テレビゲーム、インターネット、便利になった家電製品・自動車なども気を付けなくてはいけないだろう。
使う側がコントロールして使っていれば良いのだが、気を付けなくてはいけないのは「使っているつもりが、何時の間にか使われていた」と言うことである。
「使われていた」と言う事は、「奴隷になっていた」「中毒(依存症ではない)になっていた」と言うのと同じ事である。
どんなに苦い薬でも、オブラートに包んで飲めば苦味を感じないで飲む事が出来、「薬としての効き目」が薄れる事は無いのだが、言葉の場合はそうは行かない。
言葉の場合は、表現を和らげれば、「和らげた成りの効果」しか期待できないと思うのだが・・・・。
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子供たちの元気が無くなってしまった

2008年05月15日 03時32分39秒 | Weblog
前々から気になっていたのだが、子供たちに元気がなくなっているようで心配でしょうがない。
私の住む家の近くには、何人かの、小・中・高、に通う子供たちがいるのだが、「全く」と言ってよいほど「子供らしい元気さが無い」のである。
小学校の低学年までは何とか子供らしさがあるのだが、それを過ぎると急速に元気がなくなるように感じるのだが・・・・。
学校から帰ってきた時に、「お帰り」と声を掛けたいのだが、下を向いて元気が無く疲れたような感じの姿を見ると、何となく声をかけるのをためらってしまう。
普通に声をかけたのでは気が付かないのか、何の反応も示さない事もあり、少し大きな声をかけると、ビックリした様な顔で「ただいま」と言う返事が返ってくるのだが、その声には全く元気が無い。
部活などで頑張っているのかとも考えたが、どうもそうでは無いようである。
そもそも、部活で頑張っていれば帰りの時間はもっと遅くなるはずだし、部活を一生懸命やっている子はそれなりに元気があるのだが・・・・。
学校が休みの日にしても、外で遊ぶ子は殆ど居らず、たまに見かけても、近所の人などが見ていると、何時の間にか家の中に入ってしまうのだ。
そして、もう一つ心配事がある。
近所に、2歳くらいになる子供を持つ母親が居るのだが、1日の大半を、家の中にいるか、車で何処かに出かけているかして、子供を外で遊ばせている姿を見る事が殆ど無いのである。
それでも、1歳になる頃までは時折乳母車で歩いている姿は見かけたのだが、ナンと無く他人との関わりを嫌がる感じはあったのだが・・・・。
中国では「一人っ子政策」の反動で、「小皇帝」と言う言葉が出来たように、日本でも同じ様な問題が起きるのではないだろうか・・・・。
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「依存症」と言う言葉

2008年05月13日 04時20分10秒 | Weblog
昔は「中毒」と言っていた物が、何時の間にか「依存症」と言う言葉の変わっているのだが、「トルコブロがソープランドに」、「売春が援助交際に」変わったのと同様に、本来の言葉が持っていた強さが薄められてしまっている。
「痴呆」「ボケ」などと言われていた物が「認知症」と変わったのは、「障害者に対する思いやり」と言うことでよいのだが、「アルコール中毒(アル中)」を「アルコール依存症」に、「麻薬中毒」を「薬物依存症」に変えるのはどうかと思うのだが・・・・。
突然このような話をするのは、「運転中にメールをしていて観光バスと正面衝突」と言う事件が起きたからである。
私の周りにも何人かの「携帯(メール)依存症」の人がいるのだが、私が「中毒だ!」と言っても、「中毒じゃない!」と言い張るのであるが、話をしていて感じるのは、依存症と言う言葉を「単なる言葉の一つ」と言う程度にしか感じていないようなのである。
「中毒=依存症」ではなく、「全く別物」と言う認識しかないのである。
「アルコール中毒(アル中)」と言われていた頃は、「何となく後ろめたい」と言う感じであったものが、「アルコール依存症」と言われるようになってからは、「何となく後ろめたい」と言う感覚がなくなっている。
「中国産食材の危険性」が問われているのだが、「飲酒運転」や「運転中の携帯(メール)」の方が、「遥かに危険」だと思うのだが、その事が真剣に論議されてはいないのが気になって仕方がない。
実を言うと、数日前のことなのだが、信号で止まっていた所、後ろから来た自転車にぶつけられたのである。
幸いな事に、怪我も無く、車に傷も付かなかったのだが、「メールのチェックをしていた」と言うのである。
メールに夢中になって電柱にぶつかったり、車に撥ねられそうになり、「よけた車がガードレ-ルと接触」などと言うことも目撃しているのだが、「依存症」と言う表現が、「罪の意識」を感じさせないように感じてならない。
「依存症(中毒)の危険性」と言うことを真剣に考える必要が有ると思うのだが・・・・。
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民意を反映すると言うこと

2008年05月13日 03時26分53秒 | Weblog
民主党が、「自民党の政治は民意を反映していない」と批判しているのだが、現実の問題として、「民意を反映する」と言うことがどの様な結果をもたらすのか真剣に考えた事があるのだろうか?。
毎度のように民主党を批判する内容になってしまうのだが、だからと言って自民党を支持しているわけではない。
私自身の本音を言うならば、「民主党が主張するような事が出来るのなら大歓迎」と言いたいのだが・・・・。
民主党の言うところの、「ガソリンの暫定税率引き下げ」「後期高齢者医療制度の廃止」など、国民の負担を軽くすると言う主張に多くの国民が賛同し、自民党の支持率が大幅に低下している。
以前にも書いているのだが、何故に自民党は「支持率が低下する事が明白な事」を強行するのであろうか?。
「木を見て森を見ず」と言う言葉があるが、民主党が言うところの「民意」とは、ここで言う「木」の事で、一方の自民党は「森」を見ているのである。
一国の将来を担う最高責任機関である「政府」が、「木を見て森を見ず」などと言うことをしていたら、とんでもない事になるであろう。
民主党の政策に期待をかけている人が多いようだが、現在の状態で民主党が政権を取るようなことにでもなったら、泣くのは若い世代の人たちではないだろうか?。
民主党の主張する政策には、「財源の裏付けがない」と言う事に気が付いて欲しいのだが、そのことには民主党も触れないため、関心を持つ人が少ない。
ガソリン税を引き下げたとして、その為に不足する財源は、「あちらを削り、こちらを削り」と言う方法をとれば、結局は「別な所で負担を強いる」と言う事になるし、それをしなければ「国債と言う借金」に頼る事になるのではないだろうか?。
今、国と地方が抱えた「債務(借金)」の総額は、国民一人当たり「およそ800万円」と言う巨額になっていることに気が付いている人がどれだけいるのだろうか?。
「一人で800万円」と言う事は、夫婦に子供二人では、ナント「3200万円」にもなるのである。
何故に、このような巨額の借金を背負うようになったのであろうか?。
結論から先に言うなら、「政治に民意を反映させたから」と言う事になるだろう。
何時の時代でも、国民は「減税を望み、補助金を欲しがる」と言う「民意」を持っているのだが、財源の裏付けがないままに民意に答えれば、「借金の山を作る」と言う事は仕方ない事であろう。
国債の発行と言う「禁断の木の実」に手を付けた結果、「国家予算12年分」と言う巨額の借金を抱えてしまった現在では、最早「禁断の木の実」に手を付けることは難しいであろう。
自民党が「支持率の低下」と言う危険を冒してまで「負担を強いる政策」を強行しようとするのは、「最早禁断の木の実に手を付けるわけには行かない」からで、安易に民主党の政策に賛同すれば「日本と言う国の破綻」と言うことも念頭に置く必要があるだろう。
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