へそ曲がりおじさんのひとり言

常識にとらわれるのが嫌い。
他人と同じ事が嫌い。
世の中、別な角度から見ると新しい物が見えるから。

子供たちの元気が無い社会

2009年05月26日 03時42分19秒 | Weblog
以前にも同じようなことを書いているのだが、少し視点を変えて考えてみたいと思う。
私が思うには、「子供たちの元気が無い社会」とは、「異常な社会」では無いだろうか?。
かつて「子供は風の子」と言われたように、外で元気に遊びまわるのが子供本来の姿だと思うのだが、塾や習い事、ゲームと言った理由で外で遊ぶ時間がなくなっている一方で、「遊び」と言う言葉に悪いイメージを持つ人も多いのではないかと思うのだが、「大人の遊びと子供の遊びは全く別物」と考える必要があると思う。
「大人の遊び」とは、「遊興娯楽」と言う意味合いが殆どであるのに対し、「子供の遊び」は、「新しい知識を得る勉強の場」と言う意味重要な役割を持っていると言っても過言では無いだろう。
「勉強は学校(塾)でするもの」と言う誤った考え方がはびこっているようだが、学校(塾)で教えてくれる事は「受験のための知識」が殆どで、「社会生活を営む上で必要な知識は殆ど教えてくれない」と言うのが日本の教育の現実の姿なのである。
「危険が多いから外で遊ばせることが出来ない」と言う事も良く聞くが、本当にそうなのであろうか・・・・。
確かに子供が巻き込まれる事件が多い事も事実なのだが、これは何も今に限ったことではなく、私が子供の頃には、夕方になると日常的に「人攫いが来るから早く帰りな!」と言われていたもので、今も昔も変わらないと思うのだが・・・・。
更に冷静になって考えれば、「外で遊ばなくなった元気の無い子供が成長して事件を起こしている」と言う皮肉な結果も招いているのである。
「真の勉強」は学校でするものではなく、特に子供にとっての真の勉強とは「日々の生活全てが勉強の場」と考えるべきで、遊びも重要な勉強の手段と言わねばならないだろう。
「人はパンのみにて生きる者に非ず」と言う言葉があるが、これを言い換えると「人の知識は学校のみにて得るものに非ず」ということが出来るだろう。
「僅かな危険を恐れて将来に大きな問題を抱える」ということにならなければよいのだが・・・・。
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エコポイントの欺瞞

2009年05月16日 04時06分53秒 | Weblog
省エネ電化製品を買うと「エコポイント」なる、なにやら怪しげなポイント(1点1円になるのだそうだが」が付くのだそうだが、このエコポイント、「エコ」とは言うものの「全くエコにはつながらない」と言う欺瞞に満ちた物である。
表向きは「エコ」と「消費拡大」両方が並立されているのだが、これは「エコカーに対する減税」と同じ事で、「消費拡大」と言う景気対策が目的で、とても「エコ」などと言える代物では無い。
数日前に聞いた話だが「エコポイントが付くようになったら少し大きいテレビに替えよう」と言った話も出るように、省エネが進んだ製品でも「前より大きな製品に替えれば省エネの意味がなくなる」と言うことには何も触れられていない。
トヨタやホンダの「ハイブリットカー」にしても同じ事で、燃費の向上による効果ばかりが前面に出されているが、「販売台数に占めるハイブリットカーの割合」は微々たるもので、現実には「利益率の良い(燃費は悪い)高級車」の販売にも一生懸命なのである。
ヨーロッパの国々から「日本人は省エネに消極的だ」と言われるのは、或る一部分の効果だけを強調して、「省エネを実行していると錯覚してしまう」と言うところに原因があるのではないだろうか?。
そのよい例が「レジ袋の削減」ではないだろうか。
マイバックを持って買い物をしたとしても、「削減できるのはレジ袋1枚か2枚」なのだが、買った商品の容器や袋(その多くはレジ袋と同じ石油製品)は「レジ袋など問題にならないほどの料」で、その殆どは「ゴミ」として捨てられてしまうのである。
「省エネと景気回復は両立出来る」と言う人もいるようだが、現実には「省エネと景気回復は両立出来ない」と言うのが真実で、仮の話だが、もし本当に両立出来るのであれば「アメリカがCO2の削減に消極的」などと言うことにはならないはずである。
「持続型循環社会」と言うことが模索されているが、現状のままではいくら科学者が知恵を絞ったとしても実現は不可能であろう。
何故なら、持続型循環社会は「成長率ゼロ」でなければ成り立たないうえに、「現状では人口が多すぎて無理」としか言いようが無いからである。
結局「人間は行き着くところまで行かないとわからない」のではないだろうか?。
「人間は高度な知能を持っている」と言うのは「錯覚(思い込み?)」でしかないと思うのだが・・・・。
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小沢一郎が民主党代表を辞任

2009年05月13日 03時40分07秒 | Weblog
「遅きに失した」と言う感じが否めないが、さりとて「後を誰がやるの?」と言った感も否めない。
元々が「寄り合い所帯」のような民主党で、過去に何度も代表選びで内輪もめをしているのだから、今回も似たような結果になるのではないだろうか?。
「攻撃は最大の防御」と言うが、肝心の攻撃が空回りしたときは防御の仕様がなく、自らの弱点をさらけ出すことになってしまう。
「小沢代表に対する西松建設の献金問題」と言う予想もしない方向からの攻撃に慌てふためいている様子は、まさに「攻撃が空回りし」と言ってよいだろう。
麻生総理にとっては、まさに「待てば海路の日和あり」と言ったところであろうか。
福田前総理が「貧乏くじを引いたかもしれない」と言っていたが、まさにその通りで、阿部・福田と2代続けての突然の辞任劇がなければ、麻生総理もここまで粘ることは出来なかったのではないだろうか?。

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偽りの経済発展(砂上の楼閣?)

2009年05月09日 03時43分45秒 | Weblog
戦後からバブルの崩壊まで、日本の経済は「高度成長」などという言葉で表現されるような発展を続けてきたが、その中身は「偽りに満ちていた」と言わねばならないだろう。
「偽り?」と思う人も多いかもしれないが、08年末現在の国の債務(国債など)の総額「846兆4970億円」と言う数字が何を意味しているか考えればわかるのではないだろうか?。
この数字は国の債務だけで、地方自治体の債務まで含めると「1000兆円」を超えるのではないだろうか?。
この債務(借金)を国民一人あたりに換算すると「およそ800万円」と言う途方も無い数字になるのだが、今までの我々の生活は、この途方も無い借金によって築かれた「偽りの経済発展(砂上の楼閣)」の上に成り立っていることを、現実のこととして受け入れなければならない。
麻生総理がこだわった「財政再建」とは、この途方も無い借金の山を少しでも崩したいと思うからで、借金が増えればその分「利子の負担も増える」と言うことになり、結果的に「財政をも圧迫する」と言うことになってしまうのである。
「100年に一度」などと言われる経済不況の中で、多くの国民が「景気回復」を求めているのだが、不況による財源(税収)不足の中では打つ手は限られてしまうのであるが、偽りの経済発展を認識していない世論は「有効な景気回復対策」を求めているが、これは「無い袖を振れ!」と言う事と同じ事で、無い袖(財源)を振るには「借りてくるしかない」と言うことになるのだが、これ以上借りることは「砂上の楼閣を更に高くする」と言うことと同じ事で、「完全崩壊(国家の破綻)の危機」に近づく事になってしまう。
最近余り話題にならなくなったが、「夕張市の破綻(財政再建団体になる)」と同じことが、「国のレベルで起きる」としたら一体どのような事になるのであろうか?。
笑い事で済ませられる問題ではないと思うのだが・・・・。


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会話が成り立たない

2009年05月07日 02時28分46秒 | Weblog
昼前のことだが、家の前で親しい友人と花の香りについて話していたのだが、其処へ通りかかった近所の人のおかげで話がぶち壊しになってしまった。
私と友人は、お互いの好みは好みとして受け入れて話をしていたので話が発展していたのだが、通りがかった人は「あの花のどこが好い匂いなのだ」とか、「あれより○○の方がずっと好い匂いだ」など、自分の好みを主張するばかりで、相手の好みを理解しようとしない困った人なのである。
NHKの放送などで時折「意見には個人差があります」などと言う注釈が出ることがあるのだが、近頃は他人の意見を素直に受け入れられない人が多くなっているのではないだろうか?。
自分の意見ばかりを主張していれば「当然の結果」と言うのもおかしいが、相手も対抗して「自分の意見を主張する」と言うことになり、話は平行線をたどり、争いの元になることさえ珍しくない。
一方、相手の話を聞くようにすれば「当然の結果?」として、「相手も自分の話を聞いてくれる」と言うことになるのではないだろうか?。
「話せばわかる」と言う言葉があるが、悲しいかな、相手の話を聞こうとしない人には「話せば話すほど溝が深くなる」と言うことも多々あるので困ってしまうのだが、最近の風潮は少々事情が違うのではないだろうか?。
私が考える大きな原因としては、「デジタル技術の発達」を上げなければいけないと思うのだが・・・・。
デジタル技術の発達により、PC、携帯電話が発達して「メールやブログ」と言う従来にはない機能が発達したのだが、これが「相手の話を聞く」と言う能力を奪ってしまったのではないだろうか?。
私自身もこうしてブログという機能を活用してはいるのだが、常に気持ちの上で不満に感じていることがある。
便利になったことは事実なのだが、その中身は「話は常に一方通行」だと言うことで、リアルタイムの反応どころか「読んで下さっているであろう方の反応もわからない」と言うことが殆どで、「会話にはならない」のである。
このように「情報発信(一種の自己主張)」と言うことは簡単に出来るようになったのであるが、「会話をする(言葉のキャッチボール)」と言う能力は失われてゆくのではないだろうか?。
このことの一つの表れでは無いかと思うのだが、「断定できないような内容の文章の末尾に付くはずの『?マーク(疑問符)』が無い文章」が目に付く一方、相手に問いかけて意見を引き出そうとするような話し方が少なくなっているように感じるのだが・・・・。
私自身は出来る限り「断定的な表現はしない」と言うことを心がけてはいるのだが、如何せん「情報が一方通行のため、自己満足でしかない」と言うのが実情である。
デジタル化社会になり、通信や情報の発信・受信が容易になり、一見すると便利な世の中になってように感じるのだが、その中身は「無機質」なものになってしまったのではないだろうか?。
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国会議員の世襲について

2009年05月03日 22時52分10秒 | Weblog
国会議員の世襲の是非が問題になっているようだが、多くの意見は「世襲のマイナス面」にばかり焦点を当てているように思えるが、果たして本当にマイナスばかりなのだろうか?。
何事によらず「功罪相半ば」と言うように、マイナス面ばかりではないと思うのだが、そんな事より「世襲議員が当選する理由」の方を問題にするべきだと思うのだが・・・・。
全ての国民は「一定の年齢になれば議員に立候補する権利を有する」のだが、仮の話し、右も左もわからない状態で議員になったとして「一体何が出来る?」と言わねばならないだろう。
一つの例として「小泉チルドレン」と呼ばれた議員たちが一体何をしたか考えてみればわかるように、「組織票の中の一票」としての役割が殆どで、多くは「泡沫」のように消えてゆくのではないだろうか。
しかしながら、それ以上に問題なのが「世襲議員を当選させる有権者の存在」ではないだろうか。
西松建設の企業献金が問題になっているが、そもそも「見返りを求めない企業献金など有りえない」のとは多少の違いがあるかもしれないが、「有権者の殆どは何らかの見返りを求めて投票する」のが至極当然の事であるから、「出来るだけ自分に都合のよい結果を求めやすい世襲議員に投票する」と言うことになってしまうのである。
過去に何度も書いているのだが、「政治が悪いから世の中が悪くなった」のではなく「私利私欲で議員を選ぶ有権者の側に問題がある」と考えるべきだろう。
「民意を政治に反映させる」と言うことが悪い事だとは言いたくないのだが、何事によらず「過ぎたるは及ばざるが如し」と言うように、「民意に左右されているような政治では、ろくな事は出来ない」と思うのだが・・・・。
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