へそ曲がりおじさんのひとり言

常識にとらわれるのが嫌い。
他人と同じ事が嫌い。
世の中、別な角度から見ると新しい物が見えるから。

若者の車離れに思うこと

2007年10月30日 04時02分14秒 | Weblog
最近、若い世代に「車離れ」の傾向が出ていると言う。
「温暖化、省エネ」と言う観点から見れば、歓迎すべき事だと思う。
しかし、これから書くことは、「全く別な視点」から見た話である。
最近の傾向として、車を「単なる移動の手段」と考える人が、半数近くになるというのである。
「時代の変化」と言う話も有るが、必ずしもそうとは限らない。
運転暦40年の私は、自分の車以外にも数多くの車に乗ってきた。
その中で感じたのが、「運転して楽しい車と、楽しくない車」「神経を使う車と、使わない車」があると言うことである。
ここでメーカーの名前を出すつもりは無い。
しかし、最近の車は、「基本的な走行性能」より、「外観の豪華さや、装備」に力点が置かれているように感じてならない。
大手メーカーに、スポーツカーが無い事が、その証拠ではないだろうか?。
「スポーツカーが無い」と言ったが、正確に言えば「有る事は有る」のだが、如何せん「高過ぎる」のである。
とても若い世代に手が出るような代物ではない。
車から「走る楽しさ」を取り去れば、「単なる移動の手段」になるのは、「当然の話」である。
ヨーロッパの車が、「値段が高いにも拘らず売れる」と言う理由も、ここにあると思う。
単に、品質やブランドの違いだけではないのだ。
「沢山売れているからよい車だ」とは限らない。
「トヨタの威信」をかけて参戦したF1も、パッとしない。
エンジン単体の供給を止めて、「自前の車体」で参戦しているホンダにしても、同じことが言える。
エンジンの馬力だけを大きくしても、「それに見合う車体」が無ければダメなのである。
「馬力」と書いて、思い出した事がある。
日本人は、「何故馬力に拘るのであろうか?」。
「馬力の正体」を知らない人が多いのだろう。
簡単に説明すると、馬力=トルク×回転数、と言う事になる。
100馬力だ200馬力だと言っても、エンジンを「最高回転」させなければ出ないのである。
普段運転している時は、「その半分」も出ていれば良い方だと思う。
「メーカーの宣伝」にだまされない方がよい。
「運転し易さ」は、「馬力よりトルクで決まる」と言っても、過言ではない。。
単に「見てくれのよい車」ばかり作っていれば、韓国、中国などの追い上げに負けてしまうかもしれない。
「ハイブリッドカーでは先行している」と言うかもしれないが、ハイブリッドカーを普及させる為には、「インフラの整備」と言う「重大問題」が有る。

ここまで、車のことを書いてきたのだが、車の話だけで終わらせないのが、「へそ曲がり」の所以である。
前文でわかるとおり、「外貨の稼ぎ頭」である車にも、「暗雲」が、いつ何時立ち込めてこないとも限らない。
以前書いたように、外貨が無ければ「幾ら安くても」輸入する事は出来ないのである。
来月は、ガソリンだけでなく、灯油まで値上がりする。
景気の回復など「夢物語」と思ったほうがいい。
期待すれば、「ガッカリ」するだけ。
政府には財源が無いので、「助けたくても助けられない」状態なのだから、「自分の身は自分で守る」様にしなくてはいけない。
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情報禍社会

2007年10月29日 03時37分08秒 | Weblog
変換ミスではありません。
情報過時代でも有ります。
少し前まで、或る事をネットで調べようとしていたのですが、断念しました。
「どうでもよい情報ばかり」で、「私が必要とする情報」が見つからないのです。
過去にも同じ様な事がよく有りました。
個人が自由に情報を発信できる事が、裏目に出ているのです。
まさに、情報禍(過)時代と言ってよいでしょう。
気を付けなくてはいけないのは、「有り余る情報」に振り回されない事です。
携帯電話でも同じことが言えます。
所かまわずかかってくる電話やメール。
私は或る事をきっかけに、必要な時以外は電源を切る事にしました。
或る事とは、車を運転中、「マナーモード」にしておいたにも拘らず、執拗にかけてくる人がいました。
「緊急事態?」と思い、車を止めて電話に出たところ、いきなり「何で電話に出ないのだ!!」と怒鳴られたのですが、特別急ぐ用事では無かったのです。
日頃から、「携帯に振り回される生活はしたくない」とおもっていたので、それ以来、私の携帯は「不携帯」になったのです。
「緊急用」「公衆電話の代わり」と言う意味で使っています。
気を付けなくてはいけないのは、携帯もパソコンも、便利だからと「安易」に使っていると、「依存症(中毒)」になってしまいます。
「依存症(中毒)」になってしまうと、「様々な弊害」が出てきます。
便利さだけが強調されて、幣害については殆ど「問題視」されていません。
便利だからと言って「安易な使い方」をせず、「賢い使い方」をするのが「賢い人」ではないだろうか?。
携帯やパソコンで、遠く離れた人と簡単に繋がりを持てる様になったのだが、反対に、身近な人との関係が「希薄」になってしまったように感じる。
「携帯では話せるが、面と向かうと話せない。」「メールではやり取りできるが、話すのは苦手。」などと言う人が増えている。
困った世の中になってしまったものである。
何のために「文明の利器」が作られたのかわからない。
上手に使いこなしてこそ「文明の利器」ではないだろうか?。
「有効活用」を、するもしないも「自己責任」と言う事になる。
「有り余る情報」の中から、「有用な情報」を探し出すのは容易な事ではない。
「脳力」の低下した人には、難しい事かもしれない。
昔は少なかった「認知症」が増えているのも、「脳力の低下」が原因ではないだろうか?。
「脳細胞」は、使わないと退化するが、幾つになっても「使う努力」をすれば回復すると言う。
私も、64になって始めたブログのおかげで、苦手だった作文が、それ程苦手ではなくなった。
少し衰えてきていた「頭の回転」もよくなって来ている。
「ボケ防止」「老化防止」にも役立っているようである。
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競争の無い社会

2007年10月28日 04時14分36秒 | Weblog
最近、幼稚園や小学校の運動会では、順位を付ける事をしないところが増えているようである。
順位を付けた場合、一番になった子はよいが、ビリになった子にとっては辛い事は確かである。
しかし、それで良いのだろうか?。
「小さな子供に悔しい思いをさせたくない」と言う気持ちはよくわかるのだが・・・・・。
しかし、現実の社会は「厳しい競争社会」である。
競争の無い世界から、競争社会へ、どの様に順応させるのであろうか?。
若い世代に、引きこもりやニートが増えているのは、そのせいではないだろうか?。
「負けた悔しさをばねに頑張る」と言う気持ちが必要だと思う。
「順位を付けない」と言う事は、「護送船団方式」と同じ事で、国際社会の厳しい競争を勝ち抜く事など出来るはずが無い。
別な考え方をすれば、「伸びるはずの芽を摘む」と言う事にもなるであろう。
目先の欲得の為に、「子供の将来」が犠牲になっているのではないだろうか?。
温室育ちの花は、外の風ですぐに萎れてしまう。
道端の雑草は、少々踏まれても枯れる事は無い。
古来、「可愛い子には旅をさせろ」と言う言葉もある。
一生苦労を知らずに過ごせればよいのだが、「夢物語」ではないだろうか?。
「若い時の苦労は買ってでもしろ」と言うではないか。
子供の時も含め、「若い時の苦労」は、年を経れば「思い出」になってしまう。
過保護は、人間をダメにし、最終的には、「国家をもダメにする」。

ここで少し話を変えてみたい。

私のブログは、辛辣で、皮肉と嫌味をタップリと効かせてある。
読む人にとっては、少しも面白くないはずである。
にも拘らず、このようなブログを「書く意味」を考えて欲しい。
「警鐘を鳴らす」と言う考え方もある。
しかし、本意は少し違う。
「悲観的な内容」が多い事に気が付いて欲しい。
「警鐘を鳴らす」と言うことではなく、「発想の転換」と言う意味がある。
発想を転換する事により、「心の持ち様」が違ってくるのである。
心の持ち様を変える事で、「不幸が幸せになる」事もあるのだ。
仮の話し、50%の結果が出たとして、「30%の予想に対して50%」と、「100%の予想に対して50%」とでは、受け取り方が全く違ってしまう。
私が傍の人から「余裕がありますねー」と言われる所以である。
「最悪を想定」して、「心の準備」をしておけば、慌てふためく事も無くなる。
「ダメモト」の考え方である。
期待して「期待はずれ」になれば、ガッカリするだけ。
最早、景気回復は「望み薄」な現在、景気回復を期待すれば「ストレス」が溜まり、「精神衛生」に良くない。
どんなに期待しても、「ダメなものはダメ」なのです。
宇宙船地球号は、完全に「定員オーバー」なのです。
「無理が通れば道理引っ込む」と言うように、「定員オーバー」と言う無理な状態では、道理など通用しません。
期待して「ガッカリ」するか、期待せず「心穏やかに過ごす」か。
どちらを選ぶかは、「自己責任」です。
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救急患者の受け入れ先が見つからない

2007年10月27日 03時36分43秒 | Weblog
今、救急車を呼んでも、「患者を受け入れてくれる病院がなかなか見つからない」と言う問題が頻発している。
「起こるべくして起きた問題」と言うほか無い。
「起こるべくして起きた問題?」、と思う人も多いだろう。
それでは何故、「起こるべくして起きたのか?」。
先の地震で、自動車部品メーカーの一社が、生産を停止した時のことを思い出してほしい。
自動車メーカーは、コスト削減のため「カンバン方式」を取り入れている。
在庫を持たず、必要な分だけを発注しているから、タッタ「一つの部品」が入らなくなっただけで、「生産停止」になってしまう。
一種の「自転車操業」と同じである。
それと、患者受け入れ問題と、一体「どんな関係が有るのか?」と思われるだろう?。
「大有り名古屋の金の鯱」である。
冗談はさて置き、大分前の話ではあるが、「医は仁術では無く算術だ」と言われた時期が有った。
しかしながら、現在の医療は「全く別な意味」で、「算術」になってしまっているのだ。
「健康保険の収支」が、「年々悪化」する中で、保険料の引き上げより、医療費の引き下げ(コスト削減と同じです)を中心にしてきた。
「当然の結果」として、医療機関には「余裕」と言うものが無くなってしまったのである。
「余裕=コストアップ」と言う事になるから、「何時来るかわからない救急患者」の為に、ベッドを開けておいたり、医師を待機させたりする事など、出来ない相談である。
かつて、「医者は儲かる仕事」などと言われていたが、最近では、その様な事を言う人は殆どいない。
万一何かあれば、「医療ミスだ」などと言われ、告訴される事も多い。
これまた「当然の結果」として、「危険の伴う部門」は敬遠され、医師のなり手が減っている。
医療の現場に「商業原理」を持ち込むのは「オカシイ」のではないだろうか?。
大切な命と健康を守る医療の現場には、「ある程度の余裕」が必要だと思うのだが・・・・。
その為に、保険料の負担が増えるのは仕方ない事であろう。
「保険料をケチって命を無くす」のと、「保険料を増やして命が助かる」のと、どちらを選ぶかである。
「税金で補填」と言うのは、その分がほかの財源を圧迫して、結局は「同じ結果」になってしまう。
払うものをケチれば、「当然の結果」として、何処かに「しわ寄せ」が来るのである。
「負担が増えたら生活して行けない」と言う人もいるだろうが、「否応無く」時代(社会情勢)は変わっているのである。

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日本の学力低下     2

2007年10月26日 04時07分02秒 | Weblog
学力調査に対して、様々な意見が出ている。
その中に、「競争をあおる事になるのでは?」と言うものがある。
心配する気持ちはよく解るのだが、これも「日本人らしい考え方」ではないだろうか?。
日本国内だけのことを考えれば、競争は無い方がよいかもしれないが、「そうは問屋が卸さない」のである。
「その様なのんきな事」を言っていたら、国際社会から取り残されてしまうであろう。
「弱肉強食」と言う言葉は、自然界だけのものではない。
「自国の経済発展」の為に、新興国が「虎視眈々と」日本の市場(国内だけでなく輸出先も含めて)を狙っているのである。
国内の競争など「問題外」と言わざるを得ない。
「格差の拡大」が議論される事も有るが、「弱肉強食の競争社会」では仕方ない事なのである。
「国際社会の格差」を無くさなければ、日本国内の「格差を無くせ!」などと言う論議は、「無意味」な事ではないだろうか?。
日本だけを、「特別扱い」はしてくれはしないのだから。
この様に考えてゆくと、日本人の「国際性の無さと島国根性」ばかりが際立ってしまう。
「政治が悪いからだ!」と言う人もいるだろう。
しかし、よく考えて見て欲しい。
「親を見れば、子供がわかる」「子供を見れば、親がわかる」と言うではないか。
この言葉の、「親と子供」を「政府と国民」に置き換えてみればいい。
昔、ある人に聞いた言葉に、「金を儲けたかったら頭を使え、頭が使えなかったら体を使え、どちらも使えなかったら諦めろ」と言うのがある。
少々乱暴な言い方では有るが、「真理」を衝いていると思う。
「競争も格差も無くす」と言う事は、別な考え方をすると、かつて問題になった「護送船団方式」と同じ事になってしまう。
国際社会を生き抜くためには、「弱肉強食と言う競争社会」を勝ち抜かなくてはいけないのだ。
新興国ばかりではない、世界中の国々が「ガチンコ勝負」をしているのである。
日本だけが「のん気な事」を言っていられる状態ではないはずである。
非常に残念なことでは有るが、日本人に限らず「都合の悪い事は後回しにする」と言う癖が有る。
「尻に火が着いて慌てる」と言うのが、毎度の事ではないだろうか?。
「格差も競争も無い社会」とは、「共産主義の基本理念」ではないだろうか?。
基本理念から見ると、「理想的な社会」のように感じるが、共産圏が縮小している事を考えると、「理想と現実の違い」を感じる。
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日本の学力低下

2007年10月25日 03時56分37秒 | Weblog
学力検定の結果が出た。
「予想どうり」と言わざるを得ない。
原因が色々と取りざたされているのだが、「チョット、的外れ」と言った感じがする。
しかしながら、ある意味では「妥当な答え」と言えなくもない。
今までに何度か書いているのだが、私のような一個人が書くぶんには問題なくても、「あるレベル以上」の人の発言となると、事情が変わってくる。
「原爆の投下はやむおえない」発言が、良い例である。
さて、話を本題に戻そう。
それでは何故、「学力低下は予想どうり」なのか?。
一つの例として、インドの子供たちを考えてみればよい。
東京では、インド人学校に子供を入れたがる日本の親がいると言う。
何故、インド人学校に入れたがるのであろうか?。
その理由は、「教育方針」の違いにある。
インドの子供たちは、電卓など使わずに「難しい計算」を、暗算でする。
日本の小学校では、一桁の九九までしか教えないが、インドでは二桁まで教える。
二桁三桁の掛け算でも、暗算で出来るのである。
日本でも戦後しばらくの間は、ごく一部のお店(百貨店など)を除けば、レジスター(今ではレジと省略されている)などなかった。
計算は、ソロバンか暗算でしていたのである。
私も商人の子だったので、店の手伝いもしたため、20品目くらいの計算は苦にならなかった。
ソロバンではなく、暗算で、である。
それがあるキッカケで、出来なくなってしまったのだ。
そのキッカケとは?。
電卓なのである。
30年程前、それまでは高くて買えなかった電卓が、ナント「980円」と言う、当時としては破格の値段で手に入ったのである。
「非常に便利で重宝」なものであったのだが・・・・・・・。
フッと気が付くと、暗算が出来なくなっていたのである。
始めは原因がわからず、「歳のせい?」等とも考えたのだが、「電卓以外に原因は考えられない」と言う結論に達した。
ワープロの出現で漢字を忘れ、携帯のメモリー機能で電話番号を忘れる等、「便利で重宝」なものが出来る毎に、「人間の脳細胞は退化」しているのである。
テレビゲームや、ゲームセンターでの遊びも、同じ事が言えるであろう。
まんが、アニメ、テレビの単純な娯楽番組なども同じである。
人間に限らず、自然界では、「使わないものは退化する」と言う。
世界的に見ても、日本人の「脳力の低下」(能力ではありません)は、際立っているように感じます。
日本の「学力の低下」は、「学校教育以前の問題」なのです。
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日本人の悪い癖 2

2007年10月24日 03時52分38秒 | Weblog
私は、何度か中国(上海、香港)に行っているのだが、その度に感じる事がある。
「経済大国」「技術大国」「エコノミックアニマル」・・・など、いかにも国際社会に進出しているように思われているのだが、現実はどうであろうか?。
確かに、海外に進出した大企業などの関係者は多いのだが、「一般市民」のレベルになると論外である。
国際的な話などし様ものなら、「あからさまに」嫌な顔をされてしまう。
一方の中国では反応が違う。
私などの限られた情報でも真剣に聞き、逆に質問してくる事さえある。
英語を話す人も結構います。
「機会があれば海外へ」と言う人が大勢いるのです。
昔は、「大学を出たら日本へ」と言う人が多かったのだが、今では極僅かになったようです。
北米を目指す人が多いと聞きます。
13億と言う人口を抱えた中国は、これからに日本にとって「大きな脅威」になるでしょう。
多くに日本人は、中国人を「蔑視」する傾向が有りますが、そろそろ考え方を変える必要があります。
従来、日本などの国が主導してきた、「農水産物」「鉱物資源」などの価格も、中国の旺盛な需要の前には太刀打ちできません。
日本人の得意な「多数決」も、世界規模になれば・・・・・。
何処まで行っても「島国根性」が出てくるのです。
「情報化社会」などと言われながら、「情報の有効活用」が出来ないのです。
「日本の情報化」には、多くの問題があると思います。
「ネットで調べれば何でも解る」と言う人も居ますが、私は、「必ずしもそうとは言えない」と言いたい。
何かを調べようとして、「ネットで検索」しても、多くの場合「下らない余計な情報」になやまされてしまうのです。
必要な情報が、どうでもよい情報の中に「埋没」してしまうのです。
「下らない情報に毒された日本人」が増えているのです。
文明の発達が、知能を退化させているのでしょう。
「もっと日本と言う国に誇りを持て」と言う人もいる様ですが、一体何に誇りを持てば様のでしょう?。
もっと謙虚な気持ちになるべきでしょう。
時代は急速に変化しているのです、「謙虚な気持ち」にならなければ、世界から取り残されるでしょう。
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日本人の悪い癖

2007年10月23日 04時07分52秒 | Weblog
日本人の悪い癖として、「応用は出来るが、基礎に弱い」と言うことがある。
戦後の日本が、「急速な発展」を遂げられたのも、「外国製品の物まね」による所が大きい。
始めは「安かろう、悪かろう」と言われていたものが、少しずつ品質がよくなり、外国製品を上回るようになった。
世界から、「技術大国」「経済大国」と言われていたのだが・・・・。
気が付くと・・・・?。
まるで「ウサギと亀」である。
戦後の日本がたどった道を、中国が、「亀ではなくウサギのごとく」追い越そうとしているのだ。
日本の十倍、13億もの人口の持つ力は計り知れないものがある。
国土の面積は25倍である。
全体的に見ればまだまだ貧しい人が多く、富裕層の割合は少ないのだが、13億に対する割合であるから、「バカには出来ない数」である。
しかもこの富裕層、日本の富裕層とはかなりの違いがある。
かつて日本にもいた、「成金趣味」と同じなのである。
「見栄を張る」ために、高級品を求めるのである。
その上、この富裕層、「商才」に長けているのだから始末が悪い。
「儲かる事に対する嗅覚」が鋭いのである。
今や、「高級食材の価格決定権」の多くは、中国商人が握っているのではないだろうか?。
川魚が中心であったものが、海の魚の味を覚え、「高級魚」を買い漁っている。
従来、日本の商社が決めていた価格を、「それ以上の価格」で中国が買ってしまうため、日本の商社は相手にされなくなってきている。
ウッカリすると、外国産に限らず、「高級食材」が日本の店頭から姿を消す日が来るかもしれない。
問題は高級食材に限らない、急速に経済発展を続ける中国の、「旺盛な需要」によって、様々な物資の価格も上昇している。
国土も狭く、資源も乏しい日本が、単純に「安いという理由」だけで「外国の農産物」に頼るのは危険ではないだろうか?。
「外貨不足」になれば、輸入は出来ないのだから。
ここで、外貨について「誤った認識」を持っている人がいるようなので、外貨について少し。
「外貨」とは、「外国(国際社会)で通用する貨幣」(当り前の話しですが)の事で、「日本国内で流通している貨幣」ではありません。
「国際通貨」とも言い、現在はドルが中心ですが、その前は「金(キン)」でした。
金(キン)が無ければ、貿易は出来なかったのです。
輸出した商品の代金として受け取ったお金でなければ、輸入した商品の支払いは出来ないのです。
もしも、日本のお金(円)で支払いが出来るのならば、「大蔵省造幣局」で大量に印刷すればよいのです。
そんな事をしたら、世界中が同じ事をして、「貿易」は成り立ちません。
その様な事を防ぐ為に、「国際通貨(外貨)」が決められているのです。
外貨の稼ぎ頭である、自動車、IT関連の製品が、何時までも外貨を稼いでくれるかは疑問です。


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10(トー)・5(ゴー)・3(サン)

2007年10月22日 04時11分43秒 | Weblog
若い世代はともかくとして、ある程度の年代の人となら記憶にあると思う。
サラリーマン・商人・農家の、「所得の透明性」を表わしたものである。
別の数字もあるのだが、意味が無いので省略する。
この数字が意味するものは、「サラリーマンは所得のすべてが掌握されているのに、商人や農家は所得を誤魔化していてずるい」と言うような意味である。
時が移った現在では、サラリーマンに羨ましがられていた、商人や農家はどうなったであろう?。
中小の商店は次々と店を閉め、農家は跡継ぎがいなくなり、高齢化してしまった。
サラリーマンの「一人勝ち」と言う構図である。
10・5・3、などと言われていた頃、私は「それは大きな誤り」だと知っていた。
「後になって言うのは簡単だ」と言う人もいるであろうが、私の場合は違います。
何故なら、私は商人の家に生まれながら「サラリーマンの道」を選んだからです。
そして、私の田舎は農家なのです。
農家の実態も、商人の実態も「熟知」しているのです。
熟知した上で、サラリーマンになったのです。
「サラリーマンしか知らない人たちの目」から見れば、「羨ましく見える」かもしれないのだが、現実は正反対。
子供たちが跡を継がないのは、「当然の話」なのです。
すべてを知る私に言わせれば、「サラリーマンは気楽な家業」なのです。
私のかわりに店を継いだ弟(実は、私は長男なのです)は、常に文句を言っています。
「貧乏くじを引かされた」と。
当然の話ではあるが、跡継ぎはおらず、「あと何年出来るか?」と言っています。
体力的には「店を閉めたい」と言うのが本音のようだが、サラリーマンと違って「退職金」などあるはずが無く、国民年金だけでの生活は大変でしょう。
「サラリーマンも大変だ!」と言いたいだろうが、商人や農家はそれ以上に大変なのです。
「隣の芝生は青く見える」のと同じ事です。
「商人や農家は経営努力が足りない」と言う人もいるが、「言うは易く、行うは難し」である。
「経営努力が足りない」と言う方に、是非とも手本を示して欲しいものです。
日本人は、「自己主張する能力」は優れているようだが、「相手の身になる」と言う能力は余り無いように思う。
「サラリーマンの意見」が表面化して、「商人や農家の意見」が目立たないのには、「それなりのわけ」があると思う。
「数」と「メディアに接する機会」に、大きな差が有るのだ。
数が多い上に、「メディアに接する機会が多い」と来れば、「鬼に金棒」である。
「商人や農家の声」が、かき消されてしまうのは当然である。
中小の商人の方たちには申し訳ないのだが、仮の話し、商店が「店仕舞い」をしても、「大型店」が国内に有るので「代行」は可能であるが、農家の場合は「代行出来る大型農家」は、殆ど国内には無い。
日本では、「農業の大規模化」は「不可能」と言っていい。
農業(特に稲作)の衰退は、「自然環境の悪化」と言う問題を抱えている。
「商業理論」など成り立たないのだ。

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日本の、これから  「どうする?私たちの主食」

2007年10月21日 04時28分36秒 | Weblog
NHKで 、15分のニュースをはさんで7時半から10時半まで、3時間に渡って放送していた番組の題名である。
民放ではまず「放送不可能」な番組である。
果たして、どれだけの人が見たのであろうか?。
出演者は、様々な分野の人たちが揃った為、「千差万別な意見」が飛び出し、何となく「まとまりの無い」結果に終始した様に感じた。
私も参加して、意見を言いたかったのだが、残念ながら出来なかった。
そこで、ここに「九牛の一毛」ならぬ、「九万牛の一毛」程度にしかならないかとは思うが、私の意見(考え)を書いて見たい。
主題が「どうする?私たちの主食」となっている為か、「議論の幅」が狭くなってしまっている。
全体的に見て、「農業による食料の生産」が、「工場で製品を製造する」のと、同様に考えられている傾向がある。
その為に「重要な問題」が「なおざり」にされてしまった。
「日本の農業」と、アメリカ、オーストラリア、中国などの「大規模な農業」とは、「同列」に論じてはいけないのである。
アメリカ、オーストラリア、中国などの「大規模な農業」は、殆どの場合、元々は「不毛に近い土地」に「灌漑設備」を整備して出来たものである。
一種の「食糧生産工場」と言っていいだろう。
一方、「日本の農業」は、全く違うのである。
「食糧を生産する」と言う役割以外にも、「幾つかの役割」があるのだ。
「環境保全」などは、その代表的なものであろう。
「単なる食糧生産工場」とは全く違うのだ。
「大規模化して競争力を付けろ」と言う意見も有るが、日本の農地は幾ら大規模化しても、一桁どころではない違いが有るのだから、太刀打ちなど出来るはずがないのである。
「大規模化出来ないところは止めれば」と言う意見も有るが、「耕作放棄」された農地は、やがて荒廃して「環境悪化」につながるであろう。
「転作」と言う手も有るのだが、何を作ればよいのだろうか?。
仮の話し、「有利な転作作物」が有ったとしても、皆が作付けするようになれば「生産過剰」と言う問題になる。
「地産地消作物の作付け」にしても、皆が始めれば同じ事になる。
「地産地消作物」の多くは、「じいちゃんばあちゃん」たちが、「採算を無視」して作っているものが多いのである。
「付加価値の高い農産物を」と言う意見にしても同じである。
「付加価値の高い農産物」=高価格、と言う事になる。
しかし、供給が需要を超えてしまえば、「供給過剰」になり、当然の結果として「値崩れ」を起こして、「同じ結果」になってしまう。
「通常の方法」では、「日本の農業」を立て直す事は難しいだろう。
別な観点から考える必要があると思う。
「別な観点?」とは、「環境保全」と言う役割である。
農家が廃業して、耕作放棄した農地は、やがて荒廃してしまう。
荒廃した農地は、病虫害の発生源となり、周辺の農作物に被害が及び、場合によっては「農業の継続」さえ難しくしてしまう。
一度荒廃した農地を、元の農地に戻す事は、「非常に困難な事」であろう。
林業の衰退により、森林の荒廃が進み、新たな問題(土砂崩れ、洪水など)が発生しているのと同様の事が起きるであろう。
「日本の農業」は、単に「食糧生産」と言う役割だけのものではないのだ。
日本の農業の問題だけでなく、あらゆる問題は、単に、「一次的」に考えるのではなく、「総合的」に考えなくてはいけないのだ。
気を付けないと、「予想外」なところから「しっぺ返し」を食う事になる。
安い「外国産の農産物」に頼るのも問題がある。
「余剰農産物」が有る間はいいかもしれないが、無くなってしまったらどうなるのだろうか?。
それ以外にも、「輸入する為の外貨」にも問題が出てくるであろう。
現状では貿易は「黒字」であるが、年々減少してきている。
輸出が増える見込みは少ないが、輸入は確実に増えるであろう。
原油や穀物の価格高騰は、避けることは難しいだろう。
外貨が無ければ、幾ら安い農産物でも、輸入する事は出来ないのです。



 
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