へそ曲がりおじさんのひとり言

常識にとらわれるのが嫌い。
他人と同じ事が嫌い。
世の中、別な角度から見ると新しい物が見えるから。

不運と幸運

2009年04月26日 04時20分33秒 | Weblog
最近10日間程の間に「不運」と「幸運」がやってきた。
初めにやってきたのは「不運」であったが、その不運とは「30年以上縁が無かったネズミ捕りに引っかかった(少し前まではネズミ捕りなど出来るところではなかったのだが、ホンダの寄居工場の取り付け道路が出来たことで可能になった)」と言うことで、「25キロオーバー・罰金18,000円」と言うことになり、定額給付金の殆どを「財政再建に協力」と言うことになってしまったのである。
本来は「景気刺激のための定額給付金」のはずが、財政再建に回しては「意味が無い?」と言うことになってしまうかも・・・・。
免許の色がゴールドでなくなるのは困った物だが、これも「身から出たサビ」と諦めるるしかない。
しかし「災い転じて福となる」ではないが、悪いことの後には「良いこと」もやってくるから人生は面白い物である。
さて、その「幸運」とは。
ボーリングで「自分にぴったりのボールが手に入った」と言うことなのだが、これが「全くの偶然から手に入った」もので、まさに「幸運」と言うべきだろう。
通常であれば、新しいボールを作っても「投げてみなければ良し悪しはわからない」のだが、今回は私が作ったボールではなく、「知人が作ったが、余り気に入らなかった」ために起きた幸運なのである。
たまたま新しいボールの具合を聞きに行ったところ、「余り芳しくなく使っていない」と言う返事が返ってきて、「試しに投げて見て」と言われて投げたところ「いきなり、ターキー(3連続ストライク)」と言う結果になってしまったのである。
余りにも私にピッタリなボールなので、冗談半分に「俺に譲ってくれよ」と言ってところ、翌日電話で「譲ってもいい」と言うことなので、気が変わらないうちにゲットしたのであるが、そのおかげでアベレージが一気に20位もアップ(160~170くらいだった物が、180~190へ)したので「ラッキー」といった気分なのであるが、実費を払ったとは言え「何となく申し訳ない」と言う気がしないでもないのだが・・・・。
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学力テスト

2009年04月21日 03時07分43秒 | Weblog
学力テストの結果を公表するかしないかでもめているようだが、結果を公表しない学力テストに一体何の意味があるのだろうか?。
今問題になっている「学力テスト」は、私が小学校時代に受けた「標準テスト」と同じような物らしいのだが、私が標準テストを受けた頃は、「受験者の数と順位」は答案用紙にハッキリと書かれて返されてきたことを思い出す。
「順位を公表すると競争をあおる」と言うような理由で公表をしないらしいのだが、実社会が「競争原理」に支配されていることを考えれば「過保護に過ぎる」と言うべきではないだろうか・・・・。
そもそも、学力テストが復活した主な理由には「世界各国の中での日本の学力レベルが低下している」と言うことがあるだろうが、このこと事態が「競争原理に支配されている」と言うことで、「競争をあおる」などということ事態が矛盾していることに気が付かないのだろうか?。
公立校は全てが受験を受け入れたようであるが、私立校では受験する割合が大幅に低下しているが、これは至極当然の結果と言うべきだろう。
「至極当然の結果」と書いたのだが、私の経験から考えても、一部の私立校を除いた多くの私立校にとって「学力テストのレベルが低すぎて受ける意味がない」と言うのが本音なのである。
中学1年から、理科は「物理・化学・生物」に、数学は「幾何・代数」、社会は「政治経済・歴史・地理」、国語は「漢文・古文・現代文」と細分され、尚且つ「選択ではなく全教科必修」で、各教科には「その教科専門(エキスパート)の教師が教える」と言うのだからレベルの差は歴然とした物があり、「学力テストを受けるのは時間の無駄」と言うことになってしまうのである。
「学校など何処でも同じ」と考える人もいるだろうが、現実には「月とすっぽん程の差」があることを理解するべきだろう。
「競争をあおる」と言うことが問題視されて、運動会でも順位を付ける事をしなくなっているようなのだが、「競争が能力を向上させる」と言うことが忘れられているようで、なんとも嘆かわしい話である。
改めて「結果を公表しない学力テスト」を考えてみると、その陰に「モンスターペアレント」の存在が大きな影響を与えているような気もするが、個人の力が強くなり過ぎたことの弊害がこんな所にも現れているのではないだろうか?。
何事も「過ぎたるは及ばざるが如し」と言うではないか。
過保護に育って世代が担う将来は・・・・・。

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理想と現実

2009年04月17日 03時24分53秒 | Weblog
一年以上も前の記事に「カメ好き」さんがコメントを入れてくれたのだが、彼?の意見ももっともではあるが「理想と現実」をどのように折り合いをつけるかが難しい問題なのである。
「一方の意見を聞いて沙汰するな」と言うように、消費者の意見だけで結論を出すのは、一種の「欠席裁判」と言えよう。
「お客様は神様」と言う言葉で問題がかたずけられてしまう傾向が強いのだが、商人の家に生まれた私から見ると「余りにも身勝手」に見えて仕方がなく、悪い言い方をすれば「弱い者いじめ」ではないだろうか?。
「買い手は少しでも安く買いたい」と考え、「売り手は少しでも高く売りたい」と考えるように、お互いに「水と油」の関係と同じなのであるが、その位置関係はけして「対等」ではない。
「数が多い方が正義」と言うような考えから「多数決」と言う手段がとられてしまいがちなのだが、これは過去に何度も書いているのだが「数の暴力」でしかなくなってしまう。
多数決と言う「数の倫理」を当てはめれば、数の少ない売り手側は、「数の上で圧倒的に優勢な消費者」に太刀打ち出来るはずがないのである。
この事は「労使紛争」にも当てはまることで、数が多いか少ないかで判断することは出来ないであろう。
理想論を言うなら「お互いが相手の立場に立って考える」と言うことが必要なのだが、現実的には「売り手の側は買い手の気持ちも分かるが、買い手の側は売り手の気持ちがわからない」と言う矛盾した結果になってしまう。
これは労使の関係でも言えることで、「経営者側は労働者を経験しているので労働者の気持ちも理解出来るが、労働者の側は経営者になった経験がないので経営者の気持ちが理解出来ない」と、同じような矛盾が生じてしまうのであるが、同じように考えると「親の心子知らず」は当然の話で、「子の心親知らず」はおかしな話になってしまうと思うのだが・・・・。



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