へそ曲がりおじさんのひとり言

常識にとらわれるのが嫌い。
他人と同じ事が嫌い。
世の中、別な角度から見ると新しい物が見えるから。

今自分がここに居ると言う不思議

2008年02月29日 03時57分04秒 | Weblog
多くの人は、「自分が日本人として今住んでいる所にいる」と言うことの不思議を考えた事があるだろうか?。
私は時々考える事があるのだが、そのたびに「自分が今ここに居ると言う事の幸せ」を感じるのである。
こう書くと、いかにも私が幸せなように聞こえるかもしれないが、実は、全く違う視点から考えての話で、仮の話ではあるが、私が北朝鮮に生まれたとしたらどうなっていたであろうか?・・・・。
北朝鮮に限った事ではない、アフリカ、イラク、パキスタン、中国・・・・・・と、考えただけでゾッとする。
「運が良い」「運が悪い」「運も実力のうち」などと言うことが有るのだが、この場合の運とは「運命」の事を言っているのではないだろうが、所詮は運命で決まっているのかもしれない。
私は、一般的に言う所の「神」と言うものの存在は信じない「無神論」なのだが、一般的に言う所の「神」ではない物の存在や、「運命」と言うものは有ると信じている。
地球が存在し、其処に人類がいるということは、広大な宇宙には「人類の想像も及ばない未知の高等生物」がいたとしても不思議ではないだろう。
このように考えてゆくと、「宇宙の果て」って存在するのであろうか?。
様々な説が唱えられているのだが、どの説を採って見ても納得の行く説明は出来ていない。
アインシュタインの「宇宙はビックバンによって出来た」と言う説も、それ以前がどうであったかの説明がなく、私にとっては??????、と言うほか無い。
どれ程科学が進歩したとしても、「宇宙の果て」を見ることは出来ないだろうし、「宇宙には果てがある」と言う人もいるようだが、仮に果てがあったとしてもその外側はどうなっているのだろうか?。
「無限」と言う言葉を∞と言う記号で表現する場合があるが、これは少しおかしいと思うのだが・・・・。
∞と表現すると、「元に戻ってくる」と言うように思う人が出てしまうのだが、宇宙での無限と言う事は、∞と言う記号で表示する事は出来ないと思うのだが・・・・。
そもそも「理論」とは、「目の前で起きた事を説明する言葉」であって、「必ずしも正しいとは限らない」と言うより、間違っている方が多いのではないだろうか?。
理論上は問題がないはずなのに、実際に行うと上手く行かない事があるのは、単に「目の前で起きた事を説明する言葉」だからで、科学の世界で「実証試験」が行われるのはこのためである。
理論に基ずいて実験した所、「全く別な物ができた」などと言う事は「日常茶飯事」である。
と言うわけで、話が少し横道にずれてしまったが「今私がここに居ると言う不思議」は、永久に答えが出ないであろう。
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昨日のブログ、少し訂正します

2008年02月27日 02時12分36秒 | Weblog
最後の部分で、如何せん「それをする時間がない」・・・・と言う部分は、「面倒でする気が無い」と言うのが本音です。
以前ブログの中に、「成せば成る、成さねばならぬ何事も、成さぬは人の成さぬ物なり」などと書いておきながら「時間がない」と言うのは、「言行不一致」と言われても仕方ありません。
一応デジカメも持ってはいるのですが、いざ写す段になると「それなりの準備」をしなければならず、めんどくさがりな私にとっては気の重いことなのですが、それを更に後押しする理由があるのです。
その理由とは、写真を使うことによって「ビジュアル系ブログ」になりはしないか?と言うことです。
出来る事なら、本来の「へそ曲がり路線」から逸脱する事は避けたいのですが、その一方では「写真を使うと読者が増える」と言う話も有るようなので、少しでも多くの人に「辛口のブログを読んでもらう」と言う意味で使うことも検討する必要があるかもしれません。
「辛口のブログの息抜き」と言うような形での利用も考えられるので、実現に向けて努力してみます。


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気分転換にテンプレートを変えてみました。

2008年02月26日 03時16分42秒 | Weblog
東京で春一番が吹いたのと、じきに3月になるので春らしいものに変えて見ました。
我が家の庭も室内もすっかり春らしくなっています。
今回はチョット趣向を変えて、我が家の花便り、を書いてみます。
私の花作りは、へそ曲がりと言う名前が示すように、「趣味」と言うより「病気」と言うほうが正しいかもしれません。
栽培している物の多くは、ありきたりの物は少なく、普段余り見かけない物が多いのだが、だからと言ってけして高価な物ではありません。
多くの場合はワンコインで買える物の中から「珍しい物や掘り出し物」を探すので、千円以上で買った物は極僅かで、売れ残って値下げした物を、半額とかそれ以下の値段で買う事も良くあります。
月に3・4回は4ヶ所の園芸センターを見て回り、掘り出し物や珍しい物を捜し歩いていますが、最近は植える場所に困るような事態になってしまったので、買いたい気持ちを抑えるのに苦労していますが、病気に負けてしまうことも良くあります。
今現在、室内では洋蘭が20種類ほど咲いていて、屋外では、福寿草、節分草、椿、・・・・と、10種類以上咲いていますが、どちらかと言うと「一般的に花の少ない時期」に咲く花が多いので、驚く人が多いです。
写真にとってブログに載せればよいのでしょうが、如何せん、「それをする時間がない」と言うのが実情で、今年は何とか努力してみたいとは思うのですが、期待に答える事が出来ないかもしれないので、余り期待はしないでください。
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毒入り餃子事件の余波

2008年02月23日 19時38分24秒 | Weblog
埼玉県北部の或る園芸センターで聞いた話。
最近農協の直売所で野菜の売り上げが増えているらしい。
しかし、そのあおりを受けたのか、草花や鉢植えの花木が売れなくなっているそうである。
野菜の場合は、好調な売れ行きを反映して、「多少高値でも売れる」というのだが、草花や鉢植えはその反対に、「高いものは売れない」と言う状況になり、園芸業者は仕入れと値付けに苦労しているようである。
中国製品の危険性が問題になり、安全な国産の物を求めるようになれば、出費が増えるのは当然の事で、出費が増えた分の穴埋めとして「不要不急のもの」にしわ寄せが来てしまう。
「海外から輸入する物資の値上がり」と言う、「外部要因による賃金の上昇を伴わない変則的なインフレ」には打つ手は無いに等しい。
少し難しく感じる人がいるかもしれないのだが、「作用反作用」と言う言葉を思い出してみたい。
「作用反作用」とは、「何かをすれば必ずその反対の事が起きる」と言う意味にもなるように、国民全てが満足するような解決策など有るはずが無い。
「あちら立てればこちら立たず、こちら立てればあちら立たず」と言うように、「両立させる」と言う事は至難の技と言うより、不可能と言うほか無いだろう。
ガソリン税に加算されている「道路特定財源」の問題にしても、廃止すれば様々な形で「反作用」が起きてくる。
「中国産食材の危険性」が問題になり、「安全な国産食材」が求められるようになってきたが、「その国産食材を生産している地方の衰退」と言うことも考える必要があるだろう。
今のうちに「農業後継者」を育成しておかなければ、高齢化した農家が「耕作不能」と言う事態にでもなれば、「安全な国産食材の生産」にも差し障りがでてくるであろう。
中国やインドなどの新興国の発展と言うことを考えるならば、「穀物ばかりでなく全ての食料の値上がり」は避けられない事だろうし、日本が頼りにしているオーストラリアにしても「地球温暖化によると見られる旱魃」に悩まされていると言う「不安定要因」も考えれば、「日本の農業(地方)生産の安定」と言うことが重要な課題になるはずである。
最早「日本の利益を追求する」と言う時代は終わったのである。
これからの日本が考えるべきことは「いかに損失を小さくするか」と言うことではないだろうか?。
「永久に成長すると言う神話」など、地球上どころか、宇宙全体を探しても見つける事など出来ないであろう。
様々な資源の枯渇が心配されるようになって「リサイクルの重要性」が話題になっているのだが、この「リサイクル」と言うことにも限界があると言うことと、「かえって高くつく場合が多い」と言う事は意外に知られていない。
一つの典型的な例として、「古紙の混入率の偽装」と言う問題がある。
以前にも一度書いているのだが、古紙の再生には「品質の低下」と言う避けて通れない問題があり、繰り返し再生されると「紙として使用不能」と言う事になってしまうばかりでなく、「漂白」するための薬剤も余分に必要になり、「コストや環境面」でも問題が多くなってしまう。
「古紙混入率の偽装問題」は、国民と政府の主張する「リサイクルと言う錦の御旗」に、業界が抵抗できなかった結果起きた事で、偽装が明るみの出て初めて真相が発表されたのである。
ペットボトル、アルミ缶、廃プラスチック・・・・等のリサイクルにしても、「品質の悪化」と「不純物により品質が安定しない」と言う問題が起きる為に、「本当の意味でのリサイクル」は実現していない。
かなりの部分で、再利用できる物が限られた「単なる再利用」になってしまい、いずれは需要も減ってしまい、「在庫の山が出来る」のではないだろうか?。

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道草と寄り道

2008年02月21日 03時20分17秒 | Weblog
今日は久しぶりに暖かい一日で、我が家の玄関先では、14度まで気温が上がり、風もなく春のような一日で、庭の手入れをしていた時のことなのだが、3時過ぎごろだったろうか、見かけない小学四年生くらいの女の子二人が家の前を通っていった。
その二人の会話を聞いていて思わず笑ってしまった。
女の子A「こんな方を回るとお母さんにしかられるよ」
女の子B「黙っていれば大丈夫」
女の子A「学校でも寄り道してはいけないって言ってるじゃない」
女の子B「毎日同じ道でつまらなくない?」
女の子A「・・・・・・」
昔なら極当り前の事であったが、今では事件を心配して「集団登下校」と言うことで、「道草・寄り道」と言うことが難しくなってしまった。
確かに、事件にあう危険は減るかもしれないが、「道草・寄り道」には、「子供の成長発達」に重要な働きがあることにも目を向ける必要が有ると思うのだが・・・・。
私が子供の頃の事を振り返ると、「道草・寄り道」をすると言うことは「未知への挑戦や冒険」「新しい発見」と言う意味があったように思う。
当然の事ではあるが、子供たちの目は輝いていたはずで、Bの女の子もAの子より生き生きとしていた。
自然の中で起きる事は、ゲームの世界のように、「同じ事の繰り返し」と言う事は有り得ないことで、毎日毎日が新しい事との出会いである。
この事は、子供の脳の発達には重要な事ではないだろうか?。
学校や塾で学ぶのが勉強だと勘違いしている人が多いが、自然とのかかわりによって、学校や塾では学ぶ事の出来ないものを学ぶ事が出来る。
自然から学び取るものは、人間が生きてゆく上で必要な「基本的能力」ではないだろうか?。
この「基本的能力」に欠けた人間が、様々な事件を起こしているのではないだろうか?。
変質者などによる事件が多発しているような報道が成されているのだが、果たして事実にもとずいているのだろうか?。
私が子供の頃は、暗くなるまで外で遊んでいたものだが、その様な時に決まって「人さらいが来るから早く帰りなさい」と言われたものである。
私の感覚では、「昔のほうが危険だった」と思うのだが・・・・。
昔と今とではメディアに大きな差があるため一概には比較は出来ないのだが、メディアが発達していなかった頃は、「身近に起きた事件」以外は殆ど知る事が無かったものが、メディアが発達してしまった為「全国で起きた事件」まで知ることが出来るようになってしまったことから来る「一種の錯覚」ではないだろうか?。
「ある危険を避けるために、新たな危険を抱える」と言うこともあるのだが、どちらの危険を重要視するかはその人の自由であるが、その結果に対しては「自己責任」と言う事になる。
私は、「道草・寄り道」をする方が「正常な人間形成」と言う意味で重要だと思うのだが・・・・。
「角を矯めて牛を殺す」と言うこともある。
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心配していた事が現実の問題に

2008年02月19日 02時55分16秒 | Weblog
ブラジルから輸入する鉄鉱石の価格が大幅に引き揚げれてしなった。
主な原因は「旺盛な中国の需要増大」らしいのだが、そればかりとは言えないと思う。
根底には、「原油高騰や穀物価格の高騰」と言うものが有るはずで、ドミノ倒しのように次々に波及しなければ良いのだが、中国やインドなどの新興国の発展次第によっては、あらゆる物に影響を与えるはずである。
日本の場合は、殆ど「マイナスの影響」ばかりになる可能性があるだろう。
何故なら、原油・天然ガスなどのエネルギーや、鉄鉱石を始めとする工業原材料ばかりではなく、62%を海外に依存している食料の値上がりなどに対応する手段が無いと言う事に加えて、輸出の花形と言われる自動車にしても、原材料の値上がりを「製品の価格に転嫁」することは難しいのではないだろうか?。
国内の需要にしても、「物価だけが上昇して、賃金が上がらない」と言う、変則的なインフレでは、需要の増加などとても期待することは出来ないだろう。
この事は、輸出先の国でも同じではあるだろうが、資源や余剰農産物を持つ国は話が違ってくる。
資源や余剰農産物の需要は、「増える事はあっても減る事は無い」と言っても過言ではなく、その価格も「上がる事はあっても下がる事はない」と言う状態なので、「資源少国」日本とは大きく違う所である。
国会で下らない論争をしている間にも、刻々と国際情勢は変化している。
この事に、国会ばかりでなく、国民も気が付かなければ、取り返しの付かない事になりかねない。
燃料の残りが少なくなった飛行機と同じで、いかに上手く不時着するかが大切な事で、現状のように飛び続け様などと言う事は考えてはいけないのである。
最近の物価上昇は、「輸入価格の高騰」と言う「外部要因」から来るものなので、「賃金の上昇」と言う事は望み薄と言わざるを得ない。
輸出関連の「業績の良い一部の企業」が賃上げをしたとしても「焼け石に水」程度の効果しか期待は出来ないだろう。
悪あがきなどせずに、覚悟を決めた方が気が楽だと思うのだが・・・・。
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ワンセグの問題点

2008年02月18日 03時13分43秒 | Weblog
今ワンセグが話題になっているのだが、其処までしてTVを見たいと思う人の気が知れない。
技術の発達により、「何処にいても音楽が聴けて、電話も出来ればTVも見られる」と言う時代になったのであるが、その事が「人間の幸せ」と、どの様につながるのであろうか?。
私自身、こうしてPCを介してブログを書いてはいるのだが、「四六時中使っている」わけではない。
アクまでも「自分の生活の中のホンノ一部」であって、「四六時中使っている」と言う状態にするつもりはない。
そして、これを書くと言い訳がましくなるのだが、「ボケ防止」と言う意味合いもあり、「能動的な使い方」をしているつもりである。
しかし、今問題にしている「ワンセグ」の場合は、多くの人が「受動的(依存症的)」な使い方をしている「携帯型音楽端末」や「携帯電話」と同じ様なものではないだろうか?。
「このような機器が開発された事による弊害」が問題になることは少ないのだが、これらの機器が、「人間関係に悪い影響を及ぼしている」と考える必要が有ると言うことに気が付いてほしいものである。
「商業主義」に踊らされて、「利便性」だけが強調されているが、ボディーブローのように「後なってダメージが現れる」と言うことも有ることに気が付く人は少ない。
ある人がこんな事を言っていた、「常にヘッドホンで音楽を聴いているのは、他人との関係を遮断する為」だと言うのである。
確かに最近の人は、「老若男女を問わず」他人との係りを嫌う傾向がある。
私は比較的家の外にいることが多いのだが、家の前を通る人で挨拶をする人が減っているのも事実である。
私の存在に気が付くと、「視線を合わさないように横を向いて通る」ので、こちらから挨拶をするキッカケも作り難くなってしまう。
仮に挨拶をしても、「仕方なしに返事をする」か、「無視をする」かのどちらかである。
小さい子供などは結構挨拶をする子がいるのだが、如何せん「その子の親が挨拶をしない」場合が多いのだから、挨拶をしていた子供たちもやがては挨拶をしなくなるのは間違いないのでは?。
TVに夢中になっているようでは、「中流の人間にはなれない」と思うのだが・・・・。
かつて、「日本人の9割が中流意識を持っている」と言う報道があった時に、本当に中流生活をしている人が「TVを見ているようでは中流とは言えない」と言っていた事を思い出したのだが、確かに中流生活をしている人は余りTVを見ないようである。
私が生まれ育った地区は、かなり中流生活をしている人が多かったのだが、確かに、彼らの生活内容は一般の家とはかけ離れていたように記憶している。
私の中学校時代の友人の家は「本当の中流家庭」であったから、TVが珍しかった時代に2台3台(子供部屋にも有った)とTVがありながら、彼が「TVでも見ようか」と言ったのを聞いた記憶が無い。
10畳ほどもある子供部屋の一方の壁面の大きな本棚には、数百冊の本が有り、私もTVを見るより本を読む事の方が楽しく、かなり読んだものである。
「本なら携帯でも読める」と言う人もいると思うが、私に言わせてもらうなら、「実物の本を読むのと、携帯で読むのとは全く違う」と言いたい。
一見、携帯は便利な様ではあるが、画面に表示される文字が少ないことがネックになり、文章全体が掴みにくく、本物の本であれば簡単な、「少しさかのぼって読み返したい」とか、「一部を再確認する」と言うことが難しくなってしまう。
「単に読んだ」と言うレベルで、「真の意味で読んだ」と言う事は出来ないように思えてならない。
ワンセグによって、何処でもTVが見られるようになったとして、一体何が良くなるというのであろうか?。
見るものの殆どは「単なる娯楽番組」になるであろうから、「TVによる日本人の白痴化」がなおいっそう進むのではないだろうか?。
子供たちの学力低下より、「大人の白痴化」の方が重大問題だと思うのだが・・・・。
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オカヤドカリは共食いをするのか?    2

2008年02月16日 03時22分33秒 | Weblog
今日の昼間は大分暖かったせいで、無加温で飼育しているザリガニの動きが良かったのだが、相変わらず共食いはおろか、相手を襲うと言う様子もない。
日一日と大きく成長しているので、60cmの水槽ではかなり窮屈な状態に成ってしまったのだが、20匹ものザリガニが育ってしまうと、飼育容器不足と言う問題が起きてしまう。
自然界ではもっと大量のザリガニが発生するのだが、「自然淘汰」と言う力が働く為に、このようなことは殆ど起きない。
多くは、小さなうちに魚などの餌になってしまうことが多く、生き残れるのはごく一部でしかない。
オカヤドカリサイトでよく問題になる、「オカヤドカリの死に感情移入する」と言う問題は、「新しい個体を買って来なければ数が増えない(つまり、人工増殖できない)」と言うところにあるのではないだろうか?。
一部の人が「人工増殖」を試みているようだが、成功する確立は「限りなくゼロに近い」事であるが、仮の話し、ザリガニのように簡単に人工増殖が出来たらどうするのであろうか?。
人工増殖が簡単に出来れば、オカヤドカリの数は増え続ける事になり、「飼育しきれない」と言う問題が発生してくる。
飼育しきれなくなる程増えてしまったとしたらどうするのだろうか?。
「かわいそう」と言う気持ちを何処まで維持できるかだが、現実には、オカヤドカリにはこのような問題は発生しない。
犬・猫を始めとするペットの多くは「子供を増やさない」と言う事前の対策が取られているのは、万一子供が生まれてしまった場合は、「貰い手」を探さなくてはならないのであるから当然の話だろう。
ザリガニに限らず、簡単に増殖できる生き物の場合には、一匹一匹に対する感情も薄くなり、ましてや、増え過ぎでもし様ものなら「命を大切に」と言うこととは正反対の事をしなくてはならなくなってしまう。
また、販売店での扱いにも抗議する人が多いようであるが、これも少し的外れと言わざるを得ない。
店頭での管理や飼育機材の販売方法にも問題があるのは確かであるが、これも冷静に考えれば「ある程度は仕方ない」と考えなくてはいけないだろう。
何故なら、販売店の店頭では、オカヤドカリも「商品として展示している」と言うことで、「飼育しているわけではない」と言うことも考慮しなくてはいけないからである。
商品として展示している以上、「商品が見えなくては商売にならない」のだから、通常の飼育環境を作って販売する事は難しくなってしまう。
「かわいそう」だと思うのであれば、他人任せにするのではなく、自分の手で助けるべきではないだろうか?。
単に、抗議をしたり「水をあげてください」と言うだけで済むのであれば、誰も苦労はしないのではないだろうか?。
それにしても、「オカヤドカリ愛好家」だけが何故これほどまでにうるさいのであろうか?。
それとも、私のほうがおかしいのであろうか?。

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昭和30年代

2008年02月12日 03時08分56秒 | Weblog
NHKで昭和30年代(一部20年代も含まれていた)の日本を特集した番組を、長時間にわたって放送していた。
昭和30年は、私が中学校に入った年で、懐かしい映像が沢山あり、あの頃の自分を思い出した。
「古きよき時代」と言う言い方もあるのだが、必ずしもそうとは言い切れないように思う。
「人間が人間らしく生きていた」と言う事で、便利なものは何もなかったが、「人情」にあふれていたように思う。
また、物が無い時代だったので何かを「自分で作り上げる」と言う達成感にもあふれていた。
それに対して現在は、有り余る物資に囲まれながら、「人間の本来の姿」を失ってしまっている。
子供たちは「自分で作り上げる」と言う喜びを知らず、次から次へと発売される新製品を欲しがるようになってしまった。
これではいくらお金が有っても大変ではないだろうか?。
男尊女卑と言う観点で言うわけではないが、「女性が子供を生み育てる」と言う事は、「生物界の基本原則」ではないだろうか?。
男が子供を生む事が出来ない以上、避けて通れないことではないだろうか?。
「女性が子供を生み育てる事を放棄する」と言う事は、「人類の滅亡」と言う事にもなってしまう。
定員を大幅に超えてしまい、危機に瀕している「宇宙船地球号」にとっては、喜ばしい事なのかもしれないが、日本の経済にとっては大きな痛手になっている。
以前にも書いたことがあるのだが、経済が発展すると言う事は、「広い意味」で「ねずみ講」と同じなのである。
ねずみ講がすぐに行き詰まるのは、急速に子を増やさなくてはならないために、「増やしたくても子が見つからない」と言う問題に直面してしまうからである。
経済を発展させる為には、「新たな需要(子)」が必要なのだが、「少子高齢化社会」では、新たな需要を見つけることは難しくなる。
戦後の日本が急速な経済発展を遂げられたのは、敗戦後の何もなかった時代から、次々に新しい需要を開拓してきたからで、今の中国が、当時の日本と同じだと思っても良いだろう。
しかし、「少子高齢化」「物余り」「飽食」などと言われるようになった現在では、「新たな需要の開拓」など夢物語と考えるべきではないだろうか?。
仮に有ったとしても「小規模」なものが殆どで、「経済を発展させる」と言う力は無いだろう。
私にしてみ、「今ほしいものは?」ときかれたとしても、「さーーて?・・・・」と考えてしまう。
強いて言うなら「お金と女房」と言う事に成るが、「お金をもらったとしたら何を買いますか?」と質問されると困ってしまう。
「万一の備え」としてお金が欲しいので、特別買いたいものがあるわけではない。
大多数の高齢者が同じ様な考えではないだろうか?。
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小泉元総理は、何処に雲隠れしたのだろう

2008年02月11日 03時05分37秒 | Weblog
安部前総理が顔を出さないのは仕方ないとして、あれだけ大見得を切った人が顔を出さないのはどうした事であろうか?。
自民、民主の対立で混迷を深めている時期に、一体何をしているのであろうか?。
まさか「楽隠居」してしまったのではなかろうか?。
森前総理などは時折顔を出して、「ご意見番」的な発言をしているが、小泉前総理の場合は、マッタク「ご意見番」としての責任を果たしていない。
「自民党をぶっ壊す!」と言いながら、その後の責任は知らん顔。
こんな男を総理大臣にした「国民も国民」と言わざるを得ない。
「一国の長」ともあろう人が、好き勝手にやるだけやって、「後始末は任せる」と言うのでは「無責任」としか言いようがない。
過去にこのような人がいただろうか?。
常識的に言うなら、「総理大臣経験者」は「ご意見番」として、何かの時に発言をするのが「総理大臣経験者の責任」ではないだろうか?。
何代も前で高齢だと言うのであれば仕方ないが、ホンノ少し前まで総理大臣だったと言うのに、もう「忘れ去られた過去の人」になってしまったようである。
「男小泉・・・・」と言うせりふが聞いてあきれる。
「自民党をぶっ壊す!」のではなく「日本をぶっ壊す!」のが目的だったのかもしれない。
それにしても、国会中継を見ていていると、「茶番劇」「狐とタヌキの化かしあい」「オチのない掛け合い漫才」というようにしか見えないので困る。
「学力の低下」「国際的地位の低下」は、当然の話だろう。
いい加減にしないと、「世界の孤児」になりかねない事に気が付くべきであるが・・・・。
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