へそ曲がりおじさんのひとり言

常識にとらわれるのが嫌い。
他人と同じ事が嫌い。
世の中、別な角度から見ると新しい物が見えるから。

プロ野球はスポーツか見世物か?

2008年03月31日 02時53分05秒 | Weblog
今朝の新聞を見ていて気が付いたのだが、どうやら「プロ野球は見世物」と言う感じがしてきた。
前々から何となく感じてはいたのだが、今朝の新聞に書かれていた「順位表」を見て、私以外にも不自然に感じた人がいたのではないだろうか?。
1敗1分(サッカーなら勝ち点1)の広島が、2敗(サッカーなら勝ち点0)の巨人・横浜の下に書かれているのである。
単純に勝率だけを考えれば、0,00なのだから同じ様に見えるのだが、内容には大きな差が有ると思うのだが・・・・。
プロ野球では引き分けは計算に入れないことは知っているのだが、2敗と1敗を比べればどちらが上か解ると思うのだが・・・・。
プロ野球をプロレスと同じ様に考えれば納得がゆくのだが、如何せん、報道の現場ではスポーツとして扱われている事を考えると、改めるべきだと思うのだが、「背後に潜む巨大な力(ナベツネ)」に逆らう事は出来ないのだろう。
政治の世界にまで影響力を持つ人だが、其処までして巨人を勝たせたいのだろうか?。
広島・ヤクルトクラスのチームを、2つどころか3つも4つも出来る程の選手を集めても開幕3連敗。
アンチ巨人(これでも昔は巨人ファンだったのだが・・)の私にとっては「ザマーミロ!」と言ったところで、この様な下らない事をしていれば、益々「アンチ巨人ファン」が増え、テレビの放送も少なくなるのではないだろうか?。
「金で人の心を買う」と言うことがいかに難しい物か、良く考えるべきだと思うのだが、自分自身を「ゴッドファーザー」だと思い込んでいる節があるので「余計なお世話だ!」と言われそうである。
V9の時代と違ってスポーツの世界も多様化して、昔と同じ様な考え方では時代の波に乗ることは難し事を理解しなければ、益々プロ野球の人気は低下してゆくであろう。
「金と人気」に目が眩んだような選手を集めてみても、ファンや球界の事よりも「私利私欲」が優先して、「船頭多くして船山に登る」と言う事になりかねない。
単純な戦力分析から言えば、広島・ヤクルトなどは「どう仕様も無いお荷物球団」になってしまうのだが・・・・、現実は「理屈どうりには行かない」と言うところが面白い所である。
これは、誕生さえ危ぶまれた「楽天」にも、北海道に本拠地を移した「日ハム」にも同じことが言えるのではないだろうか?。
「金の力で自由になるほど、世の中甘くない」と言いたい所だが、昨日のブログにも書いたように、「金の力」と言うものは恐ろしい物で、「知らないうちに操られていた」と言う事にならないように気を付けなくてはいけない。
「情報化時代」などと踊らされて、知らないうちに「マインドコントロールされている」と言うのが実情のような気がしてならない。
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思い違いと思い込み(先入観念?)

2008年03月29日 04時47分09秒 | Weblog
何かに気を取られたりすると思い違いをすることが良くあり、目の前にある物でも全く目に入らないことがある。
何かに気を取られたりして「其処には無い」と思い込んでしまうと、目の前にあるにも拘らず他を探す事になり、後になった「ナーんだ、こんな所にあったのか」と言う事になったり、全く違う所を探したりする事も良くある。
一人で暮らしている分には余計な問題も起きないのだが、そうでない場合は余計な問題が起きる場合が往々にしてあるのだが、実は昼過ぎに近所で余計な問題が起きたのだ。
「車の鍵が無い」と言う旦那に、奥さんも一緒になって探しても見つからないと騒いでいたのだが、見つからないはずである。
たまたま私が気が付いたのだが、一度車に乗ってエンジンを掛けた後で忘れ物に気が付いて家に戻ったのだが、忘れ物を捜しているうちにエンジンをかけたことを忘れてしまったらしいのだ。
散々奥さんを怒鳴り散らした後だったので、旦那はコソコソと出かけて行ったのだが、その後にことは知らない。
実は私も似たような事があったのである。
或る物を買った時に、店員の説明を聞き違えた為に「付いて無い」と思い込んでしまった物が、箱をばらしていて見つかったのである。
「無い」と思い込んでいなければ箱の重さで気が付いたと思うのだが、「無い」と思い込んでいたので気が付かないのである。
このようなことは様々なキッカケで起きるのだが、一度思い込んでしまうと中々抜け出せないもので、気を付けなくてはいけない。
「常識のウソ」と言うのも同じ様な事で、一度間違った情報が「常識」として広がってしまうと、それを修正する事は極めて困難な事で、今の情報化社会では、一部の企業などが「意図的」自分に都合の良い情報を流すので注意が必要で、一度「思い込まされる」と言う状態になると、後は企業の「思う壺」と言う事になる。
企業が大きくなればなる程「広告宣伝費」にお金をつぎ込む事が出来る為、より多くの宣伝をして「お客の頭に自社製品を刷り込む(一種の洗脳)」と言うことをするようになる。
多額の契約金を払って有名人を宣伝に使うのはこの為で、有名人の人気を利用した「便乗商法」と言えるだろう。
悪い言い方をするならば「一種のトリック」なのだが、その事に気が付く人は少ないだろう。
特に「売れているものはよい物だ」と言う「先入観念」を持ちたがる日本人は「格好の獲物」と言う事になってしまうのだが、当の本人が気が付かなければ「知らぬが仏」と言う事になるのだが、それ以上に困った問題がある。
「大量に商品が売れる」と言う事は、「企業の儲け」も増えることになり、当然の結果として「多額の企業献金」をするようになるのだが、企業献金は「慈善事業」でするわけではなく、何らかの「見返り」と言うものが「暗黙」のうちに求められている。
つまり、「間接的に政治を動かして自分に有利になるようにしている」と言う事になるのであるが、こんな風に考えるのは、私のようなへそ曲がりな人間しか出来ないのかもしれない。
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テレビゲームの危険性に思うこと

2008年03月26日 03時25分27秒 | Weblog
インベーダーゲームあたりから盛んになったテレビゲーム、大人も子供も夢中になっているようだが、その陰に潜む危険性に気が付いていないようである。
私は全く関心がないので、「一体どこが面白いの?」と言った感じなのだが、好きな人に言わせれば「こんな面白い物はない」と言った返事が返ってくるであろうが、私が関心を持たない理由は「遊んでいる」と言うより、「遊ばされている」と感じるからで、一種の「中毒(依存症)」に罹っているようなものではないだろうか?。
お酒やタバコ等と同じ様に、知らないうちに中毒(依存症)になり、後になってから様々な悪影響がでてくるのだが、その事に気が付く事は極めて稀なことではないだろうか?。
私自身、タバコは吸わないのだが、お酒は結構強い方で、若い頃はバカ飲みもしたものだが、十数年前にある事がキッカケでやめました。
そのキッカケとは、飲んだ翌日の朝に感じる「虚しさ」である。
私の場合は、酔いが醒めた後に感じる「虚しさ」の為にお酒をやめたのですが、「虚しさを紛らす」為に飲み続ける人もいるでしょうが、その結果として健康に悪い影響が出ることは考えていないでしょう。
さて、本題の「テレビゲームの危険性」なのだが、「遊んでいるつもりが、遊ばされている」と言うように、物事に対する考え方が「受動的」になり、与えられた情報以外に考えが及ばなくなり、ゲームの世界と現実の世界の違いが解らなくなってしまうのである。
今回の「無差別殺人事件」などはその典型ではないだろうか?。
「人間は欲望の動物である」と言った人も居るように、「常に新しくより強い刺激を求める」という悲しい「人間の性」を考えると、中国製食品の危険性よりも、テレビゲームの危険性のほうが「遥かに高い」ように感じてならない。
問題は「事件を引き起こす」と言う事だけではなく、「正常な人権関係を構築出来ない」「学力(知識・応用力)の低下」「体力、忍耐力の低下」・・・・と、広範囲に及ぶだろう。
「テレビゲームだって結構頭を使う」と言う方もいると思うのだが、どれ程テレビゲームが発達したとしても、「所詮は人間が考えた物」でしかなく、自然界で日常的に起きる「想定外」と言う事は起きるはずもなく、孫悟空がどんなに暴れまわっても、所詮は「仏の手の平の中だった」と言うのと同じ事だろう。
テレビゲームでは、リセットすれば始めからやり直す事も出来るだろうが、現実の世界では「リセットして始めからやり直す」などと言う事は出来ることではない。
今回の事件に対する様々な批判を聞いていると、何となく「テレビゲーム的な考え方」のように感じてならないのだが・・・・。
その一方で「警察の対応」については、現状の組織(人員的なものも含めて)を考えると「テレビゲーム的対応(想定外の事には対応出来ない)」になるのは仕方ないのではないだろうか?。
警察の対応を批判するより、「テレビゲームの危険性」の方を問題にするべきだと思うのだが・・・・。
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結果論

2008年03月25日 04時01分14秒 | Weblog
テレビなどの「ニュース報道」を見ていて気になるのが、「結果論で批判する」と言うことが非常に多い事である。
「結果が出てからあれこれ批判する」と言うことは、誰にでも出来ることで「専門家が言うせりふ」ではないと思うのだが・・・・。
今回の無差別殺人事件でも「制服の警察官を・・・・」と言うことが言われていたが、制服の警察官を配置した場合には、「警戒して別な場所で犯行に及ぶ」と言う可能性も考える必用が有ると思うのだが・・・・。
被害に遭われた方には申し訳ないのだが、「事件を未然に防ぐ」と言う事は非常に困難な事で、軽はずみに「結果論で物を言う」と言う事は慎みたい物である。
9・11事件を始めとする「テロによる破壊行為」を見れば解るように、事件を起こす側は「厳重な警戒網」をくぐって事件を引き起こすのであるから、どの様な警戒網を引いたとしても「これで十分」と言う事は無いであろう。
厳重な警戒をしているにも拘らず、各国で「首脳やそれに類する人」が命を落とし
ている事実から考えてみても、「警備」と言うものがいかに難しい物かわかると思うのだが・・・・。
「現場の警察官が犯人に気が付かなかった」と言うことも、「髪型を変えていた」と言うことから考えると、責めるのは可哀相な気もするのだが・・・・。
我々だって「普段と違う格好だったので気が付かなかった」と言う事は良くある事ではないだろうか?。
中国製の毒入り餃子事件に端を発した「中国製食品の危険性」ばかりが問題になっていたが、「危険に遭う可能性」はどこにでも有ると思うのだが・・・・。
市民一人一人にボディーガードを付けたとしても、完全に事件を防ぐ事は難しいだろうし、ましてや、「誰でも良いから人を殺したかった」と言うのでは、手の打ちようもないのでは?・・・・。
単に「運が悪かった」と言うより、「そうなる運命だった」のかもしれない。
変な話であるが、昔、旧国鉄の三河島駅で起きた列車事故での事だが、私の知り合いの父親が「九死に一生を得る」と言うことが有ったのを思い出した。
通勤で毎日のように事故を起こした電車に乗っていたのだが、たまたま事故が起きた日に「出掛けに奥さんとけんかをしたために乗り遅れてしまった」と言うのであるが、似たような話はどこにでも有ると思う。
周りに多勢の人がいたにも拘らず「ナゼあの人たちが?」と言う気もするのだが、これも「運命のいたずら」なのだろうか?。
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情報依存症  (その陰で密かに進む情報操作)

2008年03月24日 14時47分07秒 | Weblog
一般に「情報操作」と言うと、共産圏でよく行われる「国家による報道管制」を思い浮かべる人が多いと思うのだが、ここで言う「情報操作」は、「企業の営利目的」と言うことで、全く違う意味である。
私のブログも含めて「無料で閲覧できる」と言うサイトが氾濫しているのだが、「タダほど高い物はない」と言う言葉を思い出して欲しい。
私のブログは「全く営利を目的にはしていない」ため、ブログを閲覧する際に出てくる広告をクリックしたとしても、私には全く広告料は入ってこないのであるが、一部には「広告料稼ぎに密かに商品の宣伝をする」と言うブログもあるので気を付けなくてはいけない。
だが・・・、それ以上に気を付けなくてはいけないのが「無料で見られる動画サイト」などの「無料サイト」である。
「大規模に運営されているサイトの運営費」は一体どこから出ているのだろうか?。
「慈善事業や社会奉仕」などと言う事はとても考えられない事から、「何らかの利益がある」と考えた企業が資金を出して運営していると考えるべきで、其処には「巧妙なワナが仕掛けられている」と考えた方が良いだろう。
「巧妙なワナ?」とは・・・・、あまり良い表現ではないのだが「美女は三日見ると飽きるが、ブスは三日見ると慣れる」と言う事と同じ事で、繰り返し見ているうちに感覚が麻痺してしまい、「知らないうちに企業にとって都合の良い情報が刷り込まれる」と言う事になってしまう。
「刷り込み」と言うのは、「鳥の雛は生まれて始めてみる動く物を親と思い込む」と言う性質と同じで、本人が意識しなくても「知らないうちに企業に利用されてしまう」と言う事になるのである。
この事は、日頃私が言う所の「民放は受信料としてではなく、スポンサー料で成り立っている」と言うことと同じで、「タダで見られる」と言う陰には「巧妙なワナ」が仕掛けられているのである。
「国家による情報操作」にしても、「企業による情報操作」にしても、「情報を操作する側の利益」のみが考えられ、一種の「マインドコントロール(洗脳)」と考えるべきではないだろうか?。
次々と新しい商品が開発され、新製品もすぐに旧型になってしまう時代は、バブルの頃の「大量生産大量消費」と大差ないのではないだろうか?。
省エネ・省資源が叫ばれている時代に、ナントも矛盾した話だと思うのだが・・・・。
「レジ袋の削減」程度の事がニュースになっている事を考えると、「すでに洗脳されてしまった」と考えるべきかも知れないのだが、別の見方をするならば「国民性?」なのかもしれない・・・・。
ナンとも困った問題である。
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情報依存症

2008年03月22日 03時42分04秒 | Weblog
最近ネット上で様々な動画が人気を呼んでいるようなのだが、私から見ると「情報依存症」と言う言葉がピッタリするように感じるのだが・・・・。
昔と違って簡単に撮影出来る機材の発達により、「誰でも簡単に撮影が出来る」と言う事と、「ネットで公開する」と言うことも出来る為、誰でも簡単に「情報発信者」になれるようになった。
そのため、従来の「記者が取材をする」と言う限られた情報と違って、「マイナーな情報」が多くなり、その分だけ選択肢が増えたことで「関心度」が高まったのだろうが、私から見ると「関心度が高まった分、それ以外のことに関心を持たなくなった」と言う弊害が出ていると思うのだが・・・・。
「ネット上の動画を楽しむ」と言う事は、「好きなお菓子を食べる」と言うことと同じで、情報(栄養)の偏りによる各種の弊害が起きてくると思うのだが・・・・。
「人はパンのみに生きる物にあらず」と言った人がいるが、パン(食事)だけでは味気ないために「その他の物(お菓子や果物)」も必要になるのだが、アクまでも主役は「パン(食事)」である事を忘れてはいけないだろう。
しかしながら、最近の若い世代では「お菓子ばかり食べて、食事をしない」と言う人が増えているようで、いずれはそのしっぺ返しが来る事になるのだが、その時になってから慌てても遅いのだが・・・・。
「苦あれば楽あり、楽あれば苦あり」と言うように、楽しい事ばかりを追い求めていれば、いずれは苦しむ事になるのだが、その時になっても「その原因は自分自身にある」と言う事に気が付く人は少ないであろう。
「若い時の苦労は買ってでもしろ」と言う言葉は、最早「死語」になってしまったようで、先が思いやられる。
一生キリギリスのような生活が出来る人も居ない訳ではないが、「例外的」と考えるべきで、遅かれ早かれ行き詰まることは確かである。
タイトルに「情報依存症」と書いたのだが、特別情報に限った事ではなく、「何かに付け依存する」と言う体質になっているようである。
「何かに依存する」と言う事は、酒・タバコ・薬物などの依存症を見れば解るように、其処から抜けだすことは「非常に困難」と言わざるを得ない。
私の場合も、ある意味で「趣味に依存している」と言うことが言えるのだろうが、それでも、若い頃は「最小限」で我慢をして、本格的に始めたのはリタイアしてからのことです。
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内容を一部訂正します

2008年03月20日 18時53分42秒 | Weblog
「都道府県の位置を地図の中から探す」と言う記事で、「一般の人を対象に・・」と言う部分は「高校生・・」の間違いでしたが、「大学生ですら5%の人が東京に位置を知らない」と言うのです。
宮崎県の位置も33%の大学生が知らないと言う。
自分の住む国の事でさえこの程度なのだから、海外のことなど知るはずもないだろう。
何故このような結果になるか考えてみると、情報化社会と言われているのだが、肝心の情報が「視覚的な物に偏っている」と言うところにあるのではないだろうか?。
一般的には「地図は見るもの」と言う考え方が多いようだが、私などは「地図は読むもの」と教わってきた。
昔は多少山登りもした事があるのだが、山の中で道に迷った時には「自分が現在いる場所を地図の中から探す(読み取る)」と言うことが必要になるが、教わって覚えた物ではなく、「少しずつ経験をして覚えた」のである。
TVやネットばかりでなく「ワンセグ」と言う形でも「視覚的情報」が次々と送られては来るのだが、この「視覚的情報」と言うものには「一過性」と言う弱点を抱えている事に気が付いて欲しい。
「若者の活字離れ」と言うことが囁かれているのだが、「印刷された文字」には「一過性」と言う弱点はなく、必要と思う部分は何度でも繰り返して読むことも出来、「過去の部分に遡る」と言う事も容易なのだが、その事が重要視される事は少ないだろう。
私のブログを携帯で読んでおられる方も居ると思うのだが、「PCの画面で見る」のと「携帯の画面で見る」のとでは、受ける印象がかなり違うと思うのだが・・・・。(自分でも試して見たのだが、文字数が多いため「いまいちピンとこない」と感じるのだが・・・・)
「視覚的情報」にも良い部分は有るのだが、「一過性」と言う弱点のために、「自分なりの想像(考え)をする」と言うことが難しいのだが、「印刷された文字」からは「様々な想像の世界」を作る事も可能であるし、「視覚的情報」の場合は「再確認」と言うことが難しく、仮の話「記憶に間違いがあっても気が付かない(ビデオにでも録画してあれば別だが)」と言う問題も発生するのだが、「印刷された文字」であれば「再確認」は容易な事で、「記憶違い」と言うことも少なくなる。
「地図は読む物で、見るものではない」と言うことと同じ様に、「情報は見るものではなく、読み取る物」と考えなくてはいけないのだが、便利な世の中になった現在では、「読み取る能力」も退化してしまったのかもしれない。
インベーダーゲーム以来、ゲームの内容が進化してきてはいるのだが、私に言わせるなら「どの様に進化・発達したとしても、『所詮は人間が考えた物に過ぎない』」と言いたい。
コンピューターがどれ程の進化・発達をとげたとした所で「自然現象を全て取り込むことは不可能」なのだから、ゲームの展開も自ずと制限されてしまう。
CGの発達により、「バーチャルリアリティー」と言う技術が発達してきているのだが、この事にも「所詮は『仮想空間』に過ぎない」と言いたい。
一つの例として、運転技術の確認に「シュミレーションによる運転」と言うことが行われているのだが、昔は「実写映像」が用いられていたものが、最近では「CG映像]に変わっているようなのだが、私の場合では「実写映像であれば問題はないのだが、CGだと反応に遅れが出る」と言う問題が出てくるのだ。
CGになじみがないため「頭の中でCGを現実の物に変換する」と言うことが必要になるためではないだろうか?。
CGがどれ程発達したとしても所詮は作り物でしかなく、「実物を越えることは出来ない」、と言う事に気が付いてほしい物である。

 
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木を見て森を見ず    9 (呆れた話)

2008年03月20日 02時52分09秒 | Weblog
NHKの放送の中で「都道府県の所在地を日本地図の中から探す」と言うことを、一般の人を対象に調査した結果が放送されていたのだが、正解率を見て驚いてしまった。
最下位は、東国原知事で有名な宮崎県の43%で、トップは、東京都の93%と言う結果(それ以外は記憶出来なかった)だったのだが、宮崎県の43%も問題なのだが、それ以上に問題なのは、日本の首都である東京の所在地がわからない人が「7%もいる」と言うことである。
これは「常識以前の問題」ではないだろうか?。
大人がこのような状態なのだから、子供の学力が低下するのは当然の話だろう。
国を代表する「国政の場」でも、似たような事が行われているのだから、日本の将来はどうなってしまうのだろう?。
国際性も先見性も無く、その上、「狭い国土で資源も乏しい」と言う日本の実情を考えると、今の若い人たちの将来は「相当の覚悟が必用」ではないだろうか?。
「アリとキリギリス」と言う話があるが、我々の世代は「アリ」で、今の若い世代は「キリギリス」ではないだろうか?。
「パラサイトシングル」などは、正にキリギリスそのもので、アリはキリギリスがいなくても何も問題は起きないが、キリギリスはアリがいなければ生きては行けないのだから、これから少しずつアリが減って行く事を考えると、日本の将来は大変ではないだろうか?。
ここで少し補足説明を、ここで言う所の「アリ」は、人やお金などの資産だけを言っているのではなく、「長い時間をかけて培ってきた技術(ノウハウ)や制度・仕組み」も含めた話である。
「ローマは一日にしてならず」と言う言葉もあるように、「長い時間をかけなければ習得できない事」も沢山あるのだが、その技術を習得する為には、「失敗の繰り返しから学ぶ」と言うことが必要になるのだが、「一度の失敗で挫折する」と言う人が増えていることを考えると心配でならない。
現代社会では、様々な事に「安全性」と言うものが求めれれているが、「過度に安全性を求める」と言う事は「諸刃の刃」になることも考える必用が有ると思うのだが・・・・。
何でもかんでも「危険だから」と言う理由で排除してしまうと、「危険に対応する力(能力)」が養われず、結果的に「危険が増大する」と言うことにもなってしまう。
子供が成長して行くためには、「新しい事に挑戦する」と言うことが必用なのだが、新しい事に挑戦する以上「ある程度の危険」が伴うのは仕方ない事で、インフルエンザの予防ワクチン」や、「各種の予防注射」と同じ様に考えるべきで、「小さなリスクで大きなリスクに備える」と考えるべきであろう。
「抵抗力を付ける」「耐性を増す」と言うのも同じことで、「過度の清潔志向がアレルギーを増やした」と言う説もあるように、何事も「過ぎたるは及ばざるが如し」である。
「情報化(禍?)社会」と言われているが、多くの情報は「売らんかなと言う商業主義」が発信している物が中心で、「一部分だけを強調」しているから気を付けなくてはいけない。
私のような「へそ曲がり的な物の見方」も必用な事で、「情報の裏に隠された事実」を見なくてはいけない。
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木を見て森を見ず    8 (モグラタタキ)

2008年03月19日 03時04分43秒 | Weblog
民主党の反対で新しい「日銀総裁」が決まらず、「総裁が空席」と言う異常事態に陥ってしまった。
自民党の出した候補に、色々とイチャモンを付けているのだが、まるで「モグラタタキ」と言った感じになっている。
急激な「円高ドル安」と言う事態に、ただでさえ大変な日本の経済の事など「どこ吹く風」と言った感じで、「ああ言えばこう、こう言えばああ」と言った事の繰り返しばかりしている。
このような下らない方法で政権を取ったとして、その後は一体どのようにするのであろうか?。
「ガソリンが25円安くなる」と言った程度のことで、「民主党を支持する」と言う国民がいること自体も不思議でならない。
「子供の学力低下」以前に、「日本と言う国家の学力低下」を問題にするべきだと思うのだが、今の日本にはそれを論議するだけの能力を持った人が居ないので、「論議自体が成り立たない」と言う事になり、「現状からの脱却」も難しくなる。
様々なメディアで、様々な人が、様々な意見を言っているのだが、「木を見て森を見ず(別な言い方をすれば『群盲象をなでる』と同じ)」と言った意見ばかりで、確かに言っている事自体は間違ってはいないのだが、全体を見渡して考えると、いささか、??、と言った感じがしてならない。
本来「自然の森」は、様々な樹木や草が共存して成り立っているのだから、人間社会も同じ様に「様々な意見」があって当然なのだが、多くの場合は「それぞれを独立させて考える」と言う事になるため「群盲象をなでる」と言う事と同じになってしまう。
四方を海に囲まれて、外国と接する機会が少なかった「島国」と言うことが「問題の根底に有る」ため、「問題を広域(多角)的に見る」と言うことが苦手なようである。
民主党を始めとする「野党」などはその最たる物で、視線の先にあるのは「与党だけ」と言う状態では、「建設的な意見」など望むべくもなく、「党利党略」だけの政党が政権をっ取ったとしても、一体何が出来るのであろうか?。
2008年度の予算、日銀総裁、ガソリンの暫定税率の廃止・・・・と、様々な問題が「未解決のまま山済み」と言う状態を、民主党はどのように考えているのだろうか?。

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昨日の続き(書き足りなかったので)    

2008年03月18日 02時58分53秒 | Weblog
授業の内容についてもユニークな物が多く、物理の授業では「先生の質問が解った者」が手を上げても先生は無視をして、「手を挙げない者」の中から指名して、「何処がわからないのか」を聞き、次に「何故解らないのか」・・・・と次々に追求して行くのだが、「手を挙げれば指名されない」と思って手を挙げると、先生は承知していてその人を指名する。
試験も、「授業で教わった問題」がそのまま出る事は殆ど無く、「応用問題」が中心で、たとえ答えが間違っていても「問題の習熟度」によっては、「ある程度の点」が付き、答えは合っていても「解き方に問題がある」と言う場合は減点されることもある。
生物の試験では、「問題を作った先生でも満点は取れない」と言うような設問(たとえば、「地球上に存在し得ないような大きさの植物が存在しない理由」を要求する)も有り、「応用力と言うよりも推理力」も必用になる(私は一度、独創的な答えで満点をもらった事があるのだが・・)。
更に、中学・高校の6年間で「7年分」の勉強までしなくてはならないのである。
エッ?と思う人もいるだろうが、高校2年終了までに6年分の授業を終わらせて、高校3年は大学受験に備えた「受験勉強」に明け暮れるのである。
私が中退した高一の10月ごろには、一部の学科は高二の授業に入っていたのである。
ただでさえ難しい授業が、1.2倍の速さで進むのだからその苦労は並大抵の物ではない。
ここまででも驚かれた人が多いと思うのだが、まだまだ先があるのである。
これまでの話から連想すると「授業日数も多い」と思われるかもしれないが、実はその反対で「授業日数が少ない」のである。
中間テストは、確か5日くらいかけて実施され、その後には「試験休み」と言うものも有り、期末テストに至っては「月の前半に終了(6日に終わった事もある)」して、その後は試験休みに入り「そのまま、夏休み・冬休み・春休みになる」と言った按配で、それ以外にも、「秋の文化祭(運動会も含めて)で1週間の休み」と、受験シーズンには「近くの大学の受験会場に使うために2日の休み」などと、休みだらけなのである。
こんな状態でも立派に卒業して、「超一流大学に現役で合格」する人たちの頭の中はどうなっているのであろうか?。
当然の話かもしれないが、卒業生の中には、国会議員、大学の教授、一流企業の社長・重役、・・・・と、多士済々の人だらけなのである。
私は自分の目で見てきているので解るのだが、一般の人には「想像も付かない世界」ではないだろうか?。
放送の中に、早稲田大学の教授が出ていて発言していたのだが、ナント無くこの事を言いたそうな感じがしたのだが・・・・、私の思い過ごしであろうか?。
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