へそ曲がりおじさんのひとり言

常識にとらわれるのが嫌い。
他人と同じ事が嫌い。
世の中、別な角度から見ると新しい物が見えるから。

孤独死予備軍

2010年08月26日 04時23分45秒 | Weblog
こんな事はブログで書くべきではないかもしれないが、近頃100歳を超えた高齢者の所在が確認できないことが問題になっているのだが、それ以外にも「孤独死」と言うものが問題になっている。
私もその一人なのだが、核家族化が進んだ現代社会では「一人暮らしの高齢者」が増えるのは仕方のない事で、その上近所付き合いが減っている事を考えれば「孤独死が増えるのは当然」だと思わなくてはいけないだろうし、それを防ぐのも「難しい問題」だと思わなくてはいけないだろう。。
私のブログに何度か登場している、近所の89歳になるお婆さんが先日亡くなったのだが、一人暮らしで「100歳まで生きる」と頑張っていたのに、突然体調を崩し、入院して1週間余りで亡くなってしまった。
このお婆さんの場合は、体調を崩した段階で子供や孫が看病しに来ており、運が良い方かもしれないが、一歩間違えば「孤独死」と言うことにもなっていただろう。
さて、タイトルの「孤独死予備軍」とは私のことで、68と言う年齢を考えれば「ゴール?はちかい」と考えるべきで、最近「死」と言うものを意識する事が多くなっている。
ここで問題になるのが、「団地全体が高齢化して近所付き合いがなくなった」と言う事で、私が突然死んだとしても、直ぐに気が付く人はいないのではないだろうか。
しかし、よくある「白骨化して見つかる」と言う事も可能性としてはあるだろうが、私の場合は低いと思っている。
何故低いと言えるのかと言うと、「朝刊夕刊とも新聞を取っている」と言う事と、新聞配達の人とも顔見知りになっており、何かの都合で数日でも留守にする時は新聞の配達を止めてもらっている事もあり、「郵便受けに新聞が溜まる」と言う事は「異常事態?」と思ってもらえる可能性が強いからである。
しかし・・・・、新聞を取っているのはこのためではなく、ネットが発達して「情報はネットで見られる」と言って新聞離れが加速している中、私にとっては「新聞は重要な情報源」であり、「必要不可欠な存在」だからなのである。
この「必要不可欠な存在」については異論もあるだろうが、次に私なりの考えを書いてみることにしよう。

本題とはかけ離れた話になってしまうが、「種の多様性」が論議され、様々な生き物の存在が重要視されているように、「情報の多様性」と言うものも重要視する必要があるのではないだろうか。
ついでに言うなら、毎日の食事にも「1日に○○品目を・・・・」と言われるように、全体のバランスをとる事が重要で、一部に偏る事が様々な弊害を起こすことが心配されている。
そして、ネットの発達により「情報化社会」と言うものが構築されつつあるが、情報化社会では「速さ」ばかりが強調され、「ゆっくり時間をかけて考える」と言うことが疎かにされており、更には「興味本位」の情報?が幅を利かせており、かつて「テレビは人間を白雉化させる」と言われた以上に、デジタル化が「白雉化を更に促進させる」と考えるべきで、一度冷静になって考えてみる必要があると思うのだが・・・・。
情報化社会では「何でもかんでもデジタル化」と言うことになっているのだが、必ずしもデジタル化は万能ではなく、「アナログにはアナログのよさがある」と言うことを理解する必要があると思うのだが・・・・。
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民意に翻弄される政治

2010年08月22日 04時04分47秒 | Weblog
民主党の党首選びで、小沢一郎が立候補するかどうかが話題になっているようだが、何故菅さんではいけないのであろうか。
先の選挙の直前に消費税引き上げ問題を話題に取り上げ、結果として「選挙に大敗」したことが大きな要因になっているのだろうが、こんな事が原因で党首の首を挿げ替える事が「真の政治のあるべき姿」と言えるのだろうか。
民主党は昨年の選挙のマニフェストで「4年間は消費税を引き上げない」とは言っていたものの、「永久に引き上げない」とは言っておらず、いずれは引き上げなくてはならなくなることを示唆しており、そのためには「それ相応の準備期間が必要」だと言う事を理解しなくてはいけないのだが、選挙で票を失うことを恐れる「政治屋」たちは、「有権者の理解を得る努力」と言うものを全くしようとはしない。
これは私の個人的な考え方ではあるが、政治家とは「一般国民を正しい方向に導く指導者」であらねばいけないと思っているのだが、現実には、指導者ではなく「有権者の顔色を伺う風見鶏」に成り下がっている。
現実の話として「落選すれば職を失う」のであるから、「有権者の顔色を伺う」と言うことが最も重要なことになってしまうのは仕方ない?事で、結果として「長期の展望に立った政策」など立てることは不可能で、「目先の風(民意)で向きを変える風見鶏」にしかなれないのである。
この事を言い換えるなら「政治屋は有権者の操り人形」と言う事にもなり、操り方が悪いととんでもない事になるのは仕方ない事で、小泉以後、安部、福田、麻生、鳩山、菅・・・・と、短い間に次々と総理大臣の首を挿げ替えては見たものの、「どれも気に入らない」と思っている国民が殆んどだろうが、現実の話、現在の世界情勢を考えれば「誰が総理になっても結果は大同小異」でしかないだろう。
「民意を政治に反映させる」と言うと一見素晴らしい事のように感じるのだが、このように考えると、現実は、殆んどの民意は「我田引水型」でしかなく、自分の田により多くの水を引き入れてくれる政治家(屋)が「良い政治家」になってしまうのである。
かつて存在した「コメ議員」などがその典型的な例で、企業献金も「広い意味の民意」と考えるべきで、「見返りを求めない献金」など存在しないと思うべきで、広い意味で考えれば「有権者の票も献金の一種」と考えなくてはいけないだろう。
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今の時代に生きる幸せ

2010年08月18日 04時21分02秒 | Weblog
私は昭和17年の生まれであるから、終戦の時未だ3歳にしかなっておらず、当時(戦争)の事は全く記憶に無いのだが、最近とみに「今の時代に生きる幸せ」を実感するようになっている。
65回目の終戦の日(15日)に放送された「15歳の志願兵」と言うドラマを見た方は少ないかと思うのだが、このドラマを見るまでも無く、常に「この時代に生きていたならば私はどうなっていたのだろうか?」と言う思いに駆られてしまうのである。
この時代は「上官の命令は天皇の命令である」「お国のため」などと言う号令の元、あらゆる無理難題が押し通されていたのだが、これと同じようなことは現代社会でもまかり通っているのをご存知だろうか。
「まさか?」と思う方もいるだろうが、「上官」を「上司(上役)」に変え、「天皇」を「社長(経営者)」に変えれば全く同じ事になり、私が幾つもの会社を転々とした理由の多くが「上司の指示に異議を言う」と言う事が原因で、戦時中に上官に異議など言ったらどうなっていた事やら。
子供が戦争に対する疑問を言っただけでも「非国民!」と言われて迫害を受けるほどで、私のような人間が生きてゆくことなど不可能ではなかっただろうか。
しかし「今の時代」とは書いたものの、この「今の時代」は、「現在」ではなく「私が生きてきた時代」だということを書いておかなくてはいけないだろう。
つまり、私が生きてきた時代では「ある程度の年代になっても正社員になるチャンスがあった」と言う事で、上司と対立して退職しても新しい職は比較的簡単に見つかったのである(職を選ばなければの話だが)が・・・・。
しかし、今はどうであろうか・・・・。
「余りにも職を選びすぎる」と言う傾向も有るにはあるのだが、それを差し引いたとしても「職探しの大変さ」は目に余るものがあり、私など「路上生活者」になることは目に見えているだろう。
私より早く生まれた人は悲惨な戦争を体験し、私より後に生まれた人は、悲惨な戦争の苦労はしなくて済んだが「職探しや老後の暮らし」で苦労する事になり、何とも申し訳ないとは思うのだが・・・・、こればかりは自分で選ぶ事が出来ないのだから困った話である。
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「原爆投下の是非」について思うこと

2010年08月15日 03時04分13秒 | Weblog
広島・長崎に投下された原爆に関しては様々な論議がされているが、仮の話し「投下されなかった」としたらどうなったか考えたことがあるだろうか。
アメリカは「戦争を早期に終結させるために止むを得なかった」と言ってはいるのだが、その先の事まで詳しく触れる事は殆んどなく、「原爆投下の是非」ばかりが論じられている。
ここではその先の事に触れたみたいと思うのだが、それではなぜアメリカが「早期に戦争を終わらせたい」と考えたのかについても考えてみる必要があるだろう。。
アメリカが早期に戦争を終結したいと思う最大の要因は「ソ連の参戦」と考えるべきで、「日ソ不可侵条約」が守られていたなら原爆の投下も無かったのではないだろうか。
こう書くと「それではソ連が悪い」と言うことになってしまうのだが、必ずしもそうと決め付けりわけにも行かないだろう。
仮にソ連が参戦せず「原爆も投下されなかった」としても、当時の日本軍は「最後の一兵まで」と言う考えが基本にあり、アメリカ軍の本土上陸による「本土決戦」を視野に考えていた事を考えれば、「原爆投下よりもっと悲惨な状態」が日本中に起きていたのではないだろうか。
次に、ソ連が参戦した後も「原爆が投下されず戦争が続いた」と言うことを想定して考えて見ると、満州はすでにソ連軍の手に落ちており、やがては日本海側から日本を攻撃することになるだろうし、現実には北方からも北海道をうかがっている状態で、「アメリカ軍の本土上陸」どころか、「ソ連軍の本土上陸」と言う危機も迫っていた事を忘れてはいけないだろう。
そして、その先に待つ「北海道と東北がソ連軍の手に落ちる」と言うことも想像してみて欲しいものである。
実際は早期に戦争が終結した事により「アメリカの単独統治」と言うことになったのだが、仮の話し、ソ連軍が日本本土に上陸していたならば「米・ソ・中・韓四国の分割統治」と言う可能性も十分にあったことで、そのような事にでもなれば「日本の独立は不可能?」だったのではないだろうか。
現実にはアメリカによる単独統治だったため独立が認められ、時期は少し遅れたと言っても、「小笠原・沖縄の返還」も実現しているのだが、ソ連に奪われた「北方四島」の返還は未だに実現しておらず、「返還は夢のまた夢」と言った状態ではないだろうか。
このように考えてゆくと、広島・長崎に原爆が投下されなかったとしても、新たな問題として「日本本土にも朝鮮半島と同じ南北問題が発生する」と言うことも十分考えられることで、「被爆の悲劇」とは別の「悲劇」が起きていたと考えるべきで、どう転んだとしても「悲劇は起きていた」だろう。
このように考えて行けば行くほど、悪いのは原爆を投下したアメリカではなく、無謀な戦争をしかけ、「最後の一兵まで」と言う愚かな事を考えていた日本軍上層部が最も悪いのではないだろうか。
そして、そんな軍の暴走をとめる事が出来なかった日本国民にも大きな責任があると考えるべきだと思うのだが・・・・。
そして「戦争のない社会」を作りたいと思うのなら、最も最初にしなければいけないことは「一人一人の争いをなくす」と言うことだと思っている。
「戦争」とは、読んで字のごとく「戦い争う」と言うことに他ならず、国と国の争いの場合にだけ「戦争」と言う言葉を使い、それ以外の場合は「内戦・紛争・抗争・争い・・・・」などと使い分けているのだが、規模の違いで使い分けているだけで、その内容は「五十歩百歩」でしかなく、一人一人の争いがなくならない以上「戦争もなくならない」と私は思っています。
広島・長崎の人たちには申し訳ないのだが・・・・。
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「井の中の蛙」たちの争い

2010年08月12日 04時39分20秒 | Weblog
以前日本人を「井の中の蛙」と書いた事があるのだが、今の日本の政治を見ていると「井の中の蛙たちが争っている」としか見えない。
ここに坂本竜馬が現れれば「日本人同士で争っている場合かぜよ!」と言うのではないだろうか。
単純に考えれば、多くの人が「竜馬の再来を望む」と言うのもわからなくは無いが、しかし・・・・、である。
毎度同じことを書かなければいけないのだが、国の行く先を決める政治の場が「井の中の蛙たちの争い」になってしまうのは非常に残念な事ではあるが、現実の話「民意がそうさせている」と言わざるを得ないだろう。
多くの人は「政治に民意が反映されていない」と考えているようだが、有権者が言うところの「民意」とは、「自分たちの私利私欲を満たしてくれる政策」を実施してもらう事であり、この事は「未必の故意による賄賂の要求」でしかないのである。
このことを別の角度から見れば、我々有権者は「餌をくれる人のところに集まる鯉や白鳥と同じ」でしかなく、政治家(屋)たちは「有権者を集めるためのえさ探し」にしか気が回らず、将来のことにまで手が回らないのが実情であり、「金権腐敗政治」の元凶もここにあるのである。
単純に考えれば「民意を政治に反映させる」と言うことが出来る政治家は「良い政治家」「優れた政治家」と考えがちであるが、現実にはその正反対で、今の政治の混乱を招いた真の原因は、政治に「民意を過度に反映させようとしたこと」であり、「坂本竜馬の再来」を期待するのであれば、「消費税率引き上げ問題」を表舞台に持ち出した菅総理を褒め称えるべきで、それが出来ないようであれば「日本の将来は危うい」と思わなくてはいけないだろう。
ついでに言うなら、今の時代に竜馬が日本を洗濯しようとしたならば「一般市民を含めた日本全体」になるのではないだろうか。
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ハクビシンが捕まらない

2010年08月08日 04時00分55秒 | Weblog
アライグマを捕獲した事はすでに書いているのだが、姿を目撃しているハクビシンは全くわなにかからない。
数日前まではブルーベリーを食べに来ている事がわかっていたのだが、ここ3日間くらいは姿をあらわした兆候も見られず、このままいなくなってくれればよいのだが・・・・。
アライグマは3匹目を捕獲した事はすでに書いているのだが、その数日後に4匹目(7ヶ月くらいの子供)が捕まり、親二匹と子供二匹の家族で出没していたようで、とりあえずアライグマはいなくなったようだが、役場の人の話では、かなりの数が生息しているようで、一時的に退治したとしても、いずれは他所で増えたものが移ってくる可能性は十分あるだろう。
それにしても、アライグマを退治するまでは盛んに出没していたハクビシンだが、アライグマがいなくなったことですぐにも捕まると思っていたのに・・・・。
このままハクビシンも姿を現さなくなってくれればよいのだが、現実には相当数が繁殖していることがわかっており、いずれまた現れるのだろう。
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