へそ曲がりおじさんのひとり言

常識にとらわれるのが嫌い。
他人と同じ事が嫌い。
世の中、別な角度から見ると新しい物が見えるから。

終い良ければ全て良し?

2010年12月31日 04時44分50秒 | Weblog
昼間、今年最後のボーリングに行って来たのだが、久しぶりに良いスコアーが出た。

5月の終わりから6月にかけて「50ゲームの平均が208」と言う絶好調の時期があったのだが、何故かその後調子が悪くなり、今月は特にひどい状態だったのです。

何しろ、28日(火)までの50ゲームの平均が「158」なのだから嫌になるのだが、今日は一緒に投げた人が助けてくれた面も大いにあると思っている。

どんなスポーツでもそうだろうが、「メンタル」な部分が影響することは多く、一緒に投げる相手によっては「ゲームに集中できない」と言うこともよく有るのですが、何故か今日はそのようなことが無かったのです。

ストライクの数は「22」でそれほど多かったわけではないのだが、終わりの2ゲームが「連続でノーミス」だったことと、5ゲームで「ノーヘッド、0」、「オープンフレーム、5」は長いボーリング歴に中でも初めてのことなのです。

過去最高は「5ゲームで1,149」というのがあるのだが、このときはストライクが「35」も出たのだが、「ノーヘッド2回、オープンフレーム6回、ノーミス 1」で、今回に比べると安定性が欠けていたのである

「アベ200」には4ピン足らなかったのだが、今年最後の締めくくりとしては十分な結果で、来年も同じコンデションが維持できると良いのだが・・・・。

今年も残すところ後僅かになりましたが、私のつたないブログを読んでくださる方には感謝でいっぱいです。

最近は更新の回数も少なくなり、来年も余り多くは更新できないとは思いますが、できる限り頑張るつもりでいるので、来年もまたよろしくお願いいたします。

それでは、良いお年を・・・・。
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今日でブログを書き始めて丸4年

2010年12月25日 03時04分07秒 | Weblog
自分の感覚ではもっと前から書き始めていたように感じるのだが、実際は4年しか経っていない。

初めは「オカヤドカリ」のことを書くつもりで始めたのだが、それ以外のことも書くようになり、次第にまとまりがなくなってしまったが、1年半ほど過ぎたころ「オカヤドカリ」に関する部分を分離して新しいブログを立ち上げたのだが、これは言わば「ついで」でしかなかった。

そもそも、分離を考えた最大の要因は「新しい携帯のカメラの性能がよかった」と言うことで、そのカメラを利用して「花便り」を始めた「ついで」だったのである。

初めのうちは思いつくままに書いていたのだが、次第に書くネタが少なくなり、最近は書こうという気持ちはあるのだが、「過去の記事と重複する」と言う問題が多くなり、次第に更新が疎かになっているが、「日本を取り巻く環境の悪化」も大きな要因の一つになっている。

さて、今年も残すところあとわずかであるが、果たした新しい年はどんな年になるのであろうか。

私の予想では、正直な話「今年より悪くなる」のではないかと思っている。

「良くなって欲しい」と言う気持ちはあるのだが、現状を考えれば「無理な相談」と言った感じが強く、今から心の準備をしておいたほうがよいと思うのだが・・・・。

普段の私は「余裕があっていいですね!」と言われることが多いのだが、「年収200万円以下」の私に余裕などあるわけがないのだが、心の持ちよう一つで「精神的な余裕が生まれる」と言うこともあるのだろう。

悪い結果が出たとしても、「期待をしていた」場合と「期待などしていなかった」場合では精神的なダメージは大きく違ってしまい、それが普段の行動や表情にも表れるのだろう。

ついでに言うなら、「檜舞台から奈落の底に落ち、其処から這い上がる」と言う過去があることも大きな要因になっているかもしれないが・・・・。

父との対立から「高校1年で学校を辞める(中退)」と言うことになり、それからの10年間は「黒に近い灰色の時代」と言ってよく、私には「楽しい青春時代などなかった」と言ってよいだろう。

自殺を考えたことなど何度あっただろうか。

しかし「死にたいと思う気持ちがあるのにのに死ねない」と言う状況は、多くの人にとって「理解不能」なことだろうが、其処から這い上がれたことで「今の自分の強さがある」と思っている。

そして、何かのときに思うのは「あの時に比べれば今は・・・・」と言うことで、それがよい方向に作用しているのだろう。

更に、20歳を過ぎたころだったろうか、「幸せになりたかったら周りを見るな」と言うことをある高齢の人から教えてもらったのだが、今にして思えば「よいことを教えてもらった」と思っている。

「隣の芝生は青く見える」と言うように、周り(他人)のことはどうしても良く見えてしまい、その結果「自分が惨めになる」と言うことになり、その結果として「幸せになれない」のである。

どんなに些細なことでも「幸せに思える」ということは幸せなことなのだが、周りを見るとどうしても自分と比較してしまい、些細なことにも幸せを感じることが出来なくなり、その結果として「幸せになれない」のである。

ついでに言うなら、一般的には「丸い卵も切りよじゃ四角、物も言いよで角が立つ」と言われることが多いのだが、私は「四角い豆腐も切りよじゃ丸い、物も聞き(考え)よで角立たぬ」と思う方が幸せになれると思うのだが・・・・。
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上を向いて歩こう

2010年12月21日 05時41分01秒 | Weblog
と言いたいところだが、涙がこぼれないようにするときはいざ知らず、これからの時代、「上を向いて歩く」のは止めにしたほうがよいと思うのだが・・・・。

「上を向く」と言うことは、「上を見る」と言うことと同じで、「景気回復」「経済・科学技術の発展」もまた同じことだと思うのである。

しかし・・・・。

上を向いて歩くとどうなるか考えたことがあるだろうか。

「灯台下暗し」と言う言葉があるように、上ばかり見ていると足元が疎かになり、段差につまずいたり溝に落ちたりすることになり、その結果「大怪我」をすることもあるだろう。

今の日本がまさにその状態になっているのだが、欧米先進諸国もまた同じ状態に陥っているのである。

しかし、国民の殆どは「景気回復、雇用促進、・・・・」と、上を求めることばかりで、現実は厳しい状態に陥っていることが理解できていないのである。

それではいったいどうすればよいのだろうか。

人それぞれ考えが違うように、進むべき道も人それぞれで、「この道が正しい」と言えるような道は存在しないだろう。

一時的には正しいと思っても、進むにつれて条件は変わってしまい、気がつくと「シマッタ!」と言うことも数多くあると思うのだが。

「世界一の経済大国」と言われていたアメリカでさえ陰りが出ているように、「栄枯盛衰」はどうしようも無いことで、いい加減で現状を受け入れたほうがよいと思うのだが・・・・。

ついでに言うなら、発想の転換を図ることも必要だと思うのだが・・・・。

「発想の転換」とは、いい加減で「給与の引き上げ」などと言う愚か?な事をやめて、逆に「給与の引き下げ」を実施すればよいのである。

単純に考えると「給与の引き下げ=生活の困窮」と言うことになるのだが、「給与を引き下げると同時に物価も引き下げる」と言うことになれば、「生活水準は変わらない」ばかりか、「製品の国際競争力が強まる」と言う利点も出て来る。

しかし、物価が下がることによって「資産価値も上昇する」と言う利点も出てくるのだが、逆に「借金(赤字国債も)の負担は重くなる」と言う欠点も出てくるのが問題である。

中国が「世界の製造工場」と言われたのも「給与水準が低い」と言うことが根底にあったためで、急速な経済成長とともに「給与水準も上昇」してしまい、次第に国際競争力が失われていることを学ぶべきだと思うのだが・・・・。
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一票の格差について

2010年12月17日 05時25分58秒 | Weblog
「都市部と地方で一票の価値に差がある」と言う訴えに、「違憲である」と言う判決が出たようだが、私は「もっと差をつけろ」と言いたい。

何故そのように思うのかと言うと、一票の格差を問題にする人たちは「それ以外の格差には目もくれようとしない」からである。

確かに、選挙だけを考えれば「一票の格差」は歴然としているだろうが、世の中は選挙だけで成り立っているわけではないことに気がつく必要があるだろう。

そもそも、「一票の格差」が生まれる原因は、「地方から都市部へ人が移動した」と言うことが原因で、何故そのような現象が起きるか考えてみるがよい。

最大の理由は「不便で貧しく暮らしにくい」と言うことがあげられるように、生活環境(インフラ)、給与水準、・・・・と、選挙における「一票の価値」以外はみな地方のほうが大きな格差を抱えているのである。

しかし、都市部にいる人たちは「数を後ろ盾に裁判を起こせる」が、数の上で劣る地方にはどうすることも出来ないのである。

このことを別な言い方に変えると「数の暴力」と言う言い方も出来るのだが・・・・。

次に、全く別な視点から考えてみようと思う。

全く別な視点。

それは、「都市部と地方を完全に隔離してしまう」と言うことである。

このように、両者を完全に隔離してしまうとどうなるであろうか。

「隔離する」と言うことは、人の流れも物流も完全に「遮断する」と言うことで、このことを真剣に考えれば「都市部が如何に地方に依存しているか」と言うことがわかるであろう。

実現は不可能な話ではあるが、仮の話し、都市部と地方を隔離してしまうと「地方は貧しいながら自給自足で生きてゆける」のに対し、「都市部は食料難で餓死する」のが関の山である。

食料以外にも、都市部で大量に発生する「二酸化炭素」も、地方にある森林がなければ浄化することは難しく、飲料水だって、「地方にあるダムが頼り」の状態では、都市部の人間が以下に我侭かがわかるだろう。

このように、普段は全く意識しない部分で地方に依存していることがわかるのだが、現実は、あたかも「空気のような存在」としか見ていないのである。

このように、人間社会は「人間だけでは成り立たない」と言うことを認識する必要がある。

このように考えれば「一票の格差」など問題にするほうがおかしいことで、議席の配分は「土地の面積に比例させる」「各都道府県に同じ数の議席を与える」などの方法がよいと思うのだが・・・・。

ついでに言うなら、一票の格差に文句を言う前に「地方に住んで見ろ!」と私は言いたい。
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国際学力調査

2010年12月08日 04時44分45秒 | Weblog
低下傾向にあった日本の児童の学力が「下げ止まった」と言うような発表があったが、この先回復の見込みはあるのだろうか。

私の見立てでは「望み薄」ではないかと思っているのだが、その理由を少し書いてみようと思う。

いろいろな要因が考えられるのだが、日本は「島国」だと言うことも大きく影響しているように思えてならない。

次に、「先進国と大きく離れたアジアの一角にある」と言うことも大きく影響しているだろう。

島国であるが故に「異民族からの侵略を殆ど受けたことがない」とともに、「アジアではもっとも発展している」と言う、一種の「自惚れ」も災いしているだろう。

「島国」を別な言い方で表すと「井の中の蛙」とも言えると思うのだが、「井の中の蛙大海を知らず」と言うように、世界が「地球規模のグローバル化(国際化)社会」になりつつある中、日本人の多くが世界を積極的に知ろうとせず、進出もしようとしていないのである。

政治の世界もまたしかりで、グローバル化・国際化などお構いなしに「枝葉抹消の問題で争っている」のだからどうしようもないであろう。

親にしてもまたしかりである。

本来であれば「親が身に付けさせなければいけない基本的な躾」までおも学校に押し付け、それでも飽き足らぬように「モンスター」「クレーマー」と化しているのである。

以前「政治の腐敗は有権者(国民)の責任だ」と書いたように、「児童の学力低下は親の責任」だと言うことを素直に受け入れる必要があるだろう。

一部(大多数かもしれないが)の人は「勉強は学校でするもの」と考えているようだが、私は「本当の勉強は家庭(社会)でするもの」だと思っている。

このような考え方の違いが出るのは「勉強」と言うものの捕らえ方が違っているからで、多くの人が考える「勉強」は、「狭義(狭い意味)の勉強」であって、国語、算数、理科、社会などを学ぶことだけが勉強だと思っているのだろう。

しかし、「勉強」と言う言葉を別の言い方で現すと、「学ぶ」「学習する」と言う言い方も出来、「学ぶところ」と言う意味で「学校」と言われているのだが、学校以外でも学ぶものは沢山あるはずである。

しかし、本来家庭で学ぶべきことまで学校に押し付けては、「学校で学ぶべき本来の勉強をする時間が足りなくなる」のは仕方のないことで、その結果として「学力の低下」と言うことも起きてくるのである。

一つの参考例として、数日前と今日の昼間起きたことを書いてみよう。

数日前のことは、未だ1歳になる前くらいの男の子を乳母車に乗せて家の前を通っかかったお母さんのことだが、男の子は私の姿を見つけるとうれしそうに手を振っており、私が「こんにちわ」と言うと小さな頭を下げて喜んでいたのであるが・・・・。

お母さんは一瞬足を止めはしたのだが、すぐに子供の様子を無視して歩き始めてしまったのである。

子供はその後もしきりに振り返って私のほうを見ているのだが、お母さんはそんなことには目もくれず歩いて行ってしまったのである。

一方、今日の昼間に起きたことはボーリング場でのことだが、小学校4年くらいの男の子を頭にした「3兄弟」の話である。

私が知人と一緒にボーリングを始めようとしたところ、母親と一緒に来ていた3兄弟が私たちのところへやってきて「コツを教えてください」と言うのである。

そこで知人と少し教えてあげたのだが、お母さんは「申し訳ありません」と言うのだが、子供たちの礼儀はきちんとしており、帰るときには3兄弟そろって何度も「ありがとうございました!」と挨拶をしていたのだが、母親も少し離れた所で頭を下げていたのである。

最近は他人とのかかわりを嫌う風潮が強いのだが、他人とのかかわりから学ぶことも多いことも知っておく必要があると思うし、全てがそうだとは言わないが、積極的に他人とのかかわりを持つ子の方が何事にも前向きで、社会に出てから大いに役立つと思うのだが・・・・。

そして、「学力低下の心配」も少ないと思うのだ。
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上に立つものの苦しみ(自業自得だが)

2010年12月04日 03時59分19秒 | Weblog
実現困難なマニフェストを並べ立てた民主党に期待をかけた人も多いだろうが、余りにもひどい結果でさまざまな批判が渦巻いている。

何故このような結果になるか考えた人は少ないようで、甘言に踊らされた自分自身の責任にはまったく気づいていないのである。

私は政治に期待していないので良くわかるのだが、民主党に限ったことではなく、政治の世界に足を踏み入れようとする人の多くは、大なり小なり「人の上に立ちたい」と言う願望を持っている。

私にはその気がないので町会議員への立候補要請を断っているのだが、断る理由がもう一つある。

その理由とは、「上に立つものの苦しみ」を身にしみて知っているからで、私はその苦しみを背負いたくないのである。

民主党が並べ立てた「実現困難なマニフェスト」は、「上(頂点)に立ちたい」と言う一心から出たもので、「言うは易し、行うは難し」は承知の上だったのではないだろうか。

ついでに言うなら、政治家も芸能人も「所詮は人気家業」だと言うことに気がつくべきだろう。

「政治家」「国会議員」などと言うと、いかにも特別な人のように思えるだろうが、所謂「小泉チルドレン」「小沢チルドレン」などと言われる人たちを見るがいい。

彼らが当選した最大の理由は「人気政治家の人気にあやかった」と言っても過言でないように、「人気が有るか無いかで当落が決まる」のだから、所詮、「芸能人と同じ人気稼業」でしかないのである。

このように、一時的な人気で当選したとしても、「次の選挙のときまでその人気を維持するのは大変なこと」だと言うことは言うまでもないだろう。

ましてや、野党だった民主党が自民党から政権の座を奪おうとすれば「相当思い切った人気取り政策(実現困難なマニフェスト)」が必要だったことは言うまでもないだろう。

このような状態の中で生まれたマニフェストであるから、古来「無理が通れば道理引っ込む」と言われるように、まともな政治など期待するほうがおかしいのである。

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百合さんコメントありがとう

2010年12月02日 05時23分10秒 | Weblog
しばらく書くことが億劫になっていたのだが、久しぶりに百合さんのコメントで書く気になって来ました。

百合さんが言うように、テレビに限らず、ラジオ、新聞、インターネットなど、「メディア」と言われるものから発せられる情報は「結果から導き出された批判」でしかないのである。

これは所謂「結果論」であって、「結果論などいくらしても無駄なこと」ではないだろうか。

私が最も重要視することは「その結果が出るまでのプロセス」で、それを無視した批判論(結果論)など「百害あって一利なし」だと思っている。

冷静に私のブログを読んでくださっている人ならわかると思うのだが、私は民主党政権が誕生するより遥か前にこのブログで「現在の民主党の姿」を予測しているのだが、これは「アメリカのオバマ政権」にも言えることなのである。

私は政治に無関心ではないのだが、正直な話、40年間「選挙権の行使(投票)」はしていない。

「選挙権の行使」を、「国民の権利」だと言う人もいる一方で、「国民の義務」だと言う人もいるが、私にとってはどちらだろうと余り気にはしていない。

何故そのように考えるかと言うと、仮の話「国民の権利」だと考えれば、「権利を行使すれば義務が発生する」と言うことになり、「義務」だと考えれば「権利」が発生することになる。

しかし、国民(有権者)の殆どは「権利は主張するが義務は無視」と言った風潮が強く、国民の考え(民意)がこのような状態では「政治が良くなるはずもない」のである。

しばしば「政治に民意が反映されていない」と言われるのだが、私に言わせれば、今の政治の乱れは「民意が反映された結果」でしかなく、私利私欲に目がくらみ「我田引水的な考え方」をしていてはどうしようもないであろう。

さて、選挙権の行使をしない私であるが、変な言い方をするなら「選挙権の行使をしないからこのようなブログが書ける」とも言えるのではないだろうか。

ついでに言うなら、それ相応の税金は納めているのだから「納めた税金に見合う程度のことはして欲しい」とは思っているが、これとて「完全に公平にするのは不可能なこと」だと思っているし、納めた税金の額を考えれば「これ以上を望んでは罰が当たる」と思っている。

更に、現在の財政状態を考えると「今以上に悪化するのは覚悟しなくてはいけない」と思っている。
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