へそ曲がりおじさんのひとり言

常識にとらわれるのが嫌い。
他人と同じ事が嫌い。
世の中、別な角度から見ると新しい物が見えるから。

天気予報は何故当たらないのか?

2007年11月21日 04時47分01秒 | Weblog
天気予報が外れて嫌な思いをした人は多いと思う。
天気(気象)は、普段の生活に密着しているだけに、外れると影響も大きい。
それだけ重要な問題なのだが、そもそも、「天気予報」という表現に問題があると思う。
正確に言うなら、「予報ではなく予想」と言うのが正しいと思うのだが。
昔から「予報」と言う表現が定着しているので、今更「予想」と言う表現を使うことは難しいだろう。
しかし、「予想」と言う表現になれば、受け取る側の「受け取り方」も違うのではないだろうか?。
「競馬、競輪、スポーツなどの勝敗を予想する」のと同じなのである。
「当たる事もあれば、外れる事もある」と言うのが現実である。
「何処が同じだ!」と言う人もいるであろう。
しかし、悲しいかな「天気予報」も「勝敗の予想」も、「未来を予測する」と言う意味で、同じ事なのである。
それでは、どの様にして「天気予報」が作られるのであろうか?。
基礎となる「過去のデーター」を基に、「確率」によって決められているといってよいだろう。
確率は、「未来の予測」である以上、100%と言う事は「有り得ない」。
ましてや、基礎となる「過去のデーター」自体が、「せいぜい数十年」と言うレベルでは「当たる方が不思議」かもしれない。
40億年余りの「地球の歴史」の中で、「同じ気象の日」など、「限りなくゼロに近く」無いであろう。
天気予報の精度は、「年々向上」してはいるが、高望みは難しいのでは無いだろうか?。
天気の事では、嫌な思い出がある。
今から50年以上前、私が中学生だった頃、私が家の近くに住む友人と、日曜日に釣りに行くと言う話を聞きつけた同級生が「俺も連れて行け」と言うのである。
彼の家は、歩いて1時間余りのところにあり、今と違って電話など無かった時代、「雨が降ったら中止する」と言う約束であった。
しかし、当日は皮肉にも、私の家の付近は雨。
当然「中止」したのは言うまでも無い。
しかしである、月曜日に学校で会った時、彼はカンカンに怒っているのである。
何と、彼の家から約束の場所迄は、「晴れていた」と言うのである。
4キロ余り離れただけで、「晴れと雨」。
特別珍しい事ではないのだが、日頃それ程仲も良くなかったので、私が「約束を破った」と思ったのである。
今では考えられない出来事であろうが、携帯は愚か「固定電話」さえ少なかった時代、良くあった事である。
家を出たら最後、連絡手段が無いので「同じ駅の反対側で待ちぼうけ」なんて事もよくあった。
今に比べて、不便ではあったが「のどかな時代」で、良かった様に感じる。
天気予報にしても、今ほど細かくはなかったので、ある程度は「自己判断」をするしかなかった。
その為か、予報が外れても「文句を言う人」は少なかった様に記憶している。
何事においても、「他人を当てにせず自己責任で」と言う傾向が強かったと思う。
私は現在でも、天気予報は「参考程度」にしか考えていない。
「未来の予測」など出来るわけは無いのだから。


コメント (3)
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