へそ曲がりおじさんのひとり言

常識にとらわれるのが嫌い。
他人と同じ事が嫌い。
世の中、別な角度から見ると新しい物が見えるから。

今年も残り僅か

2009年12月31日 19時41分50秒 | Weblog
このブログも4年目に入っているのだが、初期の頃と比べると書いている事が随分過激?になっていると思う。
出来得る事なら「明るい話」「希望のもてる話」を書きたいとは思うのだが、如何せん「ウソがつけない?性格」のために心を悩ませているのであるが、改めて今年一年を振り返ってみて、「歳を取ると一年が短い」言われるように、正に「アッ!と言う間」に過ぎてしまったように感じてならない。
この世に生を受けて67年と6ヶ月余り、思えば長い年月が経ったように感じるのだが、その一方で「アッ!と言う間」だったようにも感じるのである。
「少年老いやすく、学成りがたし」と言うように、67年余りの人生で一体何が出来たのだろうか。
正直に話せば「殆ど何も出来ていない」と言ってもよい状態で、「自分は一体何のために生まれてきたのだろうか」などと考える事もあるのだが・・・・。
良く「生きている意味がわからない」と言って悩む人がいるのだが、私に言わせれば、「自分が望んで生まれて来たのではない」のだから、「生きている事に意味を求める事自体に無理がある」と言っても良いと思うのだが・・・・。
「仕事をすることの意味」においても同じような事が言えるだろう。
単純に「仕事」と考えると嫌になる部分もあるが、原始時代には「生きて行くために必要な食料を探す」と言うことが仕事だったはずで、生きている以上「仕事をすることに特別な意味など無い」と思うのである。
私が子供だった頃には「働かざる物食うべからず」などと言うことがまだ言われていたのだが、この事からもわかるように「生きている以上働くのは当然」な事と考えるべきで、私のように働く事を止めた(正確には「仕事が無いので諦めた」のだが)人間は、昔であれば生きてはゆけなかったのだろうが、現代社会では「年金と言う蓄え」があるので助かっているのではあるが、それを支えているのが若い世代である事を考えれば「贅沢など言えない」と思っている。
若い頃には「年金など必要ない」と思っていた時期もあるのだが、今になって思えば「若気の至り」で、今にして思えば「払っておいてよかった」と思うのである。
さて、来年は一体どんな年になるのであろうか。
民主党政権になって良くなると期待している人もいるだろうが、私は全く期待はしておらず、むしろ、景気悪化の「二番底」「三番底」と言う心配もしておかなくてはいけないと思っている。
相変わらずの「悲観論」ばかりを書いているのだが、私にすれば「備えあれば憂いなし」と言うように、楽観的になって失望するよりはるかに良いと思うのだが・・・・。
「100を期待して50しか得られない」と言うことになればガッカリしてしまうだろうが、始めから「50しか期待しない」のであれば50でも問題は起きず、60にでもなれば「儲けもの」と思えるのではないだろうか。

4年目に入ったこのブログも、来年は少し「イメテェンをしてみようか」と思うのだが・・・・。
果たしてどんな事になるか「請うご期待」と言ったところであるが、今の政界のような「人気取り」にだけはならないように頑張るつもりであるが・・・・。
それではまた来年もよろしく。

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大荒れの一日

2009年12月31日 18時47分07秒 | Weblog
画像は今日の午後2時半頃のもので、白く見えるのは、雪ではなく「あられ(霰)」である。
朝から風の強い日であったが、これより30分くらい前までは太陽がまぶしいくらいよく晴れており、二階の南向きの部屋はまるで温室のようで、鼻歌交じりに花の手入れをしていたのだが、何やら雨が降っているような音に気が付き窓を開けたところ、俗に言う「天気雨」ならぬ「風花」が舞っていたのである。
この後急に黒い雲が西から増えてきて、強風とともに一時は吹雪のような状態であったが、それも10分ほどで収まってしまい、今は風も収まっているのだが、何となく今年一年の日本の姿を現しているようで、年明けを前にして「嵐の前の静けさ」と言う感じもしなくは無いのである。

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一票の格差

2009年12月29日 03時43分19秒 | Weblog
選挙のたびにと言ってよいほど「一票の格差」と言うものが問題になるのだが、私に言わせれば「もっと格差を大きくしろ!」と言いたくなってしまう。
憲法で「平等」と言うことが明記されている事は十分承知してはいるが、この「平等」と言う事は、あらゆることに適用されるべき物で、選挙における一票の格差だけに適用するのはおかしいだろう。
そもそも「一票の格差が生じる原因」はと言うと、「都市と地方の格差」と言うことに根本の原因があり、この格差は全く正反対なのであるが、この事は全く考慮されていないのである。
そして、私が常々思うのは「大都会は無くても地方は成り立つが、地方が無くては大都会は成り立たない」と言うことである。
「そんなバカな!」と思うかもしれないが、大都市に住む人たちが口にする食糧の殆どは地方で作られ、水にしても、地方に降った雨が無ければとても賄う事は難しく、空気にしても、地方にある森林によって浄化されているのである。
一方の地方はと言うと、贅沢な暮らしは出来なくなる(元々贅沢な暮らしなどしていないだろうが)かもしれないが、昔ながらの「自給自足の生活」に戻ればよいだけの事で、大都市が無いからと言って「生活が成り立たない」と言う事は無いのである。
このように、食糧、水、環境・・・・と、様々な分野で地方の恩恵を受けている事を考えれば「一票の格差」など口に出来ないと思うのだが・・・・。
私が考える理想?の選挙制度は、「議員の数は、流動性のある人の数ではなく、土地の面積で決める」と言う方法である。
この方法であれば、「都市部への人口の集中が減り、過疎地も減る」と思うのだが・・・・。
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憂鬱な今日この頃

2009年12月27日 04時30分46秒 | Weblog
特別今に始まったことではなく、小泉政権時代から顕著になり始めてはいたのだが、民主党政権になってからは更にひどくなってしまった。
歳をとって一人暮らしだと言う事も大いに関係してはいるのだが、それ以上に大きな原因は「日本の財政状況の悪化」と言うことである。
多くの有権者が民主党に「景気回復の夢」を託した事が「財政の悪化」に拍車をかけてしまい、日本の借金である「国債」が「雪達磨式」に増えようとしているのである。
「デフレスパイラル」と言う言葉があるが、これは正に「借金スパイラル」と言ってもよい状態で、いい加減で目を覚まさないと「借金地獄」に陥ってしまうだろう。
以前にも書いているが、国債の発行額が増えるに従い、「利払い」と言う厄介な問題が大きく立ちはだかり、ただでさえ不足している財源を圧迫するようになり、「その穴を埋めるために国債を発行する」と言う悪循環に落ちいてしまい、それにつれた日本と言う国の「国際的な信用」も失墜してしまうのである。
このように国際的な信用が失墜してしまえば「国債の引き受け手がなくなる」と言う事態に陥り、その先に待っている物は「発行済みの国債の償還が出来ない」と言う、所謂「債務不履行」と言うことになり、日本の財政は破綻してしまうのであるが、これは企業の倒産と同じ事で、一般家庭に当てはめれば「破産」と言うことになるのである。
私は18歳の頃と26歳の頃の2回、「高利貸しの取立ての現場」を目撃した事があるが、取り立て屋のあまりの酷さに目をそむけてしまい、その時に借金の恐ろしさを身に沁みて実感しているので、借金は出来る限りしないように勤めているのである。
毎年3万人を超える自殺者が出ているのだが、その中には「借金を重ねた末、多重債務に陥った人」もかなりいることからも、安易な借金の恐ろしさを理解する必要があるだろう。
かく言う私も、31で家を建てた直後に「第一次石油ショック」の荒波をまともに受け、努めていた会社が倒産と言う憂き目に会い、結果として住宅ローンの返済に窮した事があるが、そのときは生活の質を極限まで引き下げて乗り切ったものである。
どの程度まで引き下げたかと言うと、家での食事の多くは「袋入りのラーメン(5袋198円のときに買い貯めた物)に卵1個とモヤシを入れただけ」でしのいだのであるが、貧しい時代に育った私だからできることで、豊かな時代に育った今時の人には難しいかもしれないが、気を付けないと「否応なしに!」と言うことにならないとも限らないのである。
今在の日本の置かれている現状を考えると、「景気回復・日本の発展を望む」と言うことには、その裏に、このような危険が潜んでいる事を十分に理解する必要があると思うのだが・・・・。
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新しい格言

2009年12月26日 03時27分33秒 | Weblog
古い格言に「良薬は口に苦く、忠言は耳に逆う」と言う言葉があるが、最近の鳩山総理の記者会見の話を聞いていると「良心は口をつぐみ、マニフェストは耳に逆う」と言う新しい格言を作ってみたくなった。
母親からの資金援助を「全く知らなかった」と嘯き、責任の全てを秘書に押し付けようとする姿には呆れて物も言えず、良心のかけらさえも見出せない。
更に、自分が野党時代には「既得権益」を痛烈に批判しておきながら、いざ自分が総理大臣の椅子に座るとその座を退こうとしないのは「総理大臣と言う既得権益」を守ろうとしている事に他ならないのだが、そのような事には全く頓着する様子もないのである。
「他人の事はあからさまに批判するが、いざ自分のこととなると詭弁を弄して言い逃れる」、これが一国を代表する総理大臣の姿では「世も末」と言わざるを得ないだろう。
しかしながら・・・・、である。
このような人が一国を代表する座に座っていられるのも「甘い砂糖(マニフェスト)に群がる蟻(有権者)」がいるからで、「甘い砂糖に群がる蟻」がいなくならなければ無くなる事はないだろう。
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君子は豹変す?

2009年12月25日 04時14分39秒 | Weblog
一般的には「君子豹変」と言われることが多いが、辞書で調べると「君子は過ちがあればすみやかにそれを改め、鮮やかに面目を一新する。俗に、考え方や態度が一変する事に使われる。」とある。
今回問題になっている、鳩山総理に対する多額の母親からの資金援助問題に対する鳩山総理の対応は「悪い意味の君子豹変」と言ってよいだろう。
立場が逆だった過去の発言と、今回自分自身が批判される立場に立ったときの発言の違いを、言葉巧み?に言い逃れをしようとしている姿を見ると「こんな人の言葉に騙されて投票した人の気が知れない」と思ってしまう。
それにつけても、毎月1,500万円もの大金(私の年金だとおよそ8年分)を援助できる母親の財力には恐れ入るところで、こんな家庭に育った人に一般庶民の気持ちなどわかるはずもないだろう。
政治の「金権腐敗」と言うことがしばしば問題になるのだが、その原因の一つとして、このような大金が裏で動いている事も関係しているのである。
さて、多くの人は政治に期待をしているようだが、所詮政治なんてこの程度の物で、真面目に政治を考える人には「出る幕」などどこにもないのである。
一部には真面目に政治を考えている若手議員もいないではないだろうが、悲しいかな「数の力」に押し流されてしまい、何時しか初心を忘れてしまうのである。
私も過去に2度町議選に立候補を要請された事があるが、政治の裏事情を知っている私としてはとても受ける事は出来ない相談である。
私以外にも断った人を3人知っているのだが、三人とも異口同音に私と同じ事を言っており、仮の話し、立候補して当選したとしても「真面目にやると次の選挙では落選する」と言う結果が待っているのである。
変な言い方かもしれないが「君子危うきに近寄らず」である。
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国債増発の危険性

2009年12月23日 04時21分56秒 | Weblog
過去に何度も書いているのだが、多くの人は国債と言う物があまり理解されていないようで、「国債=国の借金=国民の借金」と言うことを十分に理解しておかなくてはいけないだろう。
ここで「国の借金=国民の借金」と言う事をより分かり易く説明してみたいと思うのだが、「国民の借金」と言ってもピンと来ない方もいるだろうが、自分が借金をしたときのことを考えてみればより身近に感じられるのではないだろうか。
「借金などした事がない!」と言われる方もいるかもしれないが、「借金には利息が付き物」で、当然のことだが「国債も借金なので利息を払う必要がある」のだが、個人の借金でも「金額が少なければ支払う利息も少ない」のは言うまでもなく、額が増えれば増えるほど支払う利息も増えるのは仕方ない事であるが、ある限界を超えると「利息の支払いだけで生活が出来なくなる」と言う悲惨な状態になることも理解しなくてはいけない。
このように書けば、「国債の増発」が如何に危険なことかわかるはずであるが、現実には自分が直接お金を借りるわけではないし、利息の支払いをするわけでもないので、どうしても実感がわかないのだろう。
現在発行されている国債の総額は600兆円と言われているのだが、この600兆円の国債に支払われる利息は一体どのくらいになるのであろうか。
最近発行された国債の利率はおよそ1%弱くらいであるが、この利息以外にも様々な経費が必要で、これらを加算すると1%以上になるのではないかと思うのだが、ここでは計算がしやすいように「年利1%」で考えてみることにするが、600兆円の1%は「6兆円」と言うことになり、タダでさえ不足している貴重な財源の中から6兆円ものお金が利息の支払いに使われてしまうのである。
そして更に困った事には、国債の発行額が増えるに従い買い手を捜すことに苦労するようになり、買い手を増やすための手段として「より高い金利をつける」と言うことが必要になてくるのである。
麻生元総理が「財政の健全化」と言うことにこだわリ続けたのはこの事が根底にあったのだろうが、国民ばかりか公明党までもが足を引っ張ってしまったのである。鳩山政権がマニフェストを実現できないのもこの事が原因になっているのであるが、過去にも何度か書いている事ではあるが、経済学者や有識者であれば私が書いているようなことは「先刻承知」のことではあろうが、現実の話「誰も口にしない」のであるが、その原因は「こんな事を口にしたら飯の食い上げになる」と言うだけのことなのである。
要するに「誰でも自分の身が可愛い」からなのである。
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ついに正体?が!

2009年12月22日 03時23分02秒 | Weblog
初めからわかっていた事ではあるが、民主党が掲げたマニフェストに次々とほころびが出ているが、その原因は言うまでもなく「財源不足」と言う事で、今年を何とか乗り切ったとしても、一度しか使えない埋蔵金がなくなる事を考えれば、来年度以降はもっとひどいことになるであろう。
「高速道路の無料化」を期待した人、「ガソリンの暫定税率廃止」を期待した人、・・・・と、何がしかの期待を込めて民主党に投票した人にとっては「詐欺」と言っても良いほどの結果になってしまっただろう。
そもそも「選挙の公約」と言うものは、余程の事がない限り「法的拘束力」と言うものが及ばず、「公約違反」を犯したとしても罪に問われることはなく、次の選挙で「落選」と言う結果が待っているだけの事で、改めて「出直し選挙で当選」と言うことにでもなれば「しめたもの」なのであるが、所詮政治なってこの程度の物でしかなく、有権者が期待すればするほど悪い方に向かってしまうのである。
選挙において「この人(政党)なら何とかしてくれるだろう」と言う期待を込めて投票しているのであろうが、政府が国民のために何かをするための財源は、「国民や企業が納めた税金でまかなわれる」と言う事が忘れられているようである。
選挙前に民主党がもくろんでいた「埋蔵金」も「無駄」も、よく言うところの「取らぬ狸の皮算用」と同じで、思ったような成果を上げることが出来なかったのである。
このように、思ったような成果が上がらなければ「予定変更」は至極当然のことで、「国債発行額を44億円以内に」と言うことも、これ以上の国債発行が如何に危険なことかを理解しているのだろうが、国民新党の亀井静香だけは例外で、「国債を増発してでも景気対策を!」と主張しているようだが、その借金(国債)を誰が払うのか考えた事があるのだろうか。
「自分だけ良い思いをしてツケを後世に回す」など、良識ある人間がすることではないと思うのだが・・・・。
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固定(固着)観念

2009年12月20日 03時47分21秒 | Weblog
日本人に特有?の考え方のようで、臨機応変に考えるる事が苦手なためだろう、とかく私のような考え方は「変人」とか「へそ曲がり」と呼ばれてしまう事が多いのである。
突然こんな事を書き始めたのは、私の知り合いが景気悪化と省エネをかねて最近流行の「湯たんぽ」を使いはじめたのだそうだが、使い始めて早々に「低温火傷」になってしまった、と言う事がきっかけになっているのである。
それが固定観念とどのような関係があるのかと思われるだろうが、実は3年前に「マイヤー毛布を敷布代わりにすると暖かくて電気敷毛布がいらないよ」と言う話をしているのだが、そのとき返ってきた返事は「毛布は敷布にするものではない!」と言うことで、電気敷毛布をその後も使用し続けていたようで、今年になって湯たんぽを使い始めたのだそうであるが、寒がりな彼は「一つでは足りず二つも」使った結果「低温火傷」になったのだそうである。
私の場合はと言うと、以前に一度ブログで書いているのだが、10年以上も前からマイヤー毛布を敷布代わりに使い続け、真冬でも電気敷毛布は愚か、湯たんぽさえ使わずに快適な睡眠をむさぼっているのであるが、それ以上にうれしい事は「寒い朝でも布団から出るのが楽だ!」と言うことである。
電気毛布や湯たんぽの場合、寒い夜中にトイレに起きるのは寒くて大変であろうが、私の場合は、トイレくらいでは殆ど寒さを感じないのである。
それでは、マイヤー毛布を敷布に使い始める前まではと言うと、夏用・冬用として売られている様々な敷布を試しては見たのだが、どれも「イマイチ」と言ったところで、普通の毛布も使ってみたのだが、どれ一つをとって見ても満足出来る物には出会えなかったのだが、たまたま或る年の春に、「冬物半額セール」で見つけ「ダメモト」で使って見たのである。
「マイヤー毛布を敷布代わりに」と言うと「洗濯が大変」と考える方が多いだろうが、私が10年以上にわたって使った感じから言えば「普通の敷布の方が洗濯が大変」なのだが、実際に試して見なければ理解してもらうのは難しいかもしれないだろう。
単純に考えると「冬暖かいのなら夏は暑いはず」と思われるのだが、実際にはそのような事はなく、「夏も快適」と言っても良いくらいである。
普通の敷布であれば、汗を吸ってじきにべたついてしまうところが、マイヤー毛布の場合は「何時までたっても」と言いたいくらいべたつきが出ないのである。
この結果「洗濯回数が少なくて済む」と言う事で、1回の洗濯は大変でも「回数が遥かに少ない」と言う事で、総体的に見れば楽なのである。
洗濯は、シングルのマイヤー毛布であれば「7キロくらいの洗濯機」で洗うことが出来、「厚みがあって乾きにくそう!」と言う見た目とは裏腹に、「普通の洗濯物と変わらないくらい」早く乾いてくれるのである。
更に書いておきたい事は「長い目で見れば遥かに安上がり」だと言う事で、通常の敷布は「洗濯回数が多い」と言う事で傷みが出やすく、定期的に新しいものを買わなくてはいけないのだが、その点、マイヤー毛布の場合はかなり長期間使えるので、長い目で見れば経済的なのである。
マイヤー毛布は「1枚」の物と「2枚合わせ」の物があるが、当然のことではあるが「2枚合わせ」の方が効果は大きいのである。                   
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「双頭の鷲」ならぬ「三頭の鳩」

2009年12月20日 02時40分00秒 | Weblog
本来であれば頭は一つでなければいけないのだが、様々な事情で二つの余分な頭がくっ付いてしまったのだが、頭が一つでも自由に飛べない鳩が、邪魔な二つの頭のために更に自由が利かなくなってしまった。
この邪魔な二つの頭、分離手術をするにはいささか問題が大き過ぎ、「死を覚悟」で望まなくてはいけないのであるが、仮の話し、分離手術が成功したとしても「その前途は多難」としか言いようがないであろう。
実はこの「三頭の鳩」、脚には「財源不足と言う足かせ」が付き、更に悪い事には、首根っこを押さえつける飼い主がいるのだから、始めから自由に飛ぶことは出来ず、正に「かごの鳥」と同じなのであるが、これから一体どうなる事やら。
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