へそ曲がりおじさんのひとり言

常識にとらわれるのが嫌い。
他人と同じ事が嫌い。
世の中、別な角度から見ると新しい物が見えるから。

情報化社会の落とし穴

2010年03月29日 04時33分28秒 | Weblog
インターネットの発達で大量の情報が瞬時に得られるようになったのだが、私から見ると「大量の情報に振り回されて全体像が見えなくなってしまった」のではないだろうか。
私も時にはネットで情報を得ようとするのだが、その度に困ってしまう事は「興味本位の個人情報」の存在である。
情報を得ようと検索して出てくるのは「アクセス数の多い物から」と言う事で、始めに出てくる情報はどうしても興味本位の情報が多くなってしまい、無知な人はそれが正しい情報と捕らえてしまいかねないのである。
この結果と言うわけでもないのだろうが、あたかも「群盲象をなでる」がごとき状態になり、正確な全体像が見えなくなってしまうのである。
これは、マグロの刺身は知っているが「マグロと言う魚は見たことが無い」のと同じことで、普段何気なく食べているマグロの刺身は「マグロと言う魚のほんの一部」だと言う事に気が付かないのである。
これはマグロに限ったことではなく、昔であれば町の魚屋さんでいくらでも魚を見ることが出来、目の前でさばく所も見ることが出来たのだから「魚とはどういうものか」と言うこともわかったのだが、最近では切り身にされてパックに詰められた状態の物が多くなってしまい、魚の形そのものを知らず「切り身の状態で海を泳いでいる」と思っている子供もいるほどなのである。
「新聞離れ」「テレビ離れ」が問題になり、「情報はネットで」と言う傾向が強くなっているのだが、私から見ると、ネットで得られる情報は「刺身か切り身が殆んど」で、「それ以外は魚ではない」と言った感じになっているが、実際は「それ外の部分が無ければ刺身も切り身も得られない」と言うことがわかっていないのである。
視点を変えてこの事を考えみると、民主党が実施した「事業仕分け」の「無駄」が「それ以外の部分」にあたり、「無駄なくして経済発展は無い」と思わなくてはいけないのであるが、現在の財政状態を考えれば「無駄を無きして、尚且つマニュフェストの実現を断念する」と言うことが必要なのだが、今の日本ではとてもそのような事は口に出来ないのである。
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「電子図書」について

2010年03月28日 04時24分55秒 | Weblog
「携帯小説」と言うものが流行っているようで、それに続いて「電子図書」と言うものも普及してきているようだが、この事で「やがて紙で出来た本や新聞はなくなる」と言う時代が来るのであろうか。
新聞までもが「電子化」されようとしているが、私個人の意見としては「電子化されたら読む気にはなれない」と思っている。
この「電子化」は「デジタル化」と同じ事で、「アナログ=古い」と言う考え方が根底にあるように感じてならないのである。
「何でもかんでもデジタル化すれば良い」と考える人もいるだろうが、「功罪相半ばする」と言う言葉があるように、「デジタルにはデジタルなりに良さがあるが、アナログにもアナログなりの良さがある」と言う事も忘れてはならないだろう。
CDが出来た当初は「アナログのレコードは直ぐになくなる」と言われていたのだが、いざCDが普及してみると「どこかおかしい?」と言う批判が出、直ぐになくなるはずのレコードは今でも生き延びているのである。
また、少し前の話ではあるが、コンピューターの普及で「ペーパーレス時代が来る」と言われていたにもかかわらず、逆に「紙の消費量が増える」と言う不可解な現象がおきているのだが、これらの事を考えて見ると、電子図書や新聞の電子化が普及したとしても「紙で出来た新聞や本は必要」で、直ぐに無くなることは無いと思うのだが、仮の話として「無くなった」としたらどのような事になるのであろうか。
私は今こうしてパソコンを使っており、携帯電話も持っているから何とかなるかもしれないが、私の周りには「パソコンも携帯も持っていない」と言う人は結構いるので、これらの人は一体どうすればよいのであろうか。
「パソコンなどの電子端末を買えばよい」と思うかもしれないが、高齢などで「使うことが出来ない」と言う人は一体どうすればよいのだろう。
これは笑い話のようだが、最近新しいテレビに買い換えた家での話である。
近所の人から夕方突然私の家に電話がかかってきて「電気屋さんの電話番号がわからないので電気屋さんに電話をして欲しい」と言うのである。
故障の原因を聞くと「買ったばかりのテレビが映らなくなった」と言うのである。
早速電気屋に電話をして修理を依頼してあげたのだが、翌日電気屋から電話があり「映らなくなった原因はリモコンのボタンの押し間違い」で、新しいテレビのリモコンのボタンが多すぎてどれを押したかわからなくなってしまい、元に戻す事が出来なかったことが原因だったのだそうである。
この人は「地上波のテレビ以外見ない」と言う事で、地上波の番組であれば「古いテレビのリモコンでも大丈夫」と言う事で、新いリモコンは使わず「今まで使い慣れた古いリモコンを使う」と言うなんともおかしなことになってしまったのであるが、私だって時折操作を間違えて「アレ?!」と言う事は珍しくなく、このパソコンにしても携帯にしても「機能の多くは使い方がわからない」と言うのが正直な話なのです。
ついでに言うなら「デジタルは人間的な温かみが無い」と言うのに対して「アナログは人間的な暖かみがある」と思っているのだが・・・・。
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「魚は骨が有るから嫌だ!」

2010年03月25日 04時02分38秒 | Weblog
あるスーパーの鮮魚売り場での話しだが、お母さんと買い物に来ていた小学校低学年と思しき男の子が言っていた言葉で、その後の言葉に驚いてしまった。
お母さんはアジかサバを買おうとしていたようなのだが、子供は「僕はこの方が好きだよ!」と言って手に取ったのはマグロの刺身なのだが、お母さんが「それも魚だよ」と言うとその子は「エッ?ウソー!」と言うのである。
更にお母さんが「これも魚だよ」とカジキの切り身を指差すと、まるで「信じられない」と言うような顔をしていたのだが、最近はこのような子供が増えているらしい。
しかしながら、振り返ってみると「カブトムシは何所で取れますか?」と言う質問に「デパート」と答えた子供がいたように、時代に変化とともに「本当の姿を知らない」と言う人は確実に増えてゆくであろう。
「時代が変わってしまったので仕方ない」と言う人もいるだろうが、果たしてそれが良い事かどうかはいささか疑わしく思えてならないのであるが、これはインターネットが発達した事による「情報化社会」にも同じことが言えるのではないだろうか。
インターネットの発達で世界中の出来事が瞬時にわかるようにはなったのだが、どんなにインターネットが発達したとしても、発信されてくる情報は「情報発信者が見た現場の一断面(切り身)」でしかなく、「百聞は一見にしかず」と大差ないのである。
このため、最近の風潮として「いいとこ取り」と言う感じの考え方が幅を利かせ、それ以外の部分は「邪魔者」あるいは「存在そのものを無視」と言う感じで扱われがちなのだが、現実には「切り身が海を泳いでいるのではない」と言うことを忘れてはならず、「邪魔者なしではいいとこは成り立たない」のである。
「郵政の民営化」などはこの代表的なもので、今回預け入れ限度額が2千万に増額される事になるらしいのだが、これに対して銀行業界が危機感を募らせているが、それなら「銀行も過疎地の人を相手にしろ」と言いたいが、現実には「採算が取れない」と言う理由で取り合おうとしないのだから勝手な話である。
これは「NHKと民放」の関係とも似ており、同じ土俵の上で比べること自体がおかしいのであるが、「いいとこ取り」ばかり考える人には話しても無駄であろう。
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偏食の害

2010年03月23日 04時39分08秒 | Weblog
昔から「偏食はいけない事」とされ、「毎日○○品目を食べましょう」と言うことが言われているのだが、これは食事に限ったことではないと私は思っている。
最近若い世代を中心にして「新聞離れ」「テレビ離れ」と言うことが起きているのだが、これは、インターネットや携帯電話で簡単に情報が得られるようになったことが引き金になっているのだが、この事は私から見ると「情報の偏食」としか思えず、いずれ「偏食の害」が現れてくると思っている。
私もこうしてネットを利用はしているのだが、ネットが私の情報源として占める割合は「ごく限定的なもの」あるいは「補助的なもの」でしかなく、新聞が存在する限り読み続けることだろう。
一般的には「ネットの利便性」が強調されているようだが、私に言わせれば「ネットはファーストフードと同じような物」で、ファーストフードばかり食べていれば「肥満→成人病」と言う危険が増大するように、ネットだけで情報を得ていれば、やがては新たな問題が発生する事は間違いのない事で、「クレーマー」「モンスター」などの出現もその表れではないだろうか。
「しかしながら」である。
新聞の発行部数が減少しているとは言っても、日本においては未だかなりの部数が発行されているのだが、果たしてその中で私のようにじっくりと新聞を読んでいる人がどれだけいるのであろうか。
これは私が聞いた極めて限定的な話であるが、「最初にテレビ欄を見て、後は三面記事とスポーツ欄だけ」と言う人が殆んどで、私から見ると「宝の持ち腐れ」と言った感じがしてならないのである。
多くの人は「時代が変わったのだから」と言うのだが、その裏には「時代が変わる=良いこと」と言った意味が含まれているように感じるのだが、本当に「時代が変わる=良いこと」と考えてよいのだろうか。
これは政治にも言えることで、「自公連立政権」から「民主、社民、国民新党連立政権」へと変わったことで、「日本の政治が変わる」と喜ぶ人が多いのだが、「変わる=良くなる」とは限らない事を肝に銘ずる必要があるだろう。
「変わる」は「改善」と言う結果をもたらす事も有るだろうが、その一方で「改悪」と言う事もある事に気が付くべきだろうが、自民党政権が復活したとしても「大同小異」でしかないことが非常に残念な事である。
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群盲象をなでる

2010年03月13日 03時22分52秒 | Weblog
何時もの事だが、NHK総合で「日本の、これから  いま考えよう日米同盟」と言う討論番組を放送していたのだが、何時聞いても同じような議論しか出来てこないのである。
その中でも今回の討論で大きく対立した問題の中に「米軍による抑止力」と言うものがあったのだが、この論議を聞いていると、正に「群盲象をなでる」と言う言葉がピッタリすると思うのである。
この「抑止力」だが、「必要だ」と言う人と「必要ない」と言う人に大きく意見が分かれるのだが、これは「米軍による抑止力」と考えるから規模が大きすぎて実感がわかないのであって、正に「群盲象をなでる」と言う状態になってしまうのである。
それではどんな風に考えればよいかと言うと、この「抑止力」と言う言葉を身近な物に置き換えて考えればよいのだが、「何に?」と思うだろうからここに主なものを書いてみるが、「抑止=抑えとどめる」と言う意味を考えれば、単純に「抑止力=家の門、塀、鍵、雨戸、セキュリティーシステム・・・・」と置き換えればよいのである。
私が住んでいり地域も、30年以上前は「鍵をかけずに安心して外出が出来た」と言うほどだったのだが、今ではとてもそうは行かなくなり、空き巣や泥棒対策が必要になるのだが、門、塀、鍵、雨戸、セキュリティーシステムなどは、空き巣や泥棒の被害を防ぐ「抑止力」として存在している事を考えれば「米軍による抑止力は必要」だと言う事がわかるのではないだろうか。
「平和ボケした日本人」には「米軍による抑止力は必要ない」と思う人もいるだろうが、万一近隣諸国から攻撃されたら一体どうすると言うのであろうか。
「憲法9条」により、日本の自衛隊は「専守防衛」に徹しなければいけないのだが、冷静に判断して「自衛隊には日本を防衛する力はない」と言うのが実情で、「米軍による抑止力」無しではとても枕を高きして寝る事は出来ないのである。
ついでと言ってはおかしいが、先ごろの「チリ地震における津波予報」にも同じことが言えるのではないだろうか。
「最大3メートル」と予想されたのだが、この数値には「万一に対する備え」と言う部分も含まれており、津波の被害を最小限に抑えれるための「抑止力としての意味もある」と言うことも考えなくてはいけないのである。
現実の話、「予想より高い津波が来た」としたら一体どうなっていたのだろうか。
「日本海中部地震」では、予想(50センチ)と同じくらいの津波だったにもかかわらず多くの犠牲者が出ているように、「予想通りでは被害を抑止する効果は薄い」と考えることが必要で、「何事にも抑止力は必要」と考えなくてはいけないのである。
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塀の外の懲りない奴ら

2010年03月10日 03時36分28秒 | Weblog
「塀の中の・・・・」のパロディーで、けして「中」の間違いではありません。
コメントへの返事を書いていて思い出したのだが、「優れた知能を持つ」と言われている我々人類だが、冷静に考えてみて「本当に優れた知能を持っているの?」とも言わざるを得ない場面にしばしば直面する。
よく「歴史は繰り返す」と言うが、これは正に「過去の教訓が生かされない」と言うことを現しており、明治維新後に「国を豊かにする」と言うお題目の元「軍事力の増強」を図り、その軍事力を持って「近隣諸国を侵略する」と言う暴挙に走り、最終的には「太平洋戦争に負ける」と言う結果を生んだのだが、今また同じことが繰り返されようとしている。
「まさか・・・」と思う人もいるだろうが、今回は武器を使っていないので気がつかないだけで、実際には「技術大国・経済大国」などと言われていたように、今回は人を殺すための武器ではなく、「技術力・経済力」と言う「一見平和的」な武器で世界市場を侵略していたのだが、太平洋戦争と同じように、短期的に見れば勝利を挙げたように見えても、「終わりのない?経済戦争」では勝ち目は薄く、今のままで行けば「悲惨な将来」が待っているのだが、かつて「最後の一兵まで」と言っていたように、最後の最後まで「無駄な抵抗」が好きな日本人であるから、最終的には「国家の破綻と言う『原爆』」に見舞われるまで突き進むのではないだろうか。
さて、「国家の破綻と言う『原爆』」だが、その恐ろしさは私にも想像は出来ず、出来得るなら「私の生きている間は落ちないでくれ!」と思っているのだが・・・・。
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クレーマー?

2010年03月02日 03時44分00秒 | Weblog
日本から1万7千キロも離れたチリで発生した地震による津波の規模が気象庁の発表した予想より低かったのだが、「相変わらず気象庁の予報(警報・注意報)は当てにならないね!」と近所の人が話していたのだが、これも「一種のクレーマー」だと私は思っている。
天気予報に関しては過去にも書いているのだが、津波に関しても全く同じことが言え、今回は予想より低かったからよいものの、これが反対の結果だったらどうなるのであろうか。
これに関連した事が新聞にも書いてあったのだが、東京の地下鉄でも路線によって判断が違い、ある関係者は「万一事故でも起きると大変なので止めた」と言うようなことを言っていたが、全く持ってその通りで、気象庁の発表は「苦渋の決断」と考えるべきだろうが、文句を言う事に慣れきっている多くの日本人には想像も付かない事なのだろう。
更に、たまにしか発生しない津波に関しては「その恐ろしさが実感できない」と言う困った問題もあるのです。
これは30年近く前に日本海で起きた地震による津波で多くの犠牲者が出た時の話であるが、勤めていた会社の昼休み、テレビのニュースで「高さ50センチ位の津波が・・・・」と放送された時、ある同僚が「50センチじゃどうって事ないじゃん!」と言ったので、即座に私は「50センチの津波は被害が出る可能性が十分あるんだよ!」と言ったのだが、その時は誰も信用する様子はなかったのだが、3時休みの時に放送された被害の実態に皆驚いていたのだが、この時は今回とは反対の結果になっているのであるが、近くで起きた津波の予想でも難しい事を考えれば、1万7千キロも離れていては「予想することは困難」と考えるべきだろう。
本来予報(予想)とは「過去に起きた事例の記録(データ)を元に推測する『確率の問題』』で、確率の問題である以上「100%はない」と考えなくてはならず、時には「確率99.9999・・・・%でも外れる事はある」と言うことも理解しておく必要があるだろう。
「何時になったら予報が当たるようになるのかねーーー!」と言っていたのだが、天気にしろ津波にしろ「自然現象が相手」である以上「正確な予報(予想)などとても無理な事」なのですがねーーーー。
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進化の陰に「退化」と言う落とし穴

2010年03月01日 04時05分19秒 | Weblog
一般的には「進化=良い事」と考えられているのだが、「シーラカンス」と言う古代(4億年近い昔)から絶滅せずに生き続けている魚の事を考えると、「進化=良い事?」と思わずにはいられなくなってしまう。
シーラカンスが誕生して4億年近くが経ちながら、その間「恐竜の絶滅」と言う厳しい時代も乗り越えて現在まで絶滅せずに生き残れたのは「進化しなかった」と言うことが大きくかかわっているのではないだろうか。
恐竜の絶滅は「巨大隕石の衝突」が原因のようではあるが、現実にはそれ以外の時期にも多くの動植物が絶滅を繰り返しており、その原因の多くは「進化」による物ではないだろうか。
単純に考えると「進化=その時の環境に適応する=生息範囲が広がる(数が増える)」と言うことになるのだが、その結果として「環境の変化に対応できなくなり絶滅」と言うことも考えられるのではないだろうか。
このことを人間社会に当てはめると「進化=科学技術の発達」と言うことも出来るのだが、冷静になって考えると「科学技術の発達は人間の能力を退化させる」と言うことも考えておく必要があるだろう。
今問題になっている「児童の学力低下」「教育現場の荒廃」「モンスターやクレーマーの発生」「成人病や癌の多発」「地球の温暖化」・・・・と、数え上げたらきりがないほど多くの問題が発生しているのも「科学技術(文明)の発達(進化)」が大きな原因になっていると考えるべきだろうが、現実の世界では「タダひたすら上(進化・発達・発展)を目指す」と言う事ばかり考えている。
さて「人類は高度(優れた)な知能を持っている」と言われており、多くの人はそれを信じて疑わないだろうが、私自身は何時も「本当に優れているの?」と思わずにはいられないのです。
「敵を知り己を知らば百戦危うからず」と言う言葉があるが、「己の能力を知らない人類」に未来はあるのだろうか。
私に言わせれば「人類は自らの墓穴を掘っている」としか思えず、出来得るなら「その墓穴には入りたくない」と思っているのだが・・・・。
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