ひとこと・ふたこと・時どき多言(たこと)

〈ゴマメのばーば〉の、日々訪れる想い・あれこれ

愚直に繰り返したい、と。

2020-08-15 06:07:21 | 日記
『敗戦記念日です。終戦記念日ではありません』
郷土史を教えて下さったT先生は、いつも、こう話されていました。
自虐的な表現ではありません。
先生は、
『太平洋戦争とは、何だったのか。私たち一人一人が、しっかり検証し、何故、戦争を起こしたのか、これからの日本を、どの様にして平和な国にして行かなければいけないのか、と考えなければいけません。』
と、いつも仰っていました。
先生は戦地に赴き、過酷な戦の辛酸をなめながらも復員。
その後、人間の「暮らし」ということに関して学び始めた方でした。

私もまた、本日は「敗戦記念日」と。
私なりの、戦争体験は、やはり語り継ぎたいのです。
同じことですが、愚直に繰り返したいと。
6年前にアップした原稿を再掲いたします。

『狼は子羊と共に』
昭和二十年八月十五日、私は空襲を避けて郡山市の郊外に疎開していました。
そこには、鯉を飼っている池が幾つかあって、そこの狭い番小屋を貸して頂いていたのです。
低い莚敷きの板床で、電気、水道は、もちろんありませんでした。

当時、私は国民学校の三年生で、川田というところにある学校に通うことになっていました。
でも、通学路の途中にある森は暗く、野犬が吠えたりしますので、毎日、算数と国語の教科書を1ページずつ勉強することを母と約束し、学校へは通いませんでした。

八月十五日の夕刻、別の番小屋に疎開していたKさんが、池の向こう側から、「無条件降伏だ」と、大声で私たちに知らせてくれました。
無条件降伏の意味が私には判らず、六年生だった兄にたずねたところ、アメリカが日本に降参したらしいとのことでした。
強い国『神国日本』と学校で教え込まれていましたから、そのように推測したのは当然のことだったのでしょう。
しかし、Kさんの話を聞いた私は、とてつもない恐怖感に襲われたのです。
鬼畜米英たる敵が攻めて来て、日本人は皆殺しになるのだろうとの不安に怯え、「早く、どこか敵に見つからない山奥に逃げよう」と泣く私を、「だいじょうぶ、だいじょうぶ」母はそう言って背中をトントンと優しくたたいて、一晩中、抱いていてくれました。

B29の爆音を耳にすることもなくなり、二日ほどしましたら、夜、隣村の灯りがポッ、ポッと見えたのです。あのチカチカした電燈のまたたきは、安らぎそのものでした。そして、私の恐怖心は徐々に薄らいでいったのです。
病気が悪化した姉は、五月、灯火管制下の暗い夜に逝ってしまい、母が一番泣きました。私は、あの晩のことを、今でも忘れることができません。

十月の半ばになって、私たちは疎開先から自宅に戻ったのです。
どこの家にも電燈がついていました。
銭湯は湯量が少なくイモ洗いの状態で、食べ物不足の暮らしでしたが、学校にも復帰しました。ジープに乗ったアメリカ兵を街のあちこちで見受けましたが、捕って食われたりはしませんでした。

あれから六十七年、昨年は地震・津波・原発事故と恐い目にも遭いましたが、今、私は生きています。
生きています。
散歩でしょうか、庭先の道路を犬と飼い主が通って行きました。私は、警戒区域に残されてしまった犬や猫、やせ衰えて死んだ牛、名も無い虫や生きもの達の【いのち】に、心の中で「ごめんね」と謝りました。
平和への祈りと共に、聖書のことばが思い起こされる八月の昼下がりです。

  《狼は子羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。
   子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。
   牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。
   乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。
   わたしの聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。
   水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる。》
                           (イザヤ書十一章から)
                             (2012年8月M紙へ寄稿)

疎開した場所は、現在カルチャーパークとなっています。
毎年、花火大会が行われますが、今年は、「コロナ」で開催されません。
                           〈ゴマメのばーば〉

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