28日㈫、朝7時12分の特急に乗り、京都駅へ。堀川八条の交差点で、副委員長を務める文化力と価値創造に関する特別委員会(田中美貴子委員長)の管内外視察のバスに合流した。
まずは宇治市役所へ。特別委員会では本来、管内視察が行われないが、委員会での議論の中で「文化首都・京都と言いながら、私たちは京都府内の文化をそれほどしっかり調査・研究したことはないがそれで良いのか?」という話になったので、正副委員長会で相談して議会事務局に検討を依頼した。
現在の府議会の規定では「特別委員会での管内視察は難しい」ということだったが、今回は「管内外視察」ということにして、まずは田中委員長の地元である宇治へ行きましょう?と提案した。
田中委員長も宇治市議会や宇治市教委に視察の受け入れをお願いし、趣旨を丁寧に説明していただいたのだろう。宇治市議会では松峯茂議長らにお出迎えいただいた。松村淳子市長も冒頭、挨拶にお越しいただいた。
宇治市では「宇治学」について調査。総合的学習の時間を活用して、「宇治学」という地元のことを学ぶ教育を進めておられるとのこと。副読本も自ら作成し、本格的だった。
説明は宇治市教育委員会の木上晴之教育長に加え、宇治市立小倉北小学校の市橋公也校長の話を聴いた。市橋校長が市教委におられた時に「宇治学」が始まったとのことだった。
宇治市は京都に近く、古くからの交通の要衝であったり、貴族の別荘があった場所で大変歴史豊かな町だと思っている。
三重県の伊勢神宮のある場所も「宇治山田」という地名で、このことからも伊勢と京都、京都と宇治の関係が密接だったことを表していると思う。
「宇治」の名前の由来になっている「菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)」は応神天皇の息子で、仁徳天皇の弟に当たる。
菟道稚郎子は応神天皇の在世40年1月に皇太子となったとされ、日本書紀には、
皇太子即位の翌年に応神天皇が崩じたが、菟道稚郎子は即位せず、大鷦鷯尊(後の仁徳天皇)と互いに皇位を譲り合った。菟道稚郎子は菟道宮に住まい、大鷦鷯尊と皇位を譲り合うこと、3年に及んだ。
長い空位が天下の煩いになると思い悩んだ菟道稚郎子は互譲に決着を期すべく、自ら果てた。大鷦鷯尊は驚き悲しんで、難波から菟道宮に至り、遺体に招魂の術を施したところ、菟道稚郎子は蘇生して妹の八田皇女を後宮に納れるよう遺言をし、再び薨じたという。
と書かれている。
「謀略」の香りがプンプンする。大国主命の「国譲り」と同じく、おそらく菟道稚郎子は天皇として即位したものの、兄である仁徳天皇に謀殺され、歴史から葬られたものと私は思う。
菟道稚郎子は古事記では「宇遅能和紀郎子」と書かれており、綾部に与えられた「何鹿(いかるが)」と同様の蔑称ではないかと感じる。そういう意味で綾部と宇治には、真の歴史を世に出すためのスイッチがあるのだと思う。
綾部でも「綾部学」をやりたい。
もう一人の説明者は宇治市内産の本簀(ほんず)抹茶生産農家である京都宇治茶房「山本甚次郎」の六代目圓主・山本甚太郎さん。自らも「宇治学」の教壇に立ち、子ども達に「宇治茶」に愛着と誇りを持ってほしいと活動しておられるそうで、その様子を熱く聴かせていただいた。
本簀というのは葦(ヨシ)を編み上げて作った葦簀(よしず)の上に藁を置いて遮光するお茶の育て方のことで、今ではほとんど行われていない大変希少価値のある育て方で最高級のお茶が生産できるそうだ。葦簀の間から落ちる「玉のような露」が「玉露」の名前にもつながっている。
お話の後は宇治市内の商店街にある1848年(嘉永元年)に建てられた築170年の店舗兼住宅を見学させていただいた。この店舗兼住宅は「国選定重要文化的景観」に指定されているそうだ。
店舗の奥には茶工場があり、現役最古の「堀井式碾茶乾燥炉」が稼働していた。葦も置いてあった。
ずいぶん古い建物で、お風呂は薪で焚く方式だが、ここにはご両親が今も住んでおられるとのこと。
宇治の街には平日にもかかわらず観光客が多く、今日はこれでも少ない方だとおっしゃっていた。
商店街で昼ご飯を食べ、午後は福井県敦賀市に向かった。敦賀市では「おぼろ昆布」の食文化を調査。内容は改めて。