2日間、自民党府連青年局役員による東北視察研修に参加した。
朝8時の飛行機で伊丹を発ち、9時半には仙台に到着し、レンタカーで石巻市に向かった。
西京区の西村義直市議、南区の島本京司市議と車も部屋も一緒で、2日間、いろいろな話をさせていただいた。
お二人はそれぞれ野中広務、奥田幹生両先生の秘書をされていたので、綾部のこともよく知っておられた。
石巻市では、震災で店舗を失った方が仮店舗で営業しておられる《復興商店街》で買い物をした後、食事をした。復興商店街は2年契約になっていて、飲食店が2年くらいでは設備投資の改修が難しく、あまり入らないと言っておられた。
午後は、石巻市の隣りの女川町に行った。役場も津波の被害に遭い、プレハブの仮庁舎で復興業務に励んでおられた。 須田善明町長は40才の若手で、宮城県議を三期務め、昨年秋から町長に就任された。お父さんも町長をしておられたそうだ。
県議時代に自民党青年局の役員をしておられて、その関係で今回、訪問させていただいた。
京都府連の寺田一博青年局長が「どういった支援をしたら良いか?」と尋ねたら、「ぜひ、現地を見て、空気を吸って、モノを食べて、お金を落としてほしい」とおっしゃったそうだ。
お忙しい中ではあったが、復興計画も説明していただいた。
女川町の木材ガレキは東京都が引き取っておられて、毎日30tが運ばれているそうだ。
須田町長は「女川町は平たんな土地が少なく、ガレキの仮置き場はほとんどが民有地。処理を早く片付けて、復興計画の実現に手をつけたい。早くしないと、町民の皆さんは希望が見出せない。他の自治体は復興計画を10年にしているところが多いが、女川町は8年の計画にしている」とおっしゃっていた。
「10年ぐらいかけてボチボチとガレキ処理していく方が被災地の雇用になって良い」というのは、全く見当違いな考えだということがよく分かった。ただ、多額の輸送コストをかけて、九州まで持っていくことには疑問も感じておられるようだった。
町長は、「復興計画の実現のための、土木や建築の技術専門職員が全く足りないので、1人でも2人でも職員を貸していただけないでしょうか?」と頭を下げてお願いされた。
続いて、ガレキの仕分け処理施設を見学した。民有地にあるため、来年3月までに処理にメドをつける約束で借りておられるということだった。
機械と人手で、しっかり木材だけに分別し、粉砕してコンテナに積み込み、4回の放射能測定を様々な形で行い、安全性を担保しておられた。
東京都の職員も常駐して、作業や測定結果のチェックをしておられた。
その後は、復興商店街である《きぼうのかね商店街》を訪ねて、女川町商工会の青山貴博副参事がご自身の体験も含めて、この1年の様子を語っていただいた。
震災の日は、4階建ての商工会のビルの屋上の給水タンクに登って、九死に一生を得られたそうだ。
人や家がどんどん流されていく様子を見て、次は自分だと覚悟し、自分が最後まで生きぬいた証しとして子どもたちのためにとネクタイを給水タンクにくくりつけられたお話などを聞かせていただいた。
夜は女川町内に1軒残っているホテルに泊まり、須田町長も1時間弱、再び公務の合い間をぬって、復興状況の説明に来て下さった。