玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

オノレ・ド・バルザック『セラフィタ』(2)

2020年02月11日 | 読書ノート

 以上引用してきたような緻密な描写は、必ずしもリアリズム文学に特有のものではない。それは緻密であると同時に正確でもある一方、想像力を全開にした奔放なものでもある。想像力を駆使しながらも、ロマンティックな感情に流されず、あくまでも現実感をもたせることを優先して、この様な描写は続いていく。

 フランスならバルザックの後輩にあたるロマン主義作家、テオフィル・ゴーチエの『ミイラ物語』に、これと同質の描写を見出すことができる。エジプト古代の王の墳墓を発掘する考古学者たちが、そこに発見する驚くべき石棺と、その内部の装飾や財宝についての、延々と続く稠密な描写がそれである。

『ミイラ物語』もまた幻想小説であるが、そのような描写は作品にリアリティを与えるために欠かすことのできない作業なのである。バルザックもまた『セラフィタ』の冒頭において、その作品にリアリスティックなイメージを付与するための準備作業として、以上のような描写を綴って飽きることがないのである。

 もっと極端に言えば、この様なリアリスティックな描写は、幻想小説の要諦でさえあって、描写のリアリズムは〝幻想〟と矛盾するものではない。リアリティのない〝幻想〟など文学にとって何ものでもないからである。19世紀リアリズム文学を準備したのがバルザックだとすれば、彼はむしろロマンティックな幻想文学の要求するところに従って、リアリズムを準備し、また鍛え上げていったのだと言えるかも知れない。

 冒頭の描写に続くのはセラフィトゥス(セラフィタ)が、ミンナという娘を引き連れてファルベルク山にスキーで登っていく場面である。千八百フィートというから、五百五十メートルほどの高さの山であるが、そこに冬の最中、しかも「寒さのためヒースや抵抗力のある木しか生えない階段状の谷」に阻まれたその山に登ることが、いかに困難を極めるものかは、最初の描写によって裏打ちされている。

 しかし、二人をファルベルク山に導くのは、天界を垣間見ようという欲求であり、だからこそ、この山とその周辺の厳しい自然環境が強調されて描かれていなければならないのである。セラフィトゥス(セラフィタ)の心を支配しているのは、天上界への希求であり、彼(彼女)はここで小説のラストの〝昇天〟に向けた予行演習に励んでいるのだと考えられる。

 セラフィタは最初、娘ミンナには男性=セラフィトゥスとして現れ、次に青年ウィルフリッドには女性=セラフィタとして現れる。第三章が「セラフィタ=セラフィトゥス」と題されているように、彼(彼女)は両性具有者なのである。

 両性具有ということも極めてロマンティックなテーマであり、悪趣味に堕しかねない危険なテーマであるが、果たしてバルザックはその処理に成功しているだろうか。まず舞台設定がパリやフランスの地方都市ではなく、ノルウェーの人跡未踏の地であることが、この作品を悪趣味から救っている。

 超自然的な存在が存在し得るのは、都会の雑踏の中でもなければ、俗情に満ちた社会の中でもない。卑俗な社会から最も遠いところとして選ばれたのは、ノルウェーのフィヨルド地帯だったのである。しかも主人公はまず、疑似的な天上界であるファルベルク山に登って身を清めなければならない。そうしなければこの作品の主人公の役割を果たし得ないからだ。

 セラフィトゥスはファルベルク山の頂上で、ミンナに「多分、二人とも地上の卑しさを脱ぎ捨ててしまったのでしょう」と言うが、セラフィトゥス(セラフィタ)にとってみれば、それこそが彼(彼女)の生きる目的でもあるのだから、最初から彼(彼女)は自身の目的を公言しているわけである。

 また、ファルベルク山の頂上で脱ぎ捨てられたのは、俗世間の卑しさだけではない。そればかりではなく彼(彼女)は両性具有者であることの身体性をすら、脱ぎ捨てるのだ。そこで両性具有のもつエロティックなイメージが消去されるであろう。

 さて、ノルウェーの極寒の地が舞台に選ばれた理由は、もう一つある。それは第三章セラフィトゥス=セラフィタでの、スウェーデンボリについての議論によって明らかになる。

 


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