玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

諏訪哲史『偏愛蔵書室』(1)

2023年01月14日 | 読書ノート

 三月までに諏訪哲史の『アサッテの人』を読むことになっていて、同じ著者による『偏愛蔵書室』という書評集を発見したので、さっそく読んでみることにした。古典的名作からマイナーな作品、初めて聞くような埋もれた作家の作品まで、百冊が取り上げられていて、私の読書傾向と近い部分もあり、面白そうだったので飛びついたのだった。
 マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』の項は、次のように書き始められている。

「世界文学史上最高の小説である。誰がどんなに頭から湯気を出して反論しようが、この事実だけは動かし得ない。」

 いきなりこんな風に言われると、私のように大学でフランス文学を学びながら、この大長編を読んだことがないという破廉恥漢には、言うべきことがなくなってしまう。しかも諏訪はこの書評のたかだか本書で三頁の文章を書くために、『失われた時を求めて』を三度目に読み返したというのだから恐ろしい。偏執狂である。私も結構書評を書いたことがあるが、その都度必ず読み返すということはしない。記憶に頼って読み返さずに書くことの方が多いし、そうでなければあまりにも労力が大きすぎて、言ってみれば費用対効果に疑問が発生する。
 しかし、諏訪が次のように続ける時、何とか発言していく手掛かりは与えられる。

「本作には要約困難な膨大な「物語」があり、物語よりも多く「詩」が、詩よりも多く「批評」がある。僕の知る限り、三要素をこれほど完璧な黄金比で体現した小説は存在しない。」

 これが本書における諏訪の小説観として、真っすぐに貫かれている考え方である。ここで大切なのは、20世紀後半に澎湃として巻き起こった物語否定論がさりげなく批判されていることである。プルーストの小説に「批評」が「詩」よりも多く、「詩」が「物語」より多くあり、それが黄金比で体現されているというからには、「物語」の比重が少ないということであるし、「物語」を諏訪が最重要視してはいないことを示しているとしても、「物語」が否定されているわけではないからである。
 フランスのヌーボー・ロマンの作者たちのやったことは、物語を全否定し、物語を解体して墓場に葬り去ることであったが、彼らは結局小説そのものを埋葬してしまった感がある。そのことがヨーロッパの小説の衰退・没落をもたらしてしまったことは、反省するに足ることであっただろう。
 一方で、ラテンアメリカ文学の隆盛は、それが物語を否定することなく、小説の屋台骨として物語を維持することによってもたらされたようにも見える。ガルシア=マルケスの『百年の孤独』をその代表とみなすことができるが、では〝物語の復権〟ということを主張すればそれでよいのかというと、そんなこともないのである。
 21世紀に生きる我々は、物語ということに対して微妙な位置にある。物語という枠組みが、娯楽を求める俗情へのおもねりであったり、あるいは制度としての文学への保守的な姿勢によって保持されているのであるならば、それは否定的にみられても当然であろう。しかし一方、ラテンアメリカ文学に見られるように、物語が小説世界を活性化させる力を持っているのであれば、物語は小説にとって欠くことのできない要件だということもできる。
 つまりは、諏訪哲史のような考え方、小説はもともと物語・批評・詩という三つの構成要素を持ち、そのバランスの上に成り立っているという考え方を持ってすれば、我々のジレンマは解消されることになる。

諏訪哲史『偏愛蔵書室』(2014、国書刊行会)

 


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