ナボコフの項は本書の巻末に置かれていて、特別の意味を与えられている。だからナボコフの項の最後は『偏愛蔵書室』全体を締めくくる、次のような一節で終わっている。
「なべての人の愛は「偏愛」である。それは純真であればあるほどむしろ背き、屈折し、狂気へ振れ、局所へ収斂される。人は愛ゆえ逸し、愛ゆえ違う。慎ましく花弁を閉じる倒錯の花々。それこそが、僕の狭い蔵書室から無限を夢みて開く、これら偏愛すべき本たちである。」
ここでは倒錯が本を愛し、本を読むことと結び付けられている。ひとに隠れ、秘かな悦びを求めて〝読む〟こと、これほどに倒錯的な行為があるだろうか。「慎ましく花弁を閉じる倒錯の花々」を、人知れぬ隠微な悦びをもって、ひとつひとつ開いていく行為を倒錯と呼ばないわけにはいかない。花々が倒錯しているのではない。花々を開いていく行為が倒錯そのものなのである。そして、すべては〝読む〟ことによってしか始まらない。
諏訪は本書のあとがきで、読むことへの執着を次のように語っている。
「不謹慎を承知でいうなら、本当は、僕は、ただ書きつづけるという生き方より自分で買った本をひたすら「読み続ける」人生をこそ送りたい。もとより、作家になっていなければそうするつもりだった。」
書くことよりも読むことに重点を置くこのような姿勢もまた、小説家よりも批評家的なあり方だと言えるだろう。小説はなにも読まずに書くことができるが(読んだ方がいいに決まっているが、私はかつてほとんど小説を読まない〝小説書き〟に出会ったことがある)、批評は作品を読まずに書くことが決してできないからである。批評が作品との出会いによってしか発動されないことは、言うまでもないことだろう。
諏訪が次のように書くとき、彼は読むことの重要性をあくまでも強調しているのである。その一節は石川淳の項末尾に置かれている。
「遠くセルバンテスの世から小説とは世界を綜合し書くことではなく、分解し読むことだった。拾得の錯乱する箒(石川淳の「普賢」参照)こそは文学に病んだ現代人の好個の筆、僕らが世界を読むための筆だ。さても事の本質は読むことなのであった。」(カッコ内引用者)
書くことの前に読むことがあるというのではなく、書くことの本質の中に読むことがあるという主張は、セルバンテスの『ドン・キホーテ』によって、諏訪が?んだ真実だったであろう。『ドン・キホーテ』の主人公ドン・キホーテは、あまりに多くの騎士道物語を読んだために気がふれてしまい、自分が遍歴の騎士になったつもりになって、愚行を重ねるのである。
主人公の〝読み〟だけでなく、作者セルバンテスの世界に対する〝読み〟もまた、主人公の存在を通して、書くことの中に胚胎しているのであった。『ドン・キホーテ』では、読むことはいささか道化に似ているが、批評とは道化のようでありつつ、読むことの倒錯を実行するものであるとも言えるのではないか。
(つづく)
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