寓意するものと寓意されるものとの対応関係が一義的なものであれば、寓意されるものは寓意するものをすぐにでも駆逐してしまうであろうから、そこに幻想が生まれてくることはない。トドロフは第一の意味がすぐに姿を消すような作品の価値を低く見ていて、あからさまに寓意を目的とするような作品は幻想文学ではあり得ないといっているのである。
また意味の二重性が併存するような作品においてもまた、結局は幻想性が失われてしまうとトドロフは言う。二重の意味が併存するのは、寓意するものとされるものとの関係が多義的であるためであり、寓意されるものがすぐには寓意するものを駆逐できないからなのである。ここで私の議論はトドロフの議論に交差することができる。
ならば幻想性を保持するためには、一義的であれ多義的であれ、寓意そのものを放棄するしかない。トドロフに倣って言えば、二重の意味を作品内において明示しないという方針が必要になってくるだろう。『裏面』がいかに寓意的な要素を持っているように見えても、クビーンは明白にそのような方針を貫いているし、そうである以上『裏面』を寓意小説と見なすことはできない。
クビーンは第四章の最後で、「パテラという現象は解明されずに終った」と書いている。つまりクビーンは最初から「パテラという現象」を解明しようというような意図は持っていなかったのだ。パテラが意味するものが、単に寓意的なものではあり得ないものだからである。
エピローグの最後の一節は、そういう意味で、寓意というものが到底到達できない深みに達している。前半を引用する。
「やがてふたたび生きてゆこうとするようになった時、私は自分の神が半分の支配権しか持っていないということを、発見した。大なり小なり、彼は生命をねらっている敵対者とすべてを分けあっていたのだ。突き離したり引きつけたりする力、それぞれの流れを持っている地球上の極、四季の移り変り、昼と夜、黒と白――それらはいずれも闘争なのだ。」
この謎めいた文章は、色々な意味で示唆的である。「自分の神」とは直接的にはパテラのことを指しているが、それが「半分の支配権しか持って」おらず、敵対者と権力を分け合っていたのだということは、パテラもアメリカ人も「半分の支配権しか持って」いなかったことを意味しているし、そもそもこの二つの存在は互いに陰と陽として闘争を繰り返す、元々一体のものだと考えることができる。
これがクビーンの世界観であり、これに続く以下の言葉は、それが同時に彼の人間観であり、神に対する認識でもあったことを示している。
「真実の地獄は、この矛盾した一人二役がわれわれの内心において継続されていくところにある。愛自体がその重心を「排泄孔と糞溜のあいだ」に持っているのだ。崇高な状況も、どうかすればおかしなものの、嘲笑の、皮肉の、手のなかに落ちこんでいきかねないのだ。
造物主は半陰陽(Zwitter) なのである。」
陰と陽との対立は「われわれの内心において継続されていく」のであり、それは「真実の地獄」を意味している。神にとってだけでなく我々自身の問題として。また陰と陽とが和合する「愛」の重心が「排泄孔と糞溜のあいだ」にあるのだとすれば、それは少しも崇高なものではあり得ない。陰と陽という東洋的な世界観は、ここで愛を司る器官への類推によって、半陰陽(ふたなり)としての神へと結論づけられる。
すべては隠喩的であり、ここでのクビーンの言葉に寓意的な要素などまったくないのである。
(この項おわり)
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