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玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

アルベール・ベガン『真視の人 バルザック』(3)

2021年02月02日 | 読書ノート

 アルベール・ベガンはバルザック作品中の人口統計から見て、そこに娼婦の占める割合が現実世界におけるよりも、異常に高いことに注目している。19世紀にあって貧困層の若い女性の職業はごく限られたものであり、女工、女中、そして娼婦になることくらいしかお金を得る道がなく、街には娼婦が溢れていたという。

 レチフ・ド・ラ・ブルトンヌの『パリの夜』などを読むと(この人は18世紀の作家であるが)そんな社会状況がよく分かる。しかしそれにしてもバルザックの小説にはたくさんの娼婦が登場して、主要な役割を果たしているから、彼には娼婦の世界に対する偏執的な嗜好があったとしか考えられない。ベガンは次のように言っている。

 

「要するに娼婦たちは淑女の利己主義から解放されており、自分を大事に取っておいて計算づくで愛情を与える者の慎重さを欠いているから、まこと全的ともいえる献身が可能な唯一の存在なのである。浮かれ女は愛に生き、愛に死に、情熱というものの手本を示す。」

 

 いかにもロマンティックな言い方であるが、浮かれ女(courtisane=一般に高級娼婦を指す)こそが、恋愛の純粋形を実践するのだというのである。バルザックがボードレールの言う〝人間の天才〟を登場人物に求めたのだとすれば、浮かれ女こそが恋愛において天才としての能力を発揮するのである。

 ただし、浮かれ女たちがすべて利己主義的な打算から逃れているかといえば、決してそんなことはない。『従妹ベット』のヴァレリーは五人もの男を手玉に取り、貢ぎ物をせしめるのであって、彼女が「愛に生き、愛に死」んだとはとても言えないではないか。

 しかし、バルザックの造形した浮かれ女たちの中で最もベガンの理想に近いのは、『幻滅』のコラリーであり、『浮かれ女盛衰記』のエステルであろう。この二人こそはボードレールの言う「献身において天使のごとき」存在なのである。二人ともリュシアン・ド・リュバンプレを全身で愛し、貞節を貫き、最後は悲運の死を遂げるのであるから。

 バルザックが目的としたものが社会観察などではなく神話化であるとすれば、間違いなく彼女たちは神話の世界に住んでいるし、だからこそバルザックは人口統計を無視して娼婦たちに「人間喜劇」に数多く登場する機会を与えたのである。

 だから彼女たちは下層社会の底に呻吟する犠牲者として描かれるのではなく、神話的な世界に生き、至高の愛を実践する理想の女性として描かれるであろう。そこにあるのは売淫の社会学などではなく、売淫の形而上学と呼んでもいいものなのである。ベガンはそうした議論の中で、ボードレールの『赤裸の心』の有名な一節を引用することを忘れない。

 

《もっとも売淫的な存在、それは最たる存在、すなわち神、何故ならば神は一人一人こよなき友であり、愛の汲めどもつきぬ、共同貯水池であるから。》

 

 この驚くべき一節は娼婦と神との共通項を打ち立てるものであり、そこに私は売淫の形而上学を見るのである。娼婦がその純粋なる肉体性において不特定多数に肉の恩寵を与える存在だとすれば、神はその純粋なる精神性において不特定多数に心の恩寵を与える存在である。

 こうして純粋なる肉体性と、純粋なる精神性が通底する場が与えられる。ただしそれは観念の中にある場所であり、だからこそそれを形而上学と呼ぶ。そしてその形而上学はボードレールとバルザックとが共通して確立していたものに違いないのである。

 

(この項おわり)

 

 


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