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フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー『白痴』(1)

2021年02月11日 | 読書ノート

 まだ少し時間の余裕があるので、亀山郁夫の新訳が出たドストエフスキーの『白痴』を読み返してみることにした。ドストエフスキーの後期五大長編は、五十年来ことあるごとに読んできて、『未成年』以外はそれぞれ3~4回読んでいる。中でも『カラマーゾフの兄弟』は4回読んで、読むたびに新鮮な読書体験をすることができ、私はこの作品が世界文学史上最高の小説だと思っている。

『白痴』はおそらく2回目か3回目になると思うが、『未成年』は別として、ドストエフスキーの作品の中であまり好きになれないと言うか、よく理解できない作品として位置づけられる。主人公ムイシキン(従来ムイシュキンと表記されてきたが、亀山がムイシキンと表記しているので、それに倣う)に対して、他の作品の主人公たち、ラスコーリニコフやスタヴローギン、イワン・カラマーゾフほどに感情移入ができないというのがその理由である。

 他の主人公たちは、悪人や犯罪者であるが極めて複雑な人間であり、その人物造形の背後には作者の暗い時代認識や人間認識が窺えるのに対して、ムイシキンにはそれがあまり感じられない。トルストイは『アンナ・カレーニナ』の冒頭で、「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである」と言っている。幸福が類型的なのに対して、不幸が個別の独自性をもっているということで、それは善人と悪人の場合にも当てはまるように思う。

 つまり、ドストエフスキーが造形した善人は類型的にしか描かれないのに対して、悪人の方は決定的な個性を刻印されているのである。ただし、ムイシキン公爵を幸福な善人と決めつけるのは明らかに間違っていて、むしろ不幸な善人と言うべきなのだろうが、彼が純粋と無垢において類型的な体質を持っているということは否定できないことではないか。

もちろん、ムイシキンがスイスの精神病院を退院して、ペテルブルグにやって来て、エパンチン家の従僕にいきなりパリのギロチン刑の話をするところ、そしてエパンチン家の女性たちに対して、銃殺刑の執行直前に恩赦が下され、すんでのところで死を免れた男の話をする場面などは、必ずしも善人としての類型的な人格を証明してはいない。

しかしこの男の体験がドストエフスキー自身の体験であったことを知る者には、自らの体験をこの純粋無垢な公爵に無理矢理接続しているように思えて、不自然の観は免れない。つまりはムイシキンの人物造形に無理があって、形式的破綻が指摘できるのである。

ドストエフスキーの五大長編には、どれをとっても形式的破綻があるように思われるが、特にこの『白痴』において顕著と言わざるを得ない。私がこのところずっと読んできたヘンリー・ジェイムズは、ドストエフスキー嫌いだったことで知られるが、彼は主にこの形式的破綻を嫌ったのである。

ヘンリー・ジェイムズは〝形式主義者〟であって、作品の形式的完成を絶えず意識して書いた作家であり、ドストエフスキーの作品のように、人物造形の異様さや異常なほどの突出部の頻出に彩られた作品には耐えがたい思いがあったのであろう。

そこでまず、『白痴』の形式的破綻についてまとめておきたい。最初にバランスの欠如について。この作品はタイトルに明白なように、ムイシキン公爵を中心としたドラマであるとしても、この小説を恋愛小説として読んだ場合、もう一つの中心点はナスターシャであるだろうにも拘わらず、彼女は作品の数カ所に顔を覗かせるだけで、あまりにも登場の比重が低すぎる。

 それはナスターシャを中心として公爵と対峙するロゴージンという存在についても言えることであって、彼の登場の頻度も決して高くはない。ナスターシャの死体のそばでムイシキンとロゴージンが一夜を過ごすという、あまりにも有名なラストシーンが、この小説の中で最も重要な部分だとすれば、三つ巴のドラマがもう少し展開されていてもおかしくはない。

 

フョードル・ミハイロヴィッチ・ドストエフスキー『白痴』①②③④(2015~2018、光文社古典新訳文庫)亀山郁夫訳


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