玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

スーザン・ソンタグ『ラディカルな意志のスタイルズ』(6)

2019年03月27日 | 読書ノート

 ポルノをほとんど読んだことがない私のような人間が、それについて論じることはとてもできないので、以下ではソンタグの議論とその周辺に関わることについて書く。私にはバタイユのポルノグラフィについて論じる資格がない。  まずソンタグの選択の偏り、フランスのポルノグラフィへの偏りについて言ったが、イギリスにも文学的なポルノがなかったとは言い切れない。たとえばM・G・ルイスの『マンク』にはポルノまがいの描写がたくさんあるが、この小説が後世のゴシック小説に与えた大きな影響は認めるとしても、その徹底した勧善懲悪主義といい、ご都合主義といい、とても文学的にレベルの高いものではない。  プロテスタントの国イギリスでは、反カトリックとしてカトリックの聖職者たちの道徳的腐敗を描くことはできても、官能の悦びをテーマとするポルノグラフィが、まともな文学者によって書かれるはずもなかった。同じことはピューリタンの国アメリカにも言えることであって、英米に文学的に質の高いポルノグラフィがないのは当然と言えば当然なのだ。  一方フランスではプロテスタンティズムが根付くことはなかったし、フランス革命を準備した自由主義と無神論が質の高いポルノグラフィを可能にしたと言えるだろう。18世紀は啓蒙の世紀と言われるが、フランスでは背徳文学の世紀でもあって、マルキ・ド・サド(1740-1814)とピエール・コデルロス・ド・ラクロ(1741-1803)を生んだだけでも、他の国に抜きんでている。そうした伝統がなければ20世紀の文学的ポルノグラフィは書かれ得なかったであろう。  またそれだけでなく、文学批評のあり方がまったく違う。英米では20世紀に、ニュー・クリティシズムと言われるものが発生するまでは、作品というものと作者というものを分離させて考える、言い換えれば作品の自立性を前提とする批評が育つことはなかった。フランスでは19世紀から文学批評は高いレベルを確立していたし、批評の基準を作者自体に置くような批評は主流ではなかった。  ポルノグラフィにおいてそこで何が問題となるかと言えば、ポルノとしての作品が作者と切り離されて考察されることがなく、ポルノのような非道徳的な作品を書くような作家は、品性の劣った人間であり、そのような人間の書くものにまともに向き合う必要などないという考えが、英米の批評のあり方であっただろう。  だから英米では文学的に質の高いポルノグラフィが書かれる土壌もなかったし、ポルノグラフィ一般についてそれを文学のテーマとして取り上げる土壌もなかったのである。ソンタグの選択がフランスに偏っている理由と、それらをまともに論じることのできない英米の批評に対する苛立ちの理由は、私にはとてもよく理解できるのである。  ここで私はソンタグが1966年に出した『反解釈』の冒頭を飾るマニフェスト「反解釈」を参照する必要に迫られる。このマニフェストを要約するとすれば、以下のようになるだろう。古来、芸術作品というものはなにか言うべきことを持つ、つまりその作品の内容というものが作品の価値を決定すると考えられてきた。しかし芸術作品に内容と形式という二つのものが存在するという考え方は間違っている。  芸術に対してはその内容を解読し、解釈することが唯一の対応と思われているが、現代は解釈が反動的・抑圧的に作用する時代である。それは対象を貧困化させ、世界を萎縮させる行為にすぎない。ソンタグは最良の批評とは、内容への考察を形式への考察のなかに溶解せしめる種類の批評だ」とし、実践例をアーウィン・パノフスキー、ノースロップ・フライ、ロラン・バルト、ヴァルター・ベンヤミンなどに見出している。 当然アメリカ人もイギリス人も含まれていない。この「ポルノグラフィ的想像力」を「反解釈」という宣言文の実践として読むとすれば、まずポルノであるから論じるに足りないなどという見方は当然のこと、ポルノであるにも拘わらず、社会思想的であれ、精神分析的であれ、宗教的寓意であれ、豊かな思想的内容を含んでいるなどという評価をソンタグはしない。  ポール・グッドマンの言うように「問題はポルノグラフィか否かではなく、ポルノグラフィの質なのだ」から、ポルノという形式はそのままに、その質が問われなければならない。ソンタグの批判する「解釈」によっては、ポルノグラフィの質の違いを弁別することはできないからだ。  ソンタグは表題のようにポルノグラフィの想像力の問題に絞って論じていく。『Oの物語』やサドの作品はその想像力のヴァリエーションや、その射程の距離によって評価される。バタイユの作品の場合には、エロティシズムと死との避けがたい一致についての考察によって、文学史上最高のポルノグラフィと称賛されているのである。  ソンタグの「ポルノグラフィ的想像力」は、それまでポルノについての論じ方を知らなかった英米の批評にとって、まさに革新的な批評ではなかっただろうか。ソンタグの言っていることが常識と思われるとしたら、それはソンタグ自身が切り開いた常識の領野によっているのである。  私はここの作品についてはほとんど忘れてしまっているので、これ以上書くことができない。ぜひとも『眼球譚』と『マダム・エドワルダ』を読み直してみなければならない。 (「ポルノグラフィ的想像力」の項おわり)

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