玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

スーザン・ソンタグ『ラディカルな意志のスタイルズ』(5)

2019年03月25日 | 読書ノート

 Ⅰの2編目は「ポルノグラフィ的想像力」である。ここで取り上げられているのはポルノグラフィ一般ではなく、いってみれば文学的ポルノグラフィのようなもので、具体的に挙げるとポーリーヌ・レアージュ『Oの物語』(日本では最初『O嬢の物語』のタイトルで翻訳されたが、フランス語の原題はHistoir d'Oなので、「Oの物語」の方が忠実)、ジャン・ド・ベルク『イマージュ』と、ジョジュ・バタイユの2冊『眼球譚』『マダム・エドワルダ』である。
 いずれもフランス20世紀の作品で、もう一人参考程度に取り上げられているのがマルキ・ド・サド。その『ソドムの百二十日』と『ジュスティーヌ』の二冊であり、フランスの作品への偏りが顕著である。なぜなのかについてもあとで明らかになるであろう。
 ところで私は『Oの物語』『イマージュ』『眼球譚』『マダム・エドワルダ』『ジュスティーヌ』を読んでいるが、それ以外のいわゆるポルノグラフィを読んでいないと思う。この五冊は今でも書棚に並んでいるが、それ以外のものは見当たらないし、売り払った記憶もない。
 ソンタグの評価と私の趣味が完全に一致していることは、私にとって小さからぬ喜びであったが、それよりもソンタグが他にも質の低いポルノグラフィをかなり読んでいることを考えると、私はポルノグラフィに関しての比較の基準を持っていないのだということも痛切に感じた。
 またもっとひどい話だが、上記5冊の内容を私はほとんど覚えていないのだ。『眼球譚』と『ジュスティーヌ』についてはおぼろにその輪郭が記憶にあるが、他の3冊についてはまったく記憶に止めていない。それでもソンタグのこの論考に興味を感じるのは、これらの文学的ポルノグラフィに関して英米ではまともな評価がされていないということを彼女が言っているからである。

「少なくともイギリスとアメリカでは、ポルノグラフィのしっかりした検討・評価は、心理学者・社会学者・歴史家・法律家・職業的道徳家・社会批評家が使う言説の境界内に、固く閉じこめられている。ポルノグラフィは診断されるべき病であり、審判を受けてしかるべきものとされるのだ。」

 ソンタグが言うように英米では、ポルノグラフィのジャンルの中でも文学的に価値の高い作品を選別するどころか、それを文学のテーマとして取り上げる習慣がないというか、1968年まではなかったのである。それは文学ではなく、病であり道徳からの逸脱でしかなかったのだ。
 このことはソンタグが同種のものと見なしているサイエンス・フィクションに対する英米の評価と比べて著しい対照をなしている。SFもまたポルノグラフィのように、ほんの一部の文学的作品と膨大な量のくずに分類されるという点で同類なのだが、それだけではなく、どちらも常套的な想像力の周辺をうろつくことしかできていないという点でも共通性を示しているのである。
 サイエンス・フィクションに関しては英米がこのジャンルのほとんどを独占しているといった事情もあるが、批評はよく書かれてきたし、SFをまともに文学として取り上げるという風潮もあった。とりわけイギリスのニューウェイヴと言われたJ・G・バラードやブライアン・オールディスの作品は、ソンタグがこの論考を書いた当時、高く評価されていたことを思い出す。
 SFが文学であり得るのに、ポルノが文学であり得ないはずはないというのがおそらくソンタグの考えの基本にある。SFは宇宙空間や宇宙旅行、タイム・トラヴェルなどをテーマとするが、そうしたテーマは現実の人間からは最も遠いところに所在している。一方ポルノは人間の性行為というもっとも身近な場所に生命線を維持している。
 ポルノが基本的には性器と性器との結合のヴァリエーションを描くのだとしても、人間のセクシュアリティに触れないでいることはできない。セクシュアリティが人間と人間との対の関係、家族や肉親を含めてのそれを意味するのであれば、SFと違ってポルノは人間と人間の関係性のあり方(サディスムであったりマゾヒズムであったり)を描くのであって、それが文学にならないわけがないのである。
 だから英米のポルノグラフィ観は、ソンタグにとってはサドの時代からすれば、150年も遅れた状況にあったと言わなければならない。その原因となるものはやはり宗教上の問題、ピューリタニズムの問題と関連させて考えるしかないものであろう。

 


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