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4島返還論は米国の圧力の産物か?

2012-09-17 00:03:20 | 領土問題
 拙記事「松本俊一『モスクワにかける虹』再刊といわゆる「ダレスの恫喝」について」を「ダシ」に、「「ダレスの恫喝」について――「北方領土問題」をめぐって」という記事を書いたとして、オコジョさんという方からトラックバックをいただいた。

 一度目のトラックバックの時に読ませていただいたが、その後、さらに記事に手を入れられたようで、二度目のトラックパックをいただいている。

 拙記事の「主旨は、大筋でそのとおりだと思」うとのことなので、疑義を呈しておられる箇所についてのみ私の考えを述べておく。

 まず、池田香代子氏の記述について。

 また、池田氏は別に『モスクワにかける虹』の中にそういう記述があったと主張しているわけではないのです。池田氏は別のソースに依拠しているかもしれず――別ソースでは確かに「永久に居すわる」旨のダレス発言が取り上げられている例もあります――いきなり「どこにも出てこない」と断言するのは、オカシイでしょう。


 本書巻末の佐藤優氏による解説には、ダレス発言の根拠は本書だけだとあります。実際、ほかにソースがあるという話を聞きません。
 したがって、誰かがダレス発言を勝手に膨らませたのでしょう。それを池田氏が参照し、そう思い込んだのでしょう。
 私が言いたかったのは、本書に拠る限り、「永久に沖縄に居座るぞ、琉球政府の存続も認めないぞ」といった趣旨の発言はなかったということです。別に池田氏が『モスクワにかける虹』の中にそういう記述があったと主張しているとは書いていませんし、池田氏がそう書いた責任が全て氏にあるというつもりで指摘したのではありません。

 次に、4島返還論について。

 松本氏が全権となった「第一次ロンドン交渉」の途中から、日本が4島返還を主張し始めたのは事実ですが、なぜそうした“転換”があったかという問題に関しては、単純に日本の意思だけに帰すことはできません。

〔中略〕

 ダレスの恫喝に先立って、同様の「趣旨の申し入れ」が既に米国からわが国に伝えられていたのは、事実なのです。
 米国からの圧力がなかったわけではなく、合同がなったばかりの自民党内で日ソ国交回復を妨害する勢力であった吉田派が、米国の意思を体現していた可能性は大きいと私も思います(というより、ほぼ事実です)。
 択捉・国後が日ソ友好を引き裂くクサビになると米国が考え、それに基づく明確なポリシーを展開していたことも、間違いない事実でしょう。


 米国がそのような「申し入れ」をしたのは事実でしょう。そして、その背景にはおっしゃるような明確なポリシーがあったのかもしれません(確証がない以上、「間違いない事実」などとは私にはとても言えませんが)。
 しかし、「吉田派が、米国の意思を体現していた」などと何故言えるのでしょうか。
 ソ連による北方領土の奪取をオコジョさんは不当だとは思わないのでしょうか。
 ここで日露・日ソ国境の変遷を詳しく振り返る余裕はありませんが、樺太と交換して得たウルップ島以北の千島列島にしても、日露戦争の結果獲得した南樺太にしても、わが国が侵略により奪取した領土ではありませんから、もとより領土不拡大をうたった連合国に奪われる筋合いはありません。しかし、択捉・国後の両島は、それ以前の最初の日露国境画定時からのわが国「固有の領土」なのですから、なおさら国民感情として容認できるものではありません。
 択捉・国後の要求はわが国として当然のことであり、米国はそれを後押ししたにすぎないと見るべきだと私は考えます。

 以前の拙記事で強調し忘れていましたが、松本は、米国の意向があった「から」わが国は2島返還での妥結は不可能と見て領土問題の棚上げに転じたとは言っていません。
 おそらく、重光も鳩山もそうは言っていないはずです。そんな発言や記述があれば、それこそ“転換”の根拠として挙げられるでしょうから。
 交渉過程での一時的な変心はともかく、松本も重光も鳩山も河野も吉田も、基本的には最低でも4島返還の線で一致していたと見るべきだと私は思います。〔註〕

 なお、サンフランシスコ平和条約でわが国は千島列島を放棄するとしています。これはおそらくヤルタ協定を考慮してのことでしょう。
 そして本書巻末の佐藤優氏による解説にもあるように、1951年10月19日、衆議院の平和条約及び日米安全保障条約特別委員会において、外務省の西村熊雄条約局長は、この千島列島には南千島、すなわち択捉、国後を含むと答弁しています。
 これが含まないという見解に変わるのは、先の拙記事で挙げた1955年の第1次ロンドン交渉の過程においてです。

 しかし、平和条約の当時、吉田首相は既にこの千島列島から南千島を除くよう米国に求めていたといいます。
 吉田の『回想十年』第3巻に次のようにあります。

平和条約の案分がほぼ確定的となった昭和二十六年春、米国大統領特使ダレス氏が〔中略〕来訪したときには、南千島が案分にいうところの千島列島に含まれぬことを明記されたいと要請した。
 然るにダレス氏は、日本側の説明と希望は十分にこれを諒としながらも、もし条文上にその点を改めて明かにするとすれば、関係諸国の諒解を取り直さねばならず、そうなれば条約調印の時期は甚だしく遅れることになるというわけで、草案のまゝ呑んでほしいということであった。そしてその代りというわけでもないが、平和会議に当って日本代表から何かその点に関する見解の表明をしたらよいではないかとの示唆を受けた。日本側としても、幾度かいうとおり、一日も早く講話独立を願っていたので、その示唆に従うことになったわけである。私がサンフランシスコ会議の演説で、条約案受諾の意思を明かにすると同時に、特に領土処分の問題について一言した裏には実はそうした経緯があったのである。(中公文庫版、1998、p.70-71)


 そして、同書に収録されている受諾演説には、次のようにあります。

過去数日にわたってこの会議の席上若干の代表国はこの条約に対して反対と苦情を表明されましたが、多数国間に於ける平和解決に当ってはすべての国を完全に満足させることは不可能であります。この平和条約を欣然受諾するわれわれ日本人すらも若干の点について苦悩と憂慮を感じることを否定できません。この条約は公正にしてかつ史上嘗て見ざる寛大なものであります。われわれは従って日本の置かれている地位を十分承知しておりますが、あえて数点につき全権各位の注意を促さざるを得ないのであります。これが国民に対する私の責任と存ずるからであります。
 一、領土の処分の問題であります。奄美大島、琉球諸島、小笠原諸島〔中略〕の主権が日本に残されるという米全権および英全権の発言を私は国民の名において多大の喜びをもって了承するものであります。〔中略〕千島列島および南樺太の地域は日本が侵略によって奪取したものとのソ連の主張には承服致しかねます。日本開国の当時千島南部の二島択捉、国後両島が日本領土であることについては帝政ロシアも何んら異議を差しはさまなかったものであります。たゞウルップ島以北の北千島諸島と樺太南部は当時日露両国人混住の地でありました。一八七五年五月七日日露両国政府は平和的外交交渉を通じて樺太南部は露領としその代償として千島諸島は日本領とすることに話合いをつけたものであります。〔中略〕また日本の本土たる北海道の一部を構成する色丹島及び歯舞諸島も終戦当時たまたま日本兵が存在したためソ連軍に占領されたまゝであります。(同、p.103-105)


 先に触れた西村局長の答弁も、この受諾演説を援用しています。

 条約にある千島列島の範囲については、北千島と南千島の両者を含むと考えております。しかし南千島と北千島は、歴史的に見てまったくその立場が違うことは、すでに全権がサンフランシスコ会議の演説において明らかにされた通りでございます。あの見解を日本政府としてもまた今後とも堅持して行く方針であるということは、たびたびこの国会において総理から御答弁があった通りであります。(松本俊一『日ソ国交回回復秘録』朝日新聞出版、2012、p.258)


 第1次ロンドン交渉より前においても、南千島と北千島は別物だという見解は既に存在しました。

 この記事を書いていると、オコジョさんからさらに「米国の意思と「北方領土問題」――「訓令第一六号」など」という新記事のトラックバックをいただきました。
 大変興味深い内容であり、私も久保田氏と和田氏の著作に目を通してみようと思います。

 しかし、仮に「訓令第一六号」がそのような内容のものであったとしても、それはその時点での外務省の方針がそうであったというだけにすぎません。
 なるほど外務省は当初歯舞、色丹を最低ラインと考えたのかもしれません。あるいは少なくとも松本にはそう思わせて交渉に臨ませたのかもしません。
 しかし、それはわが国の最終的な判断ではありませんでした。だからこそ松本は請訓し、そして結局のところ重光外相はこれを拒否したのです。
 交渉の一局面にすぎず、それほど重視すべきものではないと思います。
(和田氏の『北方領土問題』は未読ですが、同氏が1980年代に月刊誌『世界』に発表した北方領土問題に関するいくつかの論文は昔読んだことがあります。何というか、どうにかしてわが国に不利な主張を学問的に立証しようと懸命な方だという印象をもちました)

 そしてまた、オコジョさんは、

前回からの続きとして言うならば、ひとりの国務長官の言動に尽きる問題などではなく、もっと広く深く日本の内部にまで浸透していた意思があったのです。


と、米国の意思を強調しますが、何故そこにそれほどこだわるのでしょうか。
 米国の意思はあったのでしょう。だがわが国の意思はなかったのでしょうか。
 また、米国が米国の国益を考慮してわが国に働きかけること自体は何ら非難すべきことではないと思います。

 私自身は「四島返還論」は交渉の妥結を不可能にする「ため」に主張されていた(いる)ものと考えています。「北方領土問題」が解決してしまっては困る人たちが、国の内と外の双方にいると考えます。


 オコジョさんに限らず、そのように主張する方はしばしばおられますが、私は同意しません。何を根拠におっしゃっているのかもわかりません。
 北方領土問題の解決は多くの国民が望んでいるでしょう。ただ、2島返還で「「北方領土問題」が解決してしまっては困る人たち」が国民の大多数であるというだけのことではないでしょうか。
 2島返還ででも解決したほうがいいと考える人が多数を占めれば、それで解決するでしょう。
 それだけのことではないでしょうか。

 オコジョさんをはじめ、この米国の意思を問題視する方は、あのとき2島返還ででも妥結して平和条約を締結しておけば、日ソの友好が進み、米国のわが国における影響力は低下し、東アジア情勢も現在とはかなり異なるものになっていたのではないかという願望があるのでしょう。
 しかし、そもそも中立条約を破って不当に参戦し、捕虜を長期にわたって抑留し強制労働で死亡させ、あげくの果てに択捉・国後すら返さない、そんな国と、仮に平和条約を結んだとしても、どうやって友好関係を築くことができるのでしょうか。

 私も、オコジョさんに倣って北方領土問題に対する考えを簡単に示しておきますと、

1.もともと南樺太も千島列島もわが国が侵略して奪取したものではない。したがってわが国は4島のみならず南樺太と千島列島に対しても領有権を主張できる。
2.しかし、歴史的経緯に鑑み、4島のみの返還で平和条約を締結するのもやむを得ない。
3.北海道の一部である歯舞、色丹と南千島である国後、択捉とでは経緯が異なるのだから、4島一括返還に固執する必要はない。国後、択捉の継続協議を明記するなら、歯舞、色丹の先行返還もやむを得ない。しかし、2島返還をもって最終的解決としてはならない。
4.歯舞、色丹は北海道の一部であるから即座にわが国に編入すべきだが、国後、択捉については、わが国の主権が及ぶことを確認した上で、在住ロシア人を考慮した特殊地域とすることを認めてもよい。しかし、主権の存在確認は譲れない。

といったところでしょうか。
 ただし、これはこの地域に全く利害関係のない、一国民の戯れ言です。
 旧島民や北海道民、漁業関係者といった言わば当事者が、例えば2島返還でもよいから平和条約をと求めるなら、自説に固執するつもりはありません。

 あと、

 この論理をもう少し先に進めれば、日ソの国交回復自体を否定していた吉田茂の方針に至ります。日本にソ連の大使館を置くのを防ぐためになら、国が抑留者を見捨ててもいいという考え方には、私はとても同意できません。


との箇所については、私もそのとおりだと思います。
 だから私は、領土問題を棚上げして国交回復を成し遂げた鳩山一郎を支持します。
 実は、私は鳩山一郎という政治家をあまり高く評価していません。しかし、この領土問題を棚上げしての国交回復という一事だけでも、わが国の歴史に残すべき政治家だと思います。
 国交が回復しなければ、抑留者の全面帰国も、わが国の国連加盟も、漁業問題の解決も不可能だったのです。しかも、歯舞、色丹のみの引き渡しでは妥結せず、国後、択捉を返還させ得る可能性を残したのです。
 そういった事情を全く無視して、例えば

「北方領土について、日本側の立場の後退を受け入れた」

「友愛を「戦闘的概念」と言いながら、一郎はソ連と闘うよりも領土で譲った」

となじる櫻井よしこのような評論家もいますが、全くの愚論だと思います。


(以下2013.2.13追記、2013.2.14修正)
註 《交渉過程での一時的な変心はともかく、松本も重光も鳩山も河野も吉田も、基本的には最低でも4島返還の線で一致していたと見るべきだと私は思います。》

 このようには言えないことがわかりましたので、削除します。

 詳細はオコジョさんの記事

日米関係と「北方領土」問題――再び「ダレスの恫喝」

及び2013年2月13日付拙記事

オコジョさんの指摘について(2) 私の認識不足について

を参照願います。