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通州事件について

2010-10-18 00:03:07 | 大東亜戦争
 JJ太郎さんのブログ「偏った歴史観を見直す「かつて日本は美しかった」」の記事「恨みは深し通州城」の冒頭に次のような記述がある。

 日本人が大虐殺された歴史。隠された歴史、通州大虐殺。

日本の歴史上、これほどまで言論空間が固く口を閉ざしている事件がありましょうか。昭和12年7月29日、支那保安隊による日本人大虐殺「通州事件」です。冀東防共自治政府(きとうぼうきょうじちせいふ)保安隊(中国人部隊)が、華北各地の日本軍留守部隊約110名と婦女子を含む日本人居留民約420名を襲撃し、約230名が虐殺された事件です。例えば岩波新書「満州事変から日中戦争へ」加藤陽子著を開きますとこの事件については一切触れていません。


 加藤陽子『満州事変から日中戦争へ』は、タイトルどおり満洲事変から日中戦争に至る経過を描いたものであり、日中戦争自体を深く記述した本ではない。盧溝橋事件から南京戦までの記述はわずか11ページにすぎないから、一エピソードにすぎない通州事件が省略されていても不思議ではない。
 大杉一雄『日中十五年戦争史』(中公新書、1996)にも、太平洋戦争研究会『日中戦争がよくわかる本』(PHP文庫、2006)にも、通州事件についての記述はある。小林英夫『日中戦争』(講談社現代新書、2007)にも年表中に記述されている。

 私が通州事件について知ったのは、おそらく産経新聞の連載「教科書が教えない歴史」(1996~1997年)であったように思う。もしかしたらそれ以前にもどこかで目にしたかもしれないが、印象には残っていない。
 この連載は単行本化され、のち文庫化もされ、さらに現在でも普及版が版を重ねている。
 
 通州事件は「隠された歴史」「日本の歴史上、これほどまで言論空間が固く口を閉ざしている事件」などではない。


 ただ、たしかに、こんにち広く知られている事件ではないだろう。
 また、語られる機会も少ないと言えるだろう。

 では、それは何故なのだろうか。
 
 私は最近まで知らなかったのだが、こちらのサイトによると、犠牲者の半数は朝鮮人なのだという。
 信夫清三郎の『聖断の歴史学』という本に次のような記述があるという(引用元では著者名は「信夫信三郎」とあるが、誤り)。

 当時の支那駐屯軍司令官香月清司中将の『支那事変回想録摘記』が記録する犠牲者の数は、日本人一〇四名と朝鮮人一〇八名であり、朝鮮人の大多数は「アヘン密貿易者および醜業婦にして在住未登録なりしもの」であった。朝鮮人のアヘン密貿易者が多数いたことは、通州がアヘンをもってする中国毒化政策の重要な拠点であったことを示していた。


 戦後、原爆投下や東京大空襲がこんにちまで語られ続けているのは、語り続けた者がいたからである。数多くの証言が残されているからである。
 満洲からの引揚者がいかに辛酸をなめたかも、それらが語り続けられたことにより広く知られている。

 戦後、通州事件について語られることが少なかったのだとすれば、その理由の一端は、上記のような事情によるのかもしれない。
 
 また、これも私は知らなかったのだが、同じサイトによると、通州事件については冀東防共自治政府が日本政府に対し謝罪と賠償をすることにより解決済なのだとという。
 
 朝鮮は当時日本領であったから、朝鮮人も当然日本国籍であった。したがって、対外的にはどちらも日本国民だった。
 しかし、わが国内で、朝鮮人と日本人が全く同様に扱われていたわけではもちろんない。朝鮮人の戸籍は日本人とは区別され、権利も制限されていた。
 だからこそ、犠牲者が日本人何名、朝鮮人何名と特定できたのだろう。
 それを、JJ太郎さんのように、

「支那保安隊による日本人大虐殺」
「婦女子を含む日本人居留民約420名を襲撃し、約230名が虐殺された」
「日本人民間人を殺戮しました」
「日本人はなぶり殺されました」

と表現するのは、誤解を招くものではないだろうか。

 JJ太郎さんが、

この事件の背景には支那共産党と中華ソビエト共和国が昭和10年の八・一宣言を契機に反日組織を続々誕生させたことがあります。昭和10年11月に冀東防共自治委員会が成立しています。宋哲元が委員長に就任します。保安隊の第一総長は張慶餘(ちょう けいよ)で、彼は宋哲元と会い、抗日決意を述べ、宋哲元は軍事訓練を強化して準備工作をしっかりやれ、と命じカネを渡します。すでに共産思想にそまっていたわけです。


と書いているのも不可解だ。昭和10年11月に成立した冀東防共自治委員会とは、この通州事件を起こした保安隊が所属していた冀東防共自治政府の前身であり(同年12月に自治政府と改称)、委員長は記事中でも触れられている殷汝耕だ。
 宋哲元が委員長を務めたのは「冀察政務委員会」だ。これは、日本軍の傀儡である冀東防共自治委員会に対抗して、南京の国民政府が北京に設立した自治的機関であり、河北省と察哈爾省を管轄していた。

 両者の名称は似ているから、JJ太郎さんは混同してしまったのかもしれない。
 しかし、冀東防共自治委員会にしろ冀察政務委員会にしろ、日本軍による華北分離工作の結果成立したものであり、中国共産党が誕生させた「反日組織」などでは全くない。JJ太郎さんが何を根拠に上記のように書いているのか理解しがたい。

 JJ太郎さんはそもそも、冀東防共自治委員会や冀察政務委員会がどういう事情の下で成立したものなのか理解しているのだろうか。
 ブログタイトルで「偏った歴史観を見直す」とうたいつつ、その実、自らが別種の「偏った歴史観」の産物のみを真に受けて、十分に理解しないままそれを広めているにすぎないのではないだろうか。
 そんな印象を受けた。