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昭和戦前期の政治に学ぶとすれば(前)

2009-08-16 23:05:05 | 日本近現代史
 7月28日の産経新聞「正論」欄に、井上寿一・学習院大学教授の次のような文章が載っていた。
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昭和戦前期の歴史に学ぶ教訓


不確実な新政権の枠組み

 8月30日の総選挙の結果、民主党が第一党になることは確実である。しかし、新しい政権の枠組みは不確実であるといってよい。

 総選挙後の国内政治システムの予測困難性は、国際環境の不透明さによって増幅される。

 昨年秋以来の世界同時不況は、小康状態を保っているものの、景気が二番底に向かうリスクを抱えている。今春から続く北朝鮮のミサイル・核実験によって、東アジアの安全保障環境に危機が訪れないとも限らない。

 このような不確実性が増す国際環境のなかで、総選挙後の国内政治はどのようなものになるべきだろうか。

 以下では昭和戦前期との歴史的類推から考えてみることにする。

 昭和8年の日本は、「非常時小康」の時代を迎えていた。満州事変と5・15事件をきっかけとする「非常時」は続いていたものの、「小康」状態が生まれていた。

 この年の国際連盟脱退通告によって、かえって対外危機は沈静化に向かっている。5月には日中停戦協定が成立する。他方でこの年を境に経済危機も沈静化する。高橋(是清)蔵相の積極財政が功を奏したからである。


基本国策の共有が前提

 このような危機の沈静化は、協調外交の修復と政党政治の復権をもたらす。政党は軍部批判に立ち上がった。当時の第一党は政友会である。しかし国民が期待したのは、政友会の単独内閣の復活ではなかった。これでは政友会と民政党の二大政党制の復活につながりかねない。二大政党制の下で党利党略に明け暮れる政党政治に用はなかった。国民は、「小康」状態のうちに、新しい政党政治の枠組みの確立を求めていた。それは政友会と民政党が提携し、無産政党も協力する、政党内閣の新しい枠組みだった。

 この構想の実現可能性が高まれば高まるほど、国内外の危機の沈静化は確実なものとなっていく。ところが皮肉にも、そうなると今度は政党間の連携に乱れが生じた。危機が沈静化に向かうなか、協力するよりも自党の利益を重視するようになったからである

しかも衆議院議員の任期満了に伴う総選挙が近づいていた。第一党の政友会は単独内閣をめざす。無産政党は自己主張を始めて、民政党との対立を深めていく。

 このような国内の政党間対立の混乱に乗じて、現地軍が中国大陸で蒋介石の国民党勢力を華北地方から排除する政治工作をはじめた。日中の外交関係の部分的な修復は、大打撃を受ける。日中関係はふたたび悪化した。

 緊迫化する内外情勢の下で、昭和11年2月20日、総選挙が実施される。第一党は、205議席の民政党だった。政友会は改選前301議席から171議席へと転落した。無産政党は22議席へ躍進した。この選挙結果に示される国民の意思とは、民政党と無産政党が中心の連立内閣によって、社会民主主義的な改革を進めるというものである。政党政治に対する国民の期待は揺るがなかった。

 危機感を抱いた軍部の一部がクーデター事件(二・二六事件)を起こす。国民が反乱軍に同情することはなかった。しかし実際に反乱を鎮圧したのは軍部であり、これをきっかけとして軍部が再台頭する。ほどなくして日中間の軍事衝突が勃発(ぼっぱつ)する(昭和12年7月の盧溝橋事件)。体制統合の主体を失った日本は、戦争の拡大を抑制できずに破局へと向かった。


代表民主制に信頼回復を

 以上の昭和戦前期の歴史から、今日の私たちは、どのような教訓を学ぶべきだろうか。

 第1に、二大政党制よりも連立の枠組みの重要性である。当時と類似した「非常時小康」下において、国民が求めているのは、非常時の再来に備えてあらゆる政策の実行を可能にする強力な国内体制の確立である。民主党の単独政権に任すわけにはいかない。そうだとすれば、民・自+αの連立政権を構想すべきである。

 第2に、主要政党は基本国策を共有しなくてはならない。複数政党制の成立は、基本国策の共有が前提条件となっている。昭和戦前期の政党は、政権獲得のために政策の違いを過度に強調することで自滅した。

 今も総選挙に向けて、同様の誤りに陥りかねない状況が生まれている。必要なのは、政権交代によっても変わることのない、外交・安保の基本国策の共有である。

 第3に、代表民主制への信頼の回復である。日中全面戦争勃発の直前まで、国民は平和と民主主義を求めていた。平和と民主主義は、政党政治をとおして実現する。国民は代表民主制への信頼を失うことがなかった。

 今日の私たちも、代表民主制への信頼を回復すべきである。国家と国民をつなぐ政党の政治への信頼回復は、国家と国民の一体感の再形成をもたらすだろう。そうなれば国民国家日本の再建が可能になるはずだ。

 私たちは昭和戦前期の歴史の教訓を活かさなくてはならない。



 一読して、次のような疑問を持った。

1.国民が政党内閣を求めた?

二大政党制の下で党利党略に明け暮れる政党政治に用はなかった。国民は、「小康」状態のうちに、新しい政党政治の枠組みの確立を求めていた。それは政友会と民政党が提携し、無産政党も協力する、政党内閣の新しい枠組みだった。


 斎藤内閣、続く岡田内閣で、政友会と民政党が提携する動きが一時あったとは聞く。しかし、それに無産政党をも加えての枠組みを国民が求めていたとは、聞かない話である。
 井上は何を根拠にこのようなことを述べているのだろうか。井上の著書を読めばわかるのだろうか。


2.「民政党と無産政党が中心の連立内閣」が「国民の意思」?

 
この選挙結果に示される国民の意思とは、民政党と無産政党が中心の連立内閣によって、社会民主主義的な改革を進めるというものである。政党政治に対する国民の期待は揺るがなかった。


 何をもって「国民の期待は揺るがなかった」と言えるのだろうか。昭和会や国民同盟のような右派政党が多数を占めなかったからか。右派であっても、政党は政党だろう。議会で政党を構成することが認められている以上、立場はどうあれ政党政治になるのではないか。それとも当時、政党を否定して無所属で議員になろうとする運動があったとでも言うのだろうか。

 民政党が第1党になったのは、率直に言って、民政党が岡田内閣の与党的立場(2名が入閣。政友会は入閣した3名を除名し野党的立場をとった)にあったからではないだろうか。
 無産政党が伸張した要因は、林立していたいくつかの無産政党が社会大衆党に糾合したことと、労働運動の進展にあるのではないか。
 そして、当時は議院内閣制ではない。民政党と無産政党で衆議院の多数を占めたとしても、それで衆議院が首相を指名するわけでもなければ、内閣を承認するわけでもない。「民政党と無産政党が中心の連立内閣によって」などと何を根拠にして言えるのだろうか。
 選挙の結果は、与党的立場にあった民政党が第1党になったことにより岡田内閣の政権基盤が安定したということにすぎない。
 選挙結果を受けて政党内閣に戻せという動きが生じたとは聞かないし、内閣改造を行う気配があったとも聞かない。
 
 また、そもそも民政党と無産政党が連立を組む可能性などあったのだろうか。

 こういったことも、井上の著書を読めばわかるのだろうか。

 戸川猪佐武『昭和の宰相2 近衛文麿と重臣たち』(講談社文庫、1985)はこの総選挙について次のように述べている。

このときの総選挙に対して、中間内閣である岡田内閣がとった作戦は、〝選挙粛正〟をきびしく打ち出したことである。岡田を支える軍部、新官僚は、
 ――選挙の粛正を徹底することで、政党を弱体化させ得る。
 というねらいをもっていたのだ。すでに岡田は前年の十年五月八日に、勅令として選挙粛正委員会令なるものを発布、施行し、これにあわせて選挙粛正中央連盟というものを結成していた。
 連盟の会長には、前首相の斎藤実を任じ、理事長に官僚の永田秀次郎(戦後の永田亮一代議士の父)を起用した。
 この連盟は、前年秋に行われた府県会議員選挙に臨んでも、政府の別働隊としてはたらいた。いってみれば、粛正を名目に、買収、供応などの腐敗を監視、チェックするということであった。こけによって、政党の活力、気力をそぐというのが、この連盟の目的であったといえよう。
 この方式が、十一年(一九三六)の総選挙にも適用された。不正の監視、チェックが柱となったので、極端な干渉、弾圧は少なくなったものの、総選挙そのものが中央連盟の下に運営されるような形になった。政党は、粛正と連盟を意識しながらの選挙運動になってその活動は萎縮した。(p.132-133)


 また、岡田啓介はこの総選挙について、回顧録で次のように述べている。

わたしとしては、ことごとに政友会が政府と事を構えようとすることに対し、政党を刷新して、もっと強力に政策をおしすすめなければ、こんな騒然たる状態を切り抜けることは出来ないと思っていた。与党にはしかるべく資金の援助をしなければならないが、金がない。興津の西園寺さん〔引用者注・元老西園寺公望〕をたずねた折、わたしの貧乏なことはよく知っておられるので、「お前も金がなかろうから住友へ行け、ちゃんと話がしてある」といわれる。住友なんて、わたしは知らないが、もう先方との話はついているとのことなので、松平康正候に京都までその金をとりに行ってもらった。金額は百万円だったと思う。
 そのとき迫水〔引用者注・迫水久常。岡田の女婿で首相秘書官を務めていた。鈴木貫太郎内閣では書記官長(現在の官房長官に相当)を勤めた。戦後、自民党参議院議員〕から、これからの日本では健全な無産政党を発達させる必要があるので、その方面へいささかの援助をしては、という話が出た。私は、民政党などを与党にしているから、わたしが直接そんなことは出来んが、お前がやるんなら知らん顔をしていよう、と言っておいた。それで迫水が麻生久〔引用者注・社会大衆党書記長〕を訪れ、選挙費用を提供したということだったが、この選挙で無産政党の進出は目ざましかった。(『岡田啓介回顧録』中公文庫、1987、p.152)


 政府が無産政党を支援していたわけだが、これでも「国民の意思」などと言えるのだろうか。
 また、当時の社会大衆党には麻生久をはじめ親軍、親新官僚の傾向を示す勢力が存在した。のちに、同党がいわゆる新体制運動に率先して賛同し、自ら解党したことも忘れてはならない。彼らを「社会民主主義」と呼ぶことに私はいささかためらいを覚えるが、どうだろうか。

続く