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石射猪太郎『外交官の一生』(中公文庫、1986) (3)

2009-08-13 23:59:45 | 日本近現代史
(前回までの記事)
 石射猪太郎『外交官の一生』(中公文庫、1986) (1)
 石射猪太郎『外交官の一生』(中公文庫、1986) (2)

石射の人物評は興味深い。

○田中義一と森恪
 田中総理兼外相は、政界に数々の笑話を残し、ドン・キホーテなどといわれたが、その大まかで小節にこだわらない人柄に、私は好感が持てた。が、この兼摂外相をあやつる役者は森政務次官であった。森氏は外務省の幹部を捉えて、君達は政党内閣の下で勤務する以上万事与党の方針に従うべきだと、高飛車に出て無遠慮に言動した。省の機密費はおれが握ると、頑張ったとの噂もあった。豪放にして機略縦横、対華問題には、徹底的強硬論者であった。(p.157-158)


○本庄繁
 関東軍司令官本庄中将は、事変の当初幕僚に軟禁されて、神仏三昧に暮らしていると伝えられた。外部と接触させると、雑音が入って司令官の心境が濁るとの考量から、幕僚が司令官を外部と絶縁しておくのだといわれた。私が本庄中将に会ったのは、多分私が満洲引き揚げの途中奉天に立ち寄った時であった。もう事変も第二年の夏となったので、司令官は軟禁を解かれたのであろう。会見を申し込むとたやすく会えたのみならず、晩餐にもよばれた。見覚えのある張作相の奉天別邸が司令官官舎になっており、居室には日本各地からの寄贈とみえて、神社仏閣の大型のお守り札が、何百枚となく安置されてあった。軍司令官の神仏三昧とは、これだなと思い当たった。事変が温厚そのもののごときこの将軍の意図に反して敢行された事情は、もはや世間の常識になっていた。私はこの人に軍人を感ぜずして紳士を感じた。(p.221-222)


○影佐禎昭
 影佐中佐とは数年後、日華事変中に職務上再び接触しなければならなかったが、上海以来私の知ったこの人は、面と向っては態度慇懃、話が軽妙で外面的には練れた人物であったが、一寸も油断のならない鋭い謀略家であった。あとで書く通り、第一次近衛内閣の宇垣外相が興亜院問題で職を辞したその原因をたどると、当時の陸軍軍務課長影佐大佐に突き当たるのである。汪精衛氏を重慶から脱出させ、南京に遷都させた大芝居の作者が影佐大佐であることは、今や周知の通りで、謀略にかけては、鶏鳴狗盗の雄にすぎない土肥原将軍などよりは、はるかに冴えた手腕の持ち主というべきであった。(p.243)


○張景恵
 各国の代表者中、最も洒々落々、老獪不敵な面魂に見えたのは満州国総理の張景恵であった。満州国はどうせ日本の丸抱えである。日本のお気に召すように傀儡的に動けばこと足りる。明日は明日の風が吹くといった諦観と、日本人の気質をすっかり呑み込んだ多年の経験がさせる芸であろうか、彼の態度は東亜の運命を決する歴史的大舞台を舐め切っているような落ち着きぶりであった。彼はかつて汪精衛と面談した時、国政は日本人官吏に任せてやらせるに限るよ、薄給に甘んじてしかも仕事に熱心だから、安上がりで能率があがる、お前の方もそうするがよい、と汪氏に教えたと伝えられた。彼の目からすれば、汪精衛氏などは、まだ青臭い素人に見えるのに相違なかった。(p.437)


○木村兵太郎と田中新一
 木村軍司令官とは、三巨頭会談〔引用者注・ビルマ国家代表バーモーと木村ビルマ方面軍司令官と駐ビルマ大使である石射との会談〕以外に折々会談した。私が軍司令官に向って力説したことは、バーモー氏問題であった。軍内部のみならず在留民間人の間にも反バーモー熱があり、〔中略〕悪質な打倒バーモー宣伝を撒き散らした。日本が国策として護り立てたバーモー氏を、何故の打倒か。軍内部の反バーモー派の粛清はもちろん、こうした居留民を、軍の実力で追放すべきではないか。
 軍司令官の答えはいつも煮えきらなかった。田中参謀長が軍司令官の意向を呑み込んだまま、実行に移そうとしないらしかった。太平洋戦争緒戦の作戦立案者だったといわれるこの参謀長の威力は、全方面軍を圧するもののごとくであった。軍司令官はこの参謀長の前には権威がなく、配下の軍から浮いている存在らしかった。(p.460)

 敗軍の最中に、木村軍司令官は大将に栄進した。バーモー氏護衛隊長の森応召中尉が、ある日、私のところに遊びに来て、不思議そうに言った。
「戦争に敗けて大将になるとはどんなわけでしょうか」(p.475)


○オンサン
 わが軍が教官を配して養成しつつあったビルマ陸軍部隊も、ようやく訓練成って戦線に加わることになり、その出陣式が三月中旬に行われた。〔中略〕将校も兵もとぼとぼした足並で頼りない感じだった。
 出陣式のあった翌日か翌々日か、オンサン陸相は自らこの部隊を率いてプローム方面に向けて進発したと見せかけ、ラングーンを離れるやたちまち戈を逆しまにし、郊外の手薄なわが警備陣に対して、ゲリラ戦を開始した。前もって十分計画されていたものとみえ、ラングーン以外の地方でも、同時にゲリラ軍が蜂起した。〔中略〕
 かつてはわが軍をビルマ進攻に導いたオンサン少将が何故の背叛か。軍の参謀達はいろいろ理由をつけたが、詮ずる所、わが軍の不徳と戦局の不利が招いた結果であって、軍がオンサン少将に見限られたというべきであった。
 市の内外が目立って不穏になってきた。
 〔中略〕彼は三十二、三歳、寡黙無表情で何を考えているかわからない奇異な人物であった。(p.462-463)

〔引用者注・オンサンとはアウン・サンとも表記。かのアウン・サン・スー・チーの父である。〕


 そのほかにも目を引く記述は多い。

○普通選挙
 一九二八(昭和三)年二月、わが国初めての普通選挙があり、家父が政友会から立候補した。私のイギリス行の直前であった。父への応援に、郷里に下って選挙というものの実際を見た。父は楽々と当選したが、普通選挙などといっても、地方人は金をくれなければ動かない実情であった。(p.163)


○慰安婦
 将士の生理的需要に応ずるため、多数の朝鮮婦人が輸入されたが、商売は繁盛しなかった。東北農家の窮乏を反映して、兵達の多くが給与を郷里送金にするからであった。ただ将校の中には、料亭に登って抜き身を振り回すような乱暴者もいた。(p.209)


○シャム
 対外政策に関する限り、シャムは自己保存に徹し、いやしくも外国からつけ込まれることのないようにとの慎重さにおいて、軍・官・民、心を一にした。イギリス、フランス二大強国の植民地に挟まれて嘗めてきた、失地と屈辱の苦杯から得た小心翼々、保身に徹する叡知の外交なのである。
 日本・シャム親善にしても、シャムとして素より望むところであるとはいえ、日本側からのあの手この手の親善攻勢は無気味であり、迷惑であるに相違なかった。親善への深入りは、日本から次に来るものの恐ろしさを想像せしめ、同時にイギリス、フランスの嫉視を憚らねばならないからだ。あるシャム紙はこの関係を忌憚なく表現した。前門虎を拒けても、後門狼を進めては何んにもならぬと。
 国際連盟でのリットン勧告案の票決にしても、イエスと投ずれば日本がこわいし、ノーと投ずれば、国内二百五十万の華僑が納まらない。やむなく無難な危険へと逃避したのだが、それを日本への好意の表示ととられたのは、自分らの全く意外とするところであった、とあるシャム友人が坦懐に私に語った。
 シャムの欲する日本・シャム親善は、あくまで有無相通のビジネス親善であった。シャムは無血革命の理想とする近代国家の建設に必要な資材と技能を、最も格安に仕入れ得る便利な源泉として、日本に接近してきたのである。(p.277-278)


○敗軍の将

 抑留された陸軍の将校達も、長い間にはいくぶん外出の自由を許されて、大使館に来訪した。精神家の中村軍司令官は、祖国の悲運を身にしめて、深く謹慎の態度を持したが、花谷、佐藤(賢)両中将は大使館に来ても談笑常のごとく、日本を亡国に導いた自分達の役割についていささかも反省の色を示さなかった。内心の苦悶は知らず、彼らの言動は自己の過失を忘れ去ったかのごとくであった。(p.485)

 花谷とは花谷正。満洲事変首謀者の1人。悪評で知られる。
 佐藤(賢)とは「黙れ!」事件で著名な佐藤賢了。

続く


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