トラッシュボックス

日々の思いをたまに綴るブログ。

ある鉄道関係の新聞記事を読んで

2008-01-06 23:56:14 | 日本近現代史
 毎週土曜日の『朝日新聞』夕刊に「ぷらっと沿線紀行」という連載記事が載っている。日本各地の鉄道沿線をめぐる記事で、薄い鉄道ファンである私はいつも楽しみにしている。
 1月5日の第34回は、神戸電鉄の有馬・粟生線が取り上げられていた。
 その記事中に、次のような文章がある(ウェブ魚拓)。


《有馬線の開業は1928(昭和3)年。10年後に現在の粟生線の三木まで開通する。山岳を貫く難工事は事故も多発した。

 金鳳斗、李命福、安龍達……。1936(昭和11)年11月に起きた藍那トンネル崩落事故を伝える大阪朝日新聞には、死亡した6人の朝鮮人の名が並ぶ。建設を担ったのは、千人を超える朝鮮人労働者だった。

 神戸学生青年センターの飛田(ひだ)雄一さん(57)は在日2、3世らと当時の新聞を調べ、27~36年に5回の事故で計13人が死んだことを明らかにした。「発展の陰には過酷な労働があった歴史を見つめてほしい」 》


 私はこの記事を読んで、おそらくは執筆者が意図したこととは異なる点に興味を持った。
 私は在日朝鮮人の歴史についてそれほど詳しくはないのだが、韓国併合後、もっぱら経済的理由により、多くの朝鮮人が日本に渡航したと聞く。しかし、労働は過酷かつ低賃金で、また日本人からの差別に苦しめられたと聞く。だから、当時の日本社会においては、在日朝鮮人は的な扱いを受け、表立っては語られることがない存在だったというイメージが私にはあった。
 ところが、この「ぶらっと沿線紀行」によると、大阪朝日のような有力紙に、事故で死亡した朝鮮人労働者が実名で掲載されていたという。
 実名で掲載されたということは、それだけのニュースバリューがあったということだろう。つまり、その新聞を読んで、えっあの人が亡くなったのかと思う読者がいたということだろう。
 このトンネル崩落事故を起こした工事は、かなり無理な進め方がなされていたらしい(参考)。しかし、朝鮮人労働者が牛馬同然の純然たる消耗品としてしか扱われていなかったのなら、わざわざ氏名や人数までも報道する必要はなかっただろう。
 当時、朝鮮人もまた日本社会を構成する一員と認められていたことを示す1つの資料と言えるのではないかと、私は受け取った。

 藍那トンネルと朝鮮人労働者については、こちらのサイトも参考になる。