トラッシュボックス

日々の思いをたまに綴るブログ。

安倍首相辞意表明の報を聞いて

2007-09-12 13:56:19 | 現代日本政治
昼の臨時ニュースで知り、驚いた。
改造内閣も発足し、これからテロ特措法延長に向けて知恵を絞っていくのではなかったのか?
何故今?
赤城農水相辞任の時もタイミングの悪さが指摘されたが、今回はさらにひどすぎる。考え得るかぎり最悪のタイミングだと思える。
辞意の詳細はわからないが、仮に今すぐ辞めるのでないにしろ、死に体化は避けられまい。私は安倍が何かにつけて「坊っちゃん」と揶揄されるのを苦々しく思っていたが、残念ながらそれは当たっていたようだ。

続報

共同通信の平壌支局開設は評価すべきなのか

2007-09-03 12:01:09 | マスコミ
 共同通信社が日本の報道機関として初めて北朝鮮に支局を開設して、丸1年が経過した。
 この件を、『産経新聞』紙上で大島信三編集委員が取り上げている(ウェブ魚拓)。
 意外に高評価なのに驚いた。

 私は知らなかったのだが、平壌支局に記者は常駐しておらず、中国総局の記者が支局員を兼ねているのだという。
 若干名の現地スタッフがいるが、日本語はもとより英語も話すことはできないという。
 平壌支局は朝鮮中央通信の社屋内にあるという。ならば、現地スタッフも朝鮮中央通信社の人間か、それに類する者ではないだろうか。


《支局開設からこの1年間で加盟社へ配信された原稿の本数は合計で約80本。月によってばらつきがあり、北朝鮮が核実験を実施した昨年10月は30本あったが、12月はゼロ。ことしに入って5月もゼロだった。しかし6月は15本という具合になる。〔中略〕いずれにしても年間約80本という記事量が多いのか少ないのか、見方は分かれるであろう。むしろ、数よりも質で北朝鮮の実情をもっと打電してほしかった面もあるが、閉鎖的な体質を考えれば、期待するのも難しいだろう。》


 「見方は分かれるであろう」と言われても、他国との比較がなければ読者には判断の仕様がない。
 しかし、韓国や中国の記事が年間約80本とは到底考えられないから、日本人読者の関心が高い近隣諸国としては、やはり少ないと見るべきではないか。


《西側メディアのトップをきって、共同よりひと足早い5月に開局した米AP系列の映像配信会社APTNも派手な活躍はしていない。また友好国である中国の新華社にしても、ロシアのイタル・タス通信にしても平壌支局は鳴かず飛ばずの状態だ。

 ただ平壌支局開設の効果は徐々に表れてきているという。北京常駐の記者や東京本社の取材チームがこれまで以上に平壌へ入りやすくなり、北朝鮮外務省の日本担当官との会見も何度か実現。たとえ一方的な情報であれ、取材ルートが曲がりなりにもできつつある。

 現在のところ「取材上のことも含めトラブルは一切ない」(中屋外信部長)というが、望ましいのは日本人記者の常駐。だが、その実現性はいまのところ薄いようだ。共同はこれからも常駐化を求めていくというが、北朝鮮の政治プロパガンダの網の目をかいくぐって、どこまで客観的な報道ができるか。2年目に入った平壌支局をこれまで以上に注目していきたい。》


 APTNや新華社、イタル・タス通信の記者は常駐しているのだろうか。仮に常駐していても「鳴かず飛ばず」なのなら、日本人記者が常駐しても同様ではないだろうか。

 誰かが言っていたが、北朝鮮の報道機関と同じ報道をするのなら、支局を置く意味はない。北朝鮮の通信社からの配信を受ければ同じことだから。
 「平壌発○○」の表記とは、それほど魅力的なのだろうか。それはマスコミ界だけの都合、メンツ争いみたいなもので、一般読者にはどこからの配信だろうがどうでもいいことではないだろうか。

 かつて中国で文化大革命が盛んだったころ、日本のマスコミ各社の特派員が、朝日1社を除いて中国から放逐された。朝日は文革派の意に沿う報道を続け、日本人の文革観を大いに歪めた。また林彪失脚説が流れる中、頑として林彪健在と報じ続けたこともよく知られている。
 やがて文革派の退潮に伴い、朝日以外のマスコミも中国に復帰したが、産経だけは長年復帰しなかった。これは、中国が「一つの中国」の立場から台湾支局の閉鎖を要求したのに対し、産経だけがこれに応じなかったからだ。
 結局、産経は台湾支局を閉鎖しないまま、1998年に中国総局を設置することに成功した。するとそれを見た他社はこぞって台湾に支局を設置した。
 朝日の姿勢はわが国のマスコミ史上における汚点だと思うし、産経のそれは高く評価すべきだと思う。
 その産経が、共同通信の支局設置にこれほど好意的な姿勢を示しているのは、私には理解しがたい。

2大政党制は妄想か

2007-09-02 01:48:02 | 珍妙な人々
 雑誌『WiLL』の10月号に、西尾幹二の「二大政党制という妄想」と題する文章が載っている。
 私は2大政党制志向なので、興味をもって読んでみた。
 談話を元にしたものなのか、話があちこちに飛んで、たいへん読みづらい。
 本題の2大政党制についての主張を強引にまとめてみると、西尾はどうも次のようなことを言いたいらしい。

・2大政党制はアングロサクソン系の国に特有の、世界的には少数派の制度である。
・サルトーリによると、2大政党制のほかに、1党優位制、穏健な多党制、分極的な多党制といった類型がある。レイプハルトは、民主主義政治の類型を多数決型民主主義(2大政党制)と合意形成型民主主義(1党優位制、穏健な多党制、分極的な多党制)に二分し、実証研究により全ての面で後者の方が前者より優れているとしている。
・日本には2大政党制はなじまない。また分極的な多党制もなじまない。穏健な多党制か、それを経た上での1党優位下での多党制に進むのが自然と考える。もちろん、優位となる1党は固定されず、たえず流動的に民意を反映できる仕組みであるべきだ。
・自民党と民主党がそれぞれ2分して4つの政党にでもなれば、共産党や社民党、公明党などに妨げられず、国民は正常な判断ができるようになる。多少不安定にはなるが、国民の意思は反映されやすい。
・2大政党制を支持しないのは、現在の自民党と民主党が、ともに寄り合い所帯で理念が不透明であるから。
・1955年以前は穏健な多党制で健全だった。冷戦下で、共産化を阻止するために保守政治家は自民党に結集した。政権を取れない社会党には観念論におぼれる中、日本の現実の全ては自民党が背負い込んだ。全ての現実を背負い込むことにより、他党と対決するために思想、理論といったものを磨く必要がなく、自民党もまた近代政党には成り得なかった。
・冷戦終結後、小沢一郎が一派を率いて離党し、あろうことか社会党と手を組んで政権を奪取したため、日本の政治はねじ曲がってしまった。小沢の罪は万死に値する。日本はもう一度、多党制の時代に戻るべきだ。

《寄り合い所帯だからものが言えない。消去法の選択しかできない。自民党を選ぶことができないから民主党に票を投じる。ここに四つ、五つ、政党があれば、選択はできます。》

 と西尾は言うのだが、そうだろうか。

 ところで、私は2大政党制志向だと先に述べたが、西尾が挙げている、サルトーリやレイプハルトの定義する2大政党制を志向しているわけではない。サルトーリやレイプハルトの定義する2大政党制とは、政権を争う2つの政党以外に議会に政党が存在しないか、存在してもあまりにも微力で政治に関与できない状態を指すらしい。私はそういう状態を望んでいるわけではない。
 政権交代の主軸となりうる強力な2大政党があり、さらにいくつかの中小政党があって、それらが状況に応じて連立を組む(場合によっては2大政党同士の大連立もあり得る)、そういう状態が望ましいのではないかと考えている。
 例えばドイツがそういう国だが、ドイツはCDU/CSUと社会民主党の2大政党制だと私は考えていたのだが、政治学者の定義ではどうもそういうものではないらしい。同様に、フランスもUMPと社会党の、スペインも国民党と社会労働党の2大政党だと考えていたのだが、そういうのは「2大政党制」とは言わないらしい。そうなのか。
 しかし、アングロサクソンに2大政党制が特有だというが、本当に2党しかないのは米国ぐらいで、英国には自由民主党という有力な第3党があるし、オーストラリア、ニュージーランドにも小政党がいくつか存在する。
 ウィキペディアの「二大政党制」の項目を見ると、

《現在ではイギリス、カナダ、ニュージーランドは二大政党制とは見なされない見解が主流である。》

とある。そうだろうなあ。

 西尾は、

《日本のような社会では、私は「穏健な多党制」か、それを経た上での「一党優位下での多党制」に進むのが自然ではないかと思います。もちろん、優位となる一党は固定されるべきではなく、たえず流動的に民意を反映できる仕組みになっている必要があります。》

と言うが、私もそのような政党制が理想的だと思う。
 ただ、それは、西尾の言うように、自民や民主が分裂しないと成立し得ないものだろうか。
 仮に次の衆院選で民主党が単独で過半数を獲得するか、民主+公明で過半数を獲得して政権が交代し、その次の衆院選では自民が政権に復帰する・・・・・・といった流れが定着すると、政権交替可能な多党制が成立するということになるのではないだろうか。
 西尾は、自民、民主とも寄り合い所帯で理念が不透明と言うが、政党というのはある程度はそうしたものではないだろうか。
 55年体制より前は健全だったというが、吉田自由党と鳩山民主党にしても、あるいは戦前の政友会と民政党にしても、どれほどの理念の差があったのだろうか。
 社会主義政党や宗教政党は、たしかに理念中心になりやすいだろう。しかし、保守・中道政党は、厳密なイデオロギーに基づくものではない。自然、寄り合い所帯としての性質は免れないのではないだろうか。それはわが国だけでなく、民主制を採る他の国々でも同様ではないだろうか。
 
 西尾は、

《私の見る限り、自民党も三分の二くらいは左翼のようなものです。加藤紘一のような名うての世代だけではなく、若い世代、例えば後藤田正純氏などの主張も、旧社会党の主張とほとんど変わらない。河野太郎氏も同様です。つまり、自民党も寄り合い所帯であり、真の保守政治を行おうとする議員が何人いるのか。
 今後、こういう寄り合い所帯政党での選択を強いられることが続けば日本の政治は停滞します。つまり、国民が選択できる政党であってほしいのにそれができない。》

と述べる。
 きちんと選択するために、「真の保守政治を行おうとする」政党が必要だということらしい。
 私は、「自民党も三分の二くらいは左翼のようなもの」とは思わない。しかし、仮に西尾説に立てば、西尾の言う「真の保守政治を行おうとする議員」は3分の1にも満たないということになるのだろう。自民党が解党して、仮に彼らの「真正保守党」が成立したとして、さてそれで彼らは政権に参画できるのだろうか。残った「左翼のようなもの」党はむしろ民主党のリベラル派との連立や合同を志向するのではないだろうか。それで集団的自衛権の容認や憲法改正ができるだろうか。
 民主制において、数は何より力になる。妙な純化路線は、政治的目標の実現を遠ざけることにはならないだろうか。

 西尾は、安倍を、

《選挙でこの人の「人間」が問われ、そういう困難な課題をとうてい解決出来ない人だということが判明したのでした。頭の中はたしかに「真正保守」かもしれません。だからただのイデオローグなのです。そのことが民衆にはわかって、知識人・言論人に分からないというのが、最大の問題です。》
 
と酷評し、安倍を支持した知識人・言論人をも批判する。
 では西尾の「つくる会」はどうなのか。あの運動は成功だったのか、失敗だったのか。私は失敗したと言っていいと思っている。その原因の多くは、「つくる会」に拠った知識人の偏狭さにあるのではないか。
 批判勢力を取り込んで挙党態勢構築を試みる安倍に比べて、純化路線による多党制の構築を説く西尾こそ、私には「ただのイデオローグ」と評されるにふさわしい人物だと思える。

 私には、この「二大政党制という妄想」を再読しても、率直に言って、西尾が何をどうしたいのか、よくわからない。
 ただ支離滅裂に不満をぶちまけているだけという印象を受けた。

 その他、多数気になる点があった。いくつか掲げておく。


《三年ほど前から、安倍晋三氏は二人といない真正保守、かけがえのない保守の星という観念が『WiLL』をはじめとするほぼ全ての保守言論雑誌を中心に存在していました。それが固定化し、それ以外の評価を一切許さないタブーとなっていました。》


 私は保守系言論誌のそれほど熱心な読者ではないが、まあ各誌の見出しぐらいは見る。
 安倍に期待が寄せられていたとの印象はたしかにあるが、それは「二人といない真正保守、かけがえのない保守の星」というほどのものだっただろうか。
 ましてや、タブーだったとはどういうことだろう。
 批判すべき材料がなければ批判のしようもないだろう。
 安倍を批判すべき材料があったが、保守系言論誌がそろってそれを無視したというなら話はわかる。が、そんな状況が果たしてあったのか。


《安倍氏はイデオローグ(理論家)だとは言えます。政治にとってはイデオロギーは大事ですが、イデオロギーを抱えながら同時に現実を見るということがもっと大事です。ただのイデオローグでは政治はできない。》


 イデオローグというのは、イデオロギーを唱える人のことだろう。
 安倍晋三が、どのようなイデオロギーを唱えたというのか。
 『美しい国へ』のほかに、安倍の著書はあっただろうか。
 政権発足当初、安倍のブレーンと称された中西輝政、八木秀次、西岡力らがイデオローグだというならまだわかる。しかし、普通安倍自身をイデオローグとは言わないだろう。そんな評価は聞いたこともない。
 西尾は「イデオローグ」という語の使い方をわかっていないのではないか。


《もともと二大政党制というのはアングロサクソンの階級社会、つまり貴族と庶民をくっきり区別する政党政治を行ってきた風土に合っているもので、日本のように階級制度や階級意識が稀薄な国にはなじまない。
 また日本の社会は、共産党が独自なイタリアやフランス、右翼政党が強いオーストリアのような分極著しい多党制にはなり得ません。》


 英国はたしかに階級社会だと聞く。今でも貴族制があるし。しかし、階級社会であることと2大政党制とは関係があるのか? 貴族が保守党を支持し、庶民が労働党を支持しているのか?
 もしそうなら、貴族は庶民に比べて圧倒的に少数なのだから、保守党政権などあり得ないはずだ。
 また、米国の共和党と民主党は、支持層の階級という点ではほとんど変わりはないのではないか?
 アングロサクソンの国に2大政党制が多いという事実は、やはりその民族性と関連があるのだろう。しかしそれを英国の階級社会に原因があると見るのは筋違いではないか?
 また、共産党について言えば、民主集中制を放棄して転身したイタリアほどではないにしろ、フランスと比較してもわが国の共産党は十分「独自」と言えると思う。


《私は共産党、社民党、公明党は計算に入れていません。これらを私は政党として認めていないからです。選挙になるとNHKなどの党首討論に社民党の党首や国民新党、日本新党〔深沢注 原文のまま〕まで出てきたりしますが、これはおかしな話で、全て諸会派です。社民党を出演させるのなら、ほかの諸会派も全部出すべきで、大きな顔をして出演させるべきではない。国民は苦々しく思っています。
 社民党や共産党が野党の一角を形づくって民主党の勢力範囲に入ったり、宗教政党である公明党が自民党と連立を組んで政治を歪めたりするのは、国民の判断を健全に反映させることができない不幸な事態です。
 思い切って、自民党と民主党が二つに割れて四つ(三つでも五つでもよいが)の政党にでもなれば、共産党や社民党、公明党などにうろちょろされず、国民は正常な判断ができる。その際、たとえば四つの政党で様々な連立を組んだりするために多少、不安定にはなりますが、国民の意思は反映されやすい。
 だから現在の国民世論の大多数を決定づけている自民党と民主党が多党化していくことが、われわれの選択が合理的で安定したものとなり、また国際社会的にも納得いく国家意志決定が可能となる政治風土を与えてくれることになると思います。》


 多党制を推奨しながら、一方でこのように左翼政党や公明党を「諸会派」と称して切り捨てる感覚が理解しがたい。
 「ほかの諸会派も全部出すべきで」というのは、女性党や維新政党・新風や九条ネットのような議席を得ていない政治党派を出すべきだということか。たとえ1名でも当選したということは、その人物はそれだけの国民の信託を背負っているということなのだが、西尾にはその違いが理解できないのだろうか。
 結局、自分の気に入らない諸党派を排除したいだけではないのか。

 
《マルクス・レーニン主義を信奉した社会党は、与党になれないことを前提として、極端に観念的なことを言い続け、永遠に政治の世界のアマチュアであることを楽しみました。これは誠に滑稽で、江田五月参院議長の父である江田三郎氏は「アメリカの富と、ソ連の平等と、イギリスの議会制民主主義と、日本国憲法の平和主義」が日本の未来のビジョンだと唱え、拍手喝采を得ました。
 ソ連の平等の背後には極端な不自由があり、アメリカの富の背後には人種差別があり、イギリスの議会制民主主義の背後には階級社会の歪みがあり、日本国憲法の平和主義の背後には日米安保とそれに基づく米軍駐留があって、国家の独立を危うくしています。
 要するに物事の表面の光だけを見て、影を見ない空想話です。つまり、社会党は日本の政治の現実とは全く無関係であったと言っていい。
 ここで問題なのが、その代わりに自民党が日本の現実の全てを背負い込んだということです。現実の全てを背負い込むということは、何も背負い込まないのと同じで、これもまた幻想的であると言えます。〔中略〕自民党は党として他の何かと対決する必要がありませんでした。理念を磨く必要がなかった。国際共産主義の単なる防波堤でありさえすればよかった。》


 社会党は観念論におぼれた、自民党は現実の全てを背負い込んだが、理念を磨かなかったという点については、たしかにそうした面はあると思う。
 だが、江田ビジョンについての評価は、誤っているのではないか。
 「拍手喝采を得ました。」と言うが、誰の拍手喝采か。これではまるで江田ビジョンを社会党が支持したみたいではないか。
 江田ビジョンは社会党で支持されなかったのだ。それで党外へ発表して一定の支持を得るも、党内では強く批判され、党書記長辞任を余儀なくされたのだ。
 江田はその後も社公民路線を推進するなど現実主義を志向するが、党では受け入れられず、1977年に離党した。そして菅直人らと社会市民連合を結成し、参院選に臨んだが急逝し、代わりに立候補して当選したのが息子の江田五月だ(のち衆院に転じ、議員辞職して岡山県知事選に挑むも落選し、再び参院に)。
 私は、江田五月にはさして興味はないが、江田三郎には興味がある。彼が社会党の主導権を握っていたら、いわゆる55年体制の進展はかなり違ったものになっていただろう。
 江田ビジョンには当時から各国のいいとこどりだといった批判があったと聞く。しかしそれでも江田ビジョンは、社会党がソ連型社会主義を目指すものではないことを示そうとしたという点で意義があったと考えるし、西尾の記述は、江田を貶める不適切なものだと思う。


古紙100%にこだわる環境省の愚行

2007-09-01 16:25:27 | 生物・生態系・自然・環境
 8月30日付け『朝日新聞』夕刊によると、省庁用のコピー用紙の規格をめぐって、林野庁と環境省が対立しているという(ウェブ魚拓)。
 政府が使うコピー用紙の古紙配合率は100%と定められているのに対し、林野庁が間伐材をコピー用紙に利用するよう求めているが、100%にこだわる環境省が反対しているのだそうだ。
 アジア諸国で古紙需要が高まり、わが国の古紙の輸出が進んだため調達コストが高まり、製紙業界は古紙使用割合の引き下げを求めているともいう。


《同省の担当者は「古紙100%のコピー用紙は資源循環の象徴。公費を使って地球環境を改善していくのが制度の趣旨で、リサイクルの後退につながるような見直しは軽々にはできない」と主張する。間伐材についても、持続可能な森林経営に役立つとの国際的な定義が確立されていないと突き放す。現時点で古紙100%の基準を変える必要はないとしている。》


 間伐が森林の保全に有効というのは常識かと思っていたが。
 業界団体の主張にはそれなりの根拠があろうものを。

 たしかに、古紙100%は資源循環の象徴だろうが、古紙100%は70%より環境に優しいと言えるのか。
 古紙100%といっても、回収した古紙がすんなり新しいコピー用紙になるわけではあるまい。分別したり、溶かしたり、インクを抜いたり、漂白したりといったさまざまな工程が必要なはずだ。そのために工場を動かすのにエネルギーが必要だし、環境も汚染する(汚染しないようにするためにもまたコストがかかる)。普通に考えれば、古紙含有率が高い方が環境負荷が高いと言えるのではないだろうか。


 そういえば、先週発売の『週刊ダイヤモンド』8/25号は、「ゴミ争奪 リサイクルの罠」と題する特集を掲載している。その中の「環境負荷を余計に高める矛盾だらけのリサイクル」に、次のような記述があった。


《「大量生産・消費・廃棄から脱却し、限りある資源を有効に活用する。そのため、ゴミ発生を抑制し、排出したゴミはできるだけ資源として適正に利用し、どうしても利用できないものは適正に処分する」――。リサイクルの理念は、基本法ではこううたわれている。あくまでリサイクルは「資源の適正な利用」が原則なのだ。だが、あまたあるリサイクルのうち、これを実現しているものは少ない。
 たとえば、日本製紙は古紙一〇〇%配合紙の販売を全面廃止した。じつは、紙のリサイクルは、パルプから新しく紙をつくる場合よりも石油を多く使う。一〇〇%再生紙の環境負荷の高さは製紙業界では半ば常識だったが、古紙含有率が高いほど環境に優しいという消費者のイメージが根強いなか、なかなか真実を打ち出せないでいた。「リサイクルは全面的に善」という思想が「適正な利用」を阻む。》


 環境省が古紙100%の根拠とするグリーン購入法の第1条には、こうある。


《第一条 この法律は、国、独立行政法人等、地方公共団体及び地方独立行政法人による環境物品等の調達の推進、環境物品等に関する情報の提供その他の環境物品等への需要の転換を促進するために必要な事項を定めることにより、環境への負荷の少ない持続的発展が可能な社会の構築を図り、もって現在及び将来の国民の健康で文化的な生活の確保に寄与することを目的とする。》


 目的は「環境への負荷の少ない持続的発展が可能な社会の構築」にあるのであって、資源循環100%をうたうことにあるのではない。
 石油やレアメタルのような地下資源と違って、森林は再生可能な資源だ。資源循環100%にこだわる意味がどれほどあるだろう。そのために石油を無駄遣いしてどうするというのだろう。


 「グリーン購入法」で検索していたら、環境省のホームページにこんなQ&Aがあった。


《今年度中に「古紙パルプ配合率100%品」の生産が中止され、グリーン購入法に適合するコピー用紙が市場からなくなると聞いていますが、判断基準の見直し等は行わないのでしょうか。

海外への古紙流出による古紙不足を受け、一部の製紙メーカーが「古紙パルプ配合率100%品」の生産を中止するようですが、コピー用紙等の基準上100%となっている品目については、他メーカーへのヒアリング結果をうけ、基準を満たす製品の生産は継続されることから、緊急の見直し予定はございません。》


 古紙不足で古紙100%を維持するためには、製品は割高にならざるを得ないのではないだろうか。
 敢えてそれを使うというのか! 官公庁が! 税金で! 環境負荷も高いのに!
 こういうのは、省庁エゴ以外の何物でもないと思う。

 武田邦彦の『環境問題はなぜウソがまかり通るのか』(洋泉社)が売れていると聞く。
 昔からこの種の本はちらほら出ていたが、ベストセラーにまでなったのは今回が初めてではないだろうか。
 私はこの人の本は、以前『「リサイクル」してはいけない』(青春出版社)を読んだことがある。一部、これはどうかなという記述もあったが、基本的にはこの人の主張は間違っていないと思う。
 この種の本が読まれているのであれば、リサイクルに対する硬直した考え方も少しは変わってくるだろうか。