トラッシュボックス

日々の思いをたまに綴るブログ。

「悪さ加減の選択」としての石原支持

2007-04-23 00:02:43 | 現代日本政治
「反日ブログ監視所」の「浅野秒殺関連エントリ情報局」を見て、『毎日新聞』紙上で、日下部聡という『サンデー毎日』の記者が、石原慎太郎3選を受けて、東京都民を批判していることを知る。(魚拓


《無党派層の支持をいかに獲得するかが、近年の選挙の主要テーマだ。背景には、政党や政治に対する有権者の不信がある--というのが一般的な見方だろう。

 だが、むしろ問題は有権者の側にあるのではないか。石原慎太郎知事が圧勝した東京都知事選の取材を通じて、私はそんな思いを強くしている。》

《このままでは、この国の選挙は際限なく強い刺激を求める「オーラ競争」になってしまう。そうした危惧(きぐ)の中で、政治学の巨人、故丸山真男氏の言葉に出合い、深く共感した。丸山氏はかつて講演で「頭に水をぶっかけるようないい方ですけれども」と断って、こう言った。「(政治的選択とは)福沢諭吉の言葉ですが、『悪さ加減の選択』なのです。(中略)悪さの程度がすこしでも少ないものを選択するということです」

 「政治というものをベストの選択として考える考え方は、容易に政治に対する手ひどい幻滅、あるいは失望に転化します。つまり、政治的な権威に対する盲目的な信仰と政治にたいする冷笑とは、実はうらはらの形で同居している」(丸山真男集第7巻=岩波書店)

 「何かやってくれそうな人」をヤンヤの喝采(かっさい)で迎え「あとはお任せ」では、無責任というものだ。政治を「お上の仕事」と見る発想から抜け切れていないともいえる。視点を変えれば「強者」への迎合の心理も見え隠れする。》


 政治的選択とは、悪さ加減の選択。
 そんなことは、別に丸山眞男や福沢諭吉を持ち出すまでもなく、既に常識ではないのだろうか。
 この丸山の講演は、1958年のものだという。このころは、政治的選択をベストの選択と考える人々が多かったのだろうか。「頭に水をぶっかけるようないい方ですけれども」と断っているところをみると、どうもそうらしい。どういう種類の講演なのかわからないが、当時の丸山の立ち位置を考えると、少なくとも進歩派陣営ではそういう認識が蔓延していたのだろうか。

 次に、石原支持を「何かやってくれそうな人」「ベストの選択」と見るのは妥当だろうか。
 石原が都知事としてベストであると考えて投票した者がどれほどいることだろう。日下部も言うように、今回の選挙では公私混同問題も争点の一つになった。しかし有権者は石原を支持した。それは、「悪さ加減の選択」で、浅野やその他の候補に比べ、石原がよりマシだと有権者が判断したからではないだろうか。
 私にはむしろ、浅野支持の方に「何かやってくれそうな人」「ベストの選択」との傾向が強いように思う。なぜなら、今回浅野が立候補した経緯を見てもわかるように、浅野はアンチ石原票の受け皿にすぎず、浅野がどのような都政運営を考えているか、他の県の知事を務めた者がさらに都知事を務めようとするのは筋としてどうなのかといったことは度外視して、とにかく非石原でかつ勝ち目のある候補をかつぎたいという欲求に応えたものとしか見えないからだ。
 「悪さ加減の選択」なら、石原と浅野の人物や見解などを比較して、どちらがよりマシかを決めるだろう。しかし、浅野支持者には、まず石原は候補として論外という前提があり、その石原を落選させる手段として浅野を支持するという傾向が強かったように思う。そして、何故石原ではダメなのかというと、政治家は「ベスト」でなければならないと考えているからではないか?

 日下部聡は、有権者の心理を読み違えていると思う。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。