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日々の思いをたまに綴るブログ。

大宅壮一『実録・天皇記』大和書房(だいわ文庫)、2007

2007-02-04 21:44:27 | 日本近現代史
 タイトルから、歴代天皇個人個人を描いたノンフィクションかと思いきや、そうではない。
 「社会評論の天才大宅壮一が、天皇一族の女、カネ、権力を活写。神代から明治維新にわたり、皇統を守るべく繰り広げられた波瀾万丈の闘いを、縦横無尽に描き出す。」(本書裏表紙より)そんな本。
 明治維新期の記述が中心となっている。
 著者による「はしがき」に、

《本書の内容は、私の解釈や意見には独断があるかもしれないが、使った資料にはすべて確かな出所がある。ただし学術書ではないので、一々典拠を明らかにしたり、註をつけたりするわずらわしさは、わざと避けた。》

とあるので、全面的に信頼を置くべきではないのかもしれないが、面白い本ではある。歴史、特に日本近代史に興味のある方には、お薦めの本ではないかと思う。
 ただ、読みようによっては「不敬」と感じる方もおられると思う。昭和27年という執筆時期も関係しているのだろうか。当時は今よりも天皇制への見方は冷たかっただろうし。
 また、みなもと太郎のマンガ『風雲児たち』(現在も連載中ですが、名作です)が参考にしていそうな箇所も散見された。

 大宅壮一の著作は『共産主義のすすめ』(注1)や『昭和怪物伝』ぐらいしか読んだことがない。大宅壮一といえば「「無思想人」宣言」とか「是々非々」といったキーワードが想起され、自由主義的ジャーナリストとの印象が強いが、朝日新聞社の『現代人物事典』(1977)で確認すると、戦前はマルクス主義者で、転向者だという。知らなかった。
 そうしたことも、本書の記述に影響しているのかもしれない。

 私は女系天皇容認論者であり、また共和制論者でもあるが、その点から大変心強い記述があったので紹介したい。
 宮家(みやけ)について、「膨大な〝血〟の予備軍」という章が設けられているのだが、その中に

《ところで、大正天皇直系の秩父、高松、三笠の三宮家を除いた十三宮家の創立者の〝血〟を調べてみると、全部伏見宮第十九代貞敬親王から出ていることがわかる。(中略)伏見宮貞敬というのは、一つの新しい天皇家を創立したも同然である。いや、天皇家は一筋の〝血〟の線が縦に走っているだけであるが、貞敬から発した新皇室は十三本の〝血〟の線が同時に並行して流れているのだから、考え方によっては、この方がよっぽど強力で確実であるともいえよう。》
《どうしてこういうことになったかというに、現天皇家は大正になってようやく三人の男性後継者をえたが、その前の明治、孝明、仁孝とさかのぼっていくと、いずれもはなはだしく〝皇胤お手薄〟である。これに反して伏見宮の方は、ここ数代にわたり驚くべき生産力を示した。》
《つぎに大正天皇の直宮三家を除いた残りの宮家の創立者たちの母方の〝血〟を洗ってみると、さらに驚くべきことが発見される。というのは、かれらは一人の例外もなしに妾腹から出ているということである。》
《こういった名もなき〝平民〟の血が注入されたお陰で、このようにたくましい生産力が生まれたのだともいえる。》(以上、p.266~270)

とある。
 伏見宮家は、はるか室町時代に天皇家から分かれた系統である。その系統が、大正天皇の直宮以外の宮家を占めている。しかも、平民の〝血〟が入ることにより栄えてきたと考えられるという。
 このような旧宮家を、男系継承という一点にこだわって皇族として復活させることに、どれほどの意味があるだろうか。
 
 大宅はこうも述べている。

《天皇の〝血〟が入っているのは何も宮家ばかりではない。〝血〟の点からのみいえば、日本中の大部分が宮家である。》(p.272)

《八千万国民一人々々がそれぞれの系譜を二十代、三十代にもわたってたどって行けば、たいていどこかで必ず皇室にぶつかるにちがいない。それは亀の甲型に描いた線をたどっていく遊びの場合と同じで、多年この小さな四つの島に封じ込められた日本の国民は、すべて縦横に網の目をなして、お互いにどこかでつながっているのである。》(p.351~352) 

《要するに〝血〟というのは単なる信仰にすぎない。しかも多分に迷信的なものである。そしてその信仰は、権力の裏付けによってのみ高められるのである。》(p.352~353)

 旧宮家の復活や、天皇制の維持について考える際に、心しておきたい考え方だと思う。


(注1)『共産主義のすすめ』・・・念のために書くが、単純に共産主義を称揚する本ではない。後進国の開発という点で、共産主義は最も有効ではないかと思える、ただしその犠牲もまた大きいが、と述べているエッセイ。マルクスの言うように資本主義の後に共産主義が来るのではなく、共産主義の後に資本主義が来るのではないかとの、当時としては興味深い記述もある。

柳沢発言について思ったこと

2007-02-03 23:11:30 | 現代日本政治
 もあいさんのブログ「おやじの独り言」で、柳沢厚労相の「産む機械」発言を『朝日新聞』1月31日の社説が以下のように評していることに気付く(私は朝日の購読者だが、気付かなかった)。

《問題の発言は先週末、松江市で開かれた講演会で飛び出した。厚労相は少子化問題に触れ、「15~50歳の女性の数は決まっている。産む機械、装置の数は決まっているから、あとは一人頭でがんばってもらうしかない」と語ったという。
 さすがに、これはまずいとすぐに気づき、「機械と言ってごめんなさいね」と述べたうえ、「産む役割の人」と言い直したという。》 

そうだっけ? 最初の報道では、「機械と言ってごめんなさいね」といった言葉をはさみながら、「がんばってもらうしかない」と述べたという話だったと思うが。
 
 gooに転載された朝日の最初の記事↓(魚拓

《柳沢厚生労働相が27日、松江市で開かれた自民県議の後援会の集会で、女性を子どもを産む機械や装置に例えた発言をしていたことが分かった。
 集会に出席した複数の関係者によると、柳沢厚労相は年金や福祉、医療の展望について約30分間講演。その中で少子化問題についてふれた際、「機械と言って申し訳ないけど」「機械と言ってごめんなさいね」などの言葉を入れながら、「15~50歳の女性の数は決まっている。産む機械、装置の数は決まっているから、あとは一人頭で頑張ってもらうしかない」などと述べたという。
 会場では発言について異論はなく、主催者からの訂正などもなかったという。》

 もう少し詳細な発言内容が報じられていたように思うのだが、古新聞をめくっても見つからなかった。
 ネットで探すと、『スポーツ報知』の記事に載っている発言要旨が一番詳しそうだが、これとて要旨でしかない(魚拓)。

《なかなか今の女性は一生の間にたくさん子どもを産んでくれない。人口統計学では、女性は15~50歳が出産する年齢で、その数を勘定すると大体分かる。ほかからは生まれようがない。産む機械と言ってはなんだが、装置の数が決まったとなると、機械と言っては申し訳ないが、機械と言ってごめんなさいね、あとは産む役目の人が1人頭で頑張ってもらうしかない。(女性)1人当たりどのぐらい産んでくれるかという合計特殊出生率が今、日本では1.26。2055年まで推計したら、くしくも同じ1.26だった。それを上げなければいけない。》

 これからすると、朝日の社説が冒頭で

《「女性は産む機械」。この柳沢伯夫厚生労働相の発言が批判にさらされている。》

と述べているのはおかしい。柳沢は「女性は産む機械」とは言っていないのだから。

 それにしても、「申し訳ないが」「ごめんなさいね」と断りを入れても、これほど批判されるのか。
 謝罪もしているのだし、辞任すべきほどの問題とは思えないが。
 朝日もその辺はわかっているので、

《女性たちの思いに耳を傾け、地に足のついた少子化対策を進める。それができないなら、退場してもらうしかない。》

と、今すぐの辞任を要求しているわけではないのだろう。

 とはいえ柳沢の発言についても、疑問はある。単にたとえがまずかったというだけでは済まされないように思う。
「なかなか今の女性は一生の間にたくさん子どもを産んでくれない。」
「産む役目の人が1人頭で頑張ってもらうしかない。」
といった上記の要旨の言葉からは、要するに女性が身勝手で子供を産まないから少子化が進むのだといった思想がかいま見える。朝日社説が

《子どもの数が増えないことを女性だけの問題ととらえているのではないか。女性ががんばれば、子どもは増える。そんな考え方が発言ににじむ。
 しかし、ことはそれほど単純ではない。》

と述べるのはしごくもっともだ。
 女性だけで子供を作れるはずもないのだし、結局、社会全体で子育てを支援していく仕組みを作っていかざるを得ないだろう。
 年齢的な限界ということも考えると、晩婚化の傾向にも歯止めをかけなければならないだろう。
 しかし、最低2人の子供を作ることが国民の義務、などとするわけにもいかないだろう。結婚や出産などは個人的なことなのだから、国民一人一人の自由意志に任されるべきだし。
 難しい問題ですね。

(柳沢発言批判として、「worldNote」というブログのこちらの記事が参考になりました。)