トラッシュボックス

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バスの行き先が重要だ

2007-02-19 21:25:57 | 現代日本政治
 山崎拓が、今月発売の『中央公論』3月号で、米国が北朝鮮との交渉に乗り出した今、「日本はバスに乗り遅れる」と述べているという。
 これに対し安倍首相が山崎を批判したが、山崎はなおも政府要人の訪朝による直接対話を主張しているという。

 私がこの「バス発言」で想起したのが、戦前の日本でこの言葉が流行したことだ。
 たしか、第2次世界大戦でのナチス・ドイツの快進撃を見て、日本も「勝ち組」に乗らねばと、日独伊三国軍事同盟や近衛新体制を進めようとする側が唱えたのではなかったか。

 例えば半藤一利の『ドキュメント 太平洋戦争への道』(PHP文庫、1999)には次のような記述がある。

《この世界情勢の激変が、日中戦争の泥沼化にあえぐ日本の国策を根元からゆさぶった。前年の夏に一度立ち消えになった日独伊三国同盟の問題が再燃、外交政策を親独路線に転換させよ、さらにはナチスばりの「強力な一元政治」を実現すべしとする国内新体制運動の声が初夏から一挙に高まり、それを要約するかような「バスに乗り遅れるな」が、日常の挨拶語のようにいわれだした。》

 あわてて飛び乗ったら、地獄行きのバスだったわけで。
 山崎がその歴史を知らないはずはないと思うのだが、敗北につながった言葉をこのように持ち出すとは、妙なことをするものだ。

 山崎に限らず、このままでは日本だけが取り残されてしまうとして危機感をあおる論調が一部にある。
 しかし、日本はこの言葉に乗って、一度ひどい目にあったわけだ。
 同じ失敗を繰り返さないように、慎重に対応すべきだろう。
 そういうことを思い起こさせてくれたという点で、この言葉を使ってくれた山崎には、感謝したいぐらいだ。

 なかにはこんな珍妙な反応を示すブロガーもいる(山崎拓氏曰く「バスに乗り遅れるな」)。
 
 
《過去に日本人も、中国や朝鮮半島から人を拉致し、酷い仕打ちをしてきたのだ。

拉致問題にこれ以上こだわるよりも、過去の罪、そういったこの国の体質を改める方向に労力を遣う事の方が、北朝鮮に拉致された人達の「供養」にもなる筈だと思う。

二度とこのような事件が起こらぬよう、起こさせないような手だてを考える、重要な時期に来ているのではないだろうか。》


 拉致は朝鮮人による日本への復讐なのか?
 では韓国が日本人を拉致したか?
 中国がしたか? 台湾がしたか? 米国や英国やオランダやソ連がしたか?
 北朝鮮による拉致被害は日本だけではない。同じ民族である韓国はもちろん、レバノン、タイ、ルーマニアなどでの被害が明らかになっている。レバノン以下の国は、朝鮮を支配したこともなく、北朝鮮と敵対関係にあるわけでもない。
 また、北朝鮮と同様の共産党政権の国が、このような拉致事件を起こしていたという話も聞かない。
 拉致とは、北朝鮮特有の問題なのだ。「国の体質を改める」べきなのは、北朝鮮であり、日本ではない。反体制色に染まると、そんな簡単なこともわからなくなるらしい。

 「バスに乗り遅れるな」の出所を調べてみると、どうも、イギリスのネヴィル・チェンバレン首相の言葉が発端らしい。
 三好徹『興亡と夢』の第2巻(集英社文庫、1988)の366頁に、次のようにある。
 第2次世界大戦の開戦後しばらくの間、ドイツ軍も英仏軍も互いに攻撃を仕掛けようとはしなかった。これについて、

《イギリスの首相チェンバレンは、
「ヒットラーはバスに乗り遅れた」
と演説していた。
 この「バスに乗り遅れた」は、流行語となった。重大なチャンスをのがしたことをいうのだが、逆にチャンスをつかまえろ、という意味で、
「バスに乗り遅れるな」
という言葉が生まれた。
 チェンバレンは、政治家としては、どちらかといえば凡庸だったが、この言葉を吐いたことによって、日本やイタリアの運命に大きな影響を及ぼした、といえるかもしれなかった。
 なぜなら、この年(一九四〇年)の四月から発車したヒットラーのバスに日本もイタリアもあわてて乗りこみ、結果として敗亡の憂き目にあったからである。
 人は「バスに乗り遅れるな」といわれると、冷静な判断力を失い、行き先がどこか、途中に危険はないかなどをろくに確かめもせずに、乗り込んでしまいがちである。チェンバレンは、そこまで見通していてこの言葉を用いたわけではなかったが、結果としては、そうなった。》

 山崎が「圧力をかける一方で対話を持つ努力をする」と説くのはもっともだ。北朝鮮憎さの余り、制裁自体が目的となってはならない。
 しかし、これまでの日朝交渉にしろ米朝交渉にしろ、北朝鮮が誠意ある対応をとってきたとは到底思えない。そうさせるためには結局は体制転換しかないのだが、その見通しは暗い。だとすれば、圧力を強化することにより、体制転換の可能性を高めるか、現体制の下で妥協を試みさせるしかあるまい。