以前、ラジャー・ノンチックについての記事を書いていて、ふと疑問に思った。
1943年に東京で大東亜会議が開かれている。大東亜共栄圏内の各国首脳が一堂に会し、連合国側の大西洋憲章に対抗した大東亜共同宣言を採択した。
参加した首脳は、
・日本 東條英機首相
・満洲国 張景恵首相
・中華民国(南京国民政府) 汪兆銘首相
・フィリピン ホセ・P・ラウレル大統領
・ビルマ バー・モウ首相
・タイ ワンワイタヤコーン殿下(ピブン首相の代理)
・インド チャンドラ・ボース自由インド仮政府首班(オブザーバー)
の7名。
ノンチックの出身地である英領マラヤからは参加していない。
何故だろうか?
英領マラヤは、シンガポールなどの「海峡植民地」と呼ばれた英国の直轄地と、19世紀末に成立した保護国群であるマレー連合州、そして20世紀以降に英国の支配下に置かれたマレー非連合州と呼ばれたスルタン国群の3地域に分かれていたと聞く。
そのため、ビルマやフィリピンとちがって一体性を欠いており、また独立後の首班となるべき人物も存在しなかったのかもしれない。
その程度に思っていた。
しかし、しばらく前に井口武夫『開戦神話』(中央公論新社、2008)を読んでいると、次のような記述に出くわした。
(余談だが、この著者は対米英蘭戦開戦当時に駐米大使館参事官を務めた井口貞夫の子息であり、本書は大使館側の怠慢により開戦通告が遅れたとする「神話」の解体を企図したものである。ただ、それが全面的に成功しているとは言い難い読後感を受けた)
これは初耳だった。
領土とするつもりなら、そりゃあ独立国並みに扱うはずもないよな。
その後読んだ江藤淳・編『終戦史録』(北洋社、1977)の1巻に、この「大東亜政略指導大綱」の全文が収録されていた(以下、太字は引用者による)。
この大綱は昭和18年5月31日の御前会議で決定されたのだという。
「第一 方針」と「第二 要領」の2部に分かれており、「第二 要領」は「一、対満華方策」に始まり「二、対泰方針」(泰はタイ)「三、対仏印方策」「四、対緬方策」(緬はビルマ)、「五、対比方策」(比はフィリピン)と続く。
そして、
とある。
この七に基づいて、1943年11月に大東亜会議が開かれたのだろう。
先に挙げたノンチックは「南方特別留学生」としてわが国に留学したのだが、これもまた「民心把握に努む」の一環だったのだろうか。
そしてそれは、ゆくゆくは「原住民の民度に応じ努めて政治に参与せしむ」となったのかもしれないが、しかし、「帝国領土と決定し」「当分軍政を継続す」るのだから、独立するのは容易なことではなかっただろう。
そういえばシンガポールは「昭南特別市」と改称されて軍政が敷かれたのだったなあ。
井口は次のように書いている。
どの国でも、自国の権益拡大のために邁進するものである。スローガンと実際の意図するものが全て一致しているとは限らない。
わが国が、大東亜共栄圏の美名を掲げながら、その実、資源獲得のために他国が開発済みの植民地を奪ったのだとしても、それは当時の状況から言って必ずしも非難すべきことだったとは思わない。
しかし、こうした事実がある以上、
といったノンチックの詩の一部を引用して事足れりとしていてはならないだろう。
大東亜戦争は植民地解放を唱えてはいたがそれは本来の目的ではなく、何よりもまず資源獲得のための戦争であった。
まずはその認識から出発するべきだろう。
1943年に東京で大東亜会議が開かれている。大東亜共栄圏内の各国首脳が一堂に会し、連合国側の大西洋憲章に対抗した大東亜共同宣言を採択した。
参加した首脳は、
・日本 東條英機首相
・満洲国 張景恵首相
・中華民国(南京国民政府) 汪兆銘首相
・フィリピン ホセ・P・ラウレル大統領
・ビルマ バー・モウ首相
・タイ ワンワイタヤコーン殿下(ピブン首相の代理)
・インド チャンドラ・ボース自由インド仮政府首班(オブザーバー)
の7名。
ノンチックの出身地である英領マラヤからは参加していない。
何故だろうか?
英領マラヤは、シンガポールなどの「海峡植民地」と呼ばれた英国の直轄地と、19世紀末に成立した保護国群であるマレー連合州、そして20世紀以降に英国の支配下に置かれたマレー非連合州と呼ばれたスルタン国群の3地域に分かれていたと聞く。
そのため、ビルマやフィリピンとちがって一体性を欠いており、また独立後の首班となるべき人物も存在しなかったのかもしれない。
その程度に思っていた。
しかし、しばらく前に井口武夫『開戦神話』(中央公論新社、2008)を読んでいると、次のような記述に出くわした。
(余談だが、この著者は対米英蘭戦開戦当時に駐米大使館参事官を務めた井口貞夫の子息であり、本書は大使館側の怠慢により開戦通告が遅れたとする「神話」の解体を企図したものである。ただ、それが全面的に成功しているとは言い難い読後感を受けた)
四三年十一月の五日と六日、東京にアジア各地から指導者を招き、戦争完遂および大東亜共栄圏の確立に彼らの協力を求める大東亜会議が開催された。しかし日本の大東亜共栄圏樹立決意を世界に宣伝するこの会議の背後で、政府は極秘でアジア民族の解放という美名に反する目的を採択していた(波多野澄雄『太平洋戦争とアジア外交』東京大学出版会)。
極秘の方針とは五月末に正式採択された以下の内容である。「大東亜政略指導大綱」で占領地域に対する方策として、「『マライ』『スマトラ』『ジャワ』『ボルネオ』『セレベス』は帝国領土と決定し重要資源の供給地として極力之が開発並に民心把握に努む」。現在のインドネシア、マレーシア、シンガポールは日本の領土に併合するというものである。
これは初耳だった。
領土とするつもりなら、そりゃあ独立国並みに扱うはずもないよな。
その後読んだ江藤淳・編『終戦史録』(北洋社、1977)の1巻に、この「大東亜政略指導大綱」の全文が収録されていた(以下、太字は引用者による)。
この大綱は昭和18年5月31日の御前会議で決定されたのだという。
「第一 方針」と「第二 要領」の2部に分かれており、「第二 要領」は「一、対満華方策」に始まり「二、対泰方針」(泰はタイ)「三、対仏印方策」「四、対緬方策」(緬はビルマ)、「五、対比方策」(比はフィリピン)と続く。
そして、
六、その他の占領地域に対する方策を左の通り定む。
但し、(ロ)(ニ)以外は当分発表せず。
(イ)「マライ」「スマトラ」「ジャワ」「ボルネオ」「セレベス」は帝国領土と決定し重要資源の供給地として極力これが開発並びに民心把握に努む。
(ロ)前号各地域においては原住民の民度に応じ努めて政治に参与せしむ。
(ハ)「ニューギニア」等(イ)以外の地域の処理に関しては前二号に準じ追て定む。
(ニ)前記各地においては当分軍政を継続す。
七、大東亜会議
以上各方策の具現に伴い本年十月下旬頃(比島独立後)大東亜各国の指導者を東京に参集せしめ牢固たる戦争完遂の決意と大東亜共栄圏の確率を中外に宣明す。(前掲『終戦史録』1巻、p.98)
とある。
この七に基づいて、1943年11月に大東亜会議が開かれたのだろう。
先に挙げたノンチックは「南方特別留学生」としてわが国に留学したのだが、これもまた「民心把握に努む」の一環だったのだろうか。
そしてそれは、ゆくゆくは「原住民の民度に応じ努めて政治に参与せしむ」となったのかもしれないが、しかし、「帝国領土と決定し」「当分軍政を継続す」るのだから、独立するのは容易なことではなかっただろう。
そういえばシンガポールは「昭南特別市」と改称されて軍政が敷かれたのだったなあ。
井口は次のように書いている。
たしかに当時の大日本帝国にとっては台湾と朝鮮半島が虎の子であり、これらの日本の旧植民地支配を継続するのに、上記諸地域を同等の新植民地にするという立場があったかもしれない。しかしこれでは戦争中大いに宣伝した、上記諸地域を欧米の植民地支配から解放し、その独立を助ける正義の聖戦であるとは到底いえない。戦争に勝てば東南アジアに日本の植民地を設けるという極秘の国策を、大東亜会議の五カ月前、五月三十一日の御前会議において決定していた事実にこそ、大東亜戦争の本質が表れている。戦略資源の自給自足体制の確立を急ぐ日本の本音が正確に反映されていたといえないだろうか。(『開戦神話』p.76)
どの国でも、自国の権益拡大のために邁進するものである。スローガンと実際の意図するものが全て一致しているとは限らない。
わが国が、大東亜共栄圏の美名を掲げながら、その実、資源獲得のために他国が開発済みの植民地を奪ったのだとしても、それは当時の状況から言って必ずしも非難すべきことだったとは思わない。
しかし、こうした事実がある以上、
かつて 日本人は 清らかで美しかった
かつて 日本人は 親切で心豊かだった
アジアの国の誰にでも 自分のことのように 一生懸命つくしてくれた
といったノンチックの詩の一部を引用して事足れりとしていてはならないだろう。
大東亜戦争は植民地解放を唱えてはいたがそれは本来の目的ではなく、何よりもまず資源獲得のための戦争であった。
まずはその認識から出発するべきだろう。
東郷ビールのことを知ったのはン十年前のことですが、その時には海外でも東郷の名が知られている一例として挙げられていて、確か世界で著名な他の提督も同様にラベルにされていると紹介されていたと思います。
嘘が容易にはびこるのがネットの困った点ですが、その気になれば嘘であることを知ることが容易なのもネットのメリットですね。
ことあるごとに「インドネシア」や「マレーシア」の政治家が日本に感謝している,日本が植民地軍を破らなければ,独立は無かった,日本万歳で占めくっくった書籍が,保守系メディアに垂れ流されている現状は,非理性的であり,おかしいと思わざるを得ません。
「インドネシア」にしても,43年の大東亜政略指導大綱ではマライ,ジャワ,スマトラ,ボルネオは帝国の領土とし,と書かれています。のちに東インド(旧蘭印)については到底民心が持たないとして44年の小磯声明で将来の独立を認めますが,最終的に独立宣言をしたのは45年8月の日本敗戦の翌日です。
そもそも国内であんな大量の死者を出した国策のどこを美化できるのかボクにはさっぱりです。普段見なくてもよいyahoo掲示板をついつい見てしまっていたので、深沢さんのような切り口の方がいらっしゃって少し安心しました。
>「資源獲得のための戦争であった」と言われても「それが何か?」としか言えません。
そう、「それが何か?」で済む話です。しかし、それを無視して、単なる植民地解放のための聖戦であったかのように語るのはおかしいのではないかというのが本記事の主旨です。お読みになればわかるはずです。
「資源獲得のための戦争であった」という点であなたは私と認識を同じくされているわけで、「反日」だの「「そっち」方向」だのと言われる筋合いはないように思いますが。
>大東亜戦争で日本がやった事は世界の常識からして当然な事だったという事が見えてきます。
それはどうでしょうね。ではわが国と同じような条件に置かれて、同じような行動をとったいう事例がありますか?
私は、わが国の対応は世界の常識から見て極めて特異だったと考えています。
為政者は、国を亡ぼすような選択をしてはならないのです。
>(愛らしい人たちではあっても)文明の利器を手にした動物レベルの彼らのメンタリティー
こうした見方に立つなら、白人の有色人種差別に反駁することはできないですね。
とりあえず、ハンドルネームすら使えない書き逃げ屋さんの分際で、レイシズムを唱えても説得力はありませんよ。
「資源獲得のための戦争であった」と言われても「それが何か?」としか言えません。あの情況だったら獲得しに行くのは当たり前の事でしょう。小学生が善悪を議論してるんじゃないんだから。
海外に出て様々な外人と競ってみてごらんなさい。単純な観光じゃないですよ。利害をかけて戦ってみなさいな。日本の外は力が支配する世界です。大東亜戦争で日本がやった事は世界の常識からして当然な事だったという事が見えてきます。その後の魔女狩りも当然の事、神妙になって「反省」してるのは日本人だけです。
東南アジアを巡って、発展途上国の人たちのメンタリティーを肌で感じてごらんなさい。(愛らしい人たちではあっても)文明の利器を手にした動物レベルの彼らのメンタリティーを見る度に、朝鮮・台湾に対して精神的面で齎した利益も偉大さが見えてきます。
朝鮮はあと30年必要だったかもしれませんが…。