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共産党の破防法調査対象への抗議を読んで思ったこと(上) その論法への不信

2016-04-03 23:35:56 | 日本共産党
 2週間ほど前、twitterのタイムラインで、政府が、日本共産党は破防法の調査対象団体であると回答したことが話題になっていた。
 そんなのずっと昔からのことで、今さら何を騒ぎ立てているのかと思ったら、民主党を離党した鈴木貴子衆院議員が「日本共産党と「破壊活動防止法」に関する質問主意書」を3月14日に提出し、その答弁書が3月22日に決定されたためだと知った。

 この問題についてのしんぶん赤旗の記事がBLOGOSに転載されていたのでいくつか読んでみた。
 「「議会の多数を得ての革命」の路線は明瞭/政府の「暴力革命」答弁書は悪質なデマ 」という記事にはこうある(太字は引用者による。以下同じ)。

 日本共産党の綱領には、「『国民が主人公』を一貫した信条として活動してきた政党として、国会の多数の支持を得て民主連合政府をつくるために奮闘する」こと、さらに将来の社会主義的変革についても、「国会の安定した過半数を基礎として、社会主義をめざす権力」をつくるのをはじめ、「社会の多数の人びとの納得と支持を基礎に、社会主義的改革の道を進む」ことを明らかにしています。

 「議会の多数を得て社会変革を進める」――これが日本共産党の一貫した方針であり、「暴力革命」など縁もゆかりもないことは、わが党の綱領や方針をまじめに読めばあまりに明瞭なことです。

党の正規の方針として「暴力革命の方針」をとったことは一度もない

 政府答弁書では、日本共産党が「暴力主義的破壊活動を行った疑いがある」と述べています。

 1950年から55年にかけて、徳田球一、野坂参三らによって日本共産党中央委員会が解体され党が分裂した時代に、中国に亡命した徳田・野坂派が、旧ソ連や中国の言いなりになって外国仕込みの武装闘争路線を日本に持ち込んだことがあります

 しかし、それは党が分裂した時期の一方の側の行動であって、1958年の第7回党大会で党が統一を回復したさいに明確に批判され、きっぱり否定された問題です

 日本共産党が綱領路線を確立した1961年の第8回党大会では、日本の社会と政治のどのような変革も、「国会で安定した過半数」を得て実現することをめざすことを綱領上も明確にしました。これは外国の干渉者たちが押しつけてきた武装闘争方針を排除したことを綱領上はっきり表明したものでした。

 日本共産党は、戦前も戦後も党の正規の方針として「暴力革命の方針」をとったことは一度もありません。歴史の事実を歪曲した攻撃は成り立ちません。


 日本共産党の創立は1922年だが、戦前は非合法団体であり、公然とは活動できなかった。 
 「議会の多数を得て社会変革を進める」もへったくれもなかったと思うのだが。
 戦前の綱領的文書である27年テーゼや32年テーゼをざっと見てみたが どこにもそんなことは書かれていないようだが。
 まあ現在の共産党からすれば、コミンテルンから下されたこれらテーゼは「党の正規の方針」ではないのかもしれない。しかし、当時の共産党でこれらが「党の正規の方針」として扱われていたことは歴史的事実だ。
 「歴史の事実を歪曲」しているのは誰なのだろうか。

 それはさておき、
「党が分裂した時期の一方の側の行動であって、……党が統一を回復したさいに明確に批判され、きっぱり否定された問題」
だから現在の党を調査対象とするのは不当だとは、不思議な論法だと思う。
 現在の党が、武装闘争路線を採らなかった一派が分離独立して結成した新党だというなら、わからないでもない。
 しかし、「第7回党大会で党が統一を回復した」のだから、武装闘争を行った側も合流して、現在に至るのだろう。
 「徳田・野坂派」のうち、戦後に再建された党で書記長を務めた徳田球一は1953年に北京で客死したが、野坂参三(1892-1993)は帰国して、1955年の六全協(第6回全国協議会。一般にはここで党が統一を回復したとされる)で党幹部の筆頭である第一書記に選出された。1958年の第7回党大会後に宮本顕治が書記長に就任すると名誉職的な中央委員会議長に棚上げされ、1982年には議長を宮本に譲って名誉議長に就任した。ソ連崩壊後、スターリン時代のソ連における日本共産党員の粛清に関与していたことが明らかとなり、党から除名されたが、それまでは党創立時からの唯一の党幹部であり、党史の証言者としての役割を果たし続けていた。
 ほかにも「徳田・野坂派」から「統一を回復した」党で要職を務めた幹部は多数いる。下級党員ならなおさらだろう。

 戦前からの党員で、戦後党中央委員や衆議院議員を務め、1964年に除名された神山茂夫(1905-1974)は、1972年の著書でこう書いている(彼は「徳田・野坂派」には加わらなかった)。

あれ〔引用者註:武装闘争路線〕は党の決定、すなわち六全協の決議で〔中略〕廃棄された。したがって、それは党ではなく、党の一部分が行ったあやまちである、といって片づけている。しかし、その当時の「党の一部」の活動家の多くは、いまの党の中に残っているわけだ。そういう人々は、いまでは黙っているが(野坂君も含めて)、宮本君が、あれは党の一部分が行った誤りだといういい方をすれば、その野坂君まで含めて黙っていることによって、それを承認するなり、支持していることになる。
 〔中略〕共産党というものは、暴力的なものだと思わせるようなことをした責任は、単に徳田君個人にあるのではない。党の「一部」といわれている――野坂君も含めて、実は多数派だった――者だけでなく、それに反対した者も含めて、全党員が負わなければならない共通の責任だと思う(もちろん、個人の責任も明らかにすべきだが)。
 〔中略〕
 いまの共産党国会議員の大部分、地方議員の大部分は、当時、いわゆる徳田派に属した人だ。すなわち、いまの宮本君の観点からいえば、当然、批判されるべきで、宮本君のいう真の意味では党に属さない「部分」、あるいは党の責任がない「部分」に属した人々である。彼らの大部分は、その時期に、党員として犠牲を払い、苦労を重ねてきた人たちだ。その時点においても、「武装闘争」への協力だけでなく、まじめに、小さな要求を含めて、地域の大衆活動をしていた実績のつみ重ねがあるからこそ、いま、地方議員もふえているし、国会議員もふえているのだ。当時誤りもあったが、大衆に奉仕する実際活動をしてきたから、いまの発展の土台をつくったという側面もあったのである。
 (神山茂夫『日本共産党とは何であるか』自由国民社、1972、p.140-141)


 現在の日本共産党が、かつて武装闘争を行った勢力をも含めたものである以上、破防法の調査対象とされるのは当然のことではないだろうか。

 思えば、私が最初に日本共産党に不信感を抱くきっかけとなったのが、この「党が分裂した時期の一方の側の行動」という論法だった。
 まだ年少の頃、無知な私は、共産主義に対する警戒心を持ち合わせておらず、正論を唱える善良な人々だと素朴に信じていた。歴史が好きだったので、左派の歴史観の影響を受けていたのだと思う。
 その後知識を深めるにしたがって、ソ連や中共、北朝鮮といった現実の共産圏で何が行われてきたか、また日本共産党の戦前の陰惨な歴史や戦後の党内闘争史を知るようになり、共産主義に批判的な立場に変わった。それでも、現在の日本共産党は議会主義に転換したとの説明は信じており、それほど危険な集団ではなくなったのだろうと思っていた。
 そんな私が、日本共産党の体質は何ら変わっていないと思い直すきっかけとなったのが、伊藤律事件を知ったことだった。
 伊藤律(1913-1989)とは、上記のしんぶん赤旗の記事に言うところの「徳田・野坂派」の幹部で、徳田の茶坊主とも評された。戦後の党において徳田書記長の下で権勢を振るい、徳田や野坂同様北京に亡命した。しかし徳田が病に倒れると軟禁され、スパイであったとして1953年に除名された。伊藤はその後も北京で拘禁され続け(中国からは、日本共産党の依頼によるものだと聞かされていた)、日本では生死不明とされていたが、1980年に至ってその存在を中国が公表し、同年日本に帰国した。
 この時日本共産党は、上記のしんぶん赤旗記事の武装闘争路線への評価と同様、党が分裂した時期の一方の側の行動であるから、現在のわが党は関知しないとの立場をとった。伊藤の軟禁に関与している野坂が党中央委員会議長であったにもかかわらず。
 伊藤は帰国後、スパイについては無実だと主張した。しかしそれに党は何ら耳を貸さなかった。
  
 伊藤が帰国した時、私はまだ年少でこの報道を知らなかった。しかし、その後私がこの事件について知った時、伊藤はまだ存命だった。私の衝撃は大きかった。
 スパイであろうがなかろうが、一人の人間を裁判にかけるわけでもなく二十数年間拘禁する、そしてそれが公表された後も「一方の側」がしたことだと何ら責任を認めない。
 こんなことがまかりとおっていいのか。彼らはいったい何者なのか。私と同じ血の通った人間なのか。あまりにも冷酷に過ぎるのではないか。
 と非常な不信感を抱いたことを、今回のしんぶん赤旗の記事を読んで思い出した。

 余談だが、伊藤のスパイ説を流布した『日本の黒い霧』の「革命を売る男・伊藤律」を書いた松本清張(1909-1992)や、同じく『生きているユダ』を書いた尾崎秀樹(1928-1999)もまた、伊藤の帰国後、彼を取材したり自著を再検討したりしたとは聞かない。私は彼らにも同様の不信感を抱いた。
 ゾルゲ事件の発覚の端緒が伊藤であり、伊藤がその後特高のスパイとなって検挙に協力したとの通説は、伊藤の死後、渡部富哉や加藤哲郎の研究によって否定され、その後も版を重ねた『日本の黒い霧』には2013年になってようやくその旨の注釈が付された。

続く


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