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呉智英「坂東眞砂子「子猫殺し」を論ず」

2006-10-04 01:33:47 | 珍妙な人々
 坂東眞砂子の子猫殺しについて、先月発売の『文藝春秋』9月号に呉智英の文章が載っている(「坂東眞砂子「子猫殺し」を論ず」)。
 坂東の文章は、少し前に『週刊文春』が、この問題についての東野圭吾の文章を載せた際に再録されていたので、読んだ記憶がある。別段、それほど奇矯な主張をしているとも思わなかったし、東野の擁護論もよく理解できるものだった。
 私は猫も犬も飼ったことはない。したがって、それらの妊娠にまつわる問題というのは実感としてはわからない。坂東が言うように、犬や猫が避妊手術よりも出産を喜びとしているのかどうかも、私にはわからない。しかし、避妊手術より子猫殺しを選択するという坂東を非難はできない。結局は同じことだし、坂東は敢えて子猫殺しを選ぶというのだから。少なくとも、避妊手術を是とする者に、坂東を非難する資格はないのではないか。
 ところで、ここでの本題は呉智英のことだ。
 上記の呉智英の文章のうち、坂東の主張について直接触れられているのは最初の4分の1程度で、残りは、動物愛護管理法などを持ち出しての、動物と人間にまつわる自説の展開にすぎない。しかもその展開はいつものようにかなり強引なものだ。

 呉智英の本や文章は昔から愛読してきたし、影響も受けてきたと思うが、近年、その限界を強く感じるようになった。この人はアジテーターというか、コメント屋というか、知識は豊富だが、その思想は意外に浅いのではないか、しかもその知識の使い方や議論の持っていき方にかなり無理があることが多いのではないかと思うようになった。
 今回も、呉は、坂東の文章に、動物愛護管理法に反するかもしれないとあったことから、同法(正確には「動物の愛護及び管理に関する法律」)の第1条(目的)及び第2条(基本原則)の条文を部分引用した上で、
「動物愛護は、生命尊重、ひいては、友愛、平和にまでつながり、動物が命あるものであることを忘れることなく、人と動物との共生を慮る、というのである。地方自治体などがよくやる平和宣言だの環境都市宣言だのではない。これらは(中略)とりたてて国民の言動を規制するわけではない。しかし、動物愛護管理法は最高1年の懲役刑(中略)まである法律だ。その第1条(目的)と第2条(基本原則)が、この程度の思想水準だとは。」
と慨嘆し、続いて
「動物愛護管理法に流れる〝思想〟に、私は現代社会の大きな軋みの兆しを感じる。動物愛護から友愛や平和までを楽天的にひとつながりに考える思想は(中略)あってもかまわない。問題なのは、それが無自覚な一種の権力になることだ。」
と述べ、さらに
「友愛や平和までを実現させようとする動物愛護管理法の延長線上には、実は、人権に擬された獣権の出現が予想される。いわゆる「動物の権利」として一部で主張し始めているものである。」
と述べた上で、権利とは人間を主体としたもので動物にはありえないとし、池上俊一『動物裁判』(講談社現代新書)で描かれている、中世から近代にかけてのヨーロッパで見られた動物を主体とする裁判の例を挙げ、
「獣権を認めれば、当然、罪を犯した動物にも「裁判所において裁判を受ける権利」(中略)が認められなければならない。一挙に、動物裁判の時代にまで逆戻りである。
 ソボクな合理主義、タンジュンな正義感は、滑稽かつ醜悪な社会を生む。
 ひるがえって、現在、マスコミや教育はそれに加担していないか。」
と、日本社会を批判するのである。

 しかし、まず、動物の愛護及び管理に関する法律は、それほどの批判を受けるほどの内容だろうか。

第1条 この法律は、動物の虐待の防止、動物の適正な取扱いその他動物の愛護に関する事項を定めて国民の間に動物を愛護する気風を招来し、生命尊重、友愛及び平和の情操の涵養に資するとともに、動物の管理に関する事項を定めて動物による人の生命、身体及び財産に対する侵害を防止することを目的とする。
第2条 動物が命あるものであることにかんがみ、何人も、動物をみだりに殺し、傷つけ、又は苦しめることのないようにするのみでなく人と動物の共生に配慮しつつ、その習性を考慮して適正に取り扱うようにしなければならない。

この条文のどこから、「動物愛護から友愛や平和までを楽天的にひとつながりに考える思想」が読み取れるのか。「友愛や平和までを実現させようと」はしていない。その「情操の涵養に資する」としているにすぎない。ましてや、「獣権の出現が予想される」とは何を根拠に言っているのか。たしかに、そのような論者はいるのかもしれないが、そのような傾向が法律から読み取れるだろうか? 動物が権利主体となり得ないことなど、呉に教えられるまでもなく、法律界の常識だと思うが。また、思想水準も何も、この法律に限らず、法律の目的や理念といった条文は、だいたいこういったものではないか。
 結局、呉は、ありもしない危機をあるかのように装い、警鐘を鳴らしているふりをしているだけではないか。ついでに言うと、思想水準がどうのこうのと言うのであれば、呉自身が、どのような条文にすべきなのか試案を明示すべきではないか。


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