朝日新聞夕刊に長期連載中の「ニッポン人脈記」。
12月10日付けの「民主主義 ここから」第13回は、「少しずつ社会を変える」との見出しで、反原発運動を取り上げていた。
その中の一節。
こうした主張、それを容認する感覚が、私がどうしても彼らに賛同できない部分だ。
反原発運動に参加する者こそが「国民」であり、それ以外の者は「国民」ではない。
将来の脱原発を志向するにしろ、安全性を確認した上での再稼働は認めてよいのではないかと考える者は「国民」ではない。
「国民」でなければ何なのか。「非国民」なのか。
ましてや、それでも原発を存続すべきだと考える者は、魑魅魍魎、妖怪変化のたぐいということになるのではないか。
「さようなら原発10万人集会」で検索してみると、主催者がまとめた発言録があった。
そこに収められた落合の発言の一部。
「すべての命をおびやかすもの」に反対するのなら、自動車事故で毎年何千もの人が亡くなっているのだから、自動車の存在にも反対してはどうか。
今も裁判が続いている福知山線脱線事故のように、鉄道も多数の人命を奪うことがあるのだから、鉄道の廃止も主張してはいかがか。
旅客機が墜落すればオスプレイ以上の大惨事になるのだから、オスプレイだけでなく旅客機の全面禁止も訴えるべきではないか。
もちろん、原発事故は、これらとはまた別種の、より大きく長期にわたる被害をもたらす。使用済み燃料の問題もある。
だから、ゆくゆくは廃止すべきだろうと私も思う。
しかし、無理な節電も命を脅かす。
電力会社の経営難や倒産も、命を脅かす。
電気代値上げや電力供給の不安定化により国内企業の経済活動が低下すれば、それもまた命を脅かす。
無理をせず、既設の原発は活用しつつ漸減を図るという考えでは、「国民」とは認めてもらえないのだろうか。
自分たちの運動が「本当の民主主義」であり、現在の民主制により成立した野田政権は「独裁」なのだと。
資本主義の下での代議制はブルジョワ独裁であり、革命によるプロレタリア独裁こそが真に民主的であると説いたマルクス主義者と瓜二つだ。
「すべてに反対することから命は再生していく」って、あんたら、とにかく「○○反対」って言いたいだけじゃないの。
「運動」がしたいだけじゃないの。
同じ発言録で坂本龍一は、自分は42年前の18歳のときにも、日米安保改定反対でこの代々木公園にいたと語っている。
主催者による写真報告の記事を見ていると、こんなコメントがあった。
テロリストの思想である。
今回の脱原発運動は、組織された労働者や学生によるものではなく、広い階層にわたる普通の市民が自発的に参加しており、新しい直接民主主義の萌芽であるといったことがよく言われる。
私はそうした「運動」の現場はよく知らないが、たしかにそうした面はあるのだろう。
しかし、主催者側の本質は、必ずしもそうではないのではないか。
民主主義というのは国民の様々な主張や利害を汲み上げて調整するものであり、選挙で当選した者に白紙委任するものではないといった主張が朝日の紙面でよく見られる。私も基本的にはそう思う。
ならば、我らこそが民主主義であり他は民主主義ではないなどという主張は、およそ民主的とは言えないのではないか。
しかし、朝日がそうした視点から彼らを批判することはない。
今回の総選挙で即時脱原発を掲げる政党は劣勢だと聞く。
今後、即時脱原発に反対する者に「非国民」「亡国の徒」「売国奴」といった非難が浴びせられるようになったとしても、私は驚かない。
そして、さらに過激な事態が生じたとしても。
自らに正義があると信じ込んだ者どもがしでかすことほど恐ろしいものはない。
12月10日付けの「民主主義 ここから」第13回は、「少しずつ社会を変える」との見出しで、反原発運動を取り上げていた。
その中の一節。
「脱原発」を訴える市民集会「さようなら原発10万人集会」。7月には主催者発表で約17万人が全国から集まり、会場となった東京・代々木公園を埋め尽くした。
作家の落合恵子(67)は「私たちは決してひるみません。野田政権に訊(き)きます。あなたたちが『国民』という時、一体誰を見ているのか。今日ここにいるのが『国民』であり、市民なのです」と訴え、大きな拍手を浴びた。
こうした主張、それを容認する感覚が、私がどうしても彼らに賛同できない部分だ。
反原発運動に参加する者こそが「国民」であり、それ以外の者は「国民」ではない。
将来の脱原発を志向するにしろ、安全性を確認した上での再稼働は認めてよいのではないかと考える者は「国民」ではない。
「国民」でなければ何なのか。「非国民」なのか。
ましてや、それでも原発を存続すべきだと考える者は、魑魅魍魎、妖怪変化のたぐいということになるのではないか。
「さようなら原発10万人集会」で検索してみると、主催者がまとめた発言録があった。
そこに収められた落合の発言の一部。
私たちの怒り、いま外は33℃といっていますが、冗談じゃありません、100℃超えています。私たちは、命への、暮らしへの、この重大なる犯罪と侵略行為の共犯者になることはできません。私たちは二度と加害者にも被害者にもなりません。そのことを約束するために今日ここへ集まっています。自らの存在にかけて、闘うことをやめません。原発はいりません、再稼働を許しません。原発輸出させません。すべての原発を廃炉にします。
私たちが守るのはたった一つ、命です。命であり、暮らしであり、田畑であり、海であり、空であり。原発はもとより、オスプレイも基地も全部反対です。私たちはすべての命を脅かすものとここで対峙していきましょう。子どもがいて、お年寄りがいて、人と人がつながっていて。あの日常を返せ!
「すべての命をおびやかすもの」に反対するのなら、自動車事故で毎年何千もの人が亡くなっているのだから、自動車の存在にも反対してはどうか。
今も裁判が続いている福知山線脱線事故のように、鉄道も多数の人命を奪うことがあるのだから、鉄道の廃止も主張してはいかがか。
旅客機が墜落すればオスプレイ以上の大惨事になるのだから、オスプレイだけでなく旅客機の全面禁止も訴えるべきではないか。
もちろん、原発事故は、これらとはまた別種の、より大きく長期にわたる被害をもたらす。使用済み燃料の問題もある。
だから、ゆくゆくは廃止すべきだろうと私も思う。
しかし、無理な節電も命を脅かす。
電力会社の経営難や倒産も、命を脅かす。
電気代値上げや電力供給の不安定化により国内企業の経済活動が低下すれば、それもまた命を脅かす。
無理をせず、既設の原発は活用しつつ漸減を図るという考えでは、「国民」とは認めてもらえないのだろうか。
私たちは性懲りもなく原発を推進する人たちに、本当の民主主義とは何なのか教えなければ。私たちの声は、「大きな音」ではないのです。原発推進を、独裁を挫折させてやろうじゃないか。そして、こんなにつらい思いをしている子どもたちに、もう少しましな明日を残してから死んでいきましょう。もう一度約束です。再稼働反対、原発そのものに反対。すべてに反対することから命は再生していくこと。
自分たちの運動が「本当の民主主義」であり、現在の民主制により成立した野田政権は「独裁」なのだと。
資本主義の下での代議制はブルジョワ独裁であり、革命によるプロレタリア独裁こそが真に民主的であると説いたマルクス主義者と瓜二つだ。
「すべてに反対することから命は再生していく」って、あんたら、とにかく「○○反対」って言いたいだけじゃないの。
「運動」がしたいだけじゃないの。
同じ発言録で坂本龍一は、自分は42年前の18歳のときにも、日米安保改定反対でこの代々木公園にいたと語っている。
主催者による写真報告の記事を見ていると、こんなコメントがあった。
野田総理と原発反対官邸前抗議行動連合の皆さんとの話し合いが行われましたが、自分の立場、保身しか考えることのできない政治家ばかりに憤りを強く感じています。
先日、大津市のいじめ問題で教育長に対して報復を実行した19歳の少年がおりました。やった行為は間違っていますが、教育長を襲うことで、「いじめ」撲滅を訴えたものと思います。
同じ殺人未遂罪で罰を受けるのであれば教育長を襲って逮捕されるよりも・・・・・・
これは失言ですが、それぐらい真剣に考えていることを野田総理にわかったもらいたいです。
テロリストの思想である。
今回の脱原発運動は、組織された労働者や学生によるものではなく、広い階層にわたる普通の市民が自発的に参加しており、新しい直接民主主義の萌芽であるといったことがよく言われる。
私はそうした「運動」の現場はよく知らないが、たしかにそうした面はあるのだろう。
しかし、主催者側の本質は、必ずしもそうではないのではないか。
民主主義というのは国民の様々な主張や利害を汲み上げて調整するものであり、選挙で当選した者に白紙委任するものではないといった主張が朝日の紙面でよく見られる。私も基本的にはそう思う。
ならば、我らこそが民主主義であり他は民主主義ではないなどという主張は、およそ民主的とは言えないのではないか。
しかし、朝日がそうした視点から彼らを批判することはない。
今回の総選挙で即時脱原発を掲げる政党は劣勢だと聞く。
今後、即時脱原発に反対する者に「非国民」「亡国の徒」「売国奴」といった非難が浴びせられるようになったとしても、私は驚かない。
そして、さらに過激な事態が生じたとしても。
自らに正義があると信じ込んだ者どもがしでかすことほど恐ろしいものはない。
現在、伝えられているような選挙結果が出れば、日本国民も捨てたものではないと思えますが、どうなることでしょう。
他方で、結局声のでかい者の意見が通るのもこの国です。結局、朝日新聞以下、御指摘のあった言説は日本の民主主義的な制度を実は信奉していないのではないかと思わざるを得ません。何と言っても自分だけが正しいと確信しているのですから、民主的手続きを経て決まったことに従うという点に疑問を抱きます。
徒党を組んだ者たちは、自分たちの集団は
エリートであり特別に選ばれたものであると、
考える(そう思いたがる本能がある)。
各メンバーたちは、集団内では、互いに謙虚で
あるが、
集団の外の世界に対しては、傲慢で傍若無人に
なる。
それぞれが。集団内での、自己の地位とか、
ステータスを向上させようと努力する。
だから、集団のスローガンに反する事は。
絶対言わない。それ故、
決して、広い視野に立とうとはしない。
都合の悪い観点は全て無視する。
そして、徒党を組んだ者たちは、外の世界に対して
特権を持つようになる。労働組合のようなものも
その典型である。
徒党を組むと、傲慢になる卑近な例。
若い奥さんたちの5,6人がスーパーで大量の買い物をしている。何かの催事でもあるのだろう。
スーパーではレジに長蛇の列ができていた。
2人が何も持たずに列に並び、3人が買い物に回った。
これは、厳密にはマナー違反である。
買い物を全て選んでから、レジに並ぶのが
マナーである。
この奥さんたちは、一人一人で買い物するときは
このマナーを守る。
賛成派と反対派の間で議論がなくて、両極端なことになってしまってるのが問題だと思うんですよね。
賛成か反対かの二者択一の議論になってしまって、それぞれが自分の意見と違う人を「非国民」だの「抵抗勢力」だの「無知」だのとレッテル貼りするばかりで、相手の疑問に答えようとしてないので、話が前に進まないような気がします。
原発にしても、実はもっと安全な技術があったんだけど、建て替えようとすると反対派に「それみろ、今までの技術は危険なものだったんだ!」と言われて実現しなかったという話も聞きますし。
どんな政策であれ、100%正しいということはないんだから、もっとメリットとデメリットをきっちり公開して議論してほしいです。
と、皮肉ってみました。
しかし、乗り物の事故と原子炉の事故は比べる事が不可能なのです。
何故なら、僕達は原発事故について交通事故の様に子供の頃から教育を受けている訳ではありません。
自動車事故は避ける様に子供に教育できますが、どうやって放射性同位元素から身を守るのか、一般的な教育では知り得ないのです。それ処か有識者、専門家の間でさえ、統一した見解を導きだすのが困難な現状がこの分野にはあります。
飛行機や船とさえ比較する事は不可能です。
原発による事故の、船舶や旅客機による事故との本質的な違いは、それが非常に広範な範囲に影響を及ぼす可能性があるという事です。
つくばのKEKのデータをご覧になると分かりますが、今回の福島からの核分裂生成物は偏西風にのって西へ渡り、およそ16~19日かけて地球を回り、再び日本へ戻って来ています。こうして線量を下げながら18日前後で放射性物質は地球を何周も回り続け、北半球の広域を汚染しました。
空気中の放射能の測定結果(9) ( 環境放射線 - KEK 高エネルギー加速器研究機構) http://legacy.kek.jp/quake/radmonitor/GeMonitor9.html
それによるリスクは未だ未知数であり、現在よりも未来の命に対しより深刻な影響をもたらす可能性が考えられます。
ベラルーシでの遺伝的影響
http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/Chernobyl/saigai/Lazjuk-J.html
更に、核分裂生成物漏洩のリスクを論じる場合、外務省の出していた試算によれば、状況により一万人以上の被曝による死者と急性障害の発生する可能性が指摘されていました。一度の事故による損失が計り知れないものとなる可能性を秘めているのが、核分裂生成物による被害なのです。
外務省の試算 原発へのテロ攻撃による死亡者数 (あくまで試算)
http://megalodon.jp/2011-0731-0420-57/www.asahi.com/politics/update/0730/TKY201107300615.html
また「全ての命を脅かすもの」であって「命を脅かすもの全て」ではありません。核分裂生成物の危険性は上述の要に自動車と同列に語る事の出来ない特異な危険性を秘めています。
確かに数に物を言わせた多勢の振りかざす主張は暴論となり易いので注意が必要です。自らの正義、信じる物、主張程、懐疑し確かめる必要があります。
この議論においてより論理的で現実に沿ったプランを出しているのは常に脱原発派です。残念ながら、今の処原発推進派の方々から論理的で現状を深く考察した説得力のあるプランを聞く事が出来ないのが支持出来ない理由です。
彼等は原発をこれ以上稼働していく合理的な理由を提示出来ていません。
合理的な理由があるのならば積極的に提示し理論的な終着点を互いに模索すべきで、それを行わず情報に非対称性をもたらし行政による慣行を行い続けようとする為摩擦や軋轢が生じているのです。
大衆迎合とか、反抗の為の反抗だとか、最早そういった段階のステージではなくなっている事を認識すべきでしょう。
「一般的な教育では知り得ないのです」とありますが、
文部科学省のホームページに「放射能を正しく理解するために 教育現場の皆様へ 文部科学省 平成23年6月24日」
内閣府 食品安全委員会のホームページ/食品の放射性物質に関する情報 「食べ物と放射線のはなし」
独立行政法人 放射線医学総合研究所のホームページ 「放射線被ばくに関するQ&A」
など、公機関のホームページを探せば、信頼に足る情報を得ることに困ることはないと思います。また、教育機関が教育を実施すればよいだけですので、「教育では知り得ない」理由を尋ねます。あわせて、教育の有無と事故の比較の可否の関係を尋ねます。
「統一した見解を導きだすのが困難な現状」とありますが、日本政府の福島第一原子力発電所事故後の対応は、国際放射線防護委員会(ICRP)の勧告を参考にしていると理解しています。国際放射線防護委員会(ICRP)の勧告が「統一した見解」たり得ない理由を尋ねます。
KEKのデータですが、3月28日のセシウム137の濃度(Bq/立方cm)は「10のマイナス7乗」レベル。以降、ピーク時でも「10のマイナス7乗」レベルを超えることはありません。一方、wikipediaの「ラドン」の項目によると、日本の屋内ラドン濃度の算術平均は15.5 Bq/立方mです。その差はおよそ100倍。
「こうして線量を下げながら18日前後で放射性物質は地球を何周も回り続け、北半球の広域を汚染しました。」とありますが、自然の放射線源であるラドンの数%にあたる放射性物質が浮遊していることを「汚染」とするに違和感を覚えます。「拡散」であれば事実として認めますが、「汚染」と主張されるのであれば環境に悪影響を及ぼす具体的な例と数値をご教示ください。
同じ理由から
「それによるリスクは未だ未知数であり、現在よりも未来の命に対しより深刻な影響をもたらす可能性が考えられます。」とありますが、日本でのラドンの年間の被曝線量 は0.39 mSv/年であり、その数%被曝線量が増えたところで「深刻な影響」になるとは思えません。
「それによるリスクは未だ未知数であり、現在よりも未来の命に対し影響をもたらす可能性が考えられます。」であれば認めますが、「深刻な」とする根拠を尋ねます。
「ベラルーシでの遺伝的影響」では、データから「放射線被曝による遺伝的影響の倍加線量に換算すると0.02~0.03シーベルト」と導きだし、「この結果は,放射線被曝にともなう遺伝的影響が従来考えられてきたより大きいものであるか,または,解析に用いた被曝量の値が実際の被曝よりかなり小さく評価されていることを示唆している」としています。まとめで「増加の原因はまだ断定されていない」としていることから「深刻な影響」の根拠にはなり得ないと考えます。
「外務省の出していた試算によれば、状況により一万人以上の被曝による死者と急性障害の発生する可能性が指摘されていました。」とありますが、算出の根拠となった想定「格納容器が大型爆弾で爆撃され、全電源や冷却機能を喪失」がおこる確率はどの程度と考えていますか。
荒唐無稽な話を持ち出すよりこれまでの核事故や核実験・原発事故による放射性物質の拡散による被害を明示し、「一度の事故による損失が計り知れないものとなるのが、核分裂生成物による被害なのです。」の方がより理解できます。具体的な「一度の事故による損失(死傷者数のみで結構です)」を尋ねます。
「核分裂生成物の危険性は上述の要に自動車と同列に語る事の出来ない特異な危険性を秘めています。」
形容詞で修飾された語句や観念的な語句は、具体性に欠け、説得力がありません。「論理的で現状を深く考察した説得力のある」説明をお聞かせ頂ければ幸いです。なお、乗り物の事故による人的被害は時間軸を考慮して語られています。原発が稼働を始めてからの期間、または、10年単位の期間で比較した説明を伺いたく思います。
「理論的な終着点」とはどのようなものですか?「お互いが納得できる妥協点」ではいけませんか?
「情報に非対称性をもたらし」とはどのようなことですか?
「行政による慣行を行い続けようとする」どのようなことを指しているのか尋ねます。
「大衆迎合とか、反抗の為の反抗だとか、最早そういった段階のステージではなくなっている事を認識すべきでしょう。」
理解できません。どういった段階のステージなのか教示ください。
いろいろ書きましたが、後学のために教えて頂ければと思います。
因に、わたしは、これまで蓄積してきた技術をおいそれと捨てるべきではないとの考えから「原発を容認」しています。
最後に「ss」は何かの略ですか?
年齢を重ねた身には「ss」は「Schutzstaffel」を連想させます。そういった考えに共鳴される方ですか?
そんなことはありません。
ご自由にどうぞ。
>しかし、乗り物の事故と原子炉の事故は比べる事が不可能なのです。
私は、落合恵子の「私たちはすべての命を脅かすものとここで対峙していきましょう。」という言葉への皮肉として、自動車や鉄道や旅客機を例に挙げました。
そして、その後で
>もちろん、原発事故は、これらとはまた別種の、より大きく長期にわたる被害をもたらす。使用済み燃料の問題もある。
と書いています。
あなたに諭されるまでもありません。
>また「全ての命を脅かすもの」であって「命を脅かすもの全て」ではありません。
「全ての命」「を脅かすもの」であって、
「全ての」「命を脅かすもの」ではないという趣旨でしょうか?
だとしたら、失礼ですが、それは詭弁でしょう。
「原発はもとより、オスプレイも基地も」と述べていることからも、後者であることは明白だと思いますが。
そもそも前者の意味で「私たちはすべての命を脅かすものとここで対峙」などとは言わないでしょう。
「みんなの命を脅かすもの」とか、
「国民全員の命を脅かすもの」とか、
「人類全ての命を脅かすもの」といった表現になると思います。
>この議論においてより論理的で現実に沿ったプランを出しているのは常に脱原発派です。残念ながら、今の処原発推進派の方々から論理的で現状を深く考察した説得力のあるプランを聞く事が出来ないのが支持出来ない理由です。
何が論理的で何を現実に沿っていると見るか、立場によっても違ってくるので一概には言えないと思います。
私は漸進的な脱原発を志向していますので、民主党の原発政策は支持できるものでしたが、未来の党のそれは論理的だとも現実に沿っているとも思えませんでした。
>大衆迎合とか、反抗の為の反抗だとか、最早そういった段階のステージではなくなっている事を認識すべきでしょう。
私、大衆迎合なんて言いましたっけ?
新しい民主主義の可能性があるのかもしれないが、「運動」家側の思惑は別にあるのではないかという話をしているのですが。
さらに言えば、国民の側もそれに気付いたからこそ、脱原発は争点にならず、未来の党は大敗したのだと思います。
www2.yukawa.kyoto-u.ac.jp/2012NBP/index.php?plugin=attach&refer=NBP-SOKEN&openfile=8-10-A1-AY-S.pdf#search='%E4%BB%AE%E8%AA%AC%E5%AE%9F%E9%A8%93%E6%8E%88%E6%A5%AD+%E6%94%BE%E5%B0%84%E7%B7%9A%E3%81%A8%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88'
何にしても、声を上げるということはいいことです。日本人は何かの問題に対して、あまりにも無反応過ぎるからです。人の顔色ばかり見て、意見を言いません。それよりは、あれほどの人が集まって、平和的に意見を述べたのは、とてもいいことだと思います。
なかなか意見を表明しない日本人があれほどの人数集まって、運動するなど、そこに何事かがあると感じないでしょうか。それだけ、福島の原発事故に対して、危機感を感じたと言うことです。あのようなデモという形でも、日本人が行動で意思を表明することは、とてもいいことだと思います。