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少数野党への権力移譲が「憲政の常道」か

2007-09-30 18:43:43 | 現代日本政治
 自民党の新総裁を麻生・福田が争う中、「憲政の常道」から言って自民党は野党である民主党に政権を譲るべしとの主張が一部で見られた。
 政治評論家の森田実は、『週刊朝日』9月28日号の「「後継」に指名した小泉の罪、「続投」を支持した麻生の責任」で、次のように述べている。


《代表質問を「ドタキャン」して辞任するような人物をトップに据えていたということは、もはや自民党には政権担当能力すらないことを示しています。そうであるならば、自分たちが滅びる危険性があっても政権を野党に渡すべきなんです。
 実は、これは日本の憲政の常道なんです。1947年の選挙で生まれた社会党と民主党(当時)などの連立政権は、昭電疑獄でつぶれた。その際、政権担当能力があるのは野党第1党の民主自由党・吉田茂しかいない。それで吉田茂に政権を委ねた。民主自由党は少数与党ですから、すぐに総選挙をやり、単独過半数を得た。54年にも吉田茂が政権を降り、自由党は日本民主党総裁・鳩山一郎に政権を渡した。
 自民党に政権担当能力がないことがはっきりした以上、自公は民主党に政権を渡し、小沢一郎代表を首相にすべきです。
(以上、太字は原文のママ)

 しかし、国会の多数派、というか衆院の多数派が首相を指名するのだから、多数派が少数派の首班に敢えて投票するのでない限り、少数派による政権など成立し得るはずもない。
 現に、1955年以降ほとんどの期間、自民党の単独政権、あるいは自民党を与党第1党とする連立政権が続いてきたわけだが、その中で内閣が交代するにあたり、野党への政権移譲など問題にもならなかった。
 近時においても、自民党総裁の任期満了に伴い退陣した小泉内閣と、首相が病に倒れた小渕内閣はともかく、「えひめ丸」事件などによる低支持率で退陣した森内閣、参院選大敗の責任をとって退陣した橋本内閣、「元旦の青空を見て」首相が退陣を決意した村山内閣などでも、次は野党に政権を譲るべしとの主張は見られなかったように思う(野党がダメ元で言っていたかもしれないが)。
 議会政治の本場である英国でも、労働党のブレア前首相からブラウン現首相へ、その前には保守党のサッチャーからメージャーと、同一党内で政権が交代したことがあったが、それはいずれもその時に労働党、保守党が過半数を占めていたからだ。政権が保守党から労働党に移ったのは、1997年の衆議院選挙で保守党が過半数を失い、労働党が取って代わったからだ。メージャーがブレアに政権を譲って、衆院選を行ったのではない。
 森田は何を言っているのだろう。

 そもそも、「憲政の常道」とは何だろうか。
 ウィキペディアで引いてみると、なるほど、次のような記述がある。


《憲政の常道(けんせいのじょうどう)は「ある内閣が失政によって倒れた時、その後継として内閣を担当するのは野党第一党である」とする大日本帝国憲法下の政党政治時代における政権交代の慣例。

国民は帝国議会議員選挙を通して内閣を選んだのであるから、内閣が失敗して総辞職に及んだ場合、そのまま与党から代わりの内閣が登場すれば、国民にとってその内閣は選挙を通して選ばれた内閣では無い、とする。それならば直近の選挙時に立ち返り、次席与党たる野党第一党に政権を譲るべきである、という考えである。

内閣の失政による内閣総辞職が条件のため、首相の体調不良や死亡による総辞職の場合、政権交代をする必要はない。

五・一五事件で犬養毅首相が暗殺された後、軍部の意向を酌んだ妥協の結果として斎藤実が首相に選ばれて内閣を組織することが決定し、政党内閣が途絶えてしまったことにより、憲政の常道は崩壊した。》



 しかし、インターネットで「憲政の常道」で検索してみると、必ずしもそのような意味で用いられていない。
 参院選で大敗したから自民党は下野するのが「憲政の常道」だという論や、参院選で民主党が第1党となったのだから議長ポストは民主党が得るのが「憲政の常道」だといった論が見られた。
 あるいは、議会での多数派が政権を獲得するという意味でこの言葉を用いている人もいた。

 昔の政治学事典(『政治学事典』(平凡社、1949))にも「憲政の常道」の項目があり、次のように説明されている。


《憲政の常道 大正の政変をめぐる第1次護憲運動および清浦内閣誕生反対の護憲運動にあたつて議会派によつてもちいられた言葉。一般的に議院内閣、責任内閣の確立を志向したが、その実態は明確でなく、官僚・藩閥政治打破のためのポレミカルな言葉としてもちいられた。また終戦後片山・芦田内閣間の政権のタライ廻し的授受は責任内閣制の観点から憲政の常道に反するとして批判された。》


 というから、ウィキペディアの記述は、この語の一用法を示したものにすぎないように思う。

 たしかに、第1次若槻内閣から田中義一内閣、田中義一内閣から浜口内閣、第2次若槻内閣から犬養内閣への政権交代にあたっては、衆院選を経ずに、野党に政権が移譲している。
 しかしこれは、明治憲法下においては議院内閣制ではなく、首相を元老が決めていたからだ。そして、昭和期に入り唯一の元老となった西園寺公望が、自ら政友会の第2代総裁を務めたこともあり、政党政治に理解があったため、そのようなことが可能であったにすぎない。
 ところで、元老とは何だろう。いわゆる明治の元勲の中でも、特に中核的な役割を果たしてきた者が任命されたようだ。しかしその明確な基準はなく、また、明治憲法には、元老についての規定は何ら設けられていない。
 およそ非立憲的、非民主的な存在により、「憲政の常道」が維持されてきたという皮肉な現象が起きていたわけだ。
 そうした時代の「憲政の常道」を、議院内閣制下の現代にそのまま持ち込んでいいものだろうか。

 ただ、森田が挙げているように、現憲法下でも、芦田内閣と第5次吉田内閣が退陣した後、それぞれ野党が組閣したことは確かだ。
 しかし、芦田内閣は、その前の片山内閣と共に、社会・民主・国民協同の3党連立で、しかも社会・民主両党とも党内対立が激しく安定感を欠いていた。芦田内閣は1948年3月に発足したが、7月に政治資金の問題で内閣の要であった社会党右派の西尾末広・副総理兼国務相が辞任し(6月に起訴されていたが8月に無罪)、さらに9月には昭電疑獄で現職閣僚である栗栖赳夫・経済安定本部総務長官が逮捕され、道義的責任をとるとして総辞職したのである。
 そして、片山内閣発足時の衆議院は、社会党が144議席で第1党、民主党が132議席で第2党、自由党が129議席で第3党、国民協同党が31で第4党で(総議席数は466)、だからこそ社会党の片山が首班になり得たのだが、芦田内閣下の48年7月には、自由党と民主党の一部が合同した民主自由党が151議席で第1党、第2党が123議席の社会党、第3党が87議席の民主党、第4党が30議席の国民協同党となっており、与党は衆院第1党の座を失い、議席数もかろうじて過半数を維持していたにすぎない。しかも芦田の民主党は第3党で、これでは正統性を誇示するのは困難だったろう。
 芦田退陣後、同年10月の衆院での首相指名選挙では、吉田が184票、片山哲が87票、三木武夫(国民協同党)が28票などのほか、白票が86票投じられた。これは民主党の大部分だという。決選投票では吉田が185票、片山1票、白票が213票(民主・社会の大部分)で、吉田が首相に指名され、第2次内閣を組閣した。民主・社会・国協3党は確かに下野したが、それは連立を維持できなくなった上に、民自党が第1党という情勢によるものであり、何も進んで吉田を担いだわけではない(吉田に対抗して、民自党幹事長の山崎猛を担いで、挙国連立内閣を立てる構想もあった)。
 また、次に森田が挙げている、第5次吉田内閣から鳩山内閣への政権交代だが、この時、既に吉田の自由党からは、鳩山一郎や岸信介ら反吉田派が離脱し、改進党などと合流して民主党を結成し、自由党は185議席と少数与党に転落しており、そこに民主党121、左派社会党72、右派社会党61の野党連合による内閣不信任案が可決されたのである。吉田は当初解散を企図したが、党内の大勢は総辞職に傾き、吉田もやむなくそれを受け入れた。そして、国会の首相指名選挙で、民主・左社・右社が鳩山一郎に投票し、鳩山内閣が成立したのである。この時、自由党は吉田の後継者と目されていた緒方竹虎に投票している。
 だから、森田が「自分たちが滅びる危険性があっても」「吉田茂に政権を委ねた」「鳩山一郎に政権を渡した」と、あたかも与党が自らの不利益を顧みずに野党の首班に政権を移譲したかのように言うのは、全くのデタラメだ。それにこれらは、自民党が成立する前の、安定した与党を欠いていた時代の出来事であり、現代にそのまま適用し得る話でもない。

 国民は選挙で政権や首相を選ぶのではなく、個々の議員を選ぶにすぎない。その選ばれた議員が、党派を形成し、首相を指名する。
 わが国がこうした議院内閣制を採っている以上、議会の多数派が政権を握るのが、現代の「憲政の常道」というものだろう。

 


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