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東條を米軍が逮捕しないという「約束」はあったか?

2008-08-25 01:41:47 | 日本近現代史
 先日,東條メモに関する記事をアップしたところ,無宗ださんから記事「「生きて虜囚の辱(め)を受けず」の真意 (2) 」のトラックバックをいただいた。

 その記事の感想については,そのコメント欄で述べたとおりだが,無宗ださんが挙げている資料の中に興味深いものがあったので取り上げておく。
 無宗ださんによると、東條英機の孫,東條由布子の著書『祖父東條英機「一切語るなかれ」』に,次のような記述があるという。

《日本政府はかねてから「戦犯容疑者を逮捕する場合は、占領軍司令部からの通告に従って、日本政府の責任で連行する」という約束を占領軍司令部と交わしていた。
 戦時中に「生きて虜囚の辱しめをうけず」という戦陣訓を作った祖父は、”米軍が礼を守って連行するなら、開戦時の責任者として潔く応じる。しかしそうでない方法で逮捕しに来た場合は自分は自決する」とかねがね祖母に伝えていた。だが、占領軍司令部は日本政府との約束があったにもかかわらず、何の通告もなしに憲兵隊を突然用賀の東條邸に逮捕に向かわせた。

祖父東條英機「一切語るなかれ」 p68》

 私はこの本は8年ほど前に読んだが、こんな記述があることはすっかり忘れていた。

 これが事実なら,「約束」を破った米軍が悪いのであって、裏切られた東條が自決に及んだのももっともだといった感想も生じうるだろう。

 しかし,このような「約束」は本当にあったのだろうか。

 私はこれまで東條英機や東京裁判に関する書物をいくつか読んできたが、そのような「約束」の記憶はない。

 この件について検索してみると、佐藤早苗の著書にも同趣旨の記述があるらしいことがわかった。
 こちらのサイトに、次のような引用がある。


《佐藤早苗著『東条英機「わが無念」』

「(東條が)出頭すべき時は内務省から前もって正式に連絡があるという約束になっていた」「九月十一日午後四時、東條家はMPや米兵たちに突然包囲され、マッカーサー元帥の命令を持った憲兵は『トージョー、お前を逮捕する』と乗り込んできたのだ。これは明らかに約束違反であった。東條に思考する時間はなかった。とっさに日頃の信念に従った。それは妻かつ子にも言っていたことである。『自分は、生きて虜囚の辱を受けず、という戦陣訓をつくった本人だ、米軍が礼を守って自分を迎えるなら、戦争責任者として堂々と法廷に立ち、自分の立場を主張する。しかし、罪人扱いをするようなら自決するつもりだ』であった。」

「戦犯容疑者の逮捕は、占領軍司令部から日本政府に該当者の氏名を通告し、日本の官憲の手で連行するという取り決めになっていたのである。」》

《佐藤早苗氏著『東条英機・封印された真実』

「重光葵外相とGHQの間では、戦犯容疑者の逮捕は、占領軍司令部から日本政府に該当者氏名を通告し、日本官憲の手で連行する、という取り決めになっていたのである。ところが東條家は突然包囲されて『トージョー、お前を逮捕する』と詰め寄られたのだ。東條はその無礼なやり方に対し、かねてからそういうときの行動として考えていたように、即座に自決をはかったのである。》


 若干のニュアンスの差はあるが、東條由布子とほぼ同趣旨の記述である。
 東條由布子は1939年生まれであるから、当時の事情を直接知るはずがない。
 佐藤早苗は、1987年に東條英機の妻勝子の伝記を出している。その取材過程で当然、東條家との接触もあったろう。
 その際、佐藤が、東條家の人間から「約束」の話を聞いたのかもしれない。
 あるいは、「約束」は佐藤が持ち出した説で、それに由布子が影響を受けているという可能性もある。
 いずれにせよ、この2人の著作以外に「約束」について言及しているものは見当たらなかった。

 東條の自決未遂の後に、戦犯は米軍が直接逮捕するのではなく、日本側で逮捕して引き渡すこととなったという事実はある。
 例えば、児島襄『東京裁判』(中公文庫、1982)には、

《マッカーサー元帥は、嶋田大将が逮捕されたあと、重光外相から、戦争犯罪人の引渡しは日本側でおこないたい、との申入れをうけると、直ちに許可して、ソープ准将作成のリスト〔引用者注、戦犯容疑者のリスト〕を渡した。》

と書かれている。 

 また、東條逮捕前にも、重光外相が、戦犯逮捕は日本政府を通じて行ってほしいとGHQに要望していたと、保阪正康『東條英機と天皇の時代』(ちくま文庫、2005)にある。
 しかし、この要望に対してGHQがどう応じたのかは、同書に記述されていない。
 また、保阪は、重光のルートで、戦犯リストのトップに東條の名があることは本人に伝えられたとも書いている。

 重光葵は名著『昭和の動乱』(中公文庫、2001)でこの件について次のように述べている。

《占領軍は、その占領態勢の成るや否や、自ら憲兵(MP)を派して、東条大将をその自宅に逮捕し、自殺を図った大将をそのまま横浜に送った。翌日嶋田海軍大将をも捕えた。記者〔引用者注、著者である重光を指す〕は直ちに横浜に司令部を訪問して、占領政策は総て日本政府を通じてやる、と云う言質に反することを指摘して、今後は日本側において逮捕、引渡しを行うようにした。程なく総司令部から逮捕要求の氏名表が、外務省の連絡員に渡された。》

 それで、東條、嶋田に続くその後の戦犯容疑者については、日本政府の手で逮捕され、米軍に引き渡されたわけだ。
 たしかに、「占領政策は総て日本政府を通じてやる」という合意があったとは聞くが、戦争の継続とも言える戦犯容疑者の逮捕にまでそれが及ぶのかどうか、疑問もある。しかし米軍としても、直接の逮捕を続けていたずらに自殺者を増やすわけにもいかず、重光の申し入れに応じたのだろう(ただし、逮捕が日本政府の手で行われるようになってからも、自殺者は続いている)。

 さて、「占領政策は総て日本政府を通じてやる、と云う言質」をもって、東條由布子や佐藤の言う「約束」と言えるだろうか。とてもそうは言えないだろう。
 では、これ以外に、何らかのもっと明確な「約束」があったのだろうか。先に書いたように、それを見つけることはできなかった。

 仮に東條由布子や佐藤が言うような「約束」があり,米軍がそれにもかかわらず東條邸に押しかけて逮捕しようとし、あげくのはてに自殺未遂までさせてしまったとなれば,重大な「約束」違反である。
 占頷下とはいえ,日本政府も抗議くらいするだろうし,そうした事実が東東裁判に関する一般書籍に記述されないとは考えにくい。

 「約束」があったとするのは,その後の戦犯容疑者の逮捕が日本政府の手で行われたことから類推した、東條由布子もしくは佐藤による単なる思い込みではないだろうか。

 この件について詳しい事情をご存じの方がおられたら,是非ご教示いただきたい。



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