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何故、わが国はもっと早くポツダム宣言を受諾しなかったのか

2008-08-20 22:59:36 | 日本近現代史
 『朝日新聞』8月9日夕刊のコラム「窓 論説委員室から」で、中村正憲が「ポツダムと原爆」と題して、ポツダム会談が行われた部屋を訪ねた感想に続いて、次のように述べている。


《思い出したのは、広島市の平和記念資料館に展示されていたトルーマン大統領による「原爆の投下命令書」だ。日付は45年7月25日。日本に無条件降伏を要求したポツダム宣言が26日だから、その前日だった。
 ということは、大統領は日本への原爆投下をすでに決めて、このいすに座ったことになる。会議の最終日の8月2日が、投下日を6日、投下場所を広島と決めた日だった。
 連合国の首脳らは、世界遺産に登録されたこんな豪華な宮殿で、すでに降伏したドイツの国境線を話し合っていた。その光景はすでに「戦後」である。
 なぜ、日本政府はもっと早く宣言を受け入れなかったのか。会談閉幕から終戦まで2週間。その間に広島、そして長崎で起きたことを考えると、まったく言葉にならない。》


 末尾の問いかけに共感する。 

 そういう朝日新聞は、ポツダム宣言についてどう報じたのか。

 1973年に朝日新聞社から刊行された『朝日新聞に見る日本の歩み』というシリーズがある。大正から昭和にかけての重要紙面を収録したもので、縮刷版そのものには手が出ない私のような一般人には大変便利なものだ。
 その中の『焦土に築く民主主義 1(昭和20年-21年)』に、ポツダム宣言を報じる7月28日の紙面が収録されている。
 記事は、それほど大きなものではない。トップ記事は「数軍の敵機動部隊 依然南方洋上に 警戒要す 戦意攪乱の企図」(旧字は適宜新字に直した。以下同じ)との見出しで、その他いくつかの戦況を伝える記事の次に置かれている。スペースは1面全体の10分の1程度。
 本文は、まず、

《米英重慶、日本降伏の最後条件を声明
  三国共同の謀略放送》

との見出しで、

《【チューリッヒ二十六日発同盟】米大統領トルーマン、英首相チャーチルおよび蒋介石は二十五日ポツダムより連名で日本に課すべき降伏の最後条件なるものを放送した。その条件の要旨は次の如くである。
    ◇
以下の各条項はわれわれの課すべき降伏の条件である。われわれはこの条件を固守するもので、他に選択の余地はない。われわれは今や猶予することはない
一、世界征服を企てるに至った者の権威と勢力は永久に※除せらるること、軍国主義を駆逐すること
〔引用者注 ※は判読不能。以下同じ〕
一、日本領土中連合国により指定せられる地点はわれわれの目的達成確保のため占領せらるること
一、カイロ宣言の条項は実施せらるべく日本の主権は本州、北海道、九州、四国およびわれわれの決定すべき小島嶼に限定せられること
一、日本兵力は完全に武装解除せられること
一、戦争犯罪人は厳重に裁判せられること、日本政府は日本国民に民主主義的傾向を復活すること、日本政府は言論、宗教および思想の自由並びに基本的人権の尊重を確立すべきこと
一、日本に留保を許さるべき産業は日本の経済を維持し、かつ物による賠償を※※ひ得しむるものに限られ、戦争のための再軍備を可能ならしめる如き産業は許さぬこと、この目的のため原料の入手は許可せられること、世界貿易関係に対する日本の参加は何れ許さるべきこと
一、連合国の占領兵力は以上の目的が達成され かつ日本国民の自由に表明されたる意思に基く平和的傾向を有する責任政府の樹立を見たる場合は撤退せられること
一、日本政府は即刻全日本兵力の無条件降伏に署名なし、かつ適切なる保障をなすこと、然らざるにおいては直ちに徹底的破壊を※すべきこと》

と、ポツダム宣言の要旨を挙げた上で、

《政府は黙殺

帝国政府としては米、英、重慶三国の共同声明に関しては何ら重大な価値あるものに非ずしてこれを黙殺すると共に、断乎戦争完遂に邁進するのみとの決意を更に固めている》

と述べ、また、

《多分に宣伝と対日威嚇

米英重慶三国共同声明によって敵の意図するところは多分に国内外に対する謀略的意図を含むものと見られ、その主なるものを挙げれば大要次の如くであろう。すなわち
一、自国内に和平希望の要望が台頭しだしたことを考慮し、これぐらいの条件すら、日本が聞かねばあくまで戦闘を継続する以外にはないということを国民の脳裏に叩き込み、戦意高揚に資せんとしている色彩が濃厚である
一、ドイツに無条件降伏を要求したため犠牲多く、ために国内においても非難が多かった先例に鑑みて、ある程度の条件を国民に示し、戦争継続への了解を国民より得んとしている点
一、硫黄島、沖縄島に於る戦闘において米国の出血量が多大であり、今回の条件発表において日本側がこれを受諾しない以上、戦いを継続する他なく、従って、さらにより大なる出血と犠牲を払わねばならぬことを明らかにし国民の戦意を継続せしめんとしている点
一、武力の量的に圧倒的に多大なることを呼号し、宣伝的効果を狙うほか、それによって大東亜諸国間の離反を計らんとする謀略を含めている
一、世界制覇の伝統的政策により、武力による一方的条件を日本に押しつけ威嚇的効果を狙っている
一、さらに日本国内の軍民離反を計らんとする謀略を含めているなど敵の意図するところを注視すべきである》

との解説記事を載せている。
 戦意高揚、宣伝、謀略と一蹴するのみで、受諾を検討すべきという提言などどこにも見当たらない。


 もちろん、当時の新聞報道は軍の統制下にあったのだから、正面から受諾を主張することなど不可能だったろう。
 また、宣言が発表されたばかりだから、そこまで検討することも難しかったかもしれない。
 ただ、解説記事で「これぐらいの条件」と表現しているのは、暗に、全く受け入れられないほどひどい条件ではないのだということを国民に留意させようとしたのかもしれない。
 それでも、この記事からは、この機を捉えて即降伏を!との意図が隠れているようには感じられない。
 それは、おそらく政府も同様だったろう。

 鈴木貫太郎内閣の書記官長(現在の内閣官房長官に相当)を務めた迫水久常の回顧録『機関銃下の首相官邸』(恒文社、1964)を読んでみると、次のようにな記述がある。


《東郷外相は、二十七日午前の最高戦争指導会議の構成員のみの会合においても、午後の閣議においても、この宣言は、従来米国側が主張していた無条件降伏の要求とは全く異なり、実質上「有条件講和の申入れ」であることを特に強調して〔中略〕説明を行った。〔中略〕
 そして、先方の条件のなかには承認しにくいように感ぜられるものもあるが、全体としては著しく苛酷ともいえない。〔中略〕できるだけ緩和するよう努力する余地はあると思うといったことを述べられた。〔中略〕閣僚一同は粛然として耳を傾けた。こんなが日本が重大転機に立っていることを意識しているから、閣議の空気もおのずから異常である。変に強がりをいう空気はまったくなかった。〔中略〕いろいろ論議はあったが、目下対ソ交渉中であるので、ソ連の回答を待って処理することとしてもおそくはないとの意見が強く、結局、この際はこの宣言の諾否をきめず、一応事態の推移をみることに方針をきめたのであった。そして、この宣言を、新聞やラジオに発表することについては、東郷外相は、しばらく延期したほうがよいという見解であったが、早く発表するほうがよいという意見もあり、阿南陸相は、発表する以上これに対する断固たる反対意見を添え、民意の向うべきところを明らかにすべきであると所見を述べられたが、結局、この点については、特に国民の戦意を低下させる心配のある文句を削除して発表する。政府の公式見解は発表しない。新聞はなるべく小さく調子を下げて取扱うように指導する。新聞側の観測として、政府はこの宣言は無視する意向らしいということを付加することは差支えないということにするように方針をきめた。翌二十八日の新聞紙は、この方針にしたがって編集され、したがって国民の大多数には、大きな衝撃をあたえず、「ああまた敵の謀略宣伝放送か」ぐらいに感じたものが多いが、識者のなかには、この宣言の重要性を意識し、終戦の好機と考えたものも少くない。》(p.227-229)


 それで、上記のような新聞記事が出来上がったということか。


《スターリンは、日本からの和平斡旋の申入れに対して、これを承諾する用意よりも、むしろ、対日参戦の口実をつかみ、その準備を進めていたわけである。七月二十九日、ソ連の要請に応じて、米英が、ソ連の対日参戦は、平和と安全を維持する目的で、国際社会に代って行動をとるという立場の下に、日本と交戦中の他の大国と協力せんとするものであると認めるという趣旨の文書を交付したとき、スターリンは非常に感激したという。これで、彼は現に有効に存在している日ソ中立条約に反して戦争に参加する合法的な口実をえたのであった。一面わが方は、軍との関係という極めて重大な国内的の「家庭の事情」のために、不本意ながら、ポツダム宣言を黙殺するという首相の談話を発表したことが、これまたわが政府の意図とはまったく反対に、ポツダム宣言を拒否したと受取られ(私は彼らが故意にこんな受取り方をしたのではないかと思う)、日本はポツダム宣言を拒否したという既成事実が形成されていったのであった。しかも、政府は、一日も早かれと念じながら、ソ連よりの和平斡旋承諾という返事を待っていたのである。》(p.238-239)


 この「ポツダム宣言を黙殺するという首相の談話」について、鈴木貫太郎は、『鈴木貫太郎自伝』(時事通信社、1968)所収の「終戦の表情」(1946)で、次のように述べている。


《かかる中に我が方注目のポツダム宣言が米英支三国の名の下に対日宣言として発表された。これは一読対日降伏の最後条件であることが明らかに判った。時は七月二十六日である。帝国政府はこの内容をただちに検討したが、その内容は連合国が日本にたいして最後的攻撃を開始する前触れとしての条件をも提示したものと伝えられた。そして、この宣言は明らかに太平洋戦争の終止符としての役割りを持たせるかのような感じがしたのである。
 だが、一億玉砕を呼号している軍部ではこれらの宣言は問題にする価値もないものとして、本土邀撃の準備を着々と進めることを提案した。
 その結果、この宣言に対しては意思表示しないことに決定し、新聞紙にも帝国政府該宣言を黙殺するという意味を報道したのであるが、国内の世論と、軍部の強硬派は、むしろかかる宣言にたいしては、逆に徹底的反発を加え、戦意昂揚に資すべきであることを余に迫り、なんらかの公式声明をなさずして事態を推移させることは、いたずらに国民の疑惑を招くものであると極論する者さえ出てくる有様であった。そこで余は心ならずも、七月二十八日の内閣記者団との会見において「この宣言は重視する要なきものと思う」との意味を答弁したのである。
 この一言は後々に至るまで、余の誠に遺憾と思う点であり、この一言を余に無理強いに答弁させたところに、当時の軍部の極端なところの抗戦意識が、いかに冷静なる判断を欠いていたかが判るのである。
 ところで余の談話はたちまち外国に報道され、我が方の宣言拒絶を外字紙は大々的に取り扱ったのである。そしてこのことはまた、後日ソ連をして参戦せしめる絶好の理由をも作ったのであった。》(p.292-293)


 中村正憲の「なぜ、日本政府はもっと早く宣言を受け入れなかったのか」という問いへの答は、まずは「ソ連に和平交渉を依頼し、その回答待ちだったから」ということになるだろう。
 また、「軍の強硬派を抑えきれなかったから」でもあるだろう。そのために、諾否を明確にしないという方針が、黙殺すると表明せざるを得なくなり、それが拒否と受け取られたと。

 引用した朝日の記事の「政府は黙殺」を見て、有名な鈴木首相の「黙殺」発言かと思われた方もいるかもしれないが、そうではない。鈴木発言はこの日の記者会見でなされたものであるからだ。つまり、鈴木の記者会見以前に、既に「政府は黙殺」との表現がなされていたことになる。
 この点については、別の機会に取り上げたい。



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2 コメント

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SimpleAnswer (IB)
2010-08-08 04:35:53
知れたこと!
USAがせっかく作った原爆を人体実験するため
ただそれだけで講和を遅らせたのだよ
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Re:SimpleAnswer (深沢明人)
2010-08-08 23:28:27
Yahoo!ブログで時々見かけるIBさんでしょうか?

せっかく作った新兵器、米国が実戦で使ってみたかったのは当然だと思いますが、「それだけで講和を遅らせた」と言えるのでしょうか。
講和とは負けた側から申し入れるべきものでしょう。
わが国から講和を申し入れ、それを米国が拒否していたというのならともかく。
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