先に久間発言を取り上げた記事で、私は、ソ連の対日参戦は8月8日で、長崎への原爆投下は9日だから、米国がソ連の参戦を阻止するために長崎へ原爆を投下したとの久間の論は成り立たないと書いたが、ソ連の宣戦布告やそのルートによっては、米国がソ連の参戦を知らずに長崎へ原爆を投下した可能性があるとも思い、念のため調べてみた。
といっても、私は専門家でも何でもない市井の一読書人で、自宅に大した資料があるわけでもない。調べられる範囲で、少しだけ調べてみた。
三好徹『興亡と夢』の第5巻(集英社文庫、1988)に、次のような記述がある。
《八月八日午後五時(モスクワ時間)、モロトフ外相は日本の佐藤尚武大使を外務省に呼んだ。〔中略〕
「〔中略〕八月九日からソビエトは日本と戦争状態に入ることを宣言する」
〔中略〕
「八月九日から戦争には入るというのは日本時間でのことか」
「そのとおりである」
モスクワと東京都の時差は六時間である。日本時間の九日午前零時までには、もはや数十分の余裕しかなかった。
モロトフは、この件に関する東京あての電信は支障なく発することができる、といったが、佐藤が急いで大使館に戻って打った公電は、ついに東京へは到達しなかった。東郷茂徳外相が知ったのは、午前四時に外務省ラジオ局がモスクワ放送の電波をとらえたからだった。》(p.169~170)
半藤一利『ソ連が満州に侵攻した夏』(文春文庫、2002)には、さらに次のような描写がある。
《大使がたどり着くよりさきに、日本大使館の電話線が切られ、無線機が秘密警察の手によって没収されてしまっていようとは・・・・・・。佐藤はやむなく通常の国際電報によって、ソ連参戦を外務省に伝えるほかなかった。
電報はゆっくりと通常の通信システムにしたがって送られていった。その夜のうちに日本政府や軍部が知ることはできなかった。》(p.31)
鈴木貫太郎内閣の書記官長を務めていた迫水久常の回顧録『機関銃下の首相官邸』(恒文社、1964)にはこうある。わが国はソ連に終戦の仲介を依頼していたのだが・・・・・・
《〔中略〕八月八日正午、佐藤大使から、日本時間にして、八日午後十一時モロトフより会見すべき旨の予告があったとの入電があった。
仁科博士の報告は、途中飛行機の事故などのためにおくれて、八日夕刻にあった。内閣書記官長室を訪問された博士が、沈痛な面持ちで、「まさに原子爆弾に相違ありません。私ども科学者が至らなかったことは、まことに国家に対して申しわけのないことです」といわれたときの姿は、いまもなお私の眼底にある。私は鈴木首相に報告した。首相はあらためて、私に対し、「いよいよ時期がきたと思うから、明九日、最高戦争指導会議と、閣議を開いて正式に終戦のことを討議するよう準備してほしい」と命ぜられた。私は、翌九日の午前二時ころまでかかってその用意をして、一段落したので、ベッドに横たわり、いまごろはもう佐藤大使は、モロトフに会ったろうが、どんな回答がくるかと思いながら、まどろんだ。九日午前三時ころ、電話の音に目を覚まして、受話器をとると、同盟通信社の長谷川外信部長が、サンフランシスコ放送によると、どうやらソ連が日本に対して宣戦を布告したらしいという。私は本当に驚き、何度も「ほんとか、ほんとか」とたしかめた。立っている大地が崩れるような気がした。長谷川君は、少し待ってくれ、詳しくは間もなく電話するからという。私は全身の血が逆流するような憤怒を覚えた。》(p.245~246)
『鈴木貫太郎自伝』(時事通信社、1968)所収の「終戦の表情」(1946)には、こうある。
《〔中略〕八月八日には紛れもなくそれが原子爆弾であることが証明され、今更ながらその威力に慄然としたのである。
この報告を受けた翌日、早朝あたふたと迫水書記官長が、官邸に余を訪れて来て、黙々と新聞電報を示し、緊急を要する書類を余の机上にひろげたのである。
それは八月九日午前四時短波放送によってソ連の対日宣戦布告がなされたということだった。》(p.294)
9日の午前3時ころには、サンフランシスコでソ連の参戦が報じられていたようだ。また、午前4時にはモスクワ放送が宣戦布告を報じたらしい。
とすると、長崎の原爆はたしか真っ昼間のことだから、やはりソ連の参戦を知った上で、米国は長崎に投下したのではないか?
・・・・・・と考えていたのだが、今ウィキペディアを見てみたら、長崎に投下したB29は、テニアン島(サイパンの隣の島。日本空爆のための基地があった)を「日本時間8月9日午前2時45分に離陸した」とあるではないか。
うーんそうか・・・・・・とすれば、当時の通信事情などを考えると、ソ連参戦を知らないまま、長崎への投下が命じられた可能性もあるな・・・・・・。
ちなみに同ウィキペディアによると、長崎上空で原爆が爆発したのは午前11時2分。
先の記事の
《だから、久間の言う、
《長崎に落とせば日本も降参するだろう、そうしたらソ連の参戦を止められるということだった。》
という話は成り立たない。
ソ連が既に参戦しているのだから、参戦阻止が目的であれば、長崎に落とす必要はなかった。》
や、
《この記事を書いた朝日の記者に、ソ連の参戦が8月8日で長崎の原爆は9日だから、久間の主張はおかしいという視点が欠けていることは間違いないだろう。》
といった箇所は撤回します。成り立つ可能性があります。
思い込みで先走ってしまいました。m(_ _)m
ソ連の参戦を知ったからといって、米軍が長崎への原爆投下を中止したとは思いませんがね・・・・・・。
といっても、私は専門家でも何でもない市井の一読書人で、自宅に大した資料があるわけでもない。調べられる範囲で、少しだけ調べてみた。
三好徹『興亡と夢』の第5巻(集英社文庫、1988)に、次のような記述がある。
《八月八日午後五時(モスクワ時間)、モロトフ外相は日本の佐藤尚武大使を外務省に呼んだ。〔中略〕
「〔中略〕八月九日からソビエトは日本と戦争状態に入ることを宣言する」
〔中略〕
「八月九日から戦争には入るというのは日本時間でのことか」
「そのとおりである」
モスクワと東京都の時差は六時間である。日本時間の九日午前零時までには、もはや数十分の余裕しかなかった。
モロトフは、この件に関する東京あての電信は支障なく発することができる、といったが、佐藤が急いで大使館に戻って打った公電は、ついに東京へは到達しなかった。東郷茂徳外相が知ったのは、午前四時に外務省ラジオ局がモスクワ放送の電波をとらえたからだった。》(p.169~170)
半藤一利『ソ連が満州に侵攻した夏』(文春文庫、2002)には、さらに次のような描写がある。
《大使がたどり着くよりさきに、日本大使館の電話線が切られ、無線機が秘密警察の手によって没収されてしまっていようとは・・・・・・。佐藤はやむなく通常の国際電報によって、ソ連参戦を外務省に伝えるほかなかった。
電報はゆっくりと通常の通信システムにしたがって送られていった。その夜のうちに日本政府や軍部が知ることはできなかった。》(p.31)
鈴木貫太郎内閣の書記官長を務めていた迫水久常の回顧録『機関銃下の首相官邸』(恒文社、1964)にはこうある。わが国はソ連に終戦の仲介を依頼していたのだが・・・・・・
《〔中略〕八月八日正午、佐藤大使から、日本時間にして、八日午後十一時モロトフより会見すべき旨の予告があったとの入電があった。
仁科博士の報告は、途中飛行機の事故などのためにおくれて、八日夕刻にあった。内閣書記官長室を訪問された博士が、沈痛な面持ちで、「まさに原子爆弾に相違ありません。私ども科学者が至らなかったことは、まことに国家に対して申しわけのないことです」といわれたときの姿は、いまもなお私の眼底にある。私は鈴木首相に報告した。首相はあらためて、私に対し、「いよいよ時期がきたと思うから、明九日、最高戦争指導会議と、閣議を開いて正式に終戦のことを討議するよう準備してほしい」と命ぜられた。私は、翌九日の午前二時ころまでかかってその用意をして、一段落したので、ベッドに横たわり、いまごろはもう佐藤大使は、モロトフに会ったろうが、どんな回答がくるかと思いながら、まどろんだ。九日午前三時ころ、電話の音に目を覚まして、受話器をとると、同盟通信社の長谷川外信部長が、サンフランシスコ放送によると、どうやらソ連が日本に対して宣戦を布告したらしいという。私は本当に驚き、何度も「ほんとか、ほんとか」とたしかめた。立っている大地が崩れるような気がした。長谷川君は、少し待ってくれ、詳しくは間もなく電話するからという。私は全身の血が逆流するような憤怒を覚えた。》(p.245~246)
『鈴木貫太郎自伝』(時事通信社、1968)所収の「終戦の表情」(1946)には、こうある。
《〔中略〕八月八日には紛れもなくそれが原子爆弾であることが証明され、今更ながらその威力に慄然としたのである。
この報告を受けた翌日、早朝あたふたと迫水書記官長が、官邸に余を訪れて来て、黙々と新聞電報を示し、緊急を要する書類を余の机上にひろげたのである。
それは八月九日午前四時短波放送によってソ連の対日宣戦布告がなされたということだった。》(p.294)
9日の午前3時ころには、サンフランシスコでソ連の参戦が報じられていたようだ。また、午前4時にはモスクワ放送が宣戦布告を報じたらしい。
とすると、長崎の原爆はたしか真っ昼間のことだから、やはりソ連の参戦を知った上で、米国は長崎に投下したのではないか?
・・・・・・と考えていたのだが、今ウィキペディアを見てみたら、長崎に投下したB29は、テニアン島(サイパンの隣の島。日本空爆のための基地があった)を「日本時間8月9日午前2時45分に離陸した」とあるではないか。
うーんそうか・・・・・・とすれば、当時の通信事情などを考えると、ソ連参戦を知らないまま、長崎への投下が命じられた可能性もあるな・・・・・・。
ちなみに同ウィキペディアによると、長崎上空で原爆が爆発したのは午前11時2分。
先の記事の
《だから、久間の言う、
《長崎に落とせば日本も降参するだろう、そうしたらソ連の参戦を止められるということだった。》
という話は成り立たない。
ソ連が既に参戦しているのだから、参戦阻止が目的であれば、長崎に落とす必要はなかった。》
や、
《この記事を書いた朝日の記者に、ソ連の参戦が8月8日で長崎の原爆は9日だから、久間の主張はおかしいという視点が欠けていることは間違いないだろう。》
といった箇所は撤回します。成り立つ可能性があります。
思い込みで先走ってしまいました。m(_ _)m
ソ連の参戦を知ったからといって、米軍が長崎への原爆投下を中止したとは思いませんがね・・・・・・。
私はこの論理は間違っており、久間とあなたの両方ともに是がある。
原爆投下の準備が終了し日本が降伏すると知ったので、共産主義の勢力を日本の方にも広めようとして、おくれてはならじと参戦し、日本の降伏に乗じて、侵略しようとしたのである。
ロシアの参戦は核爆弾の予行演習と広島、長崎の核爆弾の開始を予め知ったからおくれてはならじとあわてて日ソ不可侵条約を破ってまで日本に侵攻しようとしたのである。
原爆投下についてトルーマンから、スターリンに連絡があったと考えるのが普通である。何分かの差は両首脳同士ですでに相互に原爆について連絡があったと考えるべきであろう。
ソ連はすでにトルーマンから原爆投下の準備が終わり「長崎に投下したB29は、テニアン島(サイパンの隣の島。日本空爆のための基地があった)を「日本時間8月9日午前2時45分に離陸した」とあるではないか。
うーんそうか・・・・・・とすれば、当時の通信事情などを考えると、ソ連参戦を知らないまま、長崎への投下が命じられた可能性もあるな・・・・・・。
ちなみに同ウィキペディアによると、長崎上空で原爆が爆発したのは午前11時2分。」が終了し日本が降伏すると知ったので、共産主義の勢力を日本の方にも広めようとして、おくれてはならじと参戦し、日本の降伏に乗じて、侵略しようとしたのである。
久間は一部正しい。その前半を疑うこともまた正しい。
広島への原爆投下3日後の8月9日、長崎市に再び原子爆弾が投下され、数万人が死亡した。 これは広島に投下されたウラニウム型とは異なるプルトニウム型(ファットマン)であった。 同日、ソ連が日ソ中立条約を破棄、日本へ宣戦布告し、満州へ侵攻を開始する