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共産党の破防法調査対象への抗議を読んで思ったこと(下) 問題は民主集中制にある

2016-05-10 08:35:56 | 日本共産党
承前

 この一連の記事の「(中) 「敵の出方論」について」で引用したように、政府は、鈴木貴子衆議院議員の質問主意書に対する答弁書で、こう述べている。

 警察庁としては、現在においても、御指摘の日本共産党の「いわゆる敵の出方論」に立った「暴力革命の方針」に変更はないものと認識している。


 そして、共産党が暴力革命を否定していないことは、これまでの記事で説明したとおりである。

 では、仮に共産党が「いわゆる敵の出方論」を否定すれば、共産党は破防法の調査団体ではなくなるのだろうか。
 共産党が、「敵の出方」がどうであれ、一切の暴力を否定し、議会による民主制を堅持すると宣言すれば、公安調査庁は共産党への監視を中止するのだろうか。

 私には、共産党が「敵の出方論」を採るから監視しているというのは、ある種の方便ではないかと思える。
 仮に、共産党が「敵の出方論」の放棄を宣言したとしても、おそらく公安調査庁は共産党への監視をやめないだろうし、やめるべきではないと私は思う。
 その理由は三つある。
 まず、かつて武装闘争を行ったというれっきとした前歴がある以上、その団体が監視対象とされるのは当然だということ。
 次に、共産党が理論的基礎としているマルクス・レーニン主義(近年の彼らは科学的社会主義と呼んでいるが、これは単なる言い換えである)は、元々暴力革命を肯定していること。
 そして、共産党特有の組織原理である民主集中制には、何ら変化が見られないことだ。

 民主集中制とは、ロシア革命を成功させたレーニンが打ち出した共産党の組織原理である。
 コトバンクで「民主集中制」を引くと出てくる、日本大百科全書(ニッポニカ)の加藤哲郎氏による解説中に、次のようにある(引用文中の太字は引用者による。以下同じ)。

共産主義政党および社会主義諸国家において公式の組織原理とされたもので、民主主義的中央集権制ともいう。自由主義的分散主義と官僚主義的集権主義の双方と異なり、民主主義の原則と中央集権主義の原則とを統一したと称される論争的概念。典型的には、スターリン時代の1934年にソ連共産党規約に明記され、各国共産党規約に採用された、〔1〕党の上から下まですべての指導機関の選挙制、〔2〕党組織に対する党機関の定期的報告義務制、〔3〕厳格な党規律と少数者の多数者への服従、〔4〕下級機関および全党員にとっての上級機関の決定の無条件的拘束性、の原則をいうが、その実際の運用にあたっては、「党内民主主義」を制限し、共産主義政党の国民に対する閉鎖性・抑圧性を印象づける現実的機能をも果たした。そのため1989年東欧革命前後に、イタリア、フランス、スペインなどの共産党は民主集中制を放棄して変身をはかった。


 現在の日本共産党規約(2000年11月24日改定)には次のようにある。

第三条 党は、党員の自発的な意思によって結ばれた自由な結社であり、民主集中制を組織の原則とする。その基本は、つぎのとおりである。
 (一) 党の意思決定は、民主的な議論をつくし、最終的には多数決で決める
 (二) 決定されたことは、みんなでその実行にあたる。行動の統一は、国民にたいする公党としての責任である。
 (三) すべての指導機関は、選挙によってつくられる。
 (四) 党内に派閥・分派はつくらない
 (五) 意見がちがうことによって、組織的な排除をおこなってはならない。


 これだけを読むと、(四)を除けば、組織としてごく当たり前のことを述べているにすぎないように見える。
 しかし、規約の次の条文を合わせて読んでみると、どうだろうか。

第五条 党員の権利と義務は、つぎのとおりである。
 (一) 市民道徳と社会的道義をまもり、社会にたいする責任をはたす。
 (二) 党の統一と団結に努力し、党に敵対する行為はおこなわない
 (三) 党内で選挙し、選挙される権利がある。
 (四) 党の会議で、党の政策、方針について討論し、提案することができる。
 (五) 党の諸決定を自覚的に実行する。決定に同意できない場合は、自分の意見を保留することができる。その場合も、その決定を実行する。党の決定に反する意見を、勝手に発表することはしない
 (六) 党の会議で、党のいかなる組織や個人にたいしても批判することができる。また、中央委員会にいたるどの機関にたいしても、質問し、意見をのべ、回答をもとめることができる。
 (七) 党大会、中央委員会の決定をすみやかに読了し、党の綱領路線と科学的社会主義の理論の学習につとめる。
 (八) 党の内部問題は、党内で解決する
 (九) 党歴や部署のいかんにかかわらず、党の規約をまもる。
 (十) 自分にたいして処分の決定がなされる場合には、その会議に出席し、意見をのべることができる。


 何やら実に息苦しいものを感じる。
(なお、第五条の(一)で「市民道徳と社会的道義をまも」るとあるが、法律を守るとしていない点が興味深い)

 一見、党外はともかく、党内であれば、党の決定に反対する意見を述べる自由や、その意見を保留する自由が認められており、反対意見を理由に排除されることはないように読める。
 だが、実際にはどうか。

 この一連の記事の「中の3」で述べたように、現在の日本共産党綱領の原型は、宮本顕治書記長の下、1961年の第8回党大会で決定された党綱領である。
 1958年の第7回党大会で、宮本らは綱領と規約を一体化した「党章」の決定を図ったが、党中央に春日庄次郎(1903-1976)ら少数の反対派がおり、大会でも代議員の3分の2以上の賛成が得られなかったため、規約のみを決定し、綱領については持ち越しとなった。
 党内の綱領論争は続いたが、宮本ら主流派が大勢を制し、第8回党大会では綱領反対派の意見表明もなされずに綱領が決定される見通しとなった。
 戦前からの非転向の党幹部である春日庄次郎は、大会を前に離党した。共産党は離党を認めず春日を反党行為者として除名した。

 離党に当たって春日が発表した「日本共産党を離れるにあたっての声明」の中に、民主集中制の問題点をわかりやすく説明していると思われる箇所があるので、引用する(〔〕内は引用者による註)。

三、この誤った路線〔第8回党大会で決定される予定の宮本書記長らの綱領の路線〕にたいする幹部の異常な執着は、党内外の批判・反対をおさえるために党内民主主義を破壊し、いま、第八回党大会を前にして、みずから規約をふみにじり、反対意見の代議員の選出を組織的に排除し、少数意見の中央委員の意見書も発表させず、代議員権の獲得もさまたげ、一方的なやり方で大会を開こうとしています。このような度はずれの幹部独裁は、「下級は上級に無条件に服従し、決定は忠実に実践する」という「組織原則」に、誠実、献身的な党員大衆をしばりつけることによって保証されています。それは幹部が自己の政策・方針をつねに「基本的に正しい」といえば、末端まで「基本的に正しい」とシュプレヒコールする自動連動装置であります。幹部会の方針に批判を加えたり、反対したりするものは、すべて自由主義、分散主義、修正主義、反中央、反党分子として排除されます。これは、いかなる失敗があっても「基本的に正しい」といわせられる、上から下までの自己瞞着、政治的腐敗の体系であります。何月何日までに党員倍加達成、アカハタ何部の拡大、責任買取り制が、下部でどのような危険と困難をよびおこしていようと、幹部会はこの「基本的に正しい」「偉大な成果」の上に自己の権威を高めようとしています。
四、こういう状態の中では、党内民主主義に依拠して、原則的な党内闘争によって事態を改善してゆく余地はほとんどありません。真面目な党員、批判力をもった党員は、上級の圧力によって漸次、面従腹背の二重人格においやられています。だんだん党員は無気力になります。上向きの出世主義がはびこります。「いかなる分派の存在も許さぬ一枚岩の党」の圧力に耐えられないものは脱出します。〔中略〕
五、私は熟慮の結果、離党の道を選びました。現職の統制監査委員会議長が離党を決意するということは非常なことです。私は四十年近い自分の革命経歴の重味におしまかされて、安易につくべきではないと決断しました。私は自己瞞着の体系を破って全党員諸君と共に大胆、卒直〔原文ママ〕に語り合う自由をえたいのです。(日本出版センター編『日本共産党史 -私の証言』日本出版センター、1970、p.327-328)


 民主集中制の「民主」の実態は、こんなものなのだろう。
 春日に限らず、宮本体制確立後、執行部への反対派が党にとどまっているという事例は聞いたことがない。

 共産党は、党員による党首の普通選挙を行ったことがない。自民党の総裁選や、旧民主党の代表選のように、複数の候補者が公然と党首の座を争ったことがない。
 規約第3条に「すべての指導機関は、選挙によってつくられる。」とあるように、選挙は行われている。
 まず、党の最高機関とされている党大会が中央委員会を選出する。中央委員会は幹部会委員と幹部会委員長(党首)、書記局長などを選出する。
 ではその党大会の代議員はどうやって選出されるのかというと、これは中央委員会が決めるのである。
 つまりは、中央の意に沿う人間しか代議員に選出されない。第7回党大会前後のように党中央に反対派がいればいざしらず、党中央が一枚岩であれば満場一致で中央の決定を追認するだけである。
 かつてのソ連共産党、現在の中国共産党、朝鮮労働党が行ってきたことと同じである。

 宮本は1970年に書記長に代わって新設の幹部会委員長(党首)に就任した。新設の書記局長に40歳の不破哲三氏が起用された。不破氏は宮本の後継者と目された。
 1982年には宮本は野坂参三に代わって名誉職的な中央委員会議長に選出され(野坂は新設の名誉議長に就任)、幹部会委員長は不破氏が継いだ。書記局長には労働者出身の金子満広(1924-2016)が就いたが、1990年に党職員で35歳の志位和夫氏に代わった。志位氏は不破氏の後継者と目された。
 2000年に志位氏は幹部会委員長に就任し、不破氏は老齢の宮本を引退させて議長に就いた。2006年には議長も引退し たが常任幹部会にはとどまっている。志位氏はその後現在まで幹部会委員長を務めている。
 この間党勢は様々に推移した。しかし、党勢が低迷した時期に、党内で宮本や不破氏や志位氏の責任が問われることは全くなかった。何故、経験豊富な他の幹部ではなく、若手の不破氏や志位氏が後継者候補なのか、その説明もなかった。
 同じ左翼政党であり、衰退が著しい社民党ですら、福島瑞穂の党首辞任に際しては選挙が行われた。
 わが国の政党で、党首の人事がブラックボックスと化しているのは共産党と公明党ぐらいのものである。

 春日が言うように、「下級は上級に無条件に服従し、決定は忠実に実践する」のが民主集中制の本質である。
 だから、米軍占領下での平和革命が可能だなどという珍論を執行部が唱えれば下級党員はそれに従う。
 そして、執行部より「上級」のコミンフォルムから平和革命論を批判されれば、執行部はそれに従い、下級党員もまたそれに従う。
 朝鮮戦争が始まり、執行部の主流派が地下に潜行して武装闘争路線を採ると、下級党員もまたそれに従う。
 執行部の主流派と反主流派が逆転して、武装闘争は戦術的誤りだったと批判すると、下級はこれまた従う。
 新たな主流派となった宮本らが新綱領を定めると、それにも従う。
 やがて執行部がソフト路線に転じて、「自由と民主主義の宣言」を打ち出したり、天皇制や自衛隊の廃止を明言しなくなったりしても、それに従う。
 「上級」から何を言われても、「下級」はただただそれに従う。それが共産党である。そうでない人間は排除されてきた。
 個々の議員が議会政治を前提に結成し、離合集散を経てきた、自民党や民進党といった諸政党とは異質な存在なのである(公明党は、共産党に類似している。ただ、公明党に武装闘争の前歴はない)。

 ならば 執行部が再び武装闘争を実行する条件が整ったと判断すれば、執行部はそれを指示し、下級党員はやはり無条件にそれに従うのではないか。
 この疑念が、日本共産党が現在でも破防法における監視対象とされている最大の理由だろう。

 レーニンが民主集中制を採用したのは、帝政ロシアを打倒し、白衛軍との内戦を経て共産党政権を建設するためには、徹底した上意下達に基づいた軍事的な党組織が必要だったからだろう。暴力革命を前提としていたからだろう。
 しかし、前回の記事でも述べたとおり、日本共産党はこんにち「議会の多数を得て社会変革を進める」と標榜している。
 ならば、民主集中制に固執する必要はないはずである。

 上で引用した日本大百科全書の記事にあるように、イタリア、フランス、スペインの共産党は、既に民主集中制を放棄している。
 この3国の共産党は、1970年代に、ソ連型の社会主義建設を批判し、議会主義による社会主義への移行や複数政党制の容認などを主張し、その動きは 「ユーロコミュニズム」と呼ばれた。
 70年代に民主連合政府構想や「自由と民主主義の宣言」を打ち出した日本共産党もこれに類するものだとして、「ユーロ・ニッポ・コミュニズム」という呼称もあった。

 それから40年ほど経つというのに、未だに日本共産党だけが民主集中制に固執している。何故だろうか。
 ソ連や東欧の共産党政権崩壊後も、中国や北朝鮮、ベトナムにまだ共産党政権が残っていることに象徴されるように、アジア的な後進性の現れなのだろうかとさえ思える。

 イタリア共産党は、西欧諸国の中では特に有力な共産党であったが、冷戦期には政権から排除されていた。トリアッティ書記長の下でいわゆる構造改革路線を採用し、早くからソ連型社会主義と異なる独自の立場をとっていた。
 1989年に民主集中制を放棄したが、さらに1991年には党を解散し、主流派は「左翼民主党」を、左派は「共産主義再建党」を結成した。両党は1996年の総選挙でプロディ元産業復興公社総裁率いる中道左派連合「オリーブの木」に参加し、勝利した。左翼民主党のダレーマ書記長は1998年プロディに代わって首相に就き、約1年半務めた。
 左翼民主党は1998年に「左翼民主主義者」と改称し、さらに2007年、中道左派政党「マルゲリータ」(旧キリスト教民主党左派の流れをくむ)と共に新党「民主党」を結成した。
 民主党は中道左派連合の中核となり、2013年の総選挙で勝利し、民主党のレッタ、続いてレンツィが首相に就任した。現在のレンツィ内閣の閣僚をウィキペディアで確認したところ、国防相(女性)や司法相は元々共産党出身のようである。

 今、イタリア共産党の歴史を確認してみて、彼我の違いに愕然とした。
 イタリアとわが国では政治の歴史も選挙制度も政党の構成もまるで違うので、イタリアで成功したからといってわが国でも民主集中制を放棄すれば連合政権を樹立できるなどと言うつもりはない。やはり民主集中制を放棄したフランスやスペインの共産党は低迷しているようであるし。
 しかし、半世紀以上も前に決定された綱領の路線を後生大事に抱えつづけ、「確かな野党」の座に安住しつづける政党に、未来があるとも思えない。
 そして、日本共産党がそうした集団であり続けることは、わが国の一党優位体制を補完しているという点で、わが国にとって不幸なことだと思う。

(完)


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1 コメント

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「民主集中制」とは独裁制である (山路 敬介(宮古))
2016-05-13 02:17:17
民主集中制は結局のところ、独裁体制に他ならない。
しかし、これがないと共産党は組織の維持が出来ない。

党幹部がもっとも恐れるのは、一般党員(下級)の自由意志や民主主義の理念なのです。
およそ組織というものは外部からの攻撃によるよりも、内部からの不満により瓦解するもの。
幾多の闘争を経てきた共産党は自らの維持存続のため、民主集中制を必要としてきたのです。
これからも民主集中制を捨てることはありません。



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