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60年安保騒動は「戦後民主主義擁護の闘い」だったか

2023-02-24 08:08:29 | 日本近現代史
(以下の文章は、2020年5月9日に朝日新聞に掲載された、60年安保騒動についての特集記事を読んでの感想である。
 大部分はその頃に書いたものだが、完成させずに放置していて、昨年書き終えたものの、公開するのをを忘れていたものである。
 完全に時機を逸しているが、この感想は今も変わっていないので、これ以上古くならないうちに、公開しておく、)

 2020年5月9日付朝日新聞は「歴史特集 日米安保」の第2回「「転機」 60年安保改定、岸信介の強行と退陣」を載せた。1ページ丸々充てた特集記事だ。
 それを読んで、昨今60年安保が語られるのを聞いて受ける違和感を改めて覚えた。

 かつて軍部と組んで権力中枢を担った岸が戦後に目指したのは、占領下で制定された憲法を改正し、強い国家を再建することだ。吉田が結んだ51年の安保条約は、占領を継続する屈辱的内容だと批判していた。
 岸は、保守勢力を束ねて55年に自由民主党を結成。57年に首相になると安保改定を目指した。岸を反共指導者と見た米国も応じた。60年1月19日、新条約がワシントンで調印された。

 ■もはや問答無用
 この時点で、世論の評価は必ずしも否定的ではなかった。新条約は米国の日本防衛義務を明記し、内政関与につながる「内乱条項」を削除。対等性が増したことは間違いなかった。
 だが、思わぬ展開になった。両国はアイゼンハワー大統領が6月19日に国賓として訪日することで合意。日本としてはそれまでに条約に必要な国会承認を得たい。条約は衆院で承認されれば、参院で承認されなくても30日で自然承認される。訪日1カ月前が衆院のデッドラインになった。
 国会はもめた。条約に定める「極東」の範囲はどこなのか。「事前協議」に日本側の拒否権はあるのか。
 岸は「もはや問答無用というのが偽らざる気持ち」(「岸信介回顧録」)となった。5月19日深夜、警官隊が社会党議員を排除、自民党単独で衆院本会議で会期延長を可決し、引き続き条約承認を決めた。 
 戦前の岸を覚えていた国民は激しく反発した。
 オピニオンリーダーの東大教授丸山真男は訴えた。「権力が万能であることを認めながら、同時に民主主義を認めることはできません」(「選択のとき」)。安保論争は、戦後民主主義擁護の闘いとなった。
 

 ここに書かれている旧日米安保条約と改定後の対比は正しい。

 旧条約は、日本は自国を防衛する有効な手段を持たないから、米国の駐留を「希望する」となっている。しかし、米国に日本を防衛する義務があるとはなっていない。
 おまけに、第1条では、

 平和条約及びこの条約の効力発生と同時に、アメリカ合衆国の陸軍、空軍及び海軍を日本国内及びその附近に配備する権利を、日本国は、許与し、アメリカ合衆国は、これを受諾する。この軍隊は、極東における国際の平和と安全の維持に寄与し、並びに、一又は二以上の外部の国による教唆又は干渉によつて引き起された日本国における大規模の内乱及び騒じようを鎮圧するため日本国政府の明示の要請に応じて与えられる援助を含めて、外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するために使用することができる。


と、外国によつて引き起されたわが国の内乱や騒擾に対しても米軍が出動できるとなっている。

 これを改め、米国の日本防衛義務を明記し、内乱条項を削除したのが、1960年の新条約である。
 結構なことではないか。

 では何故、あれほどの広範な反対運動が起こったのか。
 記事が述べるように、岸政権がアイク訪日に合わせてデッドラインを引き、衆院で強行採決を行い、それに世論が強く反発したのは事実である。
 だが、それ以前から、安保改定は政治の争点になっていた。

 1959年3月、「安保改定阻止国民会議」が結成された。これは、社会党、総評、中立労連、原水協(原水禁が分裂する前の)、日中国交回復国民会議など13団体が幹事となり、当初134の団体が参加した。翌年3月には1633団体にまでふくれあがったという。共産党はオブザーバーとして参加した。
 国民会議は計19回に及ぶ統一行動を実施した。その参加者は労働組合員と全学連の学生が大多数を占めていた。

 では何故、社会党や共産党は安保改定に反対したのか。
 彼らは、そもそも、旧安保条約にも、それと同時に結ばれたサンフランシスコ平和条約にも反対であり、在日米軍にも自衛隊の存在にも反対だった。
 東西対立の時代に、西側の一員であること自体に反対し、非武装中立を主張していた。
 1959年3月、社会党の浅沼稲次郎書記長は、北京での演説でこう述べた(当時まだ日中に国交はなかった)。

極東においてもまだ油断できない国際緊張の要因もあります。それは金門,馬祖島の問題であきらかになったように,中国の一部である台湾にはアメリカの軍事基地があり,そしてわが日本の本土と沖縄においてもアメリカの軍事基地があります。しかも,これがしだいに大小の核兵器でかためられようとしているのであります。日中両国民はこの点において,アジアにおける核非武装をかちとり外国の軍事基地の撤廃をたたかいとるという共通の重大な課題をもっているわけであります。台湾は中国の一部であり,沖縄は日本の一部であります。それにもかかわらずそれぞれの本土から分離されているのはアメリカ帝国主義のためであります。アメリカ帝国主義についておたがいは共同の敵とみなしてたたかわなければならないと思います。(拍手)〔太字は引用者による〕


 いわゆる「米帝国主義は日中国民共同の敵」発言である。
 ここに見られるように、台湾は中国に併呑されるべきだというのが、当時の左翼の立場だった。
 もちろん、朝鮮半島においては北朝鮮が正統な政権であり、韓国は米帝国主義の傀儡だと見ていた。

 1959年7月、社会党右派の西尾末広は、現行条約に代わる新しい安保体制をどうするかという具体的な対案のない単なる反対運動は駄目だという趣旨の発言をして、左派の反発を招いた。同年9月の党大会では西尾を除名するかどうかが問題となり、統制委員会に付することになった。西尾は10月に離党し、1960年1月に民主社会党(のちの民社党)を結党した。

 また、1959年3月、砂川事件について、東京地裁の伊達秋雄裁判長は、在日米軍の存在は憲法違反であるとの判決を言い渡した(12月、最高裁判決により破棄)。

 このような時代背景を忘れてはならない。

 「「極東」の範囲はどこなのか」は確かに国会で論戦となった。
 しかし、「極東」の範囲を明確にすることに何の意味があったのか。
 原彬久『岸信介』(岩波新書、1995)にこうある。

社会党の安保特別委員の一人飛鳥田一雄は、「あの議論はわれわれ自身バカバカしいと思ったが、大衆性があった」と回想する(飛鳥田インタビュー)。
 確かに「極東の範囲」は、理論的にはほとんど意味をなしていなかった。なぜなら、在日米軍の行動はそれが「極東の平和と安全」(第六条)を目的とする限り、地域的に制約されないのであって、「極東の平和と安全のためならば極東地域の外に出て行動してさしつかえない」(『安全保障条約論』)という旧条約上の論理は、新条約においても正しいからである。(p.217)


 岸が「もはや問答無用」となったのは何故だろうか。
 それは、院外の反対運動の盛り上がりに加え、野党第1党である社会党の姿勢に全く妥協の余地がなかったからである。
 原の同書にはこうもある。

「政府与党が批准を断念する以外に社会党が納得する方法がないとすれば、もはや問答無用というのが偽らざる気持ちだった」(岸インタビュー)(p.218)


 少数党が座り込み、院外で反対派が吠え立てれば、審議を中止して批准を断念するのが、戦後民主主義のあり方なのだろうか。
 それでは、少数派が多数派を支配することにならないか。

 仮に安保改定が成立していなければどうなっていただろうか。
 安保改定は、もちろん米国が持ち出した話ではない。岸が主導して、米国を了承させたものだ。

 米国は岸を信頼して不利になる条約改定に応じたのに、それが日本国内の事情で失敗に終われば、米国のわが国に対する不信感は増しただろう。
 改定は遠のき、わが国にとって不利な条約が継続することになっただろう。沖縄や小笠原の米国からの返還だって、どうなったかわからない。

 また、社会党や共産党、労働組合や全学連はいざしらず、国民一般は、岸の強引な政治手法に反発したのであって、安保改定そのものはもちろん、日米安保にも自民党政権の継続にも必ずしも反対ではなかった。
 だから、岸退陣後に成立した池田政権に退陣が要求されることはなく、1960年11月に行われた衆院選は自民党の大勝に終わった。
 日米安保条約は、改定により10年ごとに延長されることになった。1970年の延長に際しては、学生運動が延長阻止を主張したが、それは国民に広く浸透することはなかった。そして、80年から後は延長が政治的争点になることもなかった。
 1993年に自民党が下野し、誕生した細川政権の一員となった社会党は、自衛隊を合憲と認めた。

 とすれば、岸信介の決断は正しかったのではないか。
 となると、安保闘争は誤っていたということになるのではないか。

 この朝日の記事で、山本悠里記者は、

 ■闘争の意味は、終わらぬ問い
 国会議事堂を幾重にも人が取り囲み、抗議の叫びが続く。平成生まれ、28歳の私にとって、「60年安保」とは白黒の映像や写真だ。しかし、今と断絶した昔話ではない。あの闘争とは何だったのか。市民の怒りは無力だったのか。60年安保の意味を、なおも問いかける人々がいる。


として、反対運動に加わった父をもつ木版画家と、2015年にSEALDsで安保法制に反対した活動家の発言を紹介し、

 風間さんや牛田さんを通じて浮かぶのは、直面する状況を危機ととらえ、怒りの声を上げた人々がいる事実を、絶えず歴史に刻み続けることの意義ではないか。


と述べている。

 こんにちでも、安保改定は誤っていた、旧条約のままで米国にわが国の防衛義務など持たせない方がよかったと思うのなら、そう主張すればよい。
 あるいは、在日米軍も自衛隊も不要である、非武装中立を目指すべきだと思うのなら、そう主張すればよい。
 そうするわけでもなく、「あの闘争とは何だったのか」との問いに、「直面する状況を危機ととらえ、怒りの声を上げた人々がいる事実を、絶えず歴史に刻み続けることの意義」などを説いて、何になるというのだろうか。
 そんなものは、わが国は米英の侵略を防ぐためやむにやまれず立ち上がったとか、大東亜解放のための戦争だったとかいったフィクションを信じ、特攻に殉じた若者の純粋さを賛美する姿勢と何も変わらないのではないか。


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