goo blog サービス終了のお知らせ 

トラッシュボックス

日々の思いをたまに綴るブログ。

日本維新の会が国会議員の二重国籍禁止法案を検討との報道と足立康史議員のブログ記事を読んで

2016-09-12 23:49:00 | 現代日本政治
 こんなことをするからポピュリスト政党だと言われる。

二重国籍禁止法案を検討=維新

 日本維新の会の馬場伸幸幹事長は8日、日本以外の国籍を持つ人が国会議員や国家公務員になることを禁止するための法案提出を検討していることを明らかにした。民進党の蓮舫代表代行が「二重国籍」と指摘されている問題を受けた対応。国籍法や公職選挙法などの改正案を、早ければ26日召集予定の臨時国会に提出する。

 馬場氏は東京都内で記者団に「国政に携わる者が、二重に国籍を持っていることはあってはならない。制度の不備があれば、それを正していくよう法改正する」と語った。(2016/09/08-16:42)


 そういえば、この少し前に同じ日本維新の会の足立康史衆議院議員が、こんな記事をアップしているのをBLOGOSで見た。

民進党の責任で解決すべき蓮舫氏の疑惑 - “二重スパイ”許す公職選挙法を改正せよ -

蓮舫氏の二重国籍問題についいては、既に大きく報じられているので繰り返すつもりはないが、2つだけ思うところを書いておきたい。一つは、蓮舫氏の説明である。結論を急ぐと、説明になっていないし、疑惑は深まるばかり。代表選挙の候補者なのだから、民進党が責任をもって証拠書類を公表させるべきだ。

もう一つは、日本の制度である。日本の国籍法は、原則として二重国籍を認めていないし、そのことは菅官房長官も会見でも明言しているところであるが、厳しすぎるとの指摘もある。実態は4、50万人はいるとの報道もあり、法律と実態との乖離をどう埋めていくのか、立法府として議論を始めるべきである。

但し、看過できないのは民進党である。2009年の民主党マニフェストには、「両親双方の国籍を自らのアイデンティティとして引き継ぎたいなどの事情から、重国籍を容認してほしいとの要望…を踏まえ、国籍選択制度を見直します。」とある。民進党は、党として二重国籍容認を政策として掲げてきたのだ。

もちろん民進党がどのような政策を掲げようと、その政策で政権交代を果たしたわけだから構わないし、衆院では未だ法案も出せない弱小政党の私が文句を言える立場にもないが、だからといって、政策を実現しないうちから所属議員が二重国籍だったなどという珍事を、私はどうしても看過できないのである。

特に国会議員には日本の国益を守る義務がある。八幡哲郎〔引用者註:原文ママ〕氏のフェイスブックへの書き込みには“二重スパイ”云々といった非難さえ掲載されていたが、確かに権力者が二重国籍では、誰のために働いているのか疑義が生じても仕方あるまい。公職選挙法を改正して被選挙権の範囲、要件を厳格化すべきである。

ちなみに、今の公職選挙法は、衆参の国会議員に立候補する際の要件として、年齢と日本国民であることしか求めていない。外交官試験でさえ求めている外国籍からの離脱を義務化すべきだし、今回の騒動を奇禍として、国会議員本人の国籍に係る履歴は、「経歴」として公表することを義務付けるべきである。

東大の玉井先生が“自分のルーツに誇りを持っているのなら、それこそ王貞治みたいに堂々と語った方がいいんじゃないな。「生まれた時から日本人」とか心にもないことを言うから信用されない。”とツイートされていたが、その通りである。今回の騒動を機に、国籍をタブー視する空気を一掃できればと思う。


 私は最初この記事のタイトルに「二重スパイ」とあるのを見て、「二重国籍者=二重スパイ」だというのかと目を疑った。
 しかし、記事を読んでみると、八幡和郎氏のフェイスブックに寄せられたコメントの中に、「“二重スパイ”云々といった非難」があったということらしい。
 足立議員自身の発言ではないと知って少し安心したが しかし、こんな言葉を敢えて採り上げるとはどういう感覚をしているのだうか。

 以前の私の記事で述べた池田信夫氏や八幡氏と同様、この足立議員の記事も、「日本の国籍法は、原則として二重国籍を認めていない」と述べるのみで、蓮舫氏は国籍法が重国籍者に要求している日本国籍の選択を済ませており(池田氏は済ませているとしている)、法的に何ら問題ないことに触れていない。
 国籍法第14条をもう一度挙げておく。

(国籍の選択)
第十四条 外国の国籍を有する日本国民は、外国及び日本の国籍を有することとなつた時が二十歳に達する以前であるときは二十二歳に達するまでに、その時が二十歳に達した後であるときはその時から二年以内に、いずれかの国籍を選択しなければならない
2 日本の国籍の選択は、外国の国籍を離脱することによるほかは、戸籍法の定めるところにより、日本の国籍を選択し、かつ、外国の国籍を放棄する旨の宣言(以下「選択の宣言」という。)をすることによつてする


 2009年の民主党のマニフェストに掲げていたという重国籍の容認とは、この国籍の選択自体をなくそうということだろう。
 しかし、蓮舫氏はこの選択を既に済ませているのである。
 だから、足立氏が「政策を実現しないうちから所属議員が二重国籍だったなどという珍事」と述べるのは、異なる話をごっちゃにしている。
 法制度を理解していないか、理解していても敢えて無視しているのだろう。

 足立議員は、
「権力者が二重国籍では、誰のために働いているのか疑義が生じても仕方あるまい」
「国会議員に立候補する際の要件として〔中略〕外国籍からの離脱を義務化すべき」
と言うが、果たしてそうだろうか。
 法が義務づけている国籍の選択をしていない二重国籍者については、確かに問題だろう。
 だが、日本国籍の選択を済ませているにもかかわらず、外国の国籍の離脱が確認できないという場合の二重国籍をも同様に問題視するのはおかしくないか。

 わかっておられない方が多いように思うが、国籍というのは、その国の国家権力が、個人に対して、取得を許可したり、喪失を許可したりするものである。
 個人が、ある国の国籍を取得したり、離脱したりすることが当然の権利として認められているわけではない。決めるのはあくまでのその国の権力である。
 だから、ある国民が国籍を離脱したいと主張しても、その国が離脱を許可しなければそれまでである。
 そして、そもそも国籍離脱が制度として設けられていない国もある。
 また、国情によっては法で定められた制度があってもそのとおりに機能していない国もある。
国籍離脱の届出をしても、役人がサボって、離脱の手続きが行われていないというケースも有り得るだろう。

 そうした場合、本人の責任ではないのに、外国の国籍の離脱が確認できないというだけで、国会議員になれないということになる。
 それはおかしくないか。

 例えば、某国人がわが国に滞在しているうちに、わが国が好きになり、某国が嫌いになって、わが国に帰化し、某国を批判する言論活動を行うようになったとする。
 そして、わが国のためにもっと尽くしたいと、わが国の政治家を志したとする。
 しかし、某国が、その者がわが国の政治家になることは某国の国益を害すると考えて、その者の国籍離脱を認めないため、その者は国会議員になることができない。
 そんな事態も起こり得る。

 そのような、外国の国籍の離脱が本人の責任でない理由によってできない場合に限定して、国会議員への立候補を認めてもよいのではという見解もあるかもしれない。
 しかし、本人の責任でできないのか、そうでないのかを、行政当局がいちいち判断するのは困難だろう。
 そしてそれは、現在の国籍選択制と実質的にどう違うのか。

 それに、そもそも外国の国籍の離脱はわが国に対する忠誠の保証になるのだろうか。
 わが国と某国の関係が極度に悪化した場合、両国にルーツを持ち帰属意識を持つ者が権力者の座にいれば、板挟みになって心情的に苦しむということは有り得るかもしれない。
 しかし、それは外国の国籍を離脱していようがいまいが、さして関係はないのではないか。
 国籍を離脱していても帰属意識を強く感じる者もいるだろうし、その逆の者もいるだろう。
 しかし、わが国の国籍を選択し、わが国の国会議員を務め、わが国の政府の一員であるのなら、当然わが国の国益を最優先に行動すべきだろう。
 他人の内面を国籍離脱の有無だけで判断すべきではないのではないか。

 こうした、法的に問題ない二重国籍をも非難する考え方を押し進めていくと、結局のところ、国籍離脱の有無のみならず、その人物の出自自体が問われることになる。
 外国人の血を引く者が公職に就くこと、それ自体が問題視されるようになる。
 それでいいのだろうか。

 足立議員の記事が末尾に挙げている、「東大の玉井先生」なる方が誰なのか、それがどういうツイートなのか私は知らない。
 しかし、蓮舫氏は自分のルーツを堂々と語ってきたのではないか。
 「生まれた時から日本人」というのがどういう場で発せられた言葉なのか私は知らないが、他人の内面を「心にもないこと」などと何故決めつけられるのか。

 「今回の騒動を機に、国籍をタブー視する空気を一掃できればと思う」とは、蓮舫氏に限らず、同様に外国の国籍離脱が確認できない国会議員をあげつらっていこうということだろうか。
 帰化したり、外国人をルーツに持つ国会議員の出自を暴いていこうということだろうか。
 恐ろしいことを言うものだと思う。
 こんな人物が、私も選挙人である衆議院比例区近畿ブロック選出の維新議員だったのか。

 足立議員の私見はともかく、日本維新の会には、こうした問題にはもっと慎重に対処してもらいたい。
 何故なら、今回の蓮舫議員に対する二重国籍疑惑は、2012年に『週刊朝日』が橋下徹・大阪市長(当時)に対して行ったのと同様の、出自を理由に公人を批判するという手法によるものだからだ。
 政治家としての蓮舫氏や民進党に批判すべき点があるというならそれは批判すればよい。だが、個人の出自を理由に批判するのは良くない。出自は本人の責任ではないからだ。
 外国の国籍離脱は法律で義務づけられていないのだから、蓮舫氏が問題ないと考えていてもおかしくない。にもかかわらず、池田氏や八幡氏はそれを「違法」と称し、ネット上では違法性にとどまらず蓮舫氏の出自それ自体を非難する発言(足立議員が挙げた「“二重スパイ”云々といった非難」とはまさにそういったものだろう)がまかりとおっている。
 こんなものに公党が与するべきではない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

蓮舫議員への産経新聞によるインタビューを読んで

2016-09-12 08:38:35 | 現代日本政治
 前々回の記事で取りあげた、産経新聞のサイトに9月2日付けで掲載されていた蓮舫参議院議員に対するインタビューを私は興味深く読んだ。

 もともとこのインタビューについてこのブログに記事を書こうと思っていたのだが、たまたまBLOGOSで同議員の二重国籍疑惑に関する記事を読んで、少し調べてみると不審に思ったので、先に前々回と前回の記事を書くことになった次第だ。

 私はこの蓮舫氏について、ほとんど何も知らない。
 民主党政権で事業仕分け人を務め、「2位じゃだめなんですか?」の発言で知られたこと。
 その後、行政改革相として入閣したこと。
 下野後の民主党で、岡田克也代表の下で代表代行を務め、民進党でも留任していることぐらいしか知らない。

 この人の政治理念や、これまでどういう発言をしてきたのかもよく知らない。
 今回の民進党代表選挙への立候補を報じる記事で、先の参議院選挙でようやく3期目の当選を果たしたと知って、政治家歴の短さに驚いた。

 インタビューで印象に残った点を書き留めておく(太字は引用者による。以下同じ)。

 民進党の現状認識について。

結果として7月の参院選は、私たちは数を減らしています。今、参院の景色は随分窮屈なものになっていますよね。われわれの席から見ると。衆参合わせて党所属議員は約150人。ここからどうやってもう1回再生していくのかは、相当な困難な道だと思います。

〔中略〕

 --平成24年に下野してから、野党第一党として支持率がなかなか回復しない。何が良くなかったのか。国民の信頼を回復できていない要因は

 「反省が足りないのと、反省しすぎると、この2つだと思います。もう前を向くべきです。われわれがやるべきものは提案です。ここに尽きると思います」

 --出馬会見でも「批判してばかりいる政党と思われている」と強調していた。これからは批判から提案に軸足を移していくのか

「それはですね、くしくも気づかせてくれたのは、安倍晋三首相です。口を開けば、われわれの政権の悪口をきれいに言ってくださいましたけども、聞いていて、やっぱり美しくないと思ったんですね。小さいな、ともいまだに思っております。(ただ)私たちはそれをやってしまっているんだということにも気づいたんです。だから学習をしました。ただ、政治とカネの問題とか、今言われている口利きの国会質問であるとか、閣僚に疑義が持たれているのであれば、野党の役割としてただす手法が当然あります。ただ、その先に、どうしたら再発防止になるのかなどという提案は、常にセットだと思います」


 経済政策について。

安倍晋三首相の経済政策は、効率的に機能した時代もあったと思います。でも残念ながら、そのときは昭和だと思うのでね。〔中略〕今の政権が言っている(国民総生産の実質)2%という成長は、恐らくもっと現実的に見ていかなければいけないんだと思います。同じ財源を使うのであれば、違う使い方をしましょうというのが私の最大の思い。人への投資に尽きると思います。

 --「分配」が今の政権との違いと強調している

成長も必要ですが、分配の変え方はより必要だと思っています。成長が必要だけれども、実は費用対効果が、その成長に伴っていないと言いますかね。」

格差自体は悪いものじゃないんです。努力したものは、それはそれなりの成功を得るものです。残念ながら、そこに乗れなかった方たちが、平均所得よりも少ない生活を送らざるを得ないということはある。ただ、自己責任で解決できないものまでも切り捨てたことによって、国がゆがみ始めている。だから、あるところから取って、ないところに分配しようという再分配論があったんですけども、きっとそれは機能しないと思っているんですよね。だから全体的に、今ある税収の使い方をもう1回、見直す。それがやっぱり本当の意味での分配だと思っています」


 共産党との選挙協力について。

 --共産党との選挙協力について。次期衆院選でも参院選と同じような選挙協力を行うのか。10月に行われる2つの衆院補選では、共産党との選挙協力をどのように考えているか

 「あまりにも綱領が非現実的なところと、われわれは政権を目指す気はない。当たり前の話です。その上で、やっぱり参院選の分析が必要だと思うんですよね。32の改選1人区。〔中略〕例えばなぜ東北に集中したのかとかね。なぜ西日本、四国、中国はだめだったのか。おしなべて、野党連携がうまくいったとは言えないところは、ちゃんと分析をしなきゃいけないと思います。ただ一つ言えることは、野党候補を1人に絞ったことにより、現実的な政策が乗っかったところは成果が出ています。環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)とかね。そこにも一つ解があると思う。私たちの政策をもう1回研ぎ澄まし、むしろそれに、ほかの野党が乗ってこれるんですかという話なんだと思います」

〔中略〕

 --前原誠司元外相は、「天皇制や自衛隊など国の根幹にかかわるところには民進党としての考えがある」として、選挙協力をするときには、そこまで見なければいけないと語っていた

 「基本的には、前原さんにしろ、どなたかほかの人がお出になるにしろ、考え方は一緒です。ここは争点にする話じゃない。やっぱり見ているところは、同じです。綱領が違う。政策が違う。それでも党首同士で(街頭演説などに)並ぶんですか。それはあり得ませんという話です。ただ、野党が一緒になることの力は否定はしません。代表になってみて、自分たちが作り出す政策と、作り出す姿勢を持った上で、各野党のみなさま方と連携のあり方を考えることはあると思う」

〔中略〕

「野党4党の幹事長・書記局長会談で、今後の国会内外も含めて、連携のあり方は考えていきましょうと現執行部が(合意)している。公党間の約束はほごにしてはいけない。この考えは踏襲というよりも、どこかの責任ある与党と違って、(旧民主・自民・公明の)3党合意をほごにするような軽い姿勢は取ってはいけないと思います。〔中略〕ただ、これまでの連携とは、延長線上にあるとは思わないでいただきたい。私が代表になったら、そこには自分の考えがあります」


 安全保障政策について。

 --直近のテレビ出演で「戦争法案という言葉には違和感がある」と語っていた。「蓮舫氏は保守的な面がある」と評す同僚議員もいる

 「私はバリバリの保守ですよ。みんな間違っているけど。野田佳彦前首相並みの保守ですよ」

 --世間のイメージと戦争法案に違和感を感じるような現実とのギャップが埋まっていないように思う

 「多分、私はものすごいリアリストなんだと思います。法律は社会を変えるし、法律は人々の行動や社会としての可能性を動かすものになったときに、例えば安倍政権が出してきた安全保障関連法の全てを見たときに、いいものと悪いものが玉石混交だったんですよね。われわれが賛成できるものもあれば、われわれが納得できないものもある。もっといえば、憲法に抵触するものもあれば、ここは現実的だよねというものもあって、政府が関連法案11本を2本に束ねたというのは、政権として非常に残念な提出のされ方をしたのだと思う。安保法制は、社会の変え方、人の行動の可能性で戦争に巻き込まれることは否定できない法律案でした。だけど、その途中を全部端折って『戦争法案』というのは、私は、むしろミスリードをする言い方だったと思っています。安全保障というのは、リアリストじゃなきゃいけない。だから私たちは(武力攻撃に至らない『グレーゾーン事態』に対処するための)領域警備法にこだわっているんです。ものすごく。今の北朝鮮のことを見てみても。それは、ホルムズ海峡までいく話ではない。集団的自衛権というよりは個別的自衛権をどうやって確保していくんだという話なんです。ここは多分、保守とかリベラルじゃなくて、現実、リアルを見たときに、誰もがこの位置に立ったら、あの法案は分けた方がいいよねという声にきっとなったんだと思います。国連平和維持活動(PKO)のあり方や、国際貢献のあり方を含め、われわれが出した法案と政府案は意外に重なる部分もあったと思っています」


 憲法改正について。

 --憲法改正について、旧民主党では、枝野幸男憲法調査会長が平成17年に「憲法提言」をまとめている。これを受け継ぐか。与党側は、具体的に改憲すべき条文を絞り込む動きもある。民進党はどうするのか。

 「まず、国会の憲法審査会が動いたら参加するというよりも、与党の審議拒否を早く正していただきたい。審査会を止めたのは自民、公明両党ですから。自分たちに都合の悪い憲法学者の声が出た瞬間に(審議日程を協議する)与野党の筆頭間協議さえもままならなくなった。むしろ審議拒否をされたのは今の与党ですから、ここは堂々とわびを入れた上でちゃんと動かしていただきたい。ただ、党内で憲法の問題が最優先かというのも、もう一度考えないといけないと思います。むしろ皇室典範のあり方であるとか、あるいは私たち、特に私が今、重要視しているのは、経済政策。この秋の平成28年度第2次補正予算案もそうですけども、国由来の3兆円を本当に財政投融資の発行も含め、大型公共事業を中心としてみなさま方の税金を使い続けていいのだろうか。ここに対する提言をむしろまとめるのが最優先だとも思っています」

--「憲法9条は絶対守る」と語っている。その背景は。自衛隊の存在との整合性は

 「いや、だって自衛隊は戦力じゃないから。だって自衛のための防衛組織でしょ。これは自民党が長いことかけて、国会答弁を繰り返してきた話です。私たちはその答弁、その国のあり方で育ってきています。ものすごく自然に自分の中で落ちている憲法解釈ですよね」

 --自然にそれが定着していると

 「何で9条というのにあえて踏み込んだのかというと、やっぱり憲法を守る、変えるという声を上げるのは政権ではなくて、国民です。結果として首相、政権が掲げた反射作用として国民の中から9条を守ろうという声が高まったし、これは国民の声だと私は判断しています。だからこそ、9条は守るというのは私の中の信条です」

 --自民党でも、参院選挙制度に絡めた合区の解消や緊急事態条項、国会議員の任期延長の話からまずやろうという動きもある

「緊急事態条項に関しては、われわれは質問趣意書も出していますし、今の政府もその条項がないから何かあった時にわが国のいわゆる首都機能も含めてね、守れないのかということは否定されています。そんなに必然性や緊急性があるとはとても思えません。むしろ3・11(東日本大震災)の時の被災地の自治体議員の任期も柔軟に対応することができました。ここは、本当に緊急ですか。あるいは国防軍の創設も緊急ですか。家族間の押し付け的な条文も緊急ですかというのはやっぱり、これはしっかりと憲法審査会の方でも問わせていただきたいと思うし、むしろ憲法に対する関心が高まっている今だからこそ、そういう議論は積極的にするべきだと私は思います」


 政権交代について。

 --民主党政権が崩壊した理由として、仲間で批判し合うことがあったと思う。まだ、公より私を優先してチーム力よりも、自分がこうしたいというのが、ちょっとはびこっていたと思う。自民党はなんだかんだ言っても、まとまる団結力があるのでは

 「それは与党だからでしょ。与党であることの団結力は、個の主張であるとか、自分たちの姿勢の強調というものは抑制されるという大きな求心力に働きますよね。私たちは、そこが少ない。だからポジションも少なければ、バッターとして目立つところに立っていただける時間や枠も少ない。そう考えると、消化不良感が残るというのは野党の宿命だと思います。ただ、それをどういう風に束ねていけるのかというのは期待です。私たちはもう1回頑張れるという期待です。今の『もう1回頑張れる』は、ずうっと下を向いていた空気をまず上向いていいだという空気に変えられる。で、その先をみんなで作っていこうよというやっぱり期待感なんだと思うんですよね。代表の役割は。その期待感を作ることだと思います」

「われわれも過去の残像と決別した方がいいんですけれども、今の段階で政権交代って、まだ言えないと思います。私が批判から提案と言っているのは、批判しかないと思われているところに提案があるんだというのをしっかりしていくことによって、政府の政策とうちの政策の選択肢を示す。この選択肢を示すことが積み重なったときに信頼になります。信頼は次の選挙で、じゃあ私たちは選択してもらえる政党なのかという『みそぎ』をもう1回やらなければいけないと思います。もちろん、全ての総選挙で政権交代は目指しますけれども、最初から政権交代というのは、私たちの等身大の目標としてはまだ受け入れられない


 同意しかねる点も多々あるが、それほどおかしなことは言っていないというのが第一印象だった。

 産経新聞のインタビューだからその読者層を意識したというわけでもないのだろうが、保守層というか、民進党を支持しない層に対して、物わかりの良さを示そうとしているのかなという感じがした。
 このインタビューの内容だけ読めば、本人も自称しているように「リアリスト」なのだろうと思う。

 「バリバリの保守」を自称している点も、確かにこの人は野田佳彦前首相のグループに属しているという(これも最近の党代表選の報道で私は初めて知った)から、おかしくはない話だ。

 だが、この人はこうした考えをこれまで党外に向けて発信してきたのだろうか。

 民進党内の保守系議員と言えば、野田氏のほか、前原誠司氏、細野豪志氏、松原仁氏といった名前が思い浮かぶ。
 しかし、蓮舫氏を「保守」と評する声を私は聞いた覚えがない。むしろ、そうした立場からは距離を置いていた印象をもっている。
 何故だろうか。
 蓮舫氏は「みんな間違っている」と言うが、仮にそうだとしたら、何故「みんな」が間違うのか。

 国会中継を長時間見ているというマンガ家の須賀原洋行氏は、8月30日に民進党の山尾志桜里政調会長が代表選で前原氏を支持する意向を示したという報道を受けて、ツイートでこう述べていた。



「民進党議員は国会審議で政権攻撃の為に展開する政治思想と所属派閥の思想が全く整合しない。とんでもない左翼姿勢の議員が党内右派だったりする。何もかもが手段化してて信用できない」

 さらに、



「前原議員や長島議員、野田前総理あたりは一貫したリベラル的保守の思想があって、自民の谷垣や石破と連立できそうな感じがあるが、蓮舫だの山尾だのって、あれだけ左翼丸出しの政権攻撃をしておいて、野田派だの前原支持だの言っても、真剣に政局を見続けてきた者から見たら偽物感プンプンなんだよな。」

とも。
 やはり、「左翼丸出しの政権攻撃」をしてきたという理解が正しいのだろうか。

 蓮舫氏は「戦争法案という言葉には違和感がある」と言うが、安保法制の国会審議の最中にそう表明しただろうか。
 「いいものと悪いものが玉石混交だった」とも言うが、ではいいものを残して悪いものを排除するような法整備をしようとしただろうか。

 岡田克也現代表は、もともと憲法改正には賛成だったはずである。安全保障政策についても以前は特段おかしなことは主張していなかった。
 しかし、彼の下で民主党は、安倍内閣が提出した安保関連法案を「戦争法案」と呼んで徹底抗戦した。
 また岡田氏は、「安倍内閣での憲法改正論議には応じない」とも述べ、さらに、先の参院選では、改憲を争点にし、「まず、3分の2をとらせないこと」と唱え、共産党との選挙協力も辞さない姿勢を示した。
 私はひどく失望した。
 岡田氏には「タリバン」とあだ名されるほどの原理主義者的な面があると聞くが、代表となってからはそれが悪い方向に働いたのかなという気がする。
 あるいは、民主党、民進党にはそうした手法しか取れない人材しかいないのだろうか。

 岡田氏でさえああだったのだから、今回の党代表選で最有力視されている蓮舫氏が「保守」で「リアリスト」を自称しても、私にはそれを鵜呑みにできない。
 だいたい蓮舫氏はその岡田代表の下で代表代行を務めていたのだから、なおさらである。

 自民党のみが政権担当能力を備えた政党として存続するという状況はわが国にとって危険である。
 「確かな野党」、万年野党ではなく、まともな野党、政権担当能力を備えた野党がわが国にも必要である。
 誰が民進党の代表になろうとも、そうした野党の形成に力を尽くしていただきたいものだが、今回の二重国籍疑惑への対応を含め、民主党下野以来の彼らの体たらくを見ていると、正直なところ、当面期待はできそうにないと思う。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マルティン・ニーメラーの詩について 反共は戦争の前夜か

2016-05-23 06:18:23 | 現代日本政治
 今年3月に、共産党を破防法の調査対象団体であるとする政府答弁書を批判するしんぶん赤旗の記事をBLOGOSで読んだ。

   「2016 とくほう・特報/「破防法」答弁書 市民が批判/時代錯誤 安倍政権/「共産党への攻撃は市民への脅し」「反共は戦争の前夜」 識者も指摘」(2016年3月26日付)

 記事の一部を引用する。

 「共産支持者ではないが、共産党に破壊(活動)防止法適用のニュースには怒りを感じる。国民の支持を受ける公党への誹(ひ)謗(ぼう)とうつる」、「自民党こそ、日本の平和を破壊しようとしている」。党本部への電話・メールやツイッターなどの投稿で、こんな批判が広がっています。

国民は分かっている

 法政大学元教授(政治学)の五十嵐仁氏は、閣議決定に対し「古色蒼然(そうぜん)です。共産党は暴力的な方法で政権転覆を考えていないし、暴力革命を方針としていないことは多くの国民はわかっています」と指摘します。

〔中略〕

 五十嵐氏は共産党へのデマによる誹謗は戦争前夜の声であると指摘します。

 「戦前日本もドイツも、戦争へと突入できるようにするために、もっとも頑強に戦争に反対した共産党を弾圧しました。ナチスは国会議事堂放火事件をでっち上げ、それを口実に共産党を弾圧し、ヒトラーの独裁体制を確立しました。やがてその弾圧は自由主義者やカトリックへと拡大し、ドイツは世界を相手に戦争をする国になっていったのです。同じように、安倍政権は、共産党を狙い撃ちにした攻撃によって戦争をする国づくりをすすめようとしています」と戦前と共通の危険性を語ります。

 まさに「反共は戦争の前夜」との指摘です。


 これは、共産党への弾圧を危険視する際によく引用されるマルティン・ニーメラーの詩を念頭に置いているのだろう。

 五十嵐氏は、自身のブログの4月29日付の記事「再びかみしめるべき「反共は戦争前夜の声」という言葉」でも、この詩を持ちだして次のように述べている。

 「ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった
 私は共産主義者ではなかったから
 社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった
 私は社会民主主義ではなかったから
 彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった
 私は労働組合員ではなかったから
 そして、彼らが私を攻撃したとき
 私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった。」

 これは、マルティン・ニーメラー牧師の有名な詩です。今また、これと似たような状況が生まれつつあります。再び「反共は戦争前夜の声」という言葉をかみしめなければなりません。
 安倍政権は閣議決定した答弁書によって、共産党が破壊(活動)防止法の適用対象だと回答しました。普通に活動して多くの支持を得ている天下の公党に対するこのような攻撃は古色蒼然たるもので荒唐無稽ですが、まさに「ナチスの手口」に学んだものでもあります。
 戦前の日本もドイツも、戦争準備の過程で頑強な反対勢力であった共産党を弾圧しました。やがてその弾圧は自由主義者やカトリックへと拡大していきます。同じように、安倍政権は共産党を狙い撃ちにして、戦争する国づくりをすすめようとしているわけです。

 悪質なデマまで使って攻撃するのは、野党共闘の強力な推進力となった共産党を排除できなくなったからです。その力を恐れているからこそ目の敵にしているわけで、共産党が手ごわい政敵になったと自民党が太鼓判を押したようなものです。
 これは安倍政権の弱さと焦りの現れでもあります。市民から大きな声を上げて糾弾しなければなりません。「最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった」という間違いを繰り返さないために。そして、後になって「私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった」という状況を生まないためにも……。


 この詩は共産党擁護によく持ち出されるので以前から知っていたが、出典は何なのだろうとふと気になった。
 ネットで検索してみると、ブログ「世に倦む日々」の4月27日付の記事「「結末を考えよ」 - ニーメラーの教訓と弱すぎる戦争への危機感」に、この詩をわが国で広く紹介したのは政治学者の丸山眞男(1914-1996)であるとの主張があった。

ニーメラーはルター派教会の牧師で、ナチスに抵抗して1937年に強制収容所に入れられ、生還後にこの悔恨の言葉を残した。ところで、今日、この言葉は政治に関心を持つ現代人の常識の範疇となっているけれど、出典は何で、どこから広く知られるようになったのだろうか。実は、この痛切な反省を日本に紹介したのは、丸山真男の『現代政治の思想と行動』である。1961年の論文「現代における人間と政治」の中に、ミルトン・マイヤーの著書からの引用として紹介されている。原文を日本語に翻訳したのは丸山真男だ。

この言葉を日本の政治学の一般知識にしたのは丸山真男である。が、このニーメラーの警句を説明するWiki情報には、なぜか丸山真男についての言及がなく、この国の政治学で最も多く読まれてきた古典的著作で紹介しているという記述がない。この事実はきわめて不審で、偶然だとすれば奇妙であり、何か動機があって悪意で丸山真男を捨象したのではないかという疑いを禁じ得ない。丸山真男の『現代政治の思想と行動』というのは万事がこんな感じで、ビートルズの名曲のように「これがあれだったのか」と既視感の衝撃を覚える発見が随所に散らばっている。アクトンの「絶対的権力は絶対的に腐敗する」の言葉(P.444)もそうだし、トクヴィルの回想録の「ひとが必要欠くべからざる制度と呼んでいるものは、しばしば習慣化した制度にすぎない」の一節(P.576)もそうだ。まさに政治学の宝石箱。


 そこで、丸山の『現代政治の思想と行動』に収録された「現代における人間と政治」という文を読んでみると、次のようにあった。

ニーメラーの次のような告白を見よ――
  「ナチが共産主義者を襲つたとき、自分はやや不安になつた。けれども結局自分は共産主義者でなかつたので何もしなかつた。それからナチは社会主義者を攻撃した。自分の不安はやや増大した。けれども依然として自分は社会主義者ではなかつた。そこでやはり何もしなかつた。それから学校が、新聞が、ユダヤ人が、というふうに次々と攻撃の手が加わり、そのたびに自分の不安は増したが、なおも何事も行わなかつた。さてそれからナチは教会を攻撃した。そうして自分はまさに教会の人間であつた。そこで自分は何事かをした。しかしそのときにはすでに手遅れであつた」(Mayer,op.cit.,pp.168-169)
 こうした痛苦の体験からニーメラーは、「端初に抵抗せよ」(Principiis obusta)而して「結末を考えよ」(Finem respice)という二つの原則をひき出したのである。彼の述べているようなヒットラーの攻撃順序は今日周知の事実だし、その二原則も〔中略〕言葉としてはすでに何度も聞かされたことで、いささか陳腐にひびく。けれどもここで問題なのは、あの果敢な抵抗者として知られたニーメラーさえ、直接自分の畑に火がつくまでは、やはり「内側の住人」であつたということであり、しかもあの言語学者がのべたように、すべてが少しずつ変つているときには誰も変つていないとするならば、抵抗すべき「端初」の決断も、歴史的連鎖の「結末」の予想も、はじめから「外側」に身を置かないかぎり実は異常に困難だということなのである。しかもはじめから外側にある者は、まさに外側にいることによつて、内側の圧倒的多数の人間の実感とは異ならざるをえないのだ。(丸山『増補版 現代政治の思想と行動』未来社、1964、p.475-476、原文中の傍点は引用ではゴシック体に変更した)


 さて、では心ある国民は、五十嵐氏やしんぶん赤旗が言うように、共産党が破防法の調査対象団体とされていることを「弾圧」であり「戦争の前夜」だととらえて、安倍政権を「大きな声を上げて糾弾しなければな」らないのだろうか。
 私にはそうは思えない。
 破防法の調査対象団体とされていることは、何ら結社の自由を害するものではないということもあるが、それより何より、共産党が政権を獲得した場合、ナチスと同じことをする恐れが多分にあり、実際に共産党政権の国々ではそうしたことが行われてきた以上、共産党がこんな詩を持ち出して危険性を煽っても全く説得力を覚えないからだ。

 1917年のロシア革命では、皇帝が退位した後、臨時政府とソビエトの二重権力となった。ソビエトを基盤としたボリシェビキのレーニンは武装蜂起してケレンスキーの臨時政府を打倒し、社会革命党左派と組んでソビエト政権を樹立した。
 憲法制定会議の普通選挙が行われたが、ボリシェビキは議席の4分の1しか得られず、社会革命党が過半数を獲得した。自由主義者の政党である立憲民主党も議席を得たが、ソビエト政権により解散させられ、メンバーは逮捕されるか亡命した。憲法制定会議は開かれたが、少数派であるボリシェビキと社会革命党左派は権力をソビエトに委ねるよう求め、否決されると退場した。翌日会場は軍により封鎖され、ソビエト政権は会議の解散を命じた。監禁されていた廃帝ニコライ2世とその一家は1918年7月にソビエトの秘密警察により銃殺された。
 松田道雄は『ロシアの革命』でその後の状況を次のように描いている。

 ボリシェヴィキが権力を奪取してしばらくは、他の政党も合法的に存在していた。〔中略〕
 一九二〇年の第八回ソヴィエト大会には、社会革命党もメンシェヴィキも、その代表を公然と出席させることができた。一九二一年になると事態はかわってきた。メンシェヴィキの指導者たちは、国外に亡命しなければならなくなった。メンシェヴィキはまだ亡命できたが、社会革命党は、それさえできず、一九二二年には、指導者たちは反革命のかどで裁判され、処罰されなければならなかった。それ以後、共産主義者でないものには結社をつくる自由はなくなった。
 しかし、ボリシェヴィキ党のなかでは、反対派は自由に意見をのべることはできた。ブレスト・リトフスクの講和を受諾するかどうかでは、レーニンは数からいえば自分より多い反対派を説得しなければならなかった。
 一九二〇年の第九回党大会は、反対派がもっとも自由に発言できた最後の機会であった。〔中略〕第九回党大会は、左翼反対派の意見を反映して、ことなった意見のゆえに党員にどんな圧迫もくわえてはならないむねの宣言さえした。(松田道雄『ロシアの革命』河出文庫、1990、p.350-352)


 だが、革命軍の内部からソビエト政権に抵抗するクロンシュタットの反乱が起きると、第10回党大会で分派活動は禁止された。
 1924年にレーニンが死ぬと、後継者争いにスターリンが勝利し、敗れたトロツキーは国外追放された。1930年代にはいわゆる大粛清が行われ、多数のオールド・ボリシェヴィキが処刑された。トロツキーも1940年にメキシコで暗殺された。
 これらは政治家の話であって、一般国民に対してどれほど苛烈な弾圧が加えられたか、ここで詳述する余裕はない。

 ニーメラー、あるいは丸山に倣うなら、次のような詩も成り立つのではないだろうか。

 共産主義者が皇帝や貴族を襲ったとき、私はやや不安になった。けれども自分は皇帝でも貴族でもなかったので何もしなかった。
 それから共産主義者は富農や資本家を攻撃した。私は不安はやや増大した。けれども自分は富農でも資本家でもなかったので、やはり何もしなかった。
 それから共産主義者の攻撃の手は社会主義者やアナーキスト、さらに共産主義者内部の反対派へと伸び、私の不安はそのたびに増大したが、私は社会主義者でもアナーキストでも共産主義者内部の反対派でもなかったので、なおも何もしなかった。
 そして共産主義者の攻撃の手は彼らの政府に忠実な一般国民にまで伸びてきた。私は一般国民であったから何事かをした。しかしそのときにはすでに手遅れであった。

 ソ連に限らず、中国でも北朝鮮でもベトナムでも、共産党政権の下では同じようなことが行われてきた。
 現在の日本共産党は、ソ連型の社会主義建設は行わないと主張している。しかし、元々ボリシェビキが世界革命のために設立したコミンテルンの日本支部として誕生し、マルクス=レーニン主義を理論的基礎とし(現在の日本共産党は「科学的社会主義」と称しているが、これは単なる言い換えである)、レーニンの党組織原理である民主集中制を未だ放棄していない日本共産党が、単に行わないと宣言しても、何の説得力があるだろうか。

 私は、思想・信条の自由や結社の自由は、民主制の下で何よりも尊重されなければならないと思っている。
 だから、共産主義を信奉する自由も、共産党を組織する自由も認められるべきだと思う。
 しかし、かつて武装闘争を行った結社が、破防法の調査対象とされることもまた当然だと考える。調査は結社の自由を侵すものではないし、それが「弾圧」だとも「戦争前夜」だとも思えない。
 また、「端初に抵抗せよ」と言うなら、かつて武装闘争路線を採った日本共産党に対しても、その行動を調査し、共産主義が国民への独裁である危険性を指摘することは何ら否定されるべきではないのではないか。

 反共が必ず戦争を起こすというものでもあるまい。スペインのフランコやチリのピノチェトは共産党が参加した政権を打倒し、インドネシアのスハルトは共産党によるクーデターを鎮圧してそれぞれ権力を握ったが、別に侵略戦争に手を染めたことはない。
 第二次世界大戦はナチス・ドイツとソ連が密約を交わして起こしたものだから、言わばソ連は共犯である。戦後も朝鮮戦争をはじめ共産党政権が戦争を起こすことはしばしばあったことも思い起こすべきだろう。

 なお、上で引用した丸山眞男の「現代における人間と政治」は、六〇年安保闘争を振り返ってその翌年に書かれたもののようである。
 当時はまだ民主主義の敵と言えばナチスという印象が濃厚だったのだろう。
 しかし、文化大革命やカンボジア大虐殺やソ連崩壊を経て、共産党政権の様々な害悪が広く明らかになったこんにち、未だに半世紀前と同様にニーメラーの詩でおどかす手法が通用すると思っている時代錯誤にはあきれるほかない。

 ニーメラーの詩については、以下の2つの記事が興味深い内容だった。

   はてなキーワードの「マルチン・ニーメラー」

   愛・蔵太の気になるメモ(homines id quod volunt credunt) マルチン・ニーメラーが本当に言ったことと、リベラルな人の嘘

 また、丸山の「現代における人間と政治」については、これをドイツ文学者の西義之(1922-2008)が批判的に取りあげていたことを思い出した。私はこの批判に共感する。
 当ブログの記事
   53年前の「おどかし屋」――特定秘密保護法案騒動と60年安保騒動
を参照。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大阪府民を愚弄した共産党の政治ビラ

2015-11-23 23:07:49 | 現代日本政治
 私は大阪府に居住しているが、先日、不可解なビラが投函されていた。



(表面の上半分)

 誰が読んでも、今回の大阪府知事選挙で、自民党推薦の栗原貴子元大阪府議への投票を呼びかけるビラだと思うだろう。

 しかし、よく読むと、どこにも知事選挙の文字はない。
 「元女性府議」とあるだけで、栗原貴子という氏名も記されていない。
 つまり、形式的には、これは選挙ビラではないということになるのだろう。

 選挙運動で配布できるビラには種類や枚数の制限があり、選挙管理委員会が交付する証紙を貼らなけれ配布することができないと聞く。
 そうした法令による制限をかいくぐるために、こうした形式にしているのだろう。

 発行元の記載を探すと、左下に小さく「明るい民主府政」とある。
 さらにその下に、米粒より小さい字で「「明るい会」は、大阪商工団体連合会、大阪府保険医協会、新日本婦人の会、全大阪労働組合総連合、日本共産党など56の団体・政党で構成しています。」 とある。

 まあ、共産党のやることなどそんなものだろう。

 共産党の政治ビラは時々投函されていることがあるが、確かに同質の雰囲気がある。



(裏面上部)

 「対立と混乱はうんざり」と批判する者が、「オール大阪 VS 維新」と対立を煽るのはどうしたことか。
 そもそも「オール大阪」とは何か。
 いつどこでそんなものが成立したというのだろうか。
 栗原氏はそんなことを言っていただろうか。
 自民党は共産党と公式には提携しないと言っていたはずだ。

 「オール大阪」が文字どおり「オール」なら、それは維新をも含めたものであるはずだ。
 維新を排除した「オール大阪」とはいったい何なのだろうか。
 維新やその支持者は大阪府民とは認めないとでも言うのだろうか。
 これは、アカを非国民として弾圧した戦前の当局の思考法と何が違うのだろうか。

 裏面の中ほどには、こんなグラフが載っている。



 これはいったい何だろうか。
 6兆3751億円の棒が5兆8288億円の棒の高さの倍以上に表示されている。

 棒グラフというのは、数値を図形化することで、視覚的に数値の差をわかりやすくするするために用いられるものだ。
 言うまでもないことだが、ここに記載されている負債残高の数字を忠実にグラフ化すれば、こんなに差が出るはずはない。
 これはインチキグラフである。

 数字をちゃんと見る読者にはそれがわかる。
 しかし、数字をちゃんと見ずに、ビラを斜め読みして、何とこんなにも負債が増えている! 維新はやっぱりケシカランと思う読者もいるのだろう。
 そういう層を狙ったビラなのだろう。

 きちんと内容を読み込む読者ではなく、パッと見の印象に踊らされやすい読者をターゲットとしている。
 ということは、このビラの配布によって支持を得られるであろう府民のレベルを、その程度のものと見込んでいるわけだ。
 こうした手法に不快感を持つ読者がどういう行動に出るかは考慮に入れない。
 
 まあ、共産党のやることなどそんなものだろう。

 昨晩の開票速報をテレビで見ていたところ、NHKの出口調査では、自民党支持層の約半数は維新の松井現知事に投票したという。
 さもあらん。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「「戦争をしない」こそ得」?

2014-07-19 23:12:51 | 現代日本政治
 前回紹介した6月22日付朝日新聞朝刊社会面の絵本「へいわってすてきだね」を紹介する記事の左には、連載「集団的自衛権を問う」が掲載されていた。
 この連載は著名人の集団的自衛権行使容認に対する見解(ほとんどが反対論。賛成論があっても安倍政権の姿勢には反対とするもの)を紹介するもので、この日は「「戦争をしない」こそ得」との表題で作家の高村薫氏が次のように述べている。

 戦後69年間、日本は戦争で人を殺していないし、殺されていない。集団的自衛権を使う国になれば、その誇りを失う。私には耐え難いし、全ての日本人に覚悟があるとは思えません。


 戦後69年間、わが国が戦争で人を殺していないことを、国民は「誇り」に思っているのだろうか。
 少なくとも私には「誇り」に思えない。
 自衛隊が1人も人を殺さずに済んだのは、まず、戦後のわが国が侵略を受けなかったからだろう。それは、独立と同時に、日米安全保障条約により米国の庇護下に置かれたからだ。
 また、自衛隊が海外における戦闘に積極的に関与してこなかったのは、憲法9条の制約があるからだ。そして、日本国憲法が米国製であることは言うまでもない。
 他国がわが国を侵略しなかったのは他国の自由意志によるものだし、わが国が他国において戦闘に参加しなかったのは米国の自由意志によるものだ。いずれも、わが国の自由意志によるものではない。
 国民が自ら9条のような憲法を制定した、あるいは9条がなく海外での戦闘に参加できるにもかかわらずそれを自制したというなら、高村氏の言うこともわからないでもない。
 しかし、自らの意志に依らず、他者の意志により結果的にそうなっているにすぎないことを「誇り」に思うという感覚は私には理解できない。
(過去記事「誇るべきものとは」参照)

 集団的自衛権の行使は限定的に、と安倍晋三首相は言います。でも、銃弾を一発撃てば戦争の当事者。戦場で若者の命が失われ、国内でテロが起きる可能性もある。「国民の命を守る」という首相の言葉は間違った事実認識に基づいています。特定秘密保護法で肝心な情報が出ず、検証の仕組みがないまま戦争に関わることにもなりかねない。

 私は大阪人。何が得なのかを合理的に考えると、結論は「戦争をしない」。1千兆円の借金を抱える日本に戦争ができますか。力を入れるべきなのは、平和のための外交なんです。

 「武力が使える」という選択肢ができれば、独自の外交を展開する力が弱まります。「戦争放棄」をうたう憲法9条には、まだ利用価値がある。合理的に考えれば分かるはずです。(聞き手・佐藤達弥)


 ○○人だから○○○○と考える――という発想は、個々人の人格を認めずに出身地や民族で性格や思想を決めつけようとするもので、いわゆる差別につながるものではないか。

 それはさておき、私も大阪人だが、「何が得なのかを合理的に考えると、」集団的自衛権の行使を容認することの方が「得」だと思える。

 そもそも、戦争をする・しないという二択について「何が得なのかを合理的に考え」られるという前提がおかしい。具体的にどういう戦争なのかによって、結論は全く変わってくるのではないか。

 確かに、かつての対米英蘭戦は、損得勘定で言えば「損」だった。それもとてつもない「大損」だった。それは当時においても想定できたことであり、それを回避できなかったわが国の指導層は愚かだった。
 だが、全ての戦争が「損」だと断言できるのか。それは何と比較しての「損」なのか。戦争で失うものもあれば、得られるものもあるだろう。また戦争をしないことにより失うものもあれば、得られるものもあるだろう。戦争をするより戦争をしない方が失うものが多く、得られるものが少なければ、損得勘定で言うなら、戦争をする方が「得」だろう。そうした事態は決して有り得ないのだろうか。

 第二次世界大戦後も、さまざまな戦争は起こった。そしてさまざまな国が参戦してきた。それらの国々は皆「損」をし、参戦してこなかったわが国だけが「得」をしてきたのだろうか。
 私には、とてもそうは思えないのだが。

 例えば、中国が尖閣諸島を併合しようと侵攻してきたら、わが国はどうすべきだと高村氏は考えるのだろうか。
 戦争で人命が失われるよりは無人の岩礁をくれてやる方が「得」だとして、応戦せずに併合を認めるのだろうか。そして「平和」が保たれたことを自賛するのだろうか。
 ではさらに中国が、歴史的な経緯から、沖縄諸島の領有権も主張し、侵攻してきたらどうするのだろうか。これまた人命には代えられないと、譲り渡すのだろうか。
 そしてさらに九州までをも要求して侵攻してきたらどうするのだろうか。歴史的根拠のない九州への要求は明らかな侵略であるとしてようやく応戦するのだろうか。しかし沖縄を押さえられていてはわが国にとって地政学的に不利であり、多大な犠牲を出すことになるだろう。となるとはじめから尖閣諸島で応戦しておく方が「得」だったということにならないか。あるいは、勝ち目のない戦いはすべきではないとして、九州でもどこでも譲り渡して、ついには併合されることを選ぶのだろうか。しかし勝ち目がないのは一対一で立ち向かおうとするからだ。複数の国でまとまって対抗すれば、勝ち目が出てくる場合も有り得るだろう。そのための集団的自衛権ではないのか。

 「1千兆円の借金を抱える日本に戦争ができますか」と述べる高村氏の頭には、戦争と言えば先の対米英蘭戦のような国運を賭した全面戦争しかないかのようだが、そんなことはないだろう。第二次世界大戦後、限定的に行われた戦争はいくつもある。
 あらゆる戦争を常に「損」と見るのなら、それはもう「合理的」な判断でも何でもないだろう。単なる狂信的な平和主義にすぎない。

 高村氏は「力を入れるべきなのは、平和のための外交なんです」「「武力が使える」という選択肢ができれば、独自の外交を展開する力が弱まります」と言う。
 フランスドイツカナダスウェーデンといった国々が「独自の外交を展開」しているといった評価を受けることがあるが、これら諸国は「武力が使える」という選択肢をもっていないのだろうか。むしろ「武力が使える」からこそ「独自の外交を展開」できるのではないか。
 普通の国のようには「武力が使え」ず、その点では米国に全面的に依拠しているわが国に、いったいどのような「独自の外交」を行う余地があるというのか。

 高村氏は「「戦争放棄」をうたう憲法9条には、まだ利用価値がある」とも言うが、憲法9条は戦争全般を放棄したのではない。「国際紛争を解決する手段として」の戦争を放棄したのだ。自衛のための戦争は放棄していない。そしてその自衛が自国のみならず他国における自衛をも含むものであって何故いけないのだろうか。
 憲法前文にもこうあるではないか。

われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。


 もっとも、損得で言うと、集団的自衛権を行使できる国になることは「損」だという見方があることは理解できる。
 自国が攻められているわけでもないのに、他国の防衛のために出兵し、国民が傷つき死亡し、国内でテロが起きたりすることは「損」だと。なるほどそう言えるかもしれない。
 しかし、そういうことを言う国は、自国もまた、他国に防衛してもらい、犠牲を払ってもらうことを否定すべきではないのか。日米安保や、国連による集団安全保障を拒否し、他国から侵略されても自国だけで対処しますと宣言すべきではないのか。
 だが、集団的自衛権行使容認に反対する人々から、そうした見解を聞くことはない。
 自国は他国のために犠牲になるつもりはない、しかし他国は自国のために犠牲になってくれ。そんな国をどこの国が身を挺して守ろうとするというのだろうか。
 ましてや、そんな立場を「得」だと公言することは、結果的に見れば「損」になるのではないか。

 あるいは、反対論者は純粋な自衛戦争ではなく、イラク戦争やベトナム戦争のような大義なき戦争(私はそうは思わないが)に巻き込まれることを危惧しているのかもしれない。
 しかし、かつてそうした戦争に参加し、のちにそうした過去に批判的になった国々の中に、もう集団的自衛権はこりごりだ、こんなものは返上しよう、日本を見習って個別的自衛権のみとし、他国に守ってもらおうなどと主張している国があるだろうか。
 それは政策の選択の問題であって、そうしたリスクがあるから、全面的に集団的自衛権は行使すべきではないと考えるのも、「合理的」とは言えないのではないか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「平和のために戦いに行く」ことからは平和は生まれない?

2014-07-15 23:16:04 | 現代日本政治
 朝日新聞朝刊1面の右端には、その日の2面以降のいくつかの記事のダイジェストが載っている。
 6月22日朝刊のダイジェストの中に、こんなものがあった。

「へいわってすてき」絵本に

 へいわってすてきだね――。昨年、沖縄で6歳の少年が読み上げた詩を、大阪の人気作家が絵本にした。「平和のために戦いに行くなんて、そんなことから平和は生まれへんねん」。詩の優しさが、大人の心をも動かした。 


 「平和のために戦いに行く」ことからは平和は生まれない?
 何だか、このころ紙上で大騒ぎになっていた、安倍内閣の集団的自衛権の行使容認の動きへのあてつけのようなセリフだな。

 果たしてそうなのだろうか。

 第二次世界大戦は、ナチス・ドイツのポーランド侵攻に対して、英国とフランスが、それぞれポーランドと結んでいた相互援助条約に基づいて、ドイツに宣戦布告したことから始まった。今で言う集団的自衛権の行使である。
 フランスは結局ドイツに降伏し、国土の半分を占領された。イギリスは抗戦を続けたが、空爆や潜水艦による通商破壊に苦しんだ。
 ポーランドがドイツに占領されようが、英国とフランスが直接害をこうむるわけではない。だから、両国は自国の「平和」を優先してドイツに宣戦するべきではなかったのだろうか。
 ドイツはソ連と不可侵条約を結んで、ポーランドなど東ヨーロッパ諸国をソ連と分割した。そしてドイツはポーランドのアウシュヴィッツなどに強制収容所を建て、ユダヤ人の絶滅を図った。非ユダヤ人も劣等民族として強制労働に徴用され、抵抗するおそれのある知識層や聖職者は殺害された。
 やがてドイツはソ連に宣戦し、さらに日本の真珠湾攻撃をきっかけに米国にも宣戦したため、ヨーロッパの東西で戦うことになり、消耗の末滅びた。しかし、仮にドイツがソ連にも米国にも宣戦しなければどうなっていただろうか。ファシズムとコミュニズムという二つの全体主義が仲良くヨーロッパ大陸を支配し続けることになっていたかもしれない。

 朝鮮戦争は北朝鮮軍による韓国への侵攻により始まった。国連安全保障理事会は北朝鮮を侵略者と非難し、韓国を支援するため米国軍を主力とする国連軍が結成された。韓国側は釜山周辺にまで追い詰められたが、仁川上陸作戦による反攻に成功し、逆に北朝鮮側を中国との国境付近にまで追い詰めた。しかし今度は中国が北朝鮮を支援するため義勇軍と称して人民解放軍を派遣し、韓国側は押し戻され、当初の分断ラインだった38度線付近で戦線は膠着状態となり、休戦協定が結ばれた。
 北朝鮮が韓国を併合したとしても、米国をはじめとする国連軍参加諸国が直接害をこうむるわけではない。だから、各国は自国の「平和」を優先して戦争に加わるべきではなかったのだろうか。
 しかし、北朝鮮が朝鮮半島を統一すれば、その後の韓国の発展はなかっただろうし、北朝鮮の倍に及ぶ人民が、金日成王朝の下で呻吟することになっただろう。そのような国と海峡で対峙することはわが国にとっても脅威となったことだろう。

 1991年の湾岸戦争は、前年にイラクがクウェートに侵攻し、国連の撤退勧告を拒否したため行われた。
 これも、クウェート1国がイラクに併合されても、米国をはじめとする多国籍軍に参加した国々の多くが直接害をこうむるわけではなかった。だから、各国は自国の「平和」を優先して戦争に加わるべきではなかったのだろうか。
 しかし、イラクがやったのは、世界秩序の現状を武力により変更することだった。これを容認すれば、イラクがさらに周辺の産油国に手を伸ばしたり、イスラエルやエジプトを攻撃することも考えられた。そのようにこの地域が不安定化することは、多国籍軍に参加した国々にとっても不利益だったろう。また、イラク以外の国が同様の行為に及ぶのを防ぐ意味もあったろう。

 「平和のために戦いに行く」ことを否定するのは、侵略国のやりたい放題を容認するということではないのか。
 自国が「平和」でありさえすればそれでいいのだろうか。

 そんなことを思いながら記事のページをめくってみると、こうあった(太字は原文ではゴシック体)。

 「へいわってすてきだね」。日本のいちばん西にある、沖縄県与那国島。そこの当時6歳だった少年が書いた詩が、絵本になった。昨年6月23日、糸満市であった沖縄戦の全戦没者を悼む式典で、本人が読み上げた。素直な言葉が、大人たちを動かした。

〔中略〕

 絵をつけたのは、人気絵本作家の長谷川義史さん(53)=大阪市北区。丸めがねに柔らかな関西弁。テーマは一貫して「生まれてきて、生きているだけでありがたい」。ダイナミック、そしてユーモアたっぷりに描き上げる。「今、やらなきゃ」。詩を読んですぐ、覚悟を決めた。

〔中略〕

 やさしいこころがにじになる。へいわっていいね。へいわってうれしいね。みんなのこころから、へいわがうまれるんだね。

 長谷川さんは言う。「平和のために戦いに行くなんて、そんなことから平和は生まれへんねん。優しい心からじゃなきゃ。それを安里君が教えてくれている」


 「平和のために戦いに行くなんて、そんなことから平和は生まれへんねん」はこの少年の詩ではなく、絵本作家・長谷川義史氏によるものだった。
 まぎらわしいことをしてくれるものだ。

 断っておくが、長谷川氏は現代における優れた絵本作家だと私は思っている。
 その上で言うが、しかしこの言葉はいただけない。
 「平和のために戦いに行く」ことが平和を生むことは、上で述べたように多々あるのではないか。
 仮に私が独裁国家の占領下で呻吟しているとしたら、「優しい心から」だろうがなかろうが関係ない、「平和のために戦いに」来てほしいと乞い願うことだろう。

 記事には「デジタル版に詩の全文」とあったので、こちらも確認してみた。

 そして、ぎょっとした。

せんそうは、おそろしい。

「ドドーン、ドカーン」

ばくだんがおちてくるこわいおと。

おなかがすいて、くるしむこども。

かぞくがしんでしまってなくひとたち。

 

ああ、ぼくは、へいわなときにうまれてよかったよ。

このへいわが、ずっとつづいてほしい。

みんなのえがおが、ずっとつづいてほしい。


 6歳の戦争観などはこんなものだろうし、戦争が何故起こるのかも理解できないだろう。
 しかし、戦争でなくても、
「おなかがすいて、くるし」んだり、
「かぞくがしんでしまってなく」
ことが有り得ることは、知っておいてほしい。
 そして、戦争が、そうした状態から人々を解放することがあることも。

へいわなかぞく、

へいわながっこう、

へいわなよなぐにじま、

へいわなおきなわ、

へいわなせかい、

へいわってすてきだね。

 

これからも、ずっとへいわがつづくように

ぼくも、ぼくのできることからがんばるよ。


 どうやら、幼き平和運動家の誕生をうたった詩だったらしい。
 この詩は、或る種の英才教育のたまものだったのだろうか。

 「へいわなかぞく」「へいわながっこう」「へいわなよなぐにじま」と、身の回りからだんだん広がって、「へいわなおきなわ」と来て、何故一足飛びに「へいわなせかい」となるのだろうか。
 「へいわなにほん」はこの子の頭にはないのだろうか。
 この子に「へいわ」や「せんそう」を教えた者は、きっと「にほん」のことは教えなかったのだろう。

 「ぼくのできることからがんばる」とは、具体的に何をどう頑張るのだろうか。
 「せんそー、はんたーい」と叫ぶことか。
 しかし、或る種の人々を敵視し、攻撃することが「やさしいこころ」「みんなのえがお」を保つことになるのだろうか。

コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

麻生太郎副総理兼財務相の「ナチスの手口に学べ」発言について

2013-08-01 00:03:18 | 現代日本政治
 7月30日にYOMIURI ONLINEが次のように報じたのを読んで、ンン??と思った。

ナチスの手口学んだら…憲法改正で麻生氏講演

 麻生副総理は29日、都内で開かれた講演会で憲法改正について、「狂騒、狂乱の中で決めてほしくない。落ち着いた世論の上に成し遂げるべきものだ」と述べた。

 その上で、ドイツでかつて、最も民主的と言われたワイマール憲法下でヒトラー政権が誕生したことを挙げ、「ワイマール憲法もいつの間にかナチス憲法に変わっていた。あの手口を学んだらどうか。(国民が)騒がないで、納得して変わっている。喧騒けんそうの中で決めないでほしい」と語った。


 「落ち着いた世論の上に成し遂げるべき」なのはそのとおりだろうが、何故ナチス?
 そもそもナチス憲法って何だ? そんなのあったか? いや、ナチスは独自の憲法を制定してはいない。
 ナチス政権の下でもワイマール憲法は存続したが、全権委任法の成立によって事実上無効化したのではなかったか?
 そして、ナチスは議会の過半数を占めてはいなかったから、国会議事堂放火事件を機に暴力を用いて反対派議員を取り締まり(共産党は非合法化された)、あるいは圧力をかけて全権委任法に賛成させたのではなかったか? 決して国民が「納得して変わっ」たのではない。

 東京新聞のサイトが31日に報じた発言要旨は、次のようになっている。

 麻生太郎副総理兼財務相の二十九日の講演における発言要旨は次の通り。

 日本が今置かれている国際情勢は、憲法ができたころとはまったく違う。護憲と叫んで平和がくると思ったら大間違いだ。改憲の目的は国家の安定と安寧だ。改憲は単なる手段だ。騒々しい中で決めてほしくない。落ち着いて、われわれを取り巻く環境は何なのか、状況をよく見た世論の上に憲法改正は成し遂げられるべきだ。そうしないと間違ったものになりかねない。

 ドイツのヒトラーは、ワイマール憲法という当時ヨーロッパで最も進んだ憲法(の下)で出てきた。憲法が良くてもそういったことはありうる。

 憲法の話を狂騒の中でやってほしくない。靖国神社の話にしても静かに参拝すべきだ。国のために命を投げ出してくれた人に敬意と感謝の念を払わない方がおかしい。静かにお参りすればいい。何も戦争に負けた日だけに行くことはない。

 「静かにやろうや」ということで、ワイマール憲法はいつの間にか変わっていた。誰も気がつかない間に変わった。あの手口を学んだらどうか。僕は民主主義を否定するつもりもまったくない。しかし、けん騒の中で決めないでほしい。


 ここには「ナチス憲法」という言葉はない。
 読売記者が発言を要約した中での造語かもしれない。

 なお、同じ講演を取り上げたと思われる朝日新聞デジタルの29日付の記事は、

「護憲と叫べば平和が来るなんて大間違い」麻生副総理

■麻生太郎副総理

 日本の置かれている国際情勢は(現行憲法ができたころと)まったく違う。護憲、護憲と叫んでいれば平和がくると思うのは大間違いだし、仮に改憲できたとしても、それで世の中すべて円満になるというのも全然違う。改憲の目的は国家の安全や国家の安寧。改憲は単なる手段なのです。狂騒・狂乱の騒々しい中で決めてほしくない。落ち着いて、我々を取り巻く環境は何なのか、状況をよく見た世論の上に憲法改正は成し遂げるべきなんです。そうしないと間違ったものになりかねない。(東京都内で開かれたシンポジウムで)


と、「ナチス」の語には触れていない。この講演を主催した国家基本問題研究所のホームページに掲載されている産経新聞の記事にも、「ナチス」の語はない。
 重要な箇所とは見なされなかったからだろう。

「護憲と叫んで平和がくると思ったら大間違い」
 全くそのとおり。改憲と叫んだら戦争が来ると思うのも大間違い。
「改憲の目的は国家の安定と安寧」
 これもそうだろう。何も明治憲法や軍国主義に戻そうとしているのではない。
 麻生の講演の趣旨は、改憲が明治憲法への復古や軍国主義への回帰であるかのような、実態からかけ離れた感情的で大げさな反対論を唱えるのではなく、冷静に議論されるべきだということだろう。それに異論はない。

 ワイマール憲法の下でヒトラーが出てきたという点は私も以前の記事で少し指摘した(コメント欄でさらに補足)。憲法がいかに優れていてもそれだけでは独裁者の登場を防ぐことはできない。

 だが、そうした麻生の講演の文脈の中で、

「静かにやろうや」ということで、ワイマール憲法はいつの間にか変わっていた。誰も気がつかない間に変わった。あの手口を学んだらどうか。


などという発言が何故出てくるのか、まるで理解できない。
 ヒトラーの登場を否定的にとらえながら、何故「あの手口を学んだら」となるのか。
 反対派を暴力的に排除した上での「静か」な変化を望んでいるのかと誤解されかねない。

 思うに、麻生はナチスの独裁確立やワイマール憲法の末路について、あまりよく理解していないか、誤って理解しているのではないか。
 麻生の舌禍は今に始まったことではないが、重要な立場にある方は、どんな場であれ、よく知らないことは不用意に語らない方がよい。
 既に韓国メディアは批判している。欧米に波及する前に、速やかに取り消すべきではないだろうか。
 わが国の副総理兼財務相がネオナチだったなどと報じられても、いいことは何一つない。


(関連拙記事)
ナチスはいかにして権力を獲得したか――麻生発言に思う(2)

歪曲しているのはどちらか――櫻井よしこの麻生発言評と朝日批判を読んで
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

菅直人の処分をめぐる民主党内の動きについて

2013-07-26 00:53:22 | 現代日本政治
 うわっみっともねえ。
 反射的にそう思った。

菅氏が離党勧告を拒否 民主・海江田代表と会談

 民主党の海江田万里代表は24日午前、東京都内のホテルで菅直人元首相と会談し、離党を勧告した。参院選東京選挙区で党公認候補ではなく無所属候補を応援したことが理由だが、菅氏は拒否した。海江田氏は除籍(除名)処分も辞さない構えだ。

 海江田氏は24日午後の常任幹事会で菅氏の処分を協議するとともに、自らの続投に理解を求める方針。さらに尖閣諸島をめぐり「中国側からみれば盗んだと思われても仕方ない」と発言した鳩山由紀夫元首相についても除名処分にする意向だ。常任幹事会の冒頭、海江田氏は「菅氏と鳩山氏の言動について、参院選に与えた影響があることを踏まえ、厳しく対処すべきであるという多くの意見をいただいた」と指摘。鳩山氏については「遺憾の意を表し、厳重に抗議したい」と述べた。

〔後略 〕


 選挙で党公認候補ではなく無所属候補を応援するのが反党行為であることは言うまでもないだろう。
 しかも、その選挙区は首都東京であり、そして結果的に両候補とも落選したのだから、菅の責任が著しく重いことは明らかだ。元党代表だろうが元首相だろうが関係ない。むしろそうであったが故にさらにその責任は重い。

 離党ぐらい覚悟の上での行動かと思っていたが、全くそんな気はないらしい。

 私は以前、菅が自身の内閣不信任案を否決させたことを評価し、後から彼を「ペテン師」呼ばわりした鳩山由紀夫を批判した。
 それは、東日本大震災からまだ間もない時期の、民主党の党内事情に自民・公明が乗じただけのあのような内閣不信任案に、何の正統性もないと考えていたからだ。
 しかし、今回の選挙での反党行為は、それとは次元が全く違う。
 反党行為は離党した上で大いにやればよいと思うが、彼はそのような「筋を通す」といった美意識とは無縁であるらしい。

 大敗による引責辞任を表明した細野豪志幹事長は、選挙期間中にこんなことを言っていたんだな。最近初めて知った。

政権を獲得した後の民主党は皆さんから厳しい批判をいただき、反省しなければならない状況になった。もう一度、我々は民主党を作り直さなければならない。もう時代は変えていかなければならない。鳩山(由紀夫)さん、菅(直人)さんに頼る民主党、これではもうだめだ。50代、40代の世代が海江田(万里)代表を支えて、先頭に立って頑張っていかないとならない。単に反対するだけでなく、反対するなら政策を提案できるような力をつけなければならない。政策ができる若手議員が必要だ。(大阪府寝屋川市内での街頭演説で)


 そして、23日の記者会見ではこう述べたという。

Q 8月末まで残した仕事をやりたいということだが、そのなかには菅元代表の処分等も含まれるのか。それは今後の党再生にどうつながるのか。

A 含まれる。菅元総理についても鳩山元総理についても、両代表であり、私も世話になった。私が初当選したときは鳩山元代表であり、菅元代表には総理時代も含めて仕えてきたので、いろんな思いはある。ただ、民主党の再生というのは、この二人を乗り越えて行かない限りない。ある種、民主党はスタートの段階でこの二人に頼ってスタートせざるを得なかったが、この二人を越えることなく政権にたとりついたということだ。そしてこういう状況になってしまっているということだ。ですから、この二人を私のようなものが処分するというのは非常につらいし、いろんな思いはあるが、乗り越えて行かざるを得ない。それはやると決めた以上、やりきらなければならないと思う。


 確かに、それぐらいやらないと、民主党にはもう未来はないだろう。

 と思っていたら、24日の常任幹事会では、菅の処分について決定できなかったのだという。
 朝日新聞デジタルの記事より。

海江田民主、決めきれない… 離党勧告を菅氏拒否

 民主党の海江田万里代表は24日、菅直人元首相と会談し、参院選東京選挙区で党公認を取り消した無所属候補を応援したとして、離党勧告した。菅氏は拒否し、党執行部はその後の常任幹事会で除籍(除名)する案を提示。だが、異論が相次ぎ、再協議することになった。海江田氏が処分を断念すれば一気に求心力を失う可能性が出てきた。

■除籍案にも異論続出

 「身を引いていただけないだろうか」。海江田代表は24日、東京都内のホテルで菅元首相に切り出した。だが、菅氏は「そんなつもりはない」と一蹴した。

 党執行部はその後の常任幹事会で菅氏を除名するとした紙を配布。冒頭、海江田氏は「菅元代表と鳩山由紀夫元代表の言動について参院選に影響があることを踏まえ、厳しく対処すべきであるという多くの意見をいただいた」と説明した。菅氏は「党の足並みを乱す状況が全国に伝わってみんなが苦労した。迷惑をかけて申し訳なかった」と謝罪しつつも、「党の方針と違うことは言っていない」と訴えた。

 菅グループの江田五月元参院議長は「首相まで務めた人を東京だけのことで除名するのはいかがか」と主張。長島昭久衆院議員は「代表が離党を勧めたのだから、アクションを起こしてください」と迫ったが、菅氏は「自分から辞める気はない。離党するつもりもない」と突っぱねた。

 常任幹事会は2時間半に及んだが結論は出ず、執行部は配布した紙を回収。週内にも常任幹事会を開き、再協議することになった。


 何やってんだか。

 一方、尖閣諸島(沖縄県石垣市)問題で「中国側からみれば盗んだと思われても仕方ない」と発言した鳩山元首相の処分については、厳重に抗議することを決めた。海江田氏は鳩山氏を離党前にさかのぼって除名することを検討したが、断念した。鳩山氏はこの日、海江田氏に「歴史的な事実に基づいて発言している。歴史を敵に回さない方が良い」と説明する手紙を届けたという。


 歴史的な事実……?

 海江田氏としては、離党した小沢一郎・生活の党代表に加え、党創設者の菅、鳩山両氏を処分することで、世代交代とともに党刷新をアピールする狙いがある。だが、菅氏への厳しい処分を見送れば、代表としての海江田氏の指導力に疑問符がつくのは必至だ。


 海江田だって、議員としてのキャリアは確かに小沢、菅、鳩山に劣るが、旧民主党の結成以来のメンバーなんだし、年齢も64歳と菅や鳩山の66歳とさほど変わらない。世代交代とは言い難いのではないか。

 常任幹事会後、出席者の1人は「今日、決められなかったのは海江田氏には相当なダメージ。党のガバナンスより、党内融和を優先したと国民にみられる。もう死に体だ」と話した。


 もっともだと思う。

 記事によると、常任幹事会では次のような発言があったという。

 海江田代表 菅直人、鳩山由紀夫両元代表に厳しく対処すべきだとの多くの意見を頂いた。

 細野豪志幹事長 菅氏には「あまり目立つようなことはしないでほしい」と注意していた。

 菅元首相 原発政策をめぐり、党の方針と違うことは言っていない。結果として迷惑をかけたことは謝る。自分から辞めるつもりはない。

 小川敏夫氏 常任幹事会の決定を幹事長の一存で一本化に変えるのはおかしい。

 増子輝彦氏 党の創設者に敬意を払うべきだ。

 岡田克也氏 菅氏は処分すべきだが、除籍は重すぎる。鳩山氏は今後も(問題)発言を繰り返しかねない。「今後、鳩山氏の発言は党とは一切関係ない」と(処分案に)付け加えてほしい。


 離党した鳩山の発言がもはや民主党と無関係なのは明らかではないのだろうか。
 この岡田の鳩山と菅への対応の差は興味深い。

 江田五月氏 菅氏に排除の論理を働かせるのは、政党として未熟だ。鳩山氏を処分したとなると、日中関係を損ねる。

 長島昭久氏 そういうことを言うから日中関係が改善されない。菅氏は自分でアクションを起こしてほしい。


 江田の言う「排除の論理」の元祖は旧民主党だ。旧民主党は、さきがけや社民党(旧社会党)の党まるごとでの合流を拒否し、鳩山や菅に賛同する個人が参加するというかたちをとり、さきがけの武村正義代表や社民党の村山富市委員長ら旧世代を排除した。
 「排除の論理」が未熟なら、旧民主党もまた未熟だったということになる。しかし、「排除の論理」があったからこそ、旧民主党は一定の支持を確保し、やがて他勢力を糾合した現民主党となって野党第1党となり、ついには政権を獲得し、江田も参議院議長のポストを得たのではなかったか。
 いままた、再び「排除の論理」が必要な時期が来ているのではないか。

 鳩山を処分することが日中関係を損ねるという発想も理解できない。むしろ鳩山の言動こそが日中関係を損ねるものではないか。

 荒井聰氏 自民党は(分裂選挙を)しょっちゅうやっている。


 たしかに自民党でも分裂選挙はあった。しかし、元首相や元総裁がそれに加わって党勢を損ねたなどということがあっただろうか。

 柳沢光美氏 代表まで務めた人物が選挙に甚大な影響を与えた。責任は重大だ。

 小川淳也氏 海江田氏は参院選敗北の責任をとって辞めるべきだ。代表選をやるべきだ。


 いや、いま代表選をやったところで、果たして誰が立候補するだろうか。
 むしろ、代表は海江田のまま、「排除の論理」による政界再編を進めた方がよいのではないか。

 細野幹事長は、上記の記者会見でこうも述べている。

Q 幹事長の立場をこれから離れることになるが、民主党は解党的な出直しが必要ということだが、離れたうえでどのように寄与していきたいとお考えか。あるいは再編ということも言われているが、そのなかでどういう役割を果たして行きたいと考えるか?

A まず政策的な部分でさらにしっかりとつきつめて行かなければならないところがある。たとえばひとつは経済政策。雇用を増やすということで(民主党政権は)一定の成果があったとは思うが、安倍政権の経済政策に対するひとつの対抗軸になりうるところまでは現在政策ができているかというと十分ではない。ですから民主党が考える経済政策とは何なのか、経済を成長させることが社会保障の充実にも直結するし、若い人たちのチャンスが広がることにもつながるので、その辺りの課題を提示するという取り組みがひとつあると思う。

 あとはこれまで民主党が伝統的に守ってきた政策のなかで変更を迫られるものがあると思う。そのひとつが外国人の地方参政権の問題だと思っているのだが、このあたりについてはもう一度政権をわれわれが目指すときには一定の現実的な変更をしたうえで、再チャレンジすることになるので、さまざまな私なりにいろんなネットワークも使いながら貢献できればと思っている。

 また、自民党が圧倒的な多数を占めるなかで国会・政治がスタートするわけだが、小さくなった野党のなかでどう連携していくかは真剣に考えなければならないと思う。みんなの党や維新を見ていても、皆さんの微妙な立ち位置の違い、そのなかで私どもの考え方と接点のある人たちが見えてきている。もちろん党同士の協力関係を国会でしていくべきだと思うが、個人的に方向性が合っていく人については、いろんな積極的な交流が必要ではないかと思う。これまでは幹事長という立場だったので、その立場で接点を設けてきたが、少し自由に動けるようになると思うので、そこで貢献できれば民主党の今後にプラスになるかと思っている。


 こうした動きに期待したい。

 今は、せっかく「ねじれ国会」が解消されたのだし、しばらく安倍政権の手腕を見守るべきだろう。
 しかし、いずれは自民党がみたび下野する時が来る。それに備えた受け皿はやはり必要である。「確かな野党」などではなく、まともな野党、政権担当能力を備えた野党が。
 民主党政権での経験はその一助となるだろう。
 
コメント (7)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

児童ポルノ規制法改正反対論に思う――そういう問題か?

2013-05-31 22:09:01 | 現代日本政治
 5月29日、自民、公明、日本維新の会の3党が児童ポルノ規制法改正案を衆院に共同提出したと報じられた。

 この件については、少し前に改正反対論の記事をBLOGOSで読んで、ちょっと思うところがあった。


1.定義があいまいという批判について

 山口浩・駒澤大学准教授の記事「嫌いな表現を守るということ」(2013年05月24日)より。

もともと現行法は、規制の対象となる「児童ポルノ」の定義自体に問題があるとかねてより指摘されていた。特に法第2条第3項第3号に規定されるいわゆる「3号ポルノ」は、「衣服の全部又は一部を着けない児童の姿態であって性欲を興奮させ又は刺激するもの」というきわめて曖昧な定義となっている。自分の子どもや自分自身の写真も場合によっては児童ポルノとされかねないという意味で多くの人々を法的に不安定な状態にさらすだけでなく、いわゆる着エロ(着衣状態だが「性欲を興奮させ又は刺激する」とされる写真等)が対象となりにくいため、子どもの保護という観点でも不十分だ。

本来、子どもの権利保護は、この法律が第一に重視すべき目的であるはずだ。にもかかわらず、保護強化に直接関係する上記部分を放置して持ち出されているのが、単純所持禁止である。これまでは児童ポルノを作ったり販売・提供したりした者に規制範囲を限っていたから目立たなかったあいまいな定義の弊害が、実際に改正されれば多くの人々(女性も老人も子どもももちろん例外ではない)を脅威にさらすこととなる。この法案を作った人たちが、子どもの保護とは異なる意図をもっているのではないかと疑いたくなる。


 3号ポルノの規定は確かにあいまいである。
 しかし、法律における定義があいまいであることは往々にしてある。
 特に、この種の規制対象の定義を厳密に定めてしまっては、それを逆手にとって、その厳密な点だけをクリアした規制逃れがまかりとおりかねない。
 こうしたものは、ある程度あいまいにしておくべきなのだ。

 刑法にはわいせつ物頒布罪があるが、条文には

(わいせつ物頒布等)
第百七十五条  わいせつな文書、図画、電磁的記録に係る記録媒体その他の物を頒布し、又は公然と陳列した者は、二年以下の懲役若しくは二百五十万円以下の罰金若しくは科料に処し、又は懲役及び罰金を併科する。電気通信の送信によりわいせつな電磁的記録その他の記録を頒布した者も、同様とする。
2  有償で頒布する目的で、前項の物を所持し、又は同項の電磁的記録を保管した者も、同項と同様とする。


とあるだけで、「わいせつ」の定義はどこにもない。
 判例では、「わいせつ」とは「徒に性欲を興奮又は刺激せしめ且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し善良な性的道義観念に反する」ものを言うとされているが、これまたあいまいなものだ。
 実際のところは、警察、検察、裁判所の判断に委ねられている。そしてそれは、個々の事例によっても、社会の推移によっても変わっていくものだから、こうしたあいまいな規定が維持されているのだろう。
 児童ポルノについても、同様でいいのではないか。


2.非実在児童は被害を受けていないという主張について

 みんなの党の山田太郎参議院議員の記事「表現の自由を大幅に規制する法案に反対」(2013年04月26日)より。

自由な創作活動の自主規制による制限

 現行の法律は「実際にいる児童」のポルノに制限をかけています。逆に言うと実際にいない「架空の児童(マンガなど)」に対しては制限をかけていません。今回の改正案では将来的に「架空の児童」に対しても制限をかける可能性を持たせています。

 本来の法律の趣旨は実在する児童を保護するためです。しかし、この改正ではだれを保護するのでしょうか。マンガの中の児童は実際にいないので、被害は受けていませんし、もちろん保護することもできません。それどころか、マンガ自体の衰退を促進すると考えています。実際に韓国では、同様の話でマンガ文化の衰退が著しい状態にあります。


 先の山口准教授の記事も、同じようなことを述べている。

この条項で取り上げているマンガやアニメ等は作者による創作物であって、その制作にあたって子どもの性的搾取も性的虐待も行われていない。市場で売られても権利を侵害される子どもは存在しない。

子どもの保護と無関係なマンガ等の規制(の可能性)が持ちだされていることを、先の着エロの問題と重ねて考えてみると想像がつく。この法律案を作った人たちの関心は、子どもの保護そのものよりも、表現行為の規制にあるということだろう。


 何だか、非実在なのだから何をどう描こうが自由じゃないかと言われているようで、ちょっと恐ろしい。

 もちろん法の趣旨は実在する児童を保護するというものだろう。しかし、そのために、児童を性の対象とする風潮それ自体を抑制しようという方向で、マンガやアニメの規制も検討されていることぐらい、少し考えればわかりそうなものだ。
 山口准教授は、

その「意図」がよりはっきりと見えるのが附則だ。ここには、子どもの保護とは無関係な、マンガ等の表現物への規制につながる内容が含まれている。


と述べているが、何故「子どもの保護とは無関係」とあっさり切り捨てられるのか理解しがたい。

 また、山口准教授は、着エロを規制しないままマンガやアニメの規制に向かうのは問題があるかのように述べているが、では着エロを具体的にどう規制せよというのか。
 「衣服の全部を着けた児童の姿態であって性欲を興奮させ又は刺激するもの」を追加せよとでも言うのか。さらにあいまいさが増すばかりではないか。
 それでいて単純所持禁止を「多くの人々」「を脅威にさらす」と批判するのだから、何を言っているのか理解できない。


3.およそ有り得ない事例を挙げて反対する手法について

 山田議員の記事より。

 例えばしずかちゃんのお風呂のシーンについて考えてみましょう。現実的にはしずかちゃんのお風呂のシーンは法律による規制の対象にはならないと言われています。しかしながら、どこまでならば今回の規制の対象となるかについて明示されていません。つまりグレーゾーンが幅広い範囲で存在すると言うことになります。

 グレーゾーンの恐いところは、自主規制を生むと言うことです。もう少し過激なマンガを発表することで懲役刑になる可能性があれば誰もそんな絵は書かなくなります。そしてやがては、しずかちゃんのお風呂シーンを書くことですら恐くなって書けなくなってしまうのです。

 そして、しずかちゃんの絵を児童ポルノだと判断し、作者を逮捕するのは基本的には警察や検察になります。いつ逮捕されるのか分からない状態で、しかもその基準がきわめて曖昧なままでは、自由な創作活動を続けていくことは難しいということが分かって頂けますでしょうか。


 山田議員は、別の記事「児童ポルノ規制法について、安倍総理と麻生副総理に迫りました!」(2013年05月10日)でも、参議院における次のような問答を紹介している。

○山田太郎君
 麻生副総理なら理解していただけるかなと思って、今回麻生総理を指名させていただきました。表現の自由ということで憲法にもかかわる問題ですので、この件、安倍総理にもお伺いしたいと思いますが。
 
実は、この自主規制、一九九九年十月時点でもうかなり自主規制がありまして、文化庁メディア芸術賞で大賞を取りました複数の漫画すら、この児童ポルノ法が通ったときに、紀伊国屋の書店五十七店舗、それから大阪の旭屋書店、そんなところからもうなくなってしまったという事態を生み出しました。実は、水島新司先生の野球漫画「ドカベン」、つまり、私と同じ名前の山田太郎という人が主人公の漫画なんですけれども、その中でも八歳以下のサチ子という妹が入浴シーンで出てきておりまして、こんな本なんかも発禁本になる可能性もあると。そんなことが自主規制、あるいはまかり通りますと、私としてもちょっとこれはゆゆしき事態だなと、こんなふうに思っています。隣の国、韓国におきましても、やっぱり同種の規制を行ったために自主規制を始めて漫画やアニメが大きな影響を受けていると、こういうふうに聞いています。


 しかし、いったい誰がしずかちゃんやサチ子の入浴シーンを児童ポルノとして規制すべきだと主張しているというのか。

 改正反対論の中には、家族の水着写真を持っていても逮捕だとか、メールで画像ファイルを送りつけられだけでも逮捕だとか、およそ有り得ない主張を平然と述べる者もいるが、全く説得力を覚えない。

 山口准教授は、「この件についてメディアの扱いは総じて小さく、あまり関心を持たれていないようだ。」と述べている。私の印象もそのとおりで、私が購読している朝日新聞は、紙面上では法案の3党共同提出を報じていない。
 ネット上のニュースでは見かけたほか、これに対するマンガ家や出版社側の反対論も報じられていたが、それほど重大視されていないように見える。
 それは、こうした極端な反対論が妥当でないことを国民の多くが理解しているからだろう。


4.表現の自由は絶対か?

 山田議員の記事「表現の自由を大幅に規制する法案に反対」より。

 もちろん、マンガなどであったとしても児童に対する性的表現に嫌悪感を抱く方はいると思います。ただし、現行の法律でもわいせつなマンガは取り締まられていますし、これ以上の過度な表現の規制は必要ないと考えています。
 
 そして、嫌いだから制限すると言うのであれば『納豆が嫌いだから、納豆を禁止する』という考え方と何ら違いが無いのです。私も納豆は苦手ですが、これを禁止すべきとは考えていません。食べなければいいだけです。同様に、殺人事件のあるサスペンスドラマやコナンなどのマンガも規制する話と全く同様だと理解して頂きたいのです。


 山口准教授の記事より。

「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」という有名なことばがある(18世紀フランスの哲学者ヴォルテールのことばとよくいわれるが実際にはちがうらしい)が、私たちはもう一度、民主主義の原点に立ち返るべきだ。表現の自由とは、自分がよいと思う表現だけ保護すればいいというような考え方ではない。人間の考え方は多様であり、その多様性こそが民主主義の価値を担保する。自らにとって都合の悪い表現、自分が嫌いな表現の存在を認めて初めて表現の自由と呼べるのだ。


 「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」
 これには私も全く異論はない。
 しかし、児童ポルノは「意見」ではない。
 そして、表現の自由はいついかなる場所でも全面的に認められなければならないというものでもまたないだろう。

 山田議員や山口准教授は、例えばわいせつ物頒布罪や公然わいせつ罪についてはどう考えるのか。
 民主主義を担保する多様性を認めるべしとして、罪とすべきではないと考えるのか。

 あるいは、昨今問題になったヘイトスピーチはどうか。先進国では法規制が当然とも言われている。

 山口准教授も少し触れているように、児童ポルノの規制は国際的動向に基づくものである。G8ではロシアとわが国を除く6か国が単純所持を禁止しているという。マンガやアニメを既に規制している国もある。
 表現の自由の保障は絶対的なものではない。
 これは結局のところ、どこで線を引くのかという問題にすぎない。

 山口准教授は、記事の最後でマルティン・ニーメラーの詩「彼らが最初共産主義者を攻撃したとき」を引用している。
 「自民党がナチスだと言いたいわけではもちろんない」と断ってはいるが、これはしかし、少しでも表現規制を認めていけば、やがてはナチスが支配したような社会になるぞという警告だろう。
 しかし、こんにちでもある程度の表現規制は存在するのだから、こんなものはただのアジテーションでしかない。
 山口准教授は、

児童ポルノ禁止法改正に反対というと、すぐに「お前は子どもを守りたくないのか」とか「エロ教授め」みたいなことをいう人が出てくるわけだが、もちろんそういう話ではない。そういうレッテル貼りこそが最も危険な発想だ。


とも述べている(本当にそんなことを言う人がいるのだろうか)が、これもまた逆の立場からのレッテル貼りでしかない。

 レッテル貼りでない、具体的な線引きの議論がなされることを望む。

コメント (52)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

米政府、橋下発言を非難と伝える朝日の報道を読んで

2013-05-18 00:09:21 | 現代日本政治
 17日の朝日新聞朝刊の1面左には

風俗発言は「不適切」 橋下氏、撤回は否定


との見出しの記事が載った。
 その下にはこんな記事が。

一連の発言「言語道断で侮辱的」
米政府、橋下氏を非難

 米政府当局者は16日、戦時中の旧日本軍慰安婦を「必要だった」などとした日本維新の会共同代表の橋下徹大阪市長による一連の発言について、「発言は言語道断で侮辱的なものだ」などと厳しく非難するコメントを朝日新聞に寄せた。

 米政府の公式な立場を示したものとみられ、米当局者が同盟国である日本の政治家に対し、こうした態度を示すのは極めて異例だ。

 さらに、この当局者は従軍慰安婦について、「戦時中、性的な目的のために連れて行かれた女性たちに起きたことは、嘆かわしく、明らかに深刻な人権侵害で、重大な問題だ」との考えを示し、従来の米政府の立場を改めて強調した。

 橋下氏は6月に訪米を予定しているが、当局者は「橋下氏のこうした発言を踏まえると、面会したいと思う人がいるかはわからない」とも述べ、要人と会談はできないとの認識を示した。

 今回、当局者がこれまでにない厳しい言葉で非難したことは、橋下市長の発言の推移を見極めたうえで、なお米政府がいら立っていることのあらわれとみられる。

 橋下氏は13日、記者団に「銃弾が雨嵐のごとく飛び交う中で、命をかけて走っていくときに、どこかで休息をさせてあげようと思ったら慰安婦制度は必要なのは誰だって分かる」と発言。米軍の司令官と沖縄で面会した際、「もっと風俗業を活用してほしい」と言ったことも明らかにした。


 さらに、「デジタル版に米政府当局者のコメントの原文と日本語訳」と付記されていたので、デジタル版も見てみた。

橋下氏発言を非難する米政府当局者のコメント(全文)

 米政府当局者のコメントの原文と日本語訳は以下の通り。

〔原文略〕

 橋下市長の発言は、言語道断で侮辱的なものだ。米国が以前に述べている通り、戦時中、性的な目的で連れて行かれた女性たちに起きたことは、嘆かわしく、明らかに深刻な人権侵害で、重大な問題だ。橋下市長は米国訪問を計画しているそうだが、こうした発言を踏まえると、面会したいと思う人がいるかどうかはわからない。


 ほぼ紙面で述べられているとおりの、ごく短いものだった。
 詐欺か。

 米国様が「いら立って」おられるぞーって、どんな事大主義者だ。

 このコメントには「戦時中、性的な目的で連れて行かれた女性たちに起きたことは、嘆かわしく、明らかに深刻な人権侵害で、重大な問題だ。」とあるが、前回の拙記事でも述べたように、橋下も当初から

僕は、従軍慰安婦問題だってね、慰安婦の方に対しては優しい言葉をしっかりかけなきゃいけないし、優しい気持ちで接しなければいけない。意に反してそういう職業に就いたということであれば、そのことについては配慮しなければいけませんが。

〔中略〕

慰安婦制度が無かったとはいいませんし、軍が管理していたことも間違いないです。

〔中略〕

意に反して慰安婦になってしまった方はね、それは戦争の悲劇の結果でもあるわけで、戦争についての責任はね、我が日本国にもあるわけですから。そのことに関しては、心情をしっかりと理解して、優しく配慮していくことが必要だと思います(SYNODOSによる書き起こし


と述べており、深刻な人権侵害でないとも、重大な問題でないともしていないし、慰安婦制度がなかったと主張しているわけでもないので、全く話が噛み合っていない。
 この当局者が、橋下の発言それ自体ではなく、報道に載せられた片言隻句だけに基づいてコメントしていることがよくわかる。

 それにしても、氏名も地位も明らかにできない「米政府当局者」のコメントが「米政府の公式な立場を示した」ものだと断言するとは不思議だなあと思っていたら、同日の朝日夕刊にやや小さくこんな記事が載った。

米、橋下氏発言を非難

 米国務省のサキ報道官は16日の記者会見で、戦時中の旧日本軍の慰安婦について「必要だった」などとした日本維新の会共同代表の橋下徹大阪市長について、「発言は言語道断で侮辱的だ」と述べ、オバマ政権として橋下氏の発言を強く非難する立場を正式に表明した。

 米政府が記者会見で、日本の政治家の発言にこうした表現を使うのは極めて異例だ。サキ氏は「戦時中に性的な目的で連れて行かれた女性たちに起きたことは嘆かわしく、重大な人権侵害だ。被害者には心からの同情を改めて示す」と述べた。また、国務省高官は「全員が彼のコメントに立腹している」と述べ、ケリー国務長官を含めた国務省全体の見解であることを強調した。(ワシントン=大島隆)


 このサキ報道官の発言内容は、朝刊の「米政府当局者」によるコメントとほぼ同じであるから、サキ自身か、あるいは彼女に近い国務省職員が、朝日に事前にコメントを寄せたのだろう。
 朝日が「米政府の公式な立場を示したもの」と自信たっぷりに述べていたのもうなずける。

 今回の件でわかったことがある。
 サキ報道官の記者会見に先んじて「米政府当局者」によるコメントを報じていたのは、私の見たところ朝日新聞だけのようである。
 つまり、朝日新聞は、米国務省報道官の記者会見に先行して、その内容を知り得る立場にあるということである。
 そして、それを報じ得る立場にもあるということである。
 これもまた、一種の「対米追従」ではないのか。

 朝日はしばしば中韓朝の歴史認識に基づいて、わが国の政府や政治家の諸発言を批判してきたが、第二次世界大戦期に限れば、米国のスピーカーとしての役割も厭わないらしい。

 いや、70年近く前の占領期のプレスコードに未だ囚われ続けているというべきか。

当時の世界の状況としては、軍がそういう制度を持っていたのも厳然たる事実です。だってそれはね、朝鮮戦争の時だって、ベトナム戦争だってそういう制度はあったんですから、第二次世界大戦後。

でもなぜ日本のいわゆる従軍慰安婦問題だけが世界的に取り上げられるかというと、日本は軍を使ってね、国家としてレイプをやっていたんだというところがね、ものすごい批判をうけているわけです。

僕はね、その点については、違うところは違うと言っていかなければならないと思いますね。

〔中略〕

それから戦争責任の問題だって敗戦国だから、やっぱり負けたということで受け止めなきゃいけないことはいっぱいありますけど、その当時ね、世界の状況を見てみれば、アメリカだって欧米各国だって、植民地政策をやっていたんです。

だからといって日本国の行為を正当化しませんけれども、世界もそういう状況だったと。そういう中で日本は戦争に踏み切って負けてしまった。そこは戦勝国としてはぜったい日本のね、負けの事実、悪の事実ということは、戦勝国としては絶対に譲れないところだろうし、負けた以上はそこは受け入れなきゃいけないところもあるでしょうけど。

ただ、違うところは違う。世界の状況は植民地政策をやっていて、日本の行動だけが原因ではないかもしれないけれど、第二次世界大戦がひとつの契機としてアジアのいろんな諸国が独立していったというのも事実なんです。そういうこともしっかり言うべきところは言わなきゃいけないけれども、ただ、負けたという事実だったり、世界全体で見て、侵略と植民政策というものが非難されて、アジアの諸国のみなさんに多大な苦痛と損害を与えて、お詫びと反省をしなければいけない。その事実はしっかりと受け止めなけれないけないと思いますね。(SYNODOSによる書き起こし


 こうした橋下の諸発言に何の論評もできないようでは。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする