(前回の記事はこちら)
高山は、マレーシアに続いて、
として、ベトナム、ビルマ、インドネシア、フィリピンを例に挙げる。
これらについての高山の記述は、著しくバランスを欠いた、誤解を招きやすい表現だと思う。
仮に華僑が「白人支配の手先を務めた」として、それで財産を没収され、小舟での出国を余儀なくされることに問題はないのだろうか。
ボートピープルの流出をベトナムは止めようとはしなかった。事実上の棄民政策だった。当時国際社会は人道的見地からそれを批判した。
しかし、ベトナム戦争に反対したわが国のいわゆる進歩的文化人は、当初ボートピープルに対して、南ベトナムでいい思いをしていた階層が社会の変化に適応できず逃げ出しているだけだと、極めて冷淡な評価をしていた。
高山正之は進歩派を非難してやまない立ち位置のはずだが、ことポートピープルに限っては同類であるらしい。
ベトナムは歴史的に支那の勢力圏に組み込まれており、文化的影響も受けてきたが、一方それに対する反発も著しいものがあった。それが統一後の華僑の排撃や中越関係の悪化に影響していることは間違いないだろう。
一方、ベトナムもまた、隣国であるラオスやカンボジアには、大国然として振る舞ったという。松岡完『ベトナム戦争』(中公新書、2001)には次のような記述がある。
だから、華僑が白人の手先、ベトナム人は搾取された哀れな被害者と簡単に決めつけられるような話ではない。
また、ボートピープルは中越紛争の主因ではない。中国は、ベトナム軍がカンボジアに侵攻し、中国が支持していたポル・ポト政権を打倒してヘン・サムリン政権を樹立したことに対する「懲罰」としてベトナムに侵攻したのだ。
ベトナムはカンボジア侵攻の理由に国境地帯での挑発やポル・ポト政権の非道性を挙げているが、だからといってベトナムにポル・ポト政権を打倒してヘン・サムリン政権を樹立する正当性があるわけではない。
ベトナムと友好関係にあったソ連やその衛星国を除き、多くの国がベトナムを非難した。ヘン・サムリン政権は大多数の国から承認を受けることができず、国連に議席を占めることもできなかった(当初はポル・ポト政権が、のちにはポル・ポト派とシアヌーク派、ソン・サン派が結成した3派連合政府が正統政権と見なされた)。またベトナムは侵攻に対する経済制裁に苦しみ、戦後の復興が遅れた。
一方、中国が「懲罰」と称して侵攻する正当性もまたないのだが、もともと中国はベトナムの政権打倒や国土の占領を目的としていたわけではない。
人民解放軍はたしかに予想外の敗北を喫したと言われているが、戦争の目的自体が限定されたものだった。前出『ベトナム戦争』によると、国境から50キロ程度しか進まず、約1か月で全部隊が帰国したそうだ。
一方ベトナム軍は、中ソが和解しカンボジアの和平気運が高まった1989年にようやく撤退するまでカンボジアに居座り続けた。
「侵略」の名にふさわしいのはどちらだろうか。
インド人や華僑を追い出す目的だったのかどうかは知らないが、ビルマが鎖国政策をとったのは事実だ。その結果、高山が言うような事態が生じたのかもしれない。
しかし、国民生活はそれでどうなったのだろうか。
私は、独裁が絶対悪だとは思わない。近代化を進める上で独裁が有効な場合も有り得るだろう。
かつての韓国の朴正煕や台湾の蒋介石・経国父子、シンガポールのリー・クアンユー、インドネシアのスハルトなどのいわゆる開発独裁は、国家を発展させ、国民生活を向上させた。その点は大いに評価すべきだと思う。
しかし、必然性もないのに自ら鎖国し、国民の生活を貧困にとどめるままの独裁などに、存在する意義があるのだろうか。
ビルマは1962年のネ・ウィン将軍のクーデター以来、軍人による独裁が続いている。1988年には民主化デモが全土に広がり、ネ・ウィンは退陣したが、軍が再びクーデターを起こし、それから20年以上も軍政を続けた。近年のティン・セイン大統領の登場により、ようやく民主化が進められている。
ネ・ウィン政権下のビルマから亡命した新聞人ウ・タウンは、『将軍と新聞』(新評論、1996)という本で、ネ・ウィンの独裁をこう批判している。
かつては豊かだったビルマは、ネ・ウィン政権下で最貧国に転落したという。
これが印僑や華僑を追い出す代償としてふさわしいものだったのだろうか。
また、1988年のクーデター後の軍事政権は、西側諸国による制裁に対抗して中国に接近し、国内の華人の処遇も改善したという。
とすれば、ますます何のためのクーデターだったのかということになるはずだが。
(続く)
高山は、マレーシアに続いて、
その他の国々もこの植民地の負の遺産に苦しめられ、その処理の仕方で彼らの戦後が決まった。
として、ベトナム、ビルマ、インドネシア、フィリピンを例に挙げる。
これらについての高山の記述は、著しくバランスを欠いた、誤解を招きやすい表現だと思う。
例えばベトナムはマハティールと違ってひたすら戦った。戦後も植民地支配を続けたフランスを倒し、さらに南ベトナムに頑張る米国と戦ってベトナムの統一を果たすと、ここでも白人支配の手先を務めた華僑の追放を断行した。財産没収を恐れた華僑は次々と小さな船で海に逃げ出した、世にボートピープルと呼ばれる現象だ。
支那は怒り、ベトナムに軍事進攻した。七九年の中越紛争だ。幸いベトナム軍は侵略する人民解放軍を徹底的に叩き潰した。あまりの惨敗に小平は色を失ったと言われる。
仮に華僑が「白人支配の手先を務めた」として、それで財産を没収され、小舟での出国を余儀なくされることに問題はないのだろうか。
ボートピープルの流出をベトナムは止めようとはしなかった。事実上の棄民政策だった。当時国際社会は人道的見地からそれを批判した。
しかし、ベトナム戦争に反対したわが国のいわゆる進歩的文化人は、当初ボートピープルに対して、南ベトナムでいい思いをしていた階層が社会の変化に適応できず逃げ出しているだけだと、極めて冷淡な評価をしていた。
高山正之は進歩派を非難してやまない立ち位置のはずだが、ことポートピープルに限っては同類であるらしい。
ベトナムは歴史的に支那の勢力圏に組み込まれており、文化的影響も受けてきたが、一方それに対する反発も著しいものがあった。それが統一後の華僑の排撃や中越関係の悪化に影響していることは間違いないだろう。
一方、ベトナムもまた、隣国であるラオスやカンボジアには、大国然として振る舞ったという。松岡完『ベトナム戦争』(中公新書、2001)には次のような記述がある。
一九世紀、グエン朝のベトナムはラオス・カンボジアを属国ないし朝貢国として扱った。ベトナム人官吏が派遣され、官職名も服装も税制も行政単位もベトナム風になった。プノンペンはナムバン(南栄)と改名された。仏教寺院は破壊されて儒教廟となり、僧侶は黄衣をはぎ取られ、仏像は大砲に改鋳された。フランスもラオス・カンボジア統治にベトナム人下級官僚を登用し、ベトナム語を第二の公用語とし、ラオス人・カンボジア人を劣等人種扱いした。
だから、華僑が白人の手先、ベトナム人は搾取された哀れな被害者と簡単に決めつけられるような話ではない。
また、ボートピープルは中越紛争の主因ではない。中国は、ベトナム軍がカンボジアに侵攻し、中国が支持していたポル・ポト政権を打倒してヘン・サムリン政権を樹立したことに対する「懲罰」としてベトナムに侵攻したのだ。
ベトナムはカンボジア侵攻の理由に国境地帯での挑発やポル・ポト政権の非道性を挙げているが、だからといってベトナムにポル・ポト政権を打倒してヘン・サムリン政権を樹立する正当性があるわけではない。
ベトナムと友好関係にあったソ連やその衛星国を除き、多くの国がベトナムを非難した。ヘン・サムリン政権は大多数の国から承認を受けることができず、国連に議席を占めることもできなかった(当初はポル・ポト政権が、のちにはポル・ポト派とシアヌーク派、ソン・サン派が結成した3派連合政府が正統政権と見なされた)。またベトナムは侵攻に対する経済制裁に苦しみ、戦後の復興が遅れた。
一方、中国が「懲罰」と称して侵攻する正当性もまたないのだが、もともと中国はベトナムの政権打倒や国土の占領を目的としていたわけではない。
人民解放軍はたしかに予想外の敗北を喫したと言われているが、戦争の目的自体が限定されたものだった。前出『ベトナム戦争』によると、国境から50キロ程度しか進まず、約1か月で全部隊が帰国したそうだ。
一方ベトナム軍は、中ソが和解しカンボジアの和平気運が高まった1989年にようやく撤退するまでカンボジアに居座り続けた。
「侵略」の名にふさわしいのはどちらだろうか。
ミャンマーは英国が入れた大量のインド人、華僑を追い出すのに平和的な手法を執った。自ら鎖国し貿易をやめ、自給自足経済は二十年余も続いた。商売もない。カネも動かないでは儲けがないと華僑も金融業を握るインド人も国を去っていった。
インド人や華僑を追い出す目的だったのかどうかは知らないが、ビルマが鎖国政策をとったのは事実だ。その結果、高山が言うような事態が生じたのかもしれない。
しかし、国民生活はそれでどうなったのだろうか。
私は、独裁が絶対悪だとは思わない。近代化を進める上で独裁が有効な場合も有り得るだろう。
かつての韓国の朴正煕や台湾の蒋介石・経国父子、シンガポールのリー・クアンユー、インドネシアのスハルトなどのいわゆる開発独裁は、国家を発展させ、国民生活を向上させた。その点は大いに評価すべきだと思う。
しかし、必然性もないのに自ら鎖国し、国民の生活を貧困にとどめるままの独裁などに、存在する意義があるのだろうか。
ビルマは1962年のネ・ウィン将軍のクーデター以来、軍人による独裁が続いている。1988年には民主化デモが全土に広がり、ネ・ウィンは退陣したが、軍が再びクーデターを起こし、それから20年以上も軍政を続けた。近年のティン・セイン大統領の登場により、ようやく民主化が進められている。
ネ・ウィン政権下のビルマから亡命した新聞人ウ・タウンは、『将軍と新聞』(新評論、1996)という本で、ネ・ウィンの独裁をこう批判している。
独裁者にとって最も強力な武器は恐怖である。世界中の独裁者は人民を恐怖で支配してきた。恐れられる専制君主になろうとすれば、彼は人民を殺さなければならない。独裁者のほとんどは流血によって権力を奪取したのである。権力を手に入れるには敵を殺し、邪魔者を殺し、恐怖を持たせるために人民を殺す。しかしネ・ウィンは敵を殺さないというビルマ式のやり方を採用した。
ネ・ウィンは敵の命も人民の生命を奪わなかったが、そのやり方は殺人よりも残酷であり効果的でもあった。彼は人民の糧道を断ってしまったのである。〔中略〕
もし人民を殺せば、その家族は悲しみ、やがて敵意を抱くだけで、恐れおののいたりしない。ネ・ウィンがクーデターを起こした時、首相も閣僚も殺さずに投獄し、しばらくして釈放した。政治家だった大臣たちは糧道を断たれてしまった。政府の公務員、国営企業従業員を解雇して軍人に取って代わらせるのも同じ手口であり、失業した人々は生計を失った。民間企業の国有化も同じことで、所有者の糧道を断ってしまうことだった。
糧道を断たれてしまうと、人民は人倫を忘れ、性格は破壊される。人民は節を曲げて独裁者に忠節を誓わなければ、生き延びられない。国民は独裁者にペコペコするほかはなかった。いい生活がしたいばかりに民間人の友人を裏切った者がどんなに多いことか。中には肉親すら裏切った人も少なくないのである。
仕事が欲しい。ある事をして収入を得る機会が欲しい。そうなると国民は恥も外聞も投げ捨てた。国家全体が羊の国となり、独裁者と国軍の意を得ようとして、互いにいがみ合うようになってしまった。これこそ永久権力を望んだネ・ウィンが生んだ悲劇である。
国と国民の糧道を断って、生き延びるには軍に依存する以外にはないようにしてしまう。これこそネ・ウィンのビルマ式独裁への道であった。
かつては豊かだったビルマは、ネ・ウィン政権下で最貧国に転落したという。
これが印僑や華僑を追い出す代償としてふさわしいものだったのだろうか。
また、1988年のクーデター後の軍事政権は、西側諸国による制裁に対抗して中国に接近し、国内の華人の処遇も改善したという。
とすれば、ますます何のためのクーデターだったのかということになるはずだが。
(続く)