しばらく前のことだが、無宗ださんのブログの記事「
【日本の恥】日本とトルコ【忘恩の徒】第二章」で、次のような記述を見た。
8)ラジャー・ノンティック元上院議員 前野徹「戦後・歴史の真実」
( マレーシア独立の父 )
http://onbutto3.hp.infoseek.co.jp/nakama/minamiguti/H16-5-1-rekisinosinnjitu.htm
かつて 日本人は 清らかで美しかった
かつて 日本人は 親切で心豊かだった
アジアの国の誰にでも 自分のことのように 一生懸命つくしてくれた」
何千万人もの 人のなかには
少しは変な人もいたし おこりんぼや わがままな人もいた
自分の考えをおしつけて いばってばかりいる人だって いなかったわけじゃない
でも そのころの日本人は
そんな少しの いやなことや 不愉快を越えて
おおらかで まじめで 希望に満ちて明るかった
戦後の日本人は
自分たち日本人のことを 悪者だと思いこまされた
学校でも ジャーナリズムも そうだとしか教えなかったから
自分たちの父母や先輩は
悪いことばかりした 残酷無情なひどい人たちだったと思っているようだ
だから アジアの国に行ったら ひたすら ひたすらペコペコあやまって
私たちはそんなことはいたしませんと 言えばよいと思っている
そのくせ 経済力がついてきて 技術が向上してくると
自分の国や自分までが えらいと思うようになってきて
うわべや口先では すまなかった悪かったと言いながら
ひとりよがりの 自分本位の えらそうな態度をする
そんな いまの日本人が心配だ
本当に どうなっちまったんだろう
日本人は そんなはずじゃなかったのに
本当の日本人を知っているわたしたちは
今は いつも歯がゆくて くやしい思いがする
自分のことや 自分の会社の利益ばかりを考えて
こせこせと 身勝手な行動ばかりしている
ヒョロヒョロの日本人は これが本当の日本人なのだろうか
自分たちだけで集まっては
自分たちだけの楽しみや ぜいたくにふけりながら
自分がお世話になって住んでいる
自分の会社が仕事をしている
その国と 国民のことを さげすんだ眼でみたり バカにしたりする
こんな人たちと
本当に仲良くしてゆけるだろうか
どうして どうして日本人は
こんなになってしまったんだ
1989年 クアラルンプールにて」
この詩を読んで、私は次のような感想をもった。
・この詩は、どういう背景の下で詠まれたものなのだろうか。ある親日的なマレーシアの上院議員が、日本人の現状に業を煮やして、現地のメディアに発表したものなのだろうか。それとも、日本人に向けて書かれたものなのだろうか。
・この詩は、何語で書かれたのだろうか。
マレーシア人なら、マレー語か英語で詠んだのだろう。
「いなかったわけじゃない」
「本当に どうなっちまったんだろう」
「ヒョロヒョロの日本人」
「どうして どうして日本人は」(の「どうして」の繰り返し)
は、原語ではどのように表記されているのだろうか。
なんだか、まるで日本人が詠んだような詩に見えるのだが。
・ラジャー・ノンティック元上院議員が「マレーシア独立の父」であるという。しかし、googleで「ラジャー・ノンティック マレーシア独立の父」で検索しても、ヒットするのはこの詩を紹介したサイトばかりである。ラジャー・ノンティックとは、本当に「マレーシア独立の父」なのだろうか。「マレーシア独立の父」と言えば、普通は初代首相アブドゥル・ラーマンを指すのではないだろうか。
この詩の出典とされてる前野徹『戦後・歴史の真実』を、機会があれば一度読んでみたいものだと思った。
しばらくして、この『戦後 日本の真実』(扶桑社文庫、2002)が、新刊でもないのに、「石原慎太郎氏 絶賛!」という帯を付けて、書店で平積みになっているのを見た。増刷がかかったのだろうか。
早速購入して、ノンティックについての記述を確かめてみた。
次のような記述があった。
先人たちはアジアの人々に尊敬されていた
マレーシア独立の父にラジャー・ノンティックという人物がいます。イギリスの支配下にあったマレー半島に日本軍が進撃してきたのは、彼が十六歳の時でした。イギリス軍を破った日本軍は、マレーシア独立のために訓練所をつくり、マレーシアの若者たちに教育をほどこしました。さらに日本政府は、南方特別留学生制度を創設し、独立の指導者養成を行っています。ノンティック氏はこの留学生のひとりとして日本に招かれ、終戦後、祖国を独立へと導きました。
後に上院議員になったノンティック氏は、日本軍のマレー人虐殺を調査に来た現地日本大使館職員と日本人教師にこう答えたそうです。
「日本人はマレー人をひとりも殺していません。日本軍が殺したのは、戦闘で戦ったイギリス軍や、それに協力した中国系共産ゲリラだけです。そして、日本の将兵も血を流しました」
ノンティック氏は、自分たちの歴史・伝統を正しく語りつがない日本人に対して、一編の詩をメッセージとして残しています。
かつて 日本人は 清らかで美しかった
かつて 日本人は 親切で心豊かだった
アジアの国の誰にでも 自分のことのように 一生懸命つくしてくれた
ノンティックについての記述はこれだけであった。詩の全編も紹介されていない。
どういうことだろう?
無宗ださんが引用しているサイトの詩の文には、3行目に
一生懸命つくしてくれた」
と、カギカッコが末尾に付いている。ノンティックの詩とはここまでで、続きは何者かが付け足した創作なのだろうか?
しかし、いろいろ検索してみて、そうではないことがわかった。
この詩の出典は、土生良樹という人物の『日本人よ ありがとう』(日本教育新聞社、1989)という本であった。
古書店で入手することができた。
また、産経新聞で1996年から97年にかけて連載された「教科書が教えない歴史」でもこの詩が取り上げられていることがわかった。
扶桑社文庫版の『教科書が教えない歴史 自由主義史観、21世紀に向けて』(1999、最初に単行本化されたハードカバー版では4巻に相当)で確認したところ、越智薫という人物(巻末の執筆者一覧によると都立玉川高校教諭)による「祖国独立に不屈の精神を学んだノンチック」という文章が収録されている。
この文章の冒頭に上記のノンチックの詩が引用されているが、それは前野の本と同様、3行目までである。
越智は続けてこう述べている。
この詩を書いたラジャー・ノンチック〔中略〕は、マレーシアの独立に半生をかけた人です。
一九四一年(昭和十六年)、日本は真珠湾攻撃と同時にマレー半島に進撃します。当時十六歳のノンチックは感激と興奮に震えました。マレーは百五十年もの間、イギリスの植民地支配に苦しんできたからです。「自分たちの祖国を自分たちの国にしよう」。彼の胸は高鳴りました。
イギリス軍を破った日本軍は、マレーシア独立のため訓練所を造り、青少年の教育に力を注ぎます。訓練生とともに汗を流す日本人教官の姿は、マレー青年に大きな感銘を与えました。さらに、日本政府は南方特別留学生制度を作り、アジア諸国独立のため指導者養成を目指しました。
一九四三年、ノンチックは南方特別留学生第一期生に選ばれ、同じように独立の熱意に燃えるアジアの青年たちとともに日本に派遣されます。教官たちは、留学生たちをわが子のように厳しく優しく指導し、「独立を戦いとるためには、連戦連敗してもなお不屈の精神をもつことだ」と励ましました。〔中略〕
一九四五年(昭和二十年)、終戦の年にノンチックはこう決意を新たにします。「日本はアジアのために戦い疲れて敗れた。今度はわれわれマレー人が自分の戦いとして、これを引き継ぐのだ」。
その後、彼はイギリス軍との苦しく激しい戦闘で、何度も窮地を切り抜け、ついに一九五七年、祖国を独立に導きました。さらに、南方特別留学生が中心となり、現在のASEAN(東南アジア諸国連合)を設立しました。
戦後、上院議員となったノンチックは、マレーシアを訪れた日本の学校教師から「日本人はマレー人を虐殺したに違いない。その事実を調べにきた」と聞いて驚きます。そしてこう答えました。
「日本人はマレー人をひとりも殺していません。日本軍が殺したのは、戦闘で戦ったイギリス軍や、それに協力した中国系共産ゲリラだけです。そして、日本の将兵も血を流しました」
なぜ日本人は、自分の父たちの正しい遺産を見ず、悪いことばかりしたような先入観を持つようになったのか、はがゆい思いでした。
「すばらしかったかつての日本人」を今の日本人に知ってほしい。そう願って、彼は晩年まで、日本の心を語り続けたのでした(土生良樹『日本人よありがとう』日本教育新聞社)。 (越智薫)
上記の前野の本の記述が、この越智の記述に全面的に依拠していることがわかる。
土生良樹の『日本人よ ありがとう』には、冒頭の詩が全文引用されていた。
だが、改行が異なる箇所が多々ある。
末尾も、土生著では「一九八九年四月」となっているのに、「1989年」で済まされている。
おそらく、いいかげんにタイプした人がいるのだろう。
それにしても、出典が土生の『日本人よ ありがとう』ではなく前野の「戦後・歴史の真実」となっているのは解せないが。
『日本人よ ありがとう』は、このノンチックの半生記である。
土生良樹は、1933年生まれ。1969年にマレーシアに渡航し、1974年に現地でイスラム教に帰依し、青少年の育成に当たっているそうだ。
そんな著者がノンチックへの長時間にわたるインタビューを元に著したのが本書。
南方特別留学生の実態やマレーシア独立の経緯については、今のところそれほど関心がないので、本書はそれほど読み込んではいない。
しかし、上記の詩に見られるようなノンチックの日本観もまた真実なのだろうとは思う。
こうした日本人観を持つマレーシア人がいてもおかしくないとは思う。
それを否定するつもりはない。
かつて、ソ連にはルムンバ大学という教育機関があった。
コンゴ民主共和国(旧ザイール)の初代首相バトリス・ルムンバ(のち殺害された)の名を冠した、ソ連国外からの留学生を共産主義者として養成するための機関である。
そうした機関に学び、ソ連に心酔した人々が、現在のロシアを見た場合、グローバル資本主義に堕落してしまった、かつての高邁な理想を掲げたソ連人はどこに行ってしまったのかと嘆くことがあるかもしれない。
あるいは、日中戦争期に、八路軍の捕虜となり、洗脳され、いわゆる反戦兵士として、わが軍に対する工作活動に従事した者がいると聞く。
そうした者が、現在の中国を見た場合にも、同様の感想を抱くことは有り得よう。
これは別に皮肉で言っているのではない。私は本心からそう考えている。
多感な青年期を過ごした学校や職場、あるいは地域に、愛着をもつのは当然だろう。
その後、それから離れて、しばらくしてまた接する機会があったとき、当時とのギャップを感じれば、反発を覚えることもあるだろう。
ノンチックの詩も、そうしたものとして見ることができるのではないか。
少なくとも、この詩を読んで、その字句のまま、ああ、かつての日本人は「清らかで美しかった」し「親切で心豊かだった」のだなあ、今の日本人はダメなのだなあなどと感じ入る必要はあるまい。
そんなに簡単に民族が変質してしまうものだろうか。
「アジアの国の誰にでも 自分のことのように 一生懸命つくしてくれた」などと言われれば、かえって日本人の方が気恥ずかしくなってしまうのではないか。
朝鮮を併合し、満洲国を建国し、華北分離工作を進めたことは、疑いようのない事実なのだから。
ノンチックもまた、わが国の一面しか見ていなかったと考えるべきだろう。
それと、多くの人が見落としているようだが、この詩は、単にわが国の自虐的傾向を批判しているのではない。
うわべでは過去を謝罪しつつも、本心ではそう思っていない、日本人の二面性について批判しているのだ。
もう一度、詩の一部を引用する。
そのくせ 経済力がついてきて 技術が向上してくると
自分の国や自分までが えらいと思うようになってきて
うわべや口先では すまなかった悪かったと言いながら
ひとりよがりの 自分本位の えらそうな態度をする
そんな いまの日本人が心配だ
〔中略〕
自分のことや 自分の会社の利益ばかりを考えて
こせこせと 身勝手な行動ばかりしている
ヒョロヒョロの日本人は これが本当の日本人なのだろうか
つまり、この詩は、単に「すまなかった悪かったと言」うこと自体を批判しているのではない。
それが「うわべや口先」にとどまり、実のところは「ひとりよがりの 自分本位の えらそうな態度」をとっている、「自分のことや 自分の会社の利益ばかりを考えて こせこせと 身勝手な行動ばかりしている」、そんな日本人を批判しているのである。
自分たちだけで集まっては
自分たちだけの楽しみや ぜいたくにふけりながら
自分がお世話になって住んでいる
自分の会社が仕事をしている
その国と 国民のことを さげすんだ眼でみたり バカにしたりする
こんな人たちと
本当に仲良くしてゆけるだろうか
誤読している人もいるのではないかと思われるが、「その国」とは、日本のことではない。
マレーシアなどの、日本人ビジネスマンが駐在するアジア諸国のことである。
日本人は、アジア諸国に駐在しながらも、自分たちだけで集まって楽しみにふけり、その国をさげすみ、バカにしている。
そんな人々とは仲良くできない。
この詩は、そう訴えているのである。
だからこそ、『教科書が教えない歴史』で、越智薫はこの詩を冒頭の3行しか引用していないのかもしれない。
「日本人はマレー人をひとりも殺していません」というノンチックの発言も、この『日本人よ ありがとう』に由来する。
本書の「まえがき」に、ノンチックが土生に語った内容として、次のように記されている。
先日、この国に来られた日本のある学校の教師は、『日本人はマレー人を虐殺したに違いない。その事実を調べに来たのだ』と言っていました。私は驚きました。『日本軍はマレー人を一人も殺していません』と私は答えてやりました。日本軍が殺したのは、戦闘で戦った英軍や、その英軍に協力した中国系の抗日ゲリラだけでした。そして日本の将兵も血を流しました。
この日本軍によるマレー人虐殺という話については、本書の「あとがき」に次のような記述がある。
昨年(一九八八年)、日本の思想的に偏った一部マスコミは『マレーシアでも日本軍が住民虐殺をおこなった』と、マレーシアの中学校用歴史副読本と称する〝英語読本〟の挿し絵を報道して、当地の多数のマレー人長老から「日本の新聞は何を報道しているのか」と大きな非難を招きました。
マレーシアでは、小中学校の教科書と副読本は、すべて教育省が編纂する国定本であり、マレーシアの国語〝マレーシア語〟で記されています。
英語で書かれた副読本を一部の私立学校が使用していますが、これらの本は認められていません。
こうした背景の下で語られた話だということだ。
マレー人虐殺があったのかなかったのか、私は知らない。ノンチックが言うように、なかったのかもしれない。
しかし、「日本軍が殺したのは、戦闘で戦った英軍や、その英軍に協力した中国系の抗日ゲリラだけでした」という言葉には疑問を持つ。
大戦時、シンガポールは英領マラヤの一部であった。
シンガポールにおける華僑虐殺は、いわゆる南京大虐殺と並ぶわが軍の汚点として知られている。
それは「中国系の抗日ゲリラだけでした」といった表現で済まされるようなものではなかったように聞いている。
対象がマレー人でなければ、そうしたことも問題ではないのだろうか、このノンチックという人にとっては。
マレーシアは多民族国家である。しかし、多数派であるマレー人を華僑やインド系に比べて優遇するブミプトラ政策が採られていると聞くが。
ところで、この話について、『教科書が教えない歴史』の記述はこうなっている。
戦後、上院議員となったノンチックは、マレーシアを訪れた日本の学校教師から「日本人はマレー人を虐殺したに違いない。その事実を調べにきた」と聞いて驚きます。そしてこう答えました。
「日本人はマレー人をひとりも殺していません。日本軍が殺したのは、戦闘で戦ったイギリス軍や、それに協力した中国系共産ゲリラだけです。そして、日本の将兵も血を流しました」
土生の『日本人よ ありがとう』では、ノンチックは日本の教師に対して「日本軍はマレー人を一人も殺していません」とだけ答えたことになっている。「日本軍が殺したのは、戦闘で戦った英軍や、その英軍に協力した中国系の抗日ゲリラだけでした。そして日本の将兵も血を流しました」とは、ノンチックが後日土生に語った内容である。
ところが、越智薫の『教科書が教えない歴史』では、これらのセリフもノンチックが日本の教師に語ったことになっている。
さらに、前野徹『戦後 歴史の真実』では、次のようになる。
後に上院議員になったノンティック氏は、日本軍のマレー人虐殺を調査に来た現地日本大使館職員と日本人教師にこう答えたそうです。
「日本人はマレー人をひとりも殺していません。日本軍が殺したのは、戦闘で戦ったイギリス軍や、それに協力した中国系共産ゲリラだけです。そして、日本の将兵も血を流しました」
「現地日本大使館職員」が勝手に加えられている。
どんどん尾ひれがついていく。
ここまでお読みになってお気付きの方もおられるだろうが、前野は終始「ノンティック」と書いている。しかし、越智も、その元になった土生も、「ノンチック」と書いている。
「ロマンチック」を最近は「ロマンティック」とも書くように、「-tic」を「ティック」と書くことはあるだろう。
しかし、ノンチックは人名である。「-tic」という表記なら、「ティック」と書いてもおかしくないが、さてどうなんだろう。
ノンチックの綴りは、土生の本には載っていなかった。
検索していると、
マレーシア元留日学生協会(JAGAM)という組織のサイトに、次のような記述を見つけた。
JAGAMは1973年に正式に創立され、当時の会員数はわずか22人しかおりませんでした。1977年06月10日に、大先輩のRaja Dato Nong Chikの呼びかけでアセアン諸国の良い留日仲間らにより、クアラルンプールのヒルトン・ホテルでASCOJA(元留日学生会のアセアン会議)を発足させました。
ノンチックの綴りは「Nong Chik」であった。
とすると、「ティック」と勝手に表記するのは不適切だろう。
余談だが、現在のマレーシア政界にも「ラジャー・ノンチック」という人物がいることが検索でわかった(
公式サイト)。
こちらによると、連邦直轄領相を務めているとのこと。
この詩のノンチックとどういう関係にあるのかは未確認。
また、私が気になっていた「マレーシア独立の父」なる言葉は、土生の本のどこにも見つけることはできなかった。
土生に依拠している越智は、「マレーシアの独立に半生をかけた人」と記している。それは正しいだろう。
ところが、前野の手にかかると、それが「マレーシア独立の父」となってしまう。
前野徹という人は、著者紹介によると、東急グループの五島昇の懐刀として活躍し、東急エージェンシー社長を務めたという。退任後もアジア経済人懇話会の理事長などとして活躍したという。
2007年に81歳で亡くなっている。
実業家としてはどうだか知らないが、文筆家としては極めていいかげんな人物だと思える。
前野の本は現在でも版を重ねているようなので、強調しておきたい。
冒頭の私の疑問に戻ると、このノンチックの詩は、この土生の本に「序にかえて」として寄せられたものだった。
原文が何語で書かれたのか、そもそも原文が存在するのかもわからない。
戦後の日本人は
自分たち日本人のことを 悪者だと思いこまされた
学校でも ジャーナリズムも そうだとしか教えなかったから
自分たちの父母や先輩は
悪いことばかりした 残酷無情なひどい人たちだったと思っているようだ
マレーシア人の政治家がこんなこと言うかなあという思いは依然として残る。
仮にノンチックがそうした日本人観をもっているとすれば、それは、当時交流があったであろうわが国の政財界の要人からそうした主張を聞き、それに影響されているのかもしれない。
しかし、そもそもが、日本人向けの自分の半生記に寄せた一編の詩にすぎない。
マレーシアの政治家が公式の場で日本擁護論をぶったというのならともかく、そんなにありがたがるほどのものなのだろうか。
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