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トラッシュボックス

日々の思いをたまに綴るブログ。

左翼批判者の左翼知らず

2010-11-09 10:58:10 | 「保守」系言説への疑問
 古雑誌を整理していて出てきた『週刊新潮』8月12・19日号に、「「菅総理」と「仙谷官房長官」の赤い系譜」という無署名記事が載っていた。
 この号は、以前新聞広告を見て、この記事目当てで購入したのだが、率直に言ってそれほど興味をそそられる内容ではなかった。この記事の言う「赤い」とは、菅と仙谷が松下圭一の思想的影響下にあるとか、仙谷が「戦後謝罪マニア」であるといったことで、それらは私が「赤い」と考えることと異なるからだ。読後、羊頭狗肉という言葉が頭をよぎった。
 ところで、その記事中に、次のような文章がある。

 そもそも、東工大で学生運動を展開していた菅氏は、社会党分派の社会民主連合から国会議員としての歩みを始め、一方の仙谷氏もやはり東大で学生運動をやっていて、元は社会党の代議士。後に両氏は92年に政治グループ「シリウス」を結成し、同輩となったわけだが、このシリウスの中心メンバーの1人が、前参院議長の江田五月氏だった。
 そのシリウスには五月氏の父で、社会党左派の大立者だった江田三郎氏(故人)の「遺志」が色濃く受け継がれていた。そして、三郎氏のブレーンだった人物が、菅、仙谷氏の思想の源流なのである。


 社会民主連合を社会党の分派だとしている。

 分派とは、正統派(と一般に見られている勢力)から何らかの理由で離脱して一派を成したものを指す。そしてそれは、往々にして、一般に言う正統派ではなく自らが真の正統派であると主張するものである。
 単に見解の相違を理由に分かれた勢力を指す言葉ではない。

 例えば、日本共産党には、親ソ派の志賀義雄らによる「日本共産党(日本のこえ)」など、様々な分派が存在した。

 社会民主連合の前身である社会市民連合は、社会党の元書記長である江田三郎が離党して結成した。
 しかし、社会党本体ではなく自らが真の社会党である、あるいは自らが真のわが国における社会主義勢力であるといった主張を展開していたわけではない。
 社会民主連合を「社会党分派」と表現することに私は強い違和感をもつ。
 それは、新自由クラブや新党さきがけ、新生党、国民新党などを「自民党の分派」などと呼ぶ者がいないのと同じことである。
 仮にそのような表現を用いる者がいるとしたら、その者は、「分派」という用語がわが国においてどのように用いられてきたかを理解していないのだと思う。


「五月氏の父で、社会党左派の大立者だった江田三郎氏(故人)」

 江田三郎が社会党左派だって?
 江田三郎は社会党右派である。
 右派であるが故に、左派主導の70年代の社会党において居場所を失い、ついには離党するに至ったのである。
 そんなことも知らずに、菅や仙谷の「赤い系譜」を説くこの記事の筆者、そしてそれを通す編集部の見識を疑う。

 この記事で、
「仙谷さんは、本当は真っ赤っかであるのに、ヴェールを被ってピンクに見せている。一方の菅さんは、仙谷さんほどには赤くなく、いわばショッキングピンクで、便宜主義的に政治を弄ぶのが趣味の左の政治オタクといったところ。」
と発言している遠藤浩一・拓殖大学大学院教授は、『文藝春秋』2009年9月号の「右から左まで「民主党の人々」」という記事で、菅直人の経歴について、

市民運動や、すでに引退していた市川房枝の擁立運動にも関わり、八〇年に革新政党の社民連から国会議員となった。


と書いている。
 しかし、社民連は、「革新政党」だろうか?
 社会民主主義を明言していたのであって、当時の分類で言うなら、中道政党ではないだろうか。

 西尾幹二が江田三郎の「江田ビジョン」について、社会党が「極端に観念的なことを言い続け、永遠に政治の世界のアマチュアであることを楽し」んだ、「誠に滑稽」な実例と不当な評価を下していることについては以前述べたことがある

 私は反共主義者である。
 左翼批判、大いに結構と思っている。

 しかし、誤った、あるいはうろ覚えの知識に基づく批判がまかりとおるのはいかがなものかと思う。
 ソ連崩壊から20年近く経ち、左翼の何たるかをろくに知らないまま左翼批判を展開する者が増えたということなのだろうか。
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私の考える「保守」

2010-10-04 00:12:15 | 「保守」系言説への疑問
 前回の記事を書きながら思ったこと。

 江藤淳は保守派の言論人と呼ばれている。
 たしか『保守とはなにか』という著作もあったはずだ。

 私も政治的立場としては保守であると考えている。
 しかし,その意味するものは大きく違うらしい。

 私の考える保守とは リアリズムを基調としている。
 「革新」と相対する立場を指す。
 「革新」という用語は、戦後は左翼政党を指すものとして用いられたが、戦前は右翼的立場を指していた。
 私の言う保守とは、その双方を排する。
 ユートピアを掲げた革命やファナチックな国粋主義に陥らず、現実に立脚して、日々の営みを崩さずに漸進していく。そうした立場を指す。

 対するに、江藤流の保守が基調としているのは、ロマンチシズムではないか。
 わが国はアジア解放のために白人国家と堂々と戦い、力及ばず敗れたが、その精神は誤ってはいない、占領下での洗脳から脱し、民族の誇りを取り戻せと説くものではないか。
 実体に目を向けず、観念の世界に生きる人々ではないか。
 そうした思考法こそが、わが国を敗れさせ占領下に置いたにもかかわらず、それに目を向けようとしない人々ではないか。

 江藤は、文芸評論家でもある。
 文芸の世界には,ロマンチシズムは当然あっていいだろう。
 だが、それを政治の世界に持ち込まないでほしい。

 責任者を追及するのは,スケープゴートを作って事たれりとするためではない。
 過去の出来事を教訓として、再度同じ過ちを繰り返さないためだ。
 それがなされなければ、被害者はそれこそ犬死にではないか。

 『忘れたことと忘れられたこと』に収録されている『朝日ジャーナル』に掲載されたインタビューで、江藤は次のように述べている。

いったいわれわれは死んだ人のことを思い出さないでいいのか、という問題があります。これは日本人にとって非常に大事なことで、今でも宗教宗派の別を超えて、お盆というと、先祖の墓へ行くわけです。ところが、戦争中の死者に関しては、死に損だったということにしている。国が勝てば名誉の戦死で、国が負けると、献身的な、私を滅する行為も否定されなければいけないものになるのか。ギリシャの昔、孔子の昔から、私を滅するということは悪いことではなかった。全体の生存をはかろうとするために犠牲になるのは、立派な行為だったはずです。もし、小林多喜二が立派だったというなら、特攻隊だって同じように立派だったのではないか。


 大東亜戦争肯定論者にしばしば見られる主張だが、私にはこうした思考が理解できない。
 「献身的な、私を滅する行為」が賞賛に値するものであることもあるだろう。
 しかし、特攻隊をそのようなレベルで論じてよいのか。

 特攻隊は、志願という建前になってはいるが、事実上の強制だった。
 そして、高島俊男が述べていたように、
「戦果をあげるのが目的ではなく」「多数の若者をつぎつぎに死なせるのが目的であった」
「陸海軍のホンチャンたち(陸士や海兵を出たプロの軍人)が、自分たちのメンツのために、少年飛行兵や学生出身などのしろうとの飛行機乗りを大勢殺した行為」
であった。
 こうした行為を賞賛できる神経を私は理解できない。
 彼らの死は本当に必要だったのか。彼らが死ななければならなかった理由は何か。
 理性的な人間であれば誰しもがそう考えると思うのだが、江藤のようなタイプの人間は決してそうは考えない。逆にそれを、戦死者に対する冒涜だと説く。
 そういう人々は、イスラム原理主義勢力による自爆テロや、韓国などで見られる抗議のための焼身自殺をも同様に礼賛すればいいはずだ。
 だが、彼らは決してそうしない。実に不可解なことだ。

 江藤はこうも述べている。

戦争に負けたことが〝悪〟であり、それは大日本帝国によってもたらされたというのはおかしい。大日本帝国が負けたのは負かしたものがいたからです。それが国際的ダイナミックスの感覚ですよ。もちろんそれ以上戦い得なかったから負けたのだけれども、何のためにか知らないけど、日本人はよく戦った。われわれは今日までその恩恵を受けているということを忘れてはいけないのです。


 もちろん負けたのは負かしたものがいたからだ。
 だからといって、負かしたものに敵愾心を燃やし、「何のためにか知らないけど」「よく戦った」と自らを慰撫するだけでよいのか。
 私は戦争や政治を善悪で論じたくはない。しかし、敗戦によって生じた膨大な犠牲を考えると、負けるべきではなかった戦争であったことは自明だろう。
 ならば、何故負けたのか。敗戦は予測できなかったのか。予測できたとしたら何故開戦したのか。ほかにどんな方策があったのか。今後同じようなことを繰り返さないためにはどうすればよいのか。
 そうしたことに目を向けるのは当然のことだと思うのだが、江藤のようなタイプの人間は決してそうは考えない。「よく戦った」と自らを慰撫し、占領下での宣伝工作批判に傾倒するのみである。

 無宗ださんは、「国のために・・・」という記事で次のように述べている。

たとえば、無能ゆえに会社を潰してしまった経営者というのは、
多くの人に多大な迷惑をかけることになる。
でも、その人は、犯罪者ではありませんよね?

けちな犯罪者が、
他人に及ぼす迷惑より
はるかに大きな影響を、世の中に及ぼしたとしても。


 奇しくも、私もこの問題について似たような例えを考えていた。

 ある巨大企業が無謀な拡大方策を続けた末倒産し、外資の支配下に置かれて再建を図ることになった。
 事ここに至って、経営陣が社員に対し次のような声明を発した。
「社員ことごとく、静かに反省するところがなければならない。我々は今こそ総懺悔し、心を新たにして全社一丸となって再建を図ろうではないか」
 しかし、その陣容は旧態依然としたものであり、さらに失策の最大の責任者が平の取締役に加わっている。
 社員は果たしてそんな経営陣の言葉を支持するだろうか。また支持するべきなのだろうか。
 それとも人心一新を図るべく経営陣の刷新を要求すべきなのだろうか。
 経営陣同様感涙にむせび、失策の原因を追及することなく、心地よいスローガンにのみ頼った「再建」を続けるなら、そんな会社に未来はないだろう。

 曲がりなりにも、わが国がそうした道を進まなかったことは、わが国にとっても、私自身にとっても、幸運であったと私は思う。

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天皇は靖国神社に「行幸」はしても「参拝」はしない?

2010-08-22 09:31:53 | 「保守」系言説への疑問
 無宗ださんの記事「天皇陛下は靖国神社に参拝するか?」によると、今年7月3日に発行されたメルマガ「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」通巻3011号に掲載された「読者の声」に、天皇陛下が靖国神社に「行幸」することはあっても「参拝」することはありえないと述べられているという。
 興味深い話である。
 メルマガ本体から問題の「読者の声」の部分を引用する(太字は無宗ださんが記事中に引用している箇所)。

(読者の声1)以前から気になっていましたが、天皇陛下の寺社への行幸に関しての世上に広がっている大きな誤解をまたみてしまいました。しかも、天皇と皇室に関しての誤解を解くこと標榜しているメルマガの中です。
斎藤吉久氏の「誤解だらけの天皇・皇室」vol.143にある以下の部分です。これは、日本人の多く、そして真正保守の日本人言論人の多くも冒している間違いなので指摘させてください。
(引用はじめ)
「たとえば昭和7年のいわゆる上智大学生靖国神社参拝拒否事件のとき、学長の代理として陸軍省当局におもむいた丹羽浩三の回想(『未来に向かって』所収)は、大きな示唆を与えてくれます。
小磯大将(丹羽の回想では陸相だが、次官の誤りと思われる)が「天皇が参拝する靖国神社に参拝しないのは不都合ではないか」と詰め寄ると、丹羽は「閣下の宗旨は何か」と逆に問いかけたのでした。「日蓮宗だ」と小磯が答えると、丹羽は重ねて「浄土真宗や禅宗の寺院に参拝するか」と質し、小磯が「他宗の本山には参拝しない」と返答すると、「陛下はどの本山にも参拝します」という問答が重ねられ、やがて小磯は「書生論を取り消します」と切り上げたというのです。
(引用終り)

天皇陛下がどこかを訪問されることを「行幸」といいます。つまりこれは天皇陛下向けの「訪問」の尊敬語です。訪問先で「拝む」場合、一般人の場合は、「参拝」といいますが、天皇陛下の場合敬語表現で「親拝」(シンパイ)あるいは「御親拝」(ゴシンパイ)ともいいます。
尊敬語か一般語かの違いを除いて、字義の上での本質的な違いは、行幸は単なる訪問であり、相手に対して挨拶として会釈をお行いになられ、参拝(親拝ないし御親拝)では、90度の礼をして拝まれます。
「挨拶」と「拝」は本質的な違いです。
天皇陛下は、参拝あるいは親拝、御親拝を天皇家のご先祖様の祀られているところ(神社あるいは御陵)に対してしかなさいません。これは現御神として地上における天照大御神様の代理である天皇として当然のことです。
靖国神社を天皇陛下が行幸(訪問)されるときは、地上おける天照大御神様の現われとして、英霊達の功を嘉したまえます。
英霊達を天照大御神様が拝むはずはありません。したがって天皇陛下が靖国神社を参拝あるいは親拝、御親拝されることはありえません。
サイパンで韓国系日本人が崖から飛び降りて自決なされたところを行幸された天皇陛下の写真をご覧になれば、90度の礼つまり拝ではなく会釈をなされていたことがわかります。御霊様も天照大御神様の現世での現われである天皇陛下の会釈をこそ歓ばれたことと確信致します。
それを「参拝」と書いた新聞の不見識は言語道断です。天照大御神様に拝まれたら英霊も韓国系日本人自裁者たちも恐縮のあまり昇天できないことでしょう。
このことを理解すれば、富田元宮内庁長官のメモにあった「参拝」の主語が天皇陛下でないことも、天皇陛下が寺社を行幸されたときに会釈されることが参拝でないことも明白です。
「行幸」と「参拝(親拝、御親拝)」の違いが戦前の小学生用教科書に書かれているのを読んだことがあります。それを小磯氏も丹羽氏も斉藤氏も忘れてしまわれたのでしょう。
Y染色体は男系、ミトコンドリアは女系で伝わると高校の生物の教科書の書かれていることを有識者会議とよばれた老人ボケ者の集まりの参加者達が知らなかったのと同様です。
また、宗旨によって信仰の対象が、釈迦、阿弥陀、エホバ等とことなるに反して、全ての日本人が崇敬する対象の天照大御神を配する神道という日本の伝統を区別することができなくなります。
これは中国から日本に到着したばかりのシナ人が生活保護を受けるのを容認することと同様です。
こういったことを区別できるエントロピーの高い意識を持つことが、今後日本が生き残る必須の要件です。
  (ST生、千葉)


 無宗ださんは、

この「読者の声」に書かれた内容を読み、直感的に正しい情報だと感じる。


としながらも、

しかし、これらの内容はどのようにして裏づけすればいいのだろうか?
なにしろ、靖国神社のWEBサイトにおいてすら、
明治天皇が初めて招魂社に参拝された折に
との表現が見られるのだから。


として、同サイトの記述を挙げた上で、

個人的な感触として、
靖国神社のWEBサイトの「参拝」の表記が適切である可能性よりも、
「読者の声」に書かれた内容が正しく、
靖国神社のWEBサイトの「参拝」の表記が不適切である可能性が
圧倒的に大きいと考える。


と結んでいる。

 なかなか面白い点に目を付ける方がおられるものだ。
 検索してみたが、同様の主張は見つからなかった。この千葉のSTさん独自の見解だろうか。

 富田メモの参拝云々の記述とは、よく知られた、これのことだろう。

だから 私あれ以来参拝していない
それが私の心だ


 天皇陛下が「参拝」などという言葉を使うはずがない、だからこの「私」は陛下ではない、と言いたいのだろう。
 これが本当に天皇の発言なら、

だから 私あれ以来行幸していない
それが私の心だ
 

となるはずだとでも言いたいのだろうか。

 しかし、「行幸」とは、この千葉のSTさんも書いているように、天皇がどこかへ行くということを、敬意をもって表現する場合に用いられる。
 つまり、天皇の周囲をはじめ、国民一般が用いる言葉ではあっても、天皇自身が用いる言葉ではない。
 したがって、「私あれ以来行幸していない」などという発言は有り得ない。

 そして、天皇の靖国「参拝」とは、新聞に限らず、左右を問わず幅広く用いられてきた表現である。
 それが正しくないとすれば、これまでの先人たちは皆、目が節穴だったということになる。
 そんなことがあるものだろうか。

 無宗ださんは「直感的に正しい」と感じたそうだが、私はまずそのような疑問を抱いた。

 手元にあった大江志乃夫『靖国神社』(岩波新書、1984)を開いてみた。
 本書の第三章「靖国神社信仰」の冒頭に、靖国神社の前身である招魂社の時代に、明治天皇が全国各地の神社を訪れた記録が『明治天皇記』から列挙されている。
 これによると、招魂社には三回「御拝」している。
 この間、ほかに三回の「御拝」があったのは、賀茂両社(上賀茂・下鴨)と氷川神社のみであるという。大江は、これはいずれも社格制度の制定とともに官弊大社に列格された、京都と東京の総鎮守であり、天皇が両京から移動するたびに「御拝」しているから、「招魂社の位置づけがいかに大きなものであったかが知られる」という。
 また、格下の神社においては、「御拝」ではなく「一揖」(いちゆう)と記されているという。一揖とはYahoo!辞書(大辞泉)によると「軽くおじぎをすること。一礼。」とあるから、社格による扱いの差は確かにあったのだろう。しかし招魂社には「御拝」しているのだ。

 さらに、靖国神社に改称されてからは、天皇は「親拝」したとの表現を大江はとっている。そして招魂社時代の三回の「御拝」も「親拝」に含めて計上している。
 この「親拝」という表現の根拠は明記されていないが、何かしらあるのだろう。

 大江は天皇の靖国「親拝」を次のようにまとめている。

 すでにのべたように、明治天皇の靖国神社「親拝」は、招魂社時代に三回、日清戦争後の臨時大祭の二回、日露戦争後の臨時大祭に二回、合計七回であった。
 招魂社時代は別として、日清戦争後、日露戦争後の「親拝」時の服装はいずれも陸軍式の通常礼装であり、大元帥としての資格における「親拝」であった。〔中略〕
 大正天皇の「親拝」は、二回であった。第一回は、一九一五(大正四)年四月二九日、第一次世界大戦(日独戦争)戦死者合祀の臨時大祭である。第二回は、一九一九年五月二日、靖国神社創建五〇周年に際してである。なお、一九二五年四月二九日、第一次世界大戦とそれに引きつづくロシア革命干渉のシベリア出兵の戦没者合祀の臨時大祭に、大正天皇の摂政として現在の天皇が参拝している。
 現在の天皇の「親拝」は、一九二九(昭和四)年四月二六日、山東出兵の戦没者合祀の臨時大祭が最初である。第二回目の「親拝」は、一九三二年四月二六日、満州事変・第一次上海事変の戦没者合祀の臨時大祭である。第三回が翌年四月二六日、おなじ事変の戦没者合祀の臨時大祭である。以後、太平洋戦争開始前の一九四一年春の臨時大祭までに第一二回目の「親拝」が行われている。とくに日中戦争が本格化して以来、一九三八年四月二六日に日中戦争関係者合祀の最初の臨時大祭に「親拝」して以後、毎年の春秋の臨時大祭への「親拝」がおこなわれるようになった。このことは、太平洋戦争開始後も変わらなかった。(p.132-133)



 では、「親拝」の内容は、どのようなものだったのだろうか。
 これについても、次のような記述がある。

 「親拝」の具体的形式については、一九三八年四月から一九四五年一月まで靖国神社宮司の職にあった陸軍大将鈴木孝雄(敗戦時の総理大臣・海軍大将鈴木貫太郎の実弟)が「靖国神社に就て」(『偕行社記事 特号(部外秘)』第八〇五号、一九四一年一〇月)と題する文書で紹介している。〔中略〕
 これによると、天皇「親拝」のときは、大臣以下供奉の全員はすべて本殿の廊下にとどまり、天皇は侍従長だけを随えて本殿の御座につき、「御拝」をするという。天皇の玉串は、宮司がこれを侍従長に捧呈し、侍従長はそれを天皇に奉り、天皇はその玉串を暫し手にしてもっとも鄭重な「御拝」をする。相当に長い時間の「御拝」であるという。そののち、玉串を侍従長に手渡し、侍従長はそれを捧げて宮司に手交し、宮司はそれを頂戴して階段を上り、神前に捧げる。
 天皇の「親拝」すなわち公式参拝は以上のような形式で行われた。(p.134-135)


 「御拝」なのだから、90度だかどうだか知らないが、拝むのであって、会釈ではないだろう。
 それも、「相当に長い時間」。

 したがって、

天皇陛下が靖国神社を参拝あるいは親拝、御親拝されることはありえません。


といった千葉のSTさんの主張は、勝手な思いこみによる誤りか虚言である可能性が極めて高いと考える。
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外国人への参政権付与が憲法違反だと!?

2009-10-09 23:58:02 | 「保守」系言説への疑問
 ケータイで「The News」という無料ニュースサイトを時々見るのだが、今日こんなタイトルの記事が載っていた。

首相きょう訪韓 「参政権」焦点に 付与は違憲…政治問題に発展も


 「付与は違憲」……外国人への参政権付与が違憲だって?

 帰宅してパソコンでインターネットを見ると、同じ記事が別タイトルで「MSN産経ニュース」に掲載されていたので、コピペしておく(太字は引用者による。以下同)。

鳩山首相、訪韓へ 焦点は外国人への地方参政権付与問題

 鳩山由紀夫首相は9、10両日、韓国、中国を相次いで訪問する。韓国では、青瓦台(大統領府)で李明博大統領との首脳会談に臨むが、焦点となりそうなのが永住外国人への地方参政権付与問題だ。韓国側が要請している上、首相をはじめ、小沢一郎幹事長、岡田克也外相-と民主党幹部には参政権付与に熱心な顔ぶれが並んでいるからだ。首相の判断次第で、今後の大きな政治課題に浮上する可能性がある。(阿比留瑠比)

 「一定の結論を出すべき問題だ。その結論を見据えて首相や幹事長は話をされている。現実的な対応につなげていきたい」

 原口一博総務相は8日、産経新聞などのインタビューでこう語り、参政権付与に意欲を示した。この問題は自公政権でも公明党が推進しようとしたが、自民党内に慎重・反対論が根強く頓挫してきた経緯がある。

 一方、民主党は世論の反発を恐れたのか、衆院選マニフェスト(政権公約)からは削ったが、政策集「INDEX2009」では「結党時の『基本政策』に『定住外国人の地方参政権などを早期に実現する』と掲げており、この方針は今後とも引き続き維持していく」と明記している。

 また、鳩山内閣の閣僚の一人は衆院選前に在日本大韓民国民団の地方本部で講演し、「政権奪取で皆さんの地方参政権を実現する」と“公約”している。

 民団は衆院選で、参政権付与の推進派議員を支援した。鳩山首相は就任前の今年6月、李大統領と会談した際に「多くの民団の方にご支持いただいてありがたく思っている」と語っており、参政権問題で後には退けない事情もある。

 鳩山内閣発足直後の9月19日、李大統領の実兄である李相得・韓日議員連盟会長が小沢氏を訪ね、参政権付与を改めて求めた。小沢氏は即座にこう応じた。

 「賛成だ。通常国会で目鼻をつけよう」

 民主党には400人余の衆参両院議員がおり、永住外国人法的地位向上推進議員連盟の川上義博事務局長は「今の民主党の現職の初当選も含めた議員の中で、(参政権付与に)まったく反対の人は32人しかしない」と打ち明ける。

 だが、外国人への参政権付与はもともと憲法違反(平成7年の最高裁判決)だ。また、今年2月の韓国での法改正で在日韓国人は母国の国政選挙に投票できるようになった。本国の選挙権があるのに日本でも地方参政権を行使するというのは筋が通らない。

 参政権付与を世論が求めているわけではない。国のかじ取りを行う鳩山首相には、慎重な上にも慎重を期した対応が求められる。


 「外国人への参政権付与はもともと憲法違反」!?
 そんなわけないだろ。
 じゃあなにかい、民主党や公明党は違憲を承知で外国人に参政権を付与しようとしているっていうのかい?
 違憲の立法などできるわけないだろ。やるとすれば改憲が必要だろ。

 平成7年の最高裁判決ってのはこれだろ。

地方自治について定める憲法第八章は、九三条二項において、地方公共団体の長、その議会の議員及び法律の定めるその他の吏員は、その地方公共団体の住民が直接これを選挙するものと規定しているのであるが、前記の国民主権の原理及びこれに基づく憲法一五条一項の規定の趣旨に鑑み、地方公共団体が我が国の統治機構の不可欠の要素を成すものであることをも併せ考えると、憲法九三条二項にいう「住民」とは、地方公共団体の区域内に住所を有する日本国民を意味するものと解するのが相当であり、右規定は、我が国に在留する外国人に対して、地方公共団体の長、その議会の議員等の選挙の権利を保障したものということはできない。

〔中略〕

このように、憲法九三条二項は、我が国に在留する外国人に対して地方公共団体における選挙の権利を保障したものとはいえないが、憲法第八章の地方自治に関する規定は、民主主義社会における地方自治の重要性に鑑み、住民の日常生活に密接な関連を有する公共的事務は、その地方の住民の意思に基づきその区域の地方公共団体が処理するという政治形態を憲法上の制度として保障しようとする趣旨に出たものと解されるから、我が国に在留する外国人のうちでも永住者等であってその居住する区域の地方公共団体と特段に緊密な関係を持つに至ったと認められるものについて、その意思を日常生活に密接な関連を有する地方公共団体の公共的事務の処理に反映させるべく、法律をもって、地方公共団体の長、その議会の議員等に対する選挙権を付与する措置を講ずることは、憲法上禁止されているものではないと解するのが相当である。しかしながら、右のような措置を講ずるか否かは、専ら国の立法政策にかかわる事柄であって、このような措置を講じないからといって違憲の問題を生ずるものではない。


 違憲じゃねえじゃねえか。
 法律をもって地方参政権を付与することは憲法上禁止されてはいないと述べているじゃねえか。
 付与するか否かは立法政策の問題であって、付与していない現在の地方自治法や公職選挙法の規定は違憲ではないと述べているだけじゃねえか。
 阿比留のウソツキ。

 私は、定住外国人への地方参政権付与には反対だ。
 それは、この政策が事実上、在日韓国・朝鮮人の権利拡張の延長上にあるからだ。
 かつて、さまざまな点で日本国民と在日との間には行政上の取扱いの差が設けられていた。しかし、「差別」だとの非難を受け、そうした差は徐々に解消されていった。象徴的だった指紋押捺でさえ、廃止されるに至った。
 そして、残されている大きな問題の1つが、この参政権だ。
 しかし、在日にとって、参政権は本当に必要なものなのか?
 完全に日本国民と同じ権利を要求するのなら、むしろ帰化の簡易化を要求すべきではないのか?
 そして、民団が地方参政権に積極的である一方、総聯はこれに反対している。
 例えば↓。
http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/sinboj1997/sinboj1997/sinboj97-8/sinboj970822/sinboj97082271.htm
(ただし、この朝鮮新報のサイト内で検索したところ、最近は参政権付与を批判する記事は掲載されていないようである。かといって、賛成に転じたわけでもないようだ)
 こうした状況では、安易な地方参政権付与は、民族を分断させるものといった無用な批判を受けることにならないか。

 だが、反対論を唱えるにせよ、嘘はイカンだろ。
 最高裁は、現行法での外国人参政権の否定は合憲だとしているだけで、新規立法で外国人に参政権を付与することが憲法に反しないとも述べているのだから。
 こんなんだから、産経は全国紙の中で一段低く見られるんじゃないのか。

 産経は、保守系紙だろう。
 私の政治的立場も、基本的には保守系であり、産経の論調と重なる部分も多い。
 そんなメディアの政治記事がこれでは、正直情けない。
 こんな記事を通してしまう上司も上司だが。

 あとなあ、

本国の選挙権があるのに日本でも地方参政権を行使するというのは筋が通らない。


と言うけど、そんなことないだろ。
 本国に国政の選挙権があり、なおかつわが国での国政の選挙権をも求めるというなら、そりゃ筋が通らない。
 本国に地方参政権があり、なおかつわが国の地方参政権も求めるというなら、それも筋が通らない。
 だが、本国に国政の選挙権があるが地方参政権はなく、わが国でも国政までは要求しないが地方参政権は要求するというなら、それなりに筋が通っていると言えるだろう。

 なんでも言やあいいってもんじゃないぞ、阿比留。
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ラジャー・ノンチックにまつわる言説について

2009-10-06 00:28:25 | 「保守」系言説への疑問
 しばらく前のことだが、無宗ださんのブログの記事「【日本の恥】日本とトルコ【忘恩の徒】第二章」で、次のような記述を見た。

8)ラジャー・ノンティック元上院議員      前野徹「戦後・歴史の真実」
( マレーシア独立の父 )
http://onbutto3.hp.infoseek.co.jp/nakama/minamiguti/H16-5-1-rekisinosinnjitu.htm
  かつて 日本人は 清らかで美しかった
  かつて 日本人は 親切で心豊かだった
  アジアの国の誰にでも 自分のことのように 一生懸命つくしてくれた」

  何千万人もの 人のなかには
  少しは変な人もいたし おこりんぼや わがままな人もいた
  自分の考えをおしつけて いばってばかりいる人だって いなかったわけじゃない

  でも そのころの日本人は
  そんな少しの いやなことや 不愉快を越えて
  おおらかで まじめで 希望に満ちて明るかった
  戦後の日本人は
  自分たち日本人のことを 悪者だと思いこまされた
  学校でも ジャーナリズムも そうだとしか教えなかったから
  自分たちの父母や先輩は
  悪いことばかりした 残酷無情なひどい人たちだったと思っているようだ

  だから アジアの国に行ったら ひたすら ひたすらペコペコあやまって
  私たちはそんなことはいたしませんと 言えばよいと思っている

  そのくせ 経済力がついてきて 技術が向上してくると
  自分の国や自分までが えらいと思うようになってきて
  うわべや口先では すまなかった悪かったと言いながら
  ひとりよがりの 自分本位の えらそうな態度をする
  そんな いまの日本人が心配だ
  本当に どうなっちまったんだろう
  日本人は そんなはずじゃなかったのに
  本当の日本人を知っているわたしたちは
  今は いつも歯がゆくて くやしい思いがする

  自分のことや 自分の会社の利益ばかりを考えて
  こせこせと 身勝手な行動ばかりしている
  ヒョロヒョロの日本人は これが本当の日本人なのだろうか

  自分たちだけで集まっては
  自分たちだけの楽しみや ぜいたくにふけりながら
  自分がお世話になって住んでいる
  自分の会社が仕事をしている
  その国と 国民のことを さげすんだ眼でみたり バカにしたりする
  こんな人たちと
  本当に仲良くしてゆけるだろうか
  どうして どうして日本人は
  こんなになってしまったんだ
      1989年 クアラルンプールにて」


 この詩を読んで、私は次のような感想をもった。

・この詩は、どういう背景の下で詠まれたものなのだろうか。ある親日的なマレーシアの上院議員が、日本人の現状に業を煮やして、現地のメディアに発表したものなのだろうか。それとも、日本人に向けて書かれたものなのだろうか。
・この詩は、何語で書かれたのだろうか。
 マレーシア人なら、マレー語か英語で詠んだのだろう。
 「いなかったわけじゃない」
 「本当に どうなっちまったんだろう」
 「ヒョロヒョロの日本人」
 「どうして どうして日本人は」(の「どうして」の繰り返し)
は、原語ではどのように表記されているのだろうか。
 なんだか、まるで日本人が詠んだような詩に見えるのだが。
・ラジャー・ノンティック元上院議員が「マレーシア独立の父」であるという。しかし、googleで「ラジャー・ノンティック マレーシア独立の父」で検索しても、ヒットするのはこの詩を紹介したサイトばかりである。ラジャー・ノンティックとは、本当に「マレーシア独立の父」なのだろうか。「マレーシア独立の父」と言えば、普通は初代首相アブドゥル・ラーマンを指すのではないだろうか。

 この詩の出典とされてる前野徹『戦後・歴史の真実』を、機会があれば一度読んでみたいものだと思った。

 しばらくして、この『戦後 日本の真実』(扶桑社文庫、2002)が、新刊でもないのに、「石原慎太郎氏 絶賛!」という帯を付けて、書店で平積みになっているのを見た。増刷がかかったのだろうか。
 早速購入して、ノンティックについての記述を確かめてみた。

 次のような記述があった。

     先人たちはアジアの人々に尊敬されていた

 マレーシア独立の父にラジャー・ノンティックという人物がいます。イギリスの支配下にあったマレー半島に日本軍が進撃してきたのは、彼が十六歳の時でした。イギリス軍を破った日本軍は、マレーシア独立のために訓練所をつくり、マレーシアの若者たちに教育をほどこしました。さらに日本政府は、南方特別留学生制度を創設し、独立の指導者養成を行っています。ノンティック氏はこの留学生のひとりとして日本に招かれ、終戦後、祖国を独立へと導きました。
 後に上院議員になったノンティック氏は、日本軍のマレー人虐殺を調査に来た現地日本大使館職員と日本人教師にこう答えたそうです。
 「日本人はマレー人をひとりも殺していません。日本軍が殺したのは、戦闘で戦ったイギリス軍や、それに協力した中国系共産ゲリラだけです。そして、日本の将兵も血を流しました」
 ノンティック氏は、自分たちの歴史・伝統を正しく語りつがない日本人に対して、一編の詩をメッセージとして残しています。

 かつて 日本人は 清らかで美しかった
 かつて 日本人は 親切で心豊かだった
 アジアの国の誰にでも 自分のことのように 一生懸命つくしてくれた


 ノンティックについての記述はこれだけであった。詩の全編も紹介されていない。
 どういうことだろう?

 無宗ださんが引用しているサイトの詩の文には、3行目に

一生懸命つくしてくれた」


と、カギカッコが末尾に付いている。ノンティックの詩とはここまでで、続きは何者かが付け足した創作なのだろうか?

 しかし、いろいろ検索してみて、そうではないことがわかった。

 この詩の出典は、土生良樹という人物の『日本人よ ありがとう』(日本教育新聞社、1989)という本であった。
 古書店で入手することができた。

 また、産経新聞で1996年から97年にかけて連載された「教科書が教えない歴史」でもこの詩が取り上げられていることがわかった。
 扶桑社文庫版の『教科書が教えない歴史 自由主義史観、21世紀に向けて』(1999、最初に単行本化されたハードカバー版では4巻に相当)で確認したところ、越智薫という人物(巻末の執筆者一覧によると都立玉川高校教諭)による「祖国独立に不屈の精神を学んだノンチック」という文章が収録されている。
 この文章の冒頭に上記のノンチックの詩が引用されているが、それは前野の本と同様、3行目までである。
 越智は続けてこう述べている。

この詩を書いたラジャー・ノンチック〔中略〕は、マレーシアの独立に半生をかけた人です。
 一九四一年(昭和十六年)、日本は真珠湾攻撃と同時にマレー半島に進撃します。当時十六歳のノンチックは感激と興奮に震えました。マレーは百五十年もの間、イギリスの植民地支配に苦しんできたからです。「自分たちの祖国を自分たちの国にしよう」。彼の胸は高鳴りました。
 イギリス軍を破った日本軍は、マレーシア独立のため訓練所を造り、青少年の教育に力を注ぎます。訓練生とともに汗を流す日本人教官の姿は、マレー青年に大きな感銘を与えました。さらに、日本政府は南方特別留学生制度を作り、アジア諸国独立のため指導者養成を目指しました。
 一九四三年、ノンチックは南方特別留学生第一期生に選ばれ、同じように独立の熱意に燃えるアジアの青年たちとともに日本に派遣されます。教官たちは、留学生たちをわが子のように厳しく優しく指導し、「独立を戦いとるためには、連戦連敗してもなお不屈の精神をもつことだ」と励ましました。〔中略〕
 一九四五年(昭和二十年)、終戦の年にノンチックはこう決意を新たにします。「日本はアジアのために戦い疲れて敗れた。今度はわれわれマレー人が自分の戦いとして、これを引き継ぐのだ」。
 その後、彼はイギリス軍との苦しく激しい戦闘で、何度も窮地を切り抜け、ついに一九五七年、祖国を独立に導きました。さらに、南方特別留学生が中心となり、現在のASEAN(東南アジア諸国連合)を設立しました。
 戦後、上院議員となったノンチックは、マレーシアを訪れた日本の学校教師から「日本人はマレー人を虐殺したに違いない。その事実を調べにきた」と聞いて驚きます。そしてこう答えました。
 「日本人はマレー人をひとりも殺していません。日本軍が殺したのは、戦闘で戦ったイギリス軍や、それに協力した中国系共産ゲリラだけです。そして、日本の将兵も血を流しました」
 なぜ日本人は、自分の父たちの正しい遺産を見ず、悪いことばかりしたような先入観を持つようになったのか、はがゆい思いでした。
 「すばらしかったかつての日本人」を今の日本人に知ってほしい。そう願って、彼は晩年まで、日本の心を語り続けたのでした(土生良樹『日本人よありがとう』日本教育新聞社)。   (越智薫)


 上記の前野の本の記述が、この越智の記述に全面的に依拠していることがわかる。
 
 土生良樹の『日本人よ ありがとう』には、冒頭の詩が全文引用されていた。
 だが、改行が異なる箇所が多々ある。
 末尾も、土生著では「一九八九年四月」となっているのに、「1989年」で済まされている。
 おそらく、いいかげんにタイプした人がいるのだろう。
 それにしても、出典が土生の『日本人よ ありがとう』ではなく前野の「戦後・歴史の真実」となっているのは解せないが。

 『日本人よ ありがとう』は、このノンチックの半生記である。
 土生良樹は、1933年生まれ。1969年にマレーシアに渡航し、1974年に現地でイスラム教に帰依し、青少年の育成に当たっているそうだ。
 そんな著者がノンチックへの長時間にわたるインタビューを元に著したのが本書。

 南方特別留学生の実態やマレーシア独立の経緯については、今のところそれほど関心がないので、本書はそれほど読み込んではいない。
 しかし、上記の詩に見られるようなノンチックの日本観もまた真実なのだろうとは思う。
 こうした日本人観を持つマレーシア人がいてもおかしくないとは思う。
 それを否定するつもりはない。

 かつて、ソ連にはルムンバ大学という教育機関があった。
 コンゴ民主共和国(旧ザイール)の初代首相バトリス・ルムンバ(のち殺害された)の名を冠した、ソ連国外からの留学生を共産主義者として養成するための機関である。
 そうした機関に学び、ソ連に心酔した人々が、現在のロシアを見た場合、グローバル資本主義に堕落してしまった、かつての高邁な理想を掲げたソ連人はどこに行ってしまったのかと嘆くことがあるかもしれない。

 あるいは、日中戦争期に、八路軍の捕虜となり、洗脳され、いわゆる反戦兵士として、わが軍に対する工作活動に従事した者がいると聞く。
 そうした者が、現在の中国を見た場合にも、同様の感想を抱くことは有り得よう。

 これは別に皮肉で言っているのではない。私は本心からそう考えている。

 多感な青年期を過ごした学校や職場、あるいは地域に、愛着をもつのは当然だろう。
 その後、それから離れて、しばらくしてまた接する機会があったとき、当時とのギャップを感じれば、反発を覚えることもあるだろう。
 ノンチックの詩も、そうしたものとして見ることができるのではないか。

 少なくとも、この詩を読んで、その字句のまま、ああ、かつての日本人は「清らかで美しかった」し「親切で心豊かだった」のだなあ、今の日本人はダメなのだなあなどと感じ入る必要はあるまい。
 そんなに簡単に民族が変質してしまうものだろうか。

 「アジアの国の誰にでも 自分のことのように 一生懸命つくしてくれた」などと言われれば、かえって日本人の方が気恥ずかしくなってしまうのではないか。
 朝鮮を併合し、満洲国を建国し、華北分離工作を進めたことは、疑いようのない事実なのだから。

 ノンチックもまた、わが国の一面しか見ていなかったと考えるべきだろう。

 それと、多くの人が見落としているようだが、この詩は、単にわが国の自虐的傾向を批判しているのではない。
 うわべでは過去を謝罪しつつも、本心ではそう思っていない、日本人の二面性について批判しているのだ。
 もう一度、詩の一部を引用する。

  そのくせ 経済力がついてきて 技術が向上してくると
  自分の国や自分までが えらいと思うようになってきて
  うわべや口先では すまなかった悪かったと言いながら
  ひとりよがりの 自分本位の えらそうな態度をする
  そんな いまの日本人が心配だ

 〔中略〕

 自分のことや 自分の会社の利益ばかりを考えて
  こせこせと 身勝手な行動ばかりしている
  ヒョロヒョロの日本人は これが本当の日本人なのだろうか


 つまり、この詩は、単に「すまなかった悪かったと言」うこと自体を批判しているのではない。
 それが「うわべや口先」にとどまり、実のところは「ひとりよがりの 自分本位の えらそうな態度」をとっている、「自分のことや 自分の会社の利益ばかりを考えて こせこせと 身勝手な行動ばかりしている」、そんな日本人を批判しているのである。

  自分たちだけで集まっては
  自分たちだけの楽しみや ぜいたくにふけりながら
  自分がお世話になって住んでいる
  自分の会社が仕事をしている
  その国と 国民のことを さげすんだ眼でみたり バカにしたりする
  こんな人たちと
  本当に仲良くしてゆけるだろうか


 誤読している人もいるのではないかと思われるが、「その国」とは、日本のことではない。
 マレーシアなどの、日本人ビジネスマンが駐在するアジア諸国のことである。
 日本人は、アジア諸国に駐在しながらも、自分たちだけで集まって楽しみにふけり、その国をさげすみ、バカにしている。
 そんな人々とは仲良くできない。
 この詩は、そう訴えているのである。

 だからこそ、『教科書が教えない歴史』で、越智薫はこの詩を冒頭の3行しか引用していないのかもしれない。

 「日本人はマレー人をひとりも殺していません」というノンチックの発言も、この『日本人よ ありがとう』に由来する。
 本書の「まえがき」に、ノンチックが土生に語った内容として、次のように記されている。

 先日、この国に来られた日本のある学校の教師は、『日本人はマレー人を虐殺したに違いない。その事実を調べに来たのだ』と言っていました。私は驚きました。『日本軍はマレー人を一人も殺していません』と私は答えてやりました。日本軍が殺したのは、戦闘で戦った英軍や、その英軍に協力した中国系の抗日ゲリラだけでした。そして日本の将兵も血を流しました。


 この日本軍によるマレー人虐殺という話については、本書の「あとがき」に次のような記述がある。

 昨年(一九八八年)、日本の思想的に偏った一部マスコミは『マレーシアでも日本軍が住民虐殺をおこなった』と、マレーシアの中学校用歴史副読本と称する〝英語読本〟の挿し絵を報道して、当地の多数のマレー人長老から「日本の新聞は何を報道しているのか」と大きな非難を招きました。
 マレーシアでは、小中学校の教科書と副読本は、すべて教育省が編纂する国定本であり、マレーシアの国語〝マレーシア語〟で記されています。
 英語で書かれた副読本を一部の私立学校が使用していますが、これらの本は認められていません。


 こうした背景の下で語られた話だということだ。

 マレー人虐殺があったのかなかったのか、私は知らない。ノンチックが言うように、なかったのかもしれない。
 しかし、「日本軍が殺したのは、戦闘で戦った英軍や、その英軍に協力した中国系の抗日ゲリラだけでした」という言葉には疑問を持つ。
 大戦時、シンガポールは英領マラヤの一部であった。
 シンガポールにおける華僑虐殺は、いわゆる南京大虐殺と並ぶわが軍の汚点として知られている。
 それは「中国系の抗日ゲリラだけでした」といった表現で済まされるようなものではなかったように聞いている。
 対象がマレー人でなければ、そうしたことも問題ではないのだろうか、このノンチックという人にとっては。
 マレーシアは多民族国家である。しかし、多数派であるマレー人を華僑やインド系に比べて優遇するブミプトラ政策が採られていると聞くが。

 ところで、この話について、『教科書が教えない歴史』の記述はこうなっている。

 戦後、上院議員となったノンチックは、マレーシアを訪れた日本の学校教師から「日本人はマレー人を虐殺したに違いない。その事実を調べにきた」と聞いて驚きます。そしてこう答えました。
 「日本人はマレー人をひとりも殺していません。日本軍が殺したのは、戦闘で戦ったイギリス軍や、それに協力した中国系共産ゲリラだけです。そして、日本の将兵も血を流しました」


 土生の『日本人よ ありがとう』では、ノンチックは日本の教師に対して「日本軍はマレー人を一人も殺していません」とだけ答えたことになっている。「日本軍が殺したのは、戦闘で戦った英軍や、その英軍に協力した中国系の抗日ゲリラだけでした。そして日本の将兵も血を流しました」とは、ノンチックが後日土生に語った内容である。
 ところが、越智薫の『教科書が教えない歴史』では、これらのセリフもノンチックが日本の教師に語ったことになっている。

 さらに、前野徹『戦後 歴史の真実』では、次のようになる。

 後に上院議員になったノンティック氏は、日本軍のマレー人虐殺を調査に来た現地日本大使館職員と日本人教師にこう答えたそうです。
 「日本人はマレー人をひとりも殺していません。日本軍が殺したのは、戦闘で戦ったイギリス軍や、それに協力した中国系共産ゲリラだけです。そして、日本の将兵も血を流しました」


 「現地日本大使館職員」が勝手に加えられている。
 どんどん尾ひれがついていく。

 ここまでお読みになってお気付きの方もおられるだろうが、前野は終始「ノンティック」と書いている。しかし、越智も、その元になった土生も、「ノンチック」と書いている。
 「ロマンチック」を最近は「ロマンティック」とも書くように、「-tic」を「ティック」と書くことはあるだろう。
 しかし、ノンチックは人名である。「-tic」という表記なら、「ティック」と書いてもおかしくないが、さてどうなんだろう。

 ノンチックの綴りは、土生の本には載っていなかった。
 検索していると、マレーシア元留日学生協会(JAGAM)という組織のサイトに、次のような記述を見つけた。

JAGAMは1973年に正式に創立され、当時の会員数はわずか22人しかおりませんでした。1977年06月10日に、大先輩のRaja Dato Nong Chikの呼びかけでアセアン諸国の良い留日仲間らにより、クアラルンプールのヒルトン・ホテルでASCOJA(元留日学生会のアセアン会議)を発足させました。


 ノンチックの綴りは「Nong Chik」であった。
 とすると、「ティック」と勝手に表記するのは不適切だろう。

 余談だが、現在のマレーシア政界にも「ラジャー・ノンチック」という人物がいることが検索でわかった(公式サイト)。こちらによると、連邦直轄領相を務めているとのこと。
 この詩のノンチックとどういう関係にあるのかは未確認。

 また、私が気になっていた「マレーシア独立の父」なる言葉は、土生の本のどこにも見つけることはできなかった。
 土生に依拠している越智は、「マレーシアの独立に半生をかけた人」と記している。それは正しいだろう。
 ところが、前野の手にかかると、それが「マレーシア独立の父」となってしまう。

 前野徹という人は、著者紹介によると、東急グループの五島昇の懐刀として活躍し、東急エージェンシー社長を務めたという。退任後もアジア経済人懇話会の理事長などとして活躍したという。
 2007年に81歳で亡くなっている。
 実業家としてはどうだか知らないが、文筆家としては極めていいかげんな人物だと思える。
 前野の本は現在でも版を重ねているようなので、強調しておきたい。

 冒頭の私の疑問に戻ると、このノンチックの詩は、この土生の本に「序にかえて」として寄せられたものだった。
 原文が何語で書かれたのか、そもそも原文が存在するのかもわからない。
 
戦後の日本人は
  自分たち日本人のことを 悪者だと思いこまされた
  学校でも ジャーナリズムも そうだとしか教えなかったから
  自分たちの父母や先輩は
  悪いことばかりした 残酷無情なひどい人たちだったと思っているようだ


 マレーシア人の政治家がこんなこと言うかなあという思いは依然として残る。
 仮にノンチックがそうした日本人観をもっているとすれば、それは、当時交流があったであろうわが国の政財界の要人からそうした主張を聞き、それに影響されているのかもしれない。

 しかし、そもそもが、日本人向けの自分の半生記に寄せた一編の詩にすぎない。
 マレーシアの政治家が公式の場で日本擁護論をぶったというのならともかく、そんなにありがたがるほどのものなのだろうか。


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鳩山由紀夫内閣は民主連合政府か(笑)

2009-09-24 22:47:07 | 「保守」系言説への疑問
 小池百合子がメールマガジンで次のように述べている。
民主党の小沢幹事長が、「外国人地方参政権」の成立に意欲を見せている。
国家や領土などへの基本的意識が希薄な日本では、
この制度の安易な導入は極めて不適切、危険といわざるをえない。

そもそも現代の日本人の国家意識がなぜ希薄なのか。
昭和47年に明らかになった中国共産党による秘密文書なるものがある。
1.基本戦略:我が党は日本解放の当面の基本戦略は、
日本が現在保有している国力の全てを、我が党の支配下に置き、
我が党の世界解放戦に奉仕せしめることにある。
2.解放工作組の任務:日本の平和解放は、下の3段階を経て達成する。
1国交正常化(第1期工作の目標)=田中角栄
2民主連合政府の形成(第二期工作の目標)=小沢一郎
3日本人民民主共和国の樹立・天皇を戦犯の首魁として処刑(第三期工作の目標)

つまり、民主党による政権交代で
2の民主連合政府の形成という目標が達成されたことになる。
韓国も、この戦略に呼応した対日工作に便乗すれば、独自の地位確保が可能となる。

 呆れ果てて言葉もない。

 この中国共産党による秘密文書なるものを私は知らなかった。
 検索してみると、月刊誌『Will』2006年3月号で紹介され、広く知られることになったらしい。
 Depot(ディポ)というseesaaブログで、Will編集部による紹介文を含む全文が掲載されている。

 さらにその出所は、右派系の月刊紙『國民新聞』のサイトのようだ。
 『Will』発売当時、既に國民新聞のサイトに全文が公開されていたことが、宮正弘のメルマガからわかる。

 ざっと見たところ、日本製の偽文書ではないかと思える。田中上奏文のようなものか。いや、それほどのレベルにも達していないか。

 小池のメルマガ中の
1国交正常化(第1期工作の目標)=田中角栄
2民主連合政府の形成(第二期工作の目標)=小沢一郎
という太字部は原文にはない。もちろん、1969年に初当選したばかりの小沢の名が1972年に明らかになったという秘密文書に記載されているはずもない。小池サイドで付け足したのだろうか。田中角栄により国交正常化が成り、小沢一郎により民主連合政府が形成されたという意味で。
 メルマガには次のようにも書かれているし。
つまり、民主党による政権交代で2の民主連合政府の形成という目標が達成されたことになる。
 しかし、今般の政権交代により民主連合政府が形成されたという主張は不可解である。
 民主連合政府とは、民主党主導の連合政府という意味ではもちろんない(笑)し、単に民主的な連合政府という意味でもない。

 民主連合政府とは、日本共産党の用語である。
 戦後、武装闘争期を経て、共産党が議会主義に転じてから、1960年代から70年代にかけて、党勢を拡大した時期があった。そのころ共産党は、ソ連や中国のような一党独裁政権ではなく、社会党など他党と連合して「民主連合政府」の樹立を目指すとしていた。おそらくは、チリのアジェンデ政権のようなものが想定されていたのであろう。
 やがて社会党が共産党との共闘から中道政党である公明・民社両党とのいわゆる社公民路線にシフトしたため、民主連合政府の樹立は期待できなくなったが、共産党は現在でも民主連合政府の目標を掲げ続けている。

 要するに、民主連合政府とは、共産党を加えた連立政権のことである。この「秘密文書」でも、そのように用いられているようである。
 そして、鳩山由紀夫内閣に共産党が加わっていないことは言うまでもない。
 小池は、何を根拠に、「民主連合政府の形成という目標が達成された」などと妄言を吐いているのか。

 私は、政治については、新聞報道程度の知識しかない。個々の政治家が具体的に何を発言しているかはあまりよく知らないし、これまで政治家のホームページやメルマガを読んだこともほとんどなかった。
 しかし、読んでおくべきものだなあと、このたび強く感じた。

 私は、ずっと以前から、政権交代を可能にするためには、自民党に代わる保守政党が必要だと考えていた(ここに言う保守とは、共産化の否定、自由社会の堅持という程度の意味である)。
 だから、日本新党の結成は歓迎したし、そこに当初から加わっていた小池には期待していた。
 比較的早くから朝銀の問題を指摘していた点も評価していた。

 しかし、こんな怪文書を根拠に民主党を攻撃するようでは、話にならない。
 統帥権干犯を唱えて民政党内閣を攻撃した政友会と同類であろう。
 他のメルマガの記事にも、疑問に思う点は多い。
 小泉構造改革を継承する気概もないようだし、今後小池に期待できるものはなさそうである。
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戦没者と戦死者

2009-09-18 23:56:17 | 「保守」系言説への疑問
 先に、靖国神社と新追悼施設に思うこと(上)という記事で、私はこう書いた。
「戦没者」とは普通、民間人の犠牲者も含む。東京大空襲や原爆投下などで亡くなった人々を含む概念である。政府が毎年8月15日に行っている「全国戦没者追悼式」に言う「戦没者」もそれを指している。
 しかし、靖国神社は、あくまで国のために尽くして亡くなった人々を神としてまつる施設である。一般の民間人の犠牲者をまつっているわけではない。
 靖国神社は、「戦死者」、つまり戦って亡くなった人の慰霊の中心施設であるとは言えるだろうが、「戦没者」の慰霊施設であるとは言えない。
 産経はこの点をごまかして、靖国が一般人の犠牲者をも追悼する施設であるかのように印象づけようとしている。
 しかし、異なる意見もある。
 日本会議のホームページに、「平成14年8月15日 戦歿者追悼中央国民集会」の記事が載っている。その集会で、主催社代表の1人として、小田村四郎が次のように述べたという(太字は引用者による)。
国立追悼施設は国家の生命を分断する

小田村四郎 日本会議副会長・拓殖大学総長

私は国立追悼施設構想にたいへん危惧を抱いています。第一に懇談会の趣旨にある何人もこだわりなく戦没者を追悼することができる施設について、政府は公式に外国人も含むと回答しております。これでは戦没者追悼という国の内政事項に外国が発言権を持ち、中国、韓国の属国になることは明らかで、サンフランシスコ講和条約五十周年を迎えた日本の独立主権を改めて否定する結果になります。

第二に政府並びに追悼懇は戦没者の意味を解していません。戦没者とは昭和二十七年四月に制定された戦傷病者戦没者等援護法に用いられた公式用語で、軍人・軍属等で公務上死亡した方を意味するのです。追悼懇はその概念について無知であるために、一般戦災者や外国人の戦死者までもその対象に含めようと議論している。
 もし、産経新聞がこういう解釈に従って「戦没者」という用語を用いていたのだとしたら、先の私の批判は的外れだったということになる。

 ウィキペディアによると、小田村四郎は東京帝国大学法学部政治学科卒。学徒出陣を経て、戦後に復学、卒業し、大蔵官僚となり、行政管理庁(総務省の前身の1つ)の事務次官まで務めたという。その後日銀監事や拓大理事、そして総長を務めた。

 だが、実際に戦傷病者戦没者等援護法の条文を読んでみると、どこにも「戦没者」の定義付けはなされていない。
 たしかに、この法律は、軍人・軍属等で公務上負傷した者や、死亡した者の遺族に対する援護策を定めたものである。一般人は含まれていない。だから「戦傷病者」「戦没者」は軍人・軍属等を指すという見方もできるだろう。しかし、定義付けがなされていないところを見ると、そのように限定してしまうことへのためらいがあったようにも思われる。
 そして、仮に、この法律上で、小田村が言うような「戦没者」の定義付けがなされていたとしても、それはあくまでこの法律上でのみ通用するものにすぎない。「戦没者」の一般用例を拘束するものではない。
 元高級官僚である小田村が、そんなことを知らぬはずもあるまい。

 小田村はこう続ける。
そもそも戦没者追悼とは、英霊の志を継いで我が国の平和を守ろうという決意を固めることです。決意を伴わない施設を建設して、国家的な行事の対象とすることは祖国防衛という戦没者追悼の中心的意義を消しさろうとする恐るべき陰謀であります。
 先の戦争がわが国にとって被侵略戦争だったのなら、小田村の言うこともわからないでもない。
 しかし、わが国から開戦し、そのあげく国を滅ぼしておいて、「志を継いで」「我が国の平和を守ろう」もないもんだと思うが。
 小田村の言う「祖国防衛」とは、真の意味での防衛ではないのだろう。「大東亜戦争は自衛戦争だった」という主張と同様の意味だろう。その「志を継いで」とは、つまりは、開戦も含めた、戦前のわが国の行動の全肯定なのだろう。
 それでは戦死者はいたたまれないのではないかと私は思うが、小田村は戦前への復帰こそが英霊に応えることだと考えているのだろう。

 私は、戦没者追悼とは、わが国はこんなに復興しましたが、あなたがたの犠牲があったことを私達は忘れていません、どうぞ安らかに眠ってくださいと祈るものだと思っていたが、小田村の考えは違うらしい。
 その小田村は、ウィキペディアによると、靖国神社の崇敬会総代の1人であるという。
 上に挙げた「戦歿者追悼中央国民集会」も、「英霊にこたえる会」と日本会議の主催により、靖国神社で毎年行われているもののようだ。

終戦に際して、陛下が最大の目的とされたのは国体の護持でありました。それを破壊しようというのが新しい追悼施設の建設です。総理は充分認識していないが、その意図を明らかにして、抗議行動を全国に展開しなければ、国家の危急は救えないと思う次第です。
 しかし、国体の護持だけでもできればよいというレベルにまでわが国を追い込んだのは誰なのか。その国体の護持さえ危うくしたのは誰なのか。そして、A級戦犯合祀の判明後、天皇の靖国参拝が途絶えたという事実を小田村はどう見るのか。

 私は、国家が兵士を追悼する施設は必要だと思っている。また、民衆の素朴な靖国神社や護国神社への信仰をむげに否定する気にはなれない。
 しかし、靖国神社がどういう思想の下で、どういう者どもによって運営されているのかということは、もっと知られてもよいと思う。
 先の私の記事で引用した産経新聞の「主張」は、こう述べていた。
64回目の終戦の日を迎え、東京・九段の靖国神社には炎暑の中、今年も多くの国民が参拝に訪れた。高齢者の遺族や戦友たちにまじって、親子連れや若いカップルが年々増え、この日の靖国詣でが広く国民の間に浸透しつつあることをうかがわせた。
 しかし、彼らのうちどれだけの者が、上記のような主張をする小田村のような者が総代の1人であるということを知っていただろうか。
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民主党の国旗騒動に思うこと

2009-08-31 23:28:47 | 「保守」系言説への疑問
 選挙前、民主党が今月8日の鹿児島県での集会で壇上に掲げた党章が、わが国の国旗「日の丸」を切って貼り合わせたものだったことが問題になった。
 自民党や産経新聞などはそれみたことかと民主党の国家観を問題視してさかんに攻撃したが、結局、投票行動にはあまり影響を与えなかったようだ。

 民主党が国旗を損壊したことは事実だし、国旗は尊重すべきものであることもまた確かだが、党章は国旗を貼り合わせて作るべしと民主党本部が自ら指示していたわけでもあるまいに、こんなことしか言えないのかと有権者はむしろ自民党に呆れかえったのではないだろうか。

 この件についての自民党パンフレットをそのまま載せているらしい無宗ださんのブログの記事「日教組に日本はまかせられない」を見ていて思ったのだが。

 冒頭に「「日の丸」のある自民党大会」と「「日の丸」のない民主党大会」と題された写真が対照的に掲げられている。

 その、今年行われた第76回自民党大会の写真を見ると、壇上に2つの旗が掲げられている。
 1つは日の丸、もう1つは菊の御紋章だろう。

 ……自民党のマークはどうした?

 そして、何故党大会に菊の御紋章がある?

 このパンフは、「民主党大会では国旗「日の丸」が掲揚されていません。」と述べ、それは民主党の支持団体である日教組の意向によるものだとして、日教組をさかんに攻撃している。
 その内容には、私も同調できる部分は多々ある。

 ただ、その上で言うが、何故「日の丸」と「菊の御紋章」なのか。

 安倍晋三が首相だった時、私は安倍が来るという補欠選挙の応援演説を見に行ったことがある。
 その時聴衆には何故か日の丸が配られた。
 私は、以前にも記したように、そのことにひどく違和感を覚えた。
 国家的行事、例えば、皇太子ご成婚とか、天皇の即位とか、そういったことで日の丸を振ることはあるだろう。国際的なスポーツの大会で日の丸を振ることもあるだろう。
 だが、選挙の応援演説に何故日の丸なのか?

 国旗は尊重すべきものである。しかし、政党というのは、要するに同志の集まりである。国とは直接関係ない。
 自民党は長期にわたって与党だった。しかし、だからといって自民党のみがわが国を代表できるのではない。日の丸は国旗である。自民党のマークではない。
 にもかかわらず、何故党大会や選挙演説で日の丸なのか。

 民主党に日の丸を軽視する傾向があることは事実だろう。
 しかし、一方自民党は、「日の丸」を私物化していると言えるのではないか。

 菊の御紋章に至っては何をか言わんや。
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「真の近現代史観」?

2009-01-04 23:48:40 | 「保守」系言説への疑問
 田母神論文が問題になったアパグループの懸賞論文は「真の近現代史観」と題されていた。
 この懸賞で受賞するような論文が「真の近現代史観」であって、それ以外の近現代史観は偽の近現代史観だというのだろう。
 例えば唯物史観とか、あるいは東京裁判史観とか、いわゆる自虐史観は、偽の近現代史観だというのだろう。

 真正保守主義(者)という言葉を時々目にする。
 これも、真正な保守主義とそうでない保守主義があるというのだろう。

 保守とは果たしてそういうものなのだろうか。

 複数の物の見方や考え方、主義主張があって、その中から自分はこれを支持する、これが妥当だと思うと選択するというのはわかる。私もそうしている。
 しかし、その自分の信ずる説が真であって、その他のものは偽であるという感覚は、ちょっとよくわからない。
 数学じゃあるまいし。

 これは、キリスト教やマルクス主義に見られる、正統と異端を峻別する思考法ではないだろうか。
 わが国の思想の伝統とも無縁なら、西欧型の保守主義ともまた異なるものではないだろうか。

 そういえば、だいぶ前に、中川八洋の『正統の哲学 異端の思想』という本を読んだ。ホッブズやバーク、チェスタトンなどの著作は「正統の哲学」であり推奨に値するが、ロック、ルソー、マルクスらの著作は「異端の思想」であり読むに値しないという内容だったと記憶している。
 しかし私には、バークやチェスタトンが、自らの思想は「正統」であり、反対派の思想は「異端」であるなどと述べるとはとても思えないのだが。
 そうした思考法は、ルソーやマルクスの裏返しであり、むしろ本来の保守とは対極に位置するものではないだろうか。

 「真の近現代史観」「真正保守主義」といった用語に何ら疑問を持たない自称保守主義者がいるとすれば、彼らは何か別のものを保守主義と混同しているのだろう。

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田母神論文への反応に対していくつか思ったこと(2)

2008-11-16 00:31:06 | 「保守」系言説への疑問
(3)軍部の独走への無反省

 田母神更迭の理由は、政府見解(村山談話)に反するからということのようだ。
 しかし、田母神論文の最大の問題点は、単にわが国による侵略を否定したことではなく、軍人でありながら、旧日本軍のありように対して全く批判的な視点が見られないことにあると私は思う。
 例えば、田母神は満洲国を肯定的に評価するが、わが国は国策として満洲事変を起こし、満洲国を建国したのだろうか。
 違うだろう。石原完爾ら関東軍の独走によるものだろう。
 ロンドン軍縮会議のころから軍人が露骨に政治に容喙するようになってきた。五・一五事件で政党内閣は終焉を迎え、二・ニ六事件後には軍部大臣現役武官制が復活し、陸軍が内閣の生殺与奪を握るようになった。端的に言って、陸軍が国政を牛耳るようになっていった。
 日中戦争にしても、出先が中央の指示に服さずにドンドン進んでいってしまうという面があったと聞く。
 私は、軍部が戦争に引きずり込んだ、だから国民は被害者だなどと言うつもりはない。政治家や官僚にもそれに同調する者はいたのだし、総体的に見れば、国民もまたそれを支持していたとも思えるからだ。
 しかし、昭和前期において、政治的軍人が国政に大きな役割を果たしていたのもまた事実だろう。
 軍人勅諭で軍人の政治への介入は禁じられていたにもかかわらず。
 田母神がこの点についてどう考えているのか、論文には明記されていない。しかし、戦前日本を全肯定するその姿勢からは、さして問題があるとは考えていないであろうことは容易に想像がつく。
 だとすれば、朝日社説のような、文民統制を危惧する見解が出てくるのもまたやむを得ないだろう。


(4)栗栖発言との差異

 田母神論文にまつわる騒動について、1978年の栗栖弘臣倒幕議長の「超法規的」発言との類似性を指摘する声がある。

 小堀桂一郎は11月6日付け産経新聞「正論」欄で、次のように述べている。

1日付の本紙は、歴史認識についての発言が政府の忌諱(きき)にふれて辞任を余儀なくされた、昭和61年の藤尾氏、63年の奥野氏を始めとする5人の閣僚の名を一覧表として出してをり、これも問題を考へるによい材料であるが、筆者が直ちに思ひ出したのは昭和53年の栗栖統幕議長の更迭事件である。

 現在の日本の憲法体制では一朝有事の際には「超法規的」に対処するより他にない、といふのが、国家防衛の現実の最高責任者であつた栗栖氏の見解で、それはどう考へても客観的な真実だつた。栗栖氏は「ほんたう」の事を口にした故にその地位を去らねばならなかつた。その意味で今回の田母神空幕長の直接の先例である。


 産経新聞の元政治部長であり現在は客員編集委員を務め、田母神論文の審査委員も務めた花岡信昭も、産経紙上で同様のことを述べている

田母神氏は「第2の栗栖」として歴史に残ることになった。統幕議長だった栗栖弘臣氏は昭和53年、自衛隊法の欠陥をついた「超法規発言」で更迭された。25年後の平成15年、武力攻撃事態対処法が成立した。栗栖氏はこれを見届け、その翌年に84歳で死去している。
 

 私は栗栖事件の詳細は知らないので多くは語らない。
 ただ、当時自衛隊法にそうした不備があったことは事実だろう。
 そういう意味では、「「ほんたう」の事を口にした」と言えるだろう。

 翻って田母神論文は、果たして「「ほんたう」の事を口にした」と言えるだろうか。
 今、この時期に、空幕長の地位にある者が、懸賞論文などという手段で(普通、懸賞論文とは、社会的に無名の者が応募するものだろう。少なくとも、空幕長クラスの人物が応募するにふさわしいとは思えない)表現するにふさわしい内容だっだろうか。

 栗栖発言にはまだしも意義があったと思う。しかし、田母神論文には何の意義があるのだろうか。
 この2つを同列視できる小堀や花岡はどうかしている。

 
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