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日々の思いをたまに綴るブログ。

本の処分に思うこと(2)

2023-02-26 18:05:28 | 身辺雑記
 前回の記事で引用した、中野善夫氏が『本の雑誌』2023年2月号で取り上げていた、清水幾太郎『本はどう読むか』(講談社現代新書、1972)。
 清水幾太郎には『論文の書き方』(岩波新書)、『私の文章作法』(中公文庫)といった著作があるのは知っていた(前者は未読)が、こんな新書があって、しかもこんにちまで版を重ねているとは不覚にも知らなかった。
 早速購入して読んでみた。
 すると、こんなことが書いてある。

心の掃除をする
 本に埋もれて生きるというのは、昔から高尚な生き方とされている。そこには、世俗の富貴を求めず、ひたすら真理を憧れて生きて行く人間の姿がある。そこまで考えなくても、今まで買い求めてきた書物、熱心に読んで来た書物、これらの書物には自分の精神の歴史があるとは言えるであろう。そういう本を片端から売ってしまったほうがよいと言っているのではない。しかし、自分の精神が或る成長を遂げた結果、自分との間にもう有機的な関係のないような書物、極端な言い方をすれば、一種の垢のような書物、そういう書物が身辺に蓄積されていることがある。直ぐ読まなくても、新しい本を買うと、環境に新しい要素が加わり、それが新鮮な刺戟になる、という意味のことを前に述べた。それが、知らぬ間に、私たちを新しい勉強に誘い込む。似たことは、垢のような書物についても言える。垢のような本も、それはそれで、私たちの環境を組み立てている要素であり、私たちが手に取って読まなくても、そこに存在するというだけで、私たちに語りかけ、私たちの心を古い軌道にとどめる働きをする。「夢の島」ほどではないにしろ、ひどく汚染された環境の中に私たちが住み慣れていることがある。時々、環境を調査して、垢のような、塵芥のような本を売り払った方がよい。もちろん、今は垢であり塵芥であっても、買った時には、私たちの心に新鮮な刺戟を与える書物であったのであるから、いざ、売るとなると、誰でも小さな決意が必要になる。もう一度、繰り返して言うが、私は、無理に売ることを勧めているのではない。考えた末、占いと決心したのなら、それも結構である。いけないのは、ズルズルベッタリの態度である。結果として、売ることになったにせよ、売らないことになったにせよ、小さな決意を通して、環境の清掃だけでなく、心の掃除をした方がよい。〔中略〕お金のことは知らないが、本は、溜まるほどよいとは限らない。(p.118-120)


 中野善夫氏が引用していたように、確かに清水は、本は借りるのではなく自分で買うべきものだと言い、今すぐ読まないとしても気になる本はまず買っておくべきと言ってはいるが、天に届くまで積み上げろとは言っていない。時には売り払うことも必要だと言っている。

 そういえば、昔々読んだ呉智英『読書家の新技術』(朝日文庫)も、新陳代謝を促すため本を売ることを勧めていた。
 10年ぐらい前に買って何度も読み返している岡崎武志『蔵書の苦しみ』(光文社新書、2013)も、
「蔵書は健全で賢明でなければならない」
「溜まりすぎた本は、増えたことで知的生産としての流通が滞り、人間の体で言えば、血の巡りが悪くなる。血液サラサラにするためにも、自分のその時点での鮮度を失った本は、一度手放せばいい」
「下手をすると〔蔵書は〕三万冊ぐらいあるのかもしれない。年に一千冊の本を触るなり、読むなり、一部を確かめたりしたとしても、すべきを触り終わるには三十年かかる。これからも本は増えていくに決まっているし、いくらなんでも、それは健全ではないだろう」(p.26-27)
と述べていた。
 同じような話だな。

 このたび清水『本はどう読むか』を読んでみて、本の処分を進める意志をますます強くした。


60年安保騒動は「戦後民主主義擁護の闘い」だったか

2023-02-24 08:08:29 | 日本近現代史
(以下の文章は、2020年5月9日に朝日新聞に掲載された、60年安保騒動についての特集記事を読んでの感想である。
 大部分はその頃に書いたものだが、完成させずに放置していて、昨年書き終えたものの、公開するのをを忘れていたものである。
 完全に時機を逸しているが、この感想は今も変わっていないので、これ以上古くならないうちに、公開しておく、)

 2020年5月9日付朝日新聞は「歴史特集 日米安保」の第2回「「転機」 60年安保改定、岸信介の強行と退陣」を載せた。1ページ丸々充てた特集記事だ。
 それを読んで、昨今60年安保が語られるのを聞いて受ける違和感を改めて覚えた。

 かつて軍部と組んで権力中枢を担った岸が戦後に目指したのは、占領下で制定された憲法を改正し、強い国家を再建することだ。吉田が結んだ51年の安保条約は、占領を継続する屈辱的内容だと批判していた。
 岸は、保守勢力を束ねて55年に自由民主党を結成。57年に首相になると安保改定を目指した。岸を反共指導者と見た米国も応じた。60年1月19日、新条約がワシントンで調印された。

 ■もはや問答無用
 この時点で、世論の評価は必ずしも否定的ではなかった。新条約は米国の日本防衛義務を明記し、内政関与につながる「内乱条項」を削除。対等性が増したことは間違いなかった。
 だが、思わぬ展開になった。両国はアイゼンハワー大統領が6月19日に国賓として訪日することで合意。日本としてはそれまでに条約に必要な国会承認を得たい。条約は衆院で承認されれば、参院で承認されなくても30日で自然承認される。訪日1カ月前が衆院のデッドラインになった。
 国会はもめた。条約に定める「極東」の範囲はどこなのか。「事前協議」に日本側の拒否権はあるのか。
 岸は「もはや問答無用というのが偽らざる気持ち」(「岸信介回顧録」)となった。5月19日深夜、警官隊が社会党議員を排除、自民党単独で衆院本会議で会期延長を可決し、引き続き条約承認を決めた。 
 戦前の岸を覚えていた国民は激しく反発した。
 オピニオンリーダーの東大教授丸山真男は訴えた。「権力が万能であることを認めながら、同時に民主主義を認めることはできません」(「選択のとき」)。安保論争は、戦後民主主義擁護の闘いとなった。
 

 ここに書かれている旧日米安保条約と改定後の対比は正しい。

 旧条約は、日本は自国を防衛する有効な手段を持たないから、米国の駐留を「希望する」となっている。しかし、米国に日本を防衛する義務があるとはなっていない。
 おまけに、第1条では、

 平和条約及びこの条約の効力発生と同時に、アメリカ合衆国の陸軍、空軍及び海軍を日本国内及びその附近に配備する権利を、日本国は、許与し、アメリカ合衆国は、これを受諾する。この軍隊は、極東における国際の平和と安全の維持に寄与し、並びに、一又は二以上の外部の国による教唆又は干渉によつて引き起された日本国における大規模の内乱及び騒じようを鎮圧するため日本国政府の明示の要請に応じて与えられる援助を含めて、外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するために使用することができる。


と、外国によつて引き起されたわが国の内乱や騒擾に対しても米軍が出動できるとなっている。

 これを改め、米国の日本防衛義務を明記し、内乱条項を削除したのが、1960年の新条約である。
 結構なことではないか。

 では何故、あれほどの広範な反対運動が起こったのか。
 記事が述べるように、岸政権がアイク訪日に合わせてデッドラインを引き、衆院で強行採決を行い、それに世論が強く反発したのは事実である。
 だが、それ以前から、安保改定は政治の争点になっていた。

 1959年3月、「安保改定阻止国民会議」が結成された。これは、社会党、総評、中立労連、原水協(原水禁が分裂する前の)、日中国交回復国民会議など13団体が幹事となり、当初134の団体が参加した。翌年3月には1633団体にまでふくれあがったという。共産党はオブザーバーとして参加した。
 国民会議は計19回に及ぶ統一行動を実施した。その参加者は労働組合員と全学連の学生が大多数を占めていた。

 では何故、社会党や共産党は安保改定に反対したのか。
 彼らは、そもそも、旧安保条約にも、それと同時に結ばれたサンフランシスコ平和条約にも反対であり、在日米軍にも自衛隊の存在にも反対だった。
 東西対立の時代に、西側の一員であること自体に反対し、非武装中立を主張していた。
 1959年3月、社会党の浅沼稲次郎書記長は、北京での演説でこう述べた(当時まだ日中に国交はなかった)。

極東においてもまだ油断できない国際緊張の要因もあります。それは金門,馬祖島の問題であきらかになったように,中国の一部である台湾にはアメリカの軍事基地があり,そしてわが日本の本土と沖縄においてもアメリカの軍事基地があります。しかも,これがしだいに大小の核兵器でかためられようとしているのであります。日中両国民はこの点において,アジアにおける核非武装をかちとり外国の軍事基地の撤廃をたたかいとるという共通の重大な課題をもっているわけであります。台湾は中国の一部であり,沖縄は日本の一部であります。それにもかかわらずそれぞれの本土から分離されているのはアメリカ帝国主義のためであります。アメリカ帝国主義についておたがいは共同の敵とみなしてたたかわなければならないと思います。(拍手)〔太字は引用者による〕


 いわゆる「米帝国主義は日中国民共同の敵」発言である。
 ここに見られるように、台湾は中国に併呑されるべきだというのが、当時の左翼の立場だった。
 もちろん、朝鮮半島においては北朝鮮が正統な政権であり、韓国は米帝国主義の傀儡だと見ていた。

 1959年7月、社会党右派の西尾末広は、現行条約に代わる新しい安保体制をどうするかという具体的な対案のない単なる反対運動は駄目だという趣旨の発言をして、左派の反発を招いた。同年9月の党大会では西尾を除名するかどうかが問題となり、統制委員会に付することになった。西尾は10月に離党し、1960年1月に民主社会党(のちの民社党)を結党した。

 また、1959年3月、砂川事件について、東京地裁の伊達秋雄裁判長は、在日米軍の存在は憲法違反であるとの判決を言い渡した(12月、最高裁判決により破棄)。

 このような時代背景を忘れてはならない。

 「「極東」の範囲はどこなのか」は確かに国会で論戦となった。
 しかし、「極東」の範囲を明確にすることに何の意味があったのか。
 原彬久『岸信介』(岩波新書、1995)にこうある。

社会党の安保特別委員の一人飛鳥田一雄は、「あの議論はわれわれ自身バカバカしいと思ったが、大衆性があった」と回想する(飛鳥田インタビュー)。
 確かに「極東の範囲」は、理論的にはほとんど意味をなしていなかった。なぜなら、在日米軍の行動はそれが「極東の平和と安全」(第六条)を目的とする限り、地域的に制約されないのであって、「極東の平和と安全のためならば極東地域の外に出て行動してさしつかえない」(『安全保障条約論』)という旧条約上の論理は、新条約においても正しいからである。(p.217)


 岸が「もはや問答無用」となったのは何故だろうか。
 それは、院外の反対運動の盛り上がりに加え、野党第1党である社会党の姿勢に全く妥協の余地がなかったからである。
 原の同書にはこうもある。

「政府与党が批准を断念する以外に社会党が納得する方法がないとすれば、もはや問答無用というのが偽らざる気持ちだった」(岸インタビュー)(p.218)


 少数党が座り込み、院外で反対派が吠え立てれば、審議を中止して批准を断念するのが、戦後民主主義のあり方なのだろうか。
 それでは、少数派が多数派を支配することにならないか。

 仮に安保改定が成立していなければどうなっていただろうか。
 安保改定は、もちろん米国が持ち出した話ではない。岸が主導して、米国を了承させたものだ。

 米国は岸を信頼して不利になる条約改定に応じたのに、それが日本国内の事情で失敗に終われば、米国のわが国に対する不信感は増しただろう。
 改定は遠のき、わが国にとって不利な条約が継続することになっただろう。沖縄や小笠原の米国からの返還だって、どうなったかわからない。

 また、社会党や共産党、労働組合や全学連はいざしらず、国民一般は、岸の強引な政治手法に反発したのであって、安保改定そのものはもちろん、日米安保にも自民党政権の継続にも必ずしも反対ではなかった。
 だから、岸退陣後に成立した池田政権に退陣が要求されることはなく、1960年11月に行われた衆院選は自民党の大勝に終わった。
 日米安保条約は、改定により10年ごとに延長されることになった。1970年の延長に際しては、学生運動が延長阻止を主張したが、それは国民に広く浸透することはなかった。そして、80年から後は延長が政治的争点になることもなかった。
 1993年に自民党が下野し、誕生した細川政権の一員となった社会党は、自衛隊を合憲と認めた。

 とすれば、岸信介の決断は正しかったのではないか。
 となると、安保闘争は誤っていたということになるのではないか。

 この朝日の記事で、山本悠里記者は、

 ■闘争の意味は、終わらぬ問い
 国会議事堂を幾重にも人が取り囲み、抗議の叫びが続く。平成生まれ、28歳の私にとって、「60年安保」とは白黒の映像や写真だ。しかし、今と断絶した昔話ではない。あの闘争とは何だったのか。市民の怒りは無力だったのか。60年安保の意味を、なおも問いかける人々がいる。


として、反対運動に加わった父をもつ木版画家と、2015年にSEALDsで安保法制に反対した活動家の発言を紹介し、

 風間さんや牛田さんを通じて浮かぶのは、直面する状況を危機ととらえ、怒りの声を上げた人々がいる事実を、絶えず歴史に刻み続けることの意義ではないか。


と述べている。

 こんにちでも、安保改定は誤っていた、旧条約のままで米国にわが国の防衛義務など持たせない方がよかったと思うのなら、そう主張すればよい。
 あるいは、在日米軍も自衛隊も不要である、非武装中立を目指すべきだと思うのなら、そう主張すればよい。
 そうするわけでもなく、「あの闘争とは何だったのか」との問いに、「直面する状況を危機ととらえ、怒りの声を上げた人々がいる事実を、絶えず歴史に刻み続けることの意義」などを説いて、何になるというのだろうか。
 そんなものは、わが国は米英の侵略を防ぐためやむにやまれず立ち上がったとか、大東亜解放のための戦争だったとかいったフィクションを信じ、特攻に殉じた若者の純粋さを賛美する姿勢と何も変わらないのではないか。


選択的夫婦別姓が「不自然な少数」によって切り崩された?

2023-02-20 11:59:02 | その他のテレビ・映画の感想
 朝日新聞テレビ・ラジオ欄の島崎今日子氏のコラム「キュー」をいつも楽しみに読んでいる。

 1月8日には、のっけから

 プログラムが、徳川家康だらけになっているNHK。年明けの「ニュースウォッチ9」でも、大河の番組宣伝をいれてきたのには驚いた。せめて番組の最後に流すとか、公共放送の報道番組としての気概を見せたらどうなのか。


との厳しい指摘。全く同感だ。

 そして島崎氏は、NHKは年末に冤罪事件を扱った特番でドキュメンタリーの力を見せつけたのにと嘆き、

冤罪事件では、大きな力が個人を踏みつけていくという構造がどれも同じなのが、恐ろしい。
 と思っていたら、2日、Eテレで放送された「100分deフェミニズム」でも、法制化寸前までいった選択的夫婦別姓が「政治的に非常に誇大化された勢力が潰した。自然な多数ではない、不自然な少数による大きな力が加わって切り崩された」との発言があった。発言者は、歴史学者の加藤陽子さん。 


と指摘。

 私はこの「100分deフェミニズム」は見ていないのだが、ここで挙げられている加藤氏の発言には違和感を覚えた。

 法制化寸前までいったとは、1996年に、法制審議会が、選択的夫婦別姓を含む民法改正要綱を答申したものの、自民党の反対にあって、国会提出に至らなかったことを指すのだろう。

 だがこの時、夫婦別姓は、多数の国民の支持を得ていたと言えるのだろうか。
 もし本当にそうだったのなら、大問題になっていたのではないか。
 私はこの頃、既に就職していたが、職場の上司が、時期尚早ではないかとつぶやいていたのを記憶している。

 内閣府のサイトに掲載されている、1995年(平成8年)6~7月に行われた世論調査において、選択的夫婦別姓に関する質問と回答は次のようになっている。

Q11 回答票17〕現在は,夫婦は必ず同じ名字(姓)を名乗らなければならないことになっていますが,「現行制度と同じように夫婦が同じ名字(姓)を名乗ることのほか,夫婦が希望する場合には,同じ名字(姓)ではなく,それぞれの婚姻前の名字(姓)を名乗ることができるように法律を改めた方がよい。」という意見があります。このような意見について,あなたはどのように思いますか。次の中から1つだけお答えください。
(39.8) (ア) 婚姻をする以上,夫婦は必ず同じ名字(姓)を名乗るべきであり,現在の法律を改める必要はない(Q12へ)
(32.5) (イ) 夫婦が婚姻前の名字(姓)を名乗ることを希望している場合には,夫婦がそれぞれ婚姻前の名字(姓)を名乗ることができるように法律を改めてもかまわない(SQへ)
(22.5) (ウ) 夫婦が婚姻前の名字(姓)を名乗ることを希望していても,夫婦は必ず同じ名字(姓)を名乗るべきだが,婚姻によって名字(姓)を改めた人が婚姻前の名字(姓)を通称としてどこでも使えるように法律を改めることについては,かまわない(Q12へ)
( 5.1) わからない(Q12へ)


 反対 39.8%、賛成32.5%、同姓だが旧姓使用可に改めるが22.5%となっている。
 これで、反対派が「不自然な少数による大きな力」だと言えるだろうか。

 当時法務官僚だった小池信之氏は、2022年4月の東京新聞のインタビューで次のように述べている(太字は引用者による)。

—96年、法制審が選択的夫婦別姓制度を含む民法改正案を答申したが、国会提出に至らなかった。
 法案を国会に提出する前に自民党の審査をパスする必要があったが、それができなかったからだ。当時、法制審の事務局として、議論を取りまとめたり、国会議員に説明に回ったりした。感覚的には自民党議員の8〜9割が反対していた。
 —どうして自民党議員は反対したのか。
 理由はおおよそ5つぐらいに整理できる。
 まず、当時はまだ「なぜ婚姻の際に旧姓を名乗り続ける必要があるのか理解できない」という意見がかなりあった。
 次に「旧姓の通称使用を広げればいいのであって、民法を変えるまでもない」との意見だ。
 最も多かったのが「家族の一体感の維持」との意見。つまり「夫婦と子どもが氏を同じくすることによって家族の絆や一体感、連帯感が守られている。制度導入で絆の弱い家族が生まれ、日本社会にとって好ましくない」というものだ。
 ほかに「氏は家族のもので、個人のものではない」との意見もあった。戦前の家制度がなくなった今も「○○家の墓」などにみられるように、氏が家の名称として機能している面があるとの認識に基づくものだ。
 少数ながら「夫婦同氏は日本社会の伝統、良き風習であるから、守るべきだ」という意見もあった。夫婦同氏制を一種の慣習法、不文法とみる考えだろう。
 —自民党に賛成議員はいなかったのか。
 公の場で賛成と発言されたのは、記憶している限りでは、当時の野中広務幹事長代理、佐藤信二議員、森山真弓議員(以上故人)、現職の野田聖子議員ぐらいだったと思う。
 私自身は制度導入について婚姻時に夫婦の氏の選択肢が一つ増える、一種の「規制緩和」と認識していた。ところが自民党に説明に行ったら、日本の伝統、家族の絆といった家族論や価値観の次元の問題と捉える意見が多く、これは容易なことではないと痛感した。
 —制度導入の可能性をどうみるか。
 法案提出を断念した26年前は、自民党の反対論が非常に強いと感じたので「あと1世紀は駄目だろう」という感触を持った。今は党内に議連ができ、議論ができるまで進展したのは間違いない。ただ、子どもの氏をいつ、どうやって決めるのかなど、難しい課題が残っている。
 夫婦同姓を強制している国は、おそらく日本だけだろう。旧姓使用の拡大では、二重の氏を認めることになり、国際的にも通用しないのではないか。
 最大の決め手は国民の意向だろう。自分は同姓で結婚したいと思っている人たちが、「国の制度としては、別姓で結婚したい人たちの希望をかなえる制度が必要だ」と考えるようになるかどうか。そのためにもオープンな場でこの問題を議論するのがフェアなやり方だ。法案を提出し、衆参両院の法務委員会で議論をし、地方でも公聴会などを開くべきではないか。


 この頃自民党は、過半数を割っていたとはいえ第1党である。その「8〜9割が反対していた」というのが、「政治的に非常に誇大化された勢力」「自然な多数ではない、不自然な少数による大きな力」だと言えるだろうか。

 その後、夫婦別姓賛成派は増加している。だが90年代当時からそのような状況にあったわけではない。加藤氏は過去の事実を誤って認識してはいないか。
 歴史学者が歴史修正主義に陥ってしまっては、笑い話にもならない。

本の処分に思うこと

2023-02-19 14:05:14 | 身辺雑記
 一昨年の後半から、何度か本をまとめて段ボールに詰め、宅配買取で売却している。

 それまで、本の処分といえば、重いのを我慢して古書店やブックオフに持っていって売るか、値段の付かなそうなものをひもでしばって紙ごみの日に出すか、その二通りしかしていなかった。

 私は、蔵書家というほどではないが、一般的な目で見れば、まあまあ本を持っている方だと思う。
 本棚は複数あるのだが、常にいっぱいで、床に本が積まれている状態である。
 転居をしたこともあるが、もう20年以上こんな状態である。
 際限なく床積み本が増えて足の踏み場もないということにならなかったのは、さすがにある程度は処分していたからだが、それでも家人から非難されながらも、床積み本がなくなることはなかった。

 しかし、一昨年あたりから、これではいかんと思うようになった。
 理由は3つある。

 1つめは、美観を損ねること(今更…)。
 2つめは、本がどこにあるかわからなくなること。買ったことをうっかり忘れて、同じ本を二度買ってしまったことも何度かある。
 そして3つめは、新しい本を買っても本棚に並べることができないため、本の新陳代謝が妨げられ、知見のアップデートができなくなることだ。

 本棚に並べている本のうち、既に読んだものは、感動したり、指摘の鋭さにうなされたりした、思い出深いものばかりだ。
 しかし、私がそれらを読んだのは、多くは10~20年、あるいはそれ以上前のことで、出版もその頃かそれ以前で、現代では評価が見直されているものもあるだろう。
 また、当時私にとって重要なテーマであったが、今となってはもうあまり興味を引かれないものもある。
 私は何らかの学者でも教員でも専門家でもジャーナリストでもライターでもない。蔵書を仕事に活用することはない。ただ趣味で読書をしているだけの人間である。そんな者がこれほどの蔵書を抱え込んでいる必要が果たしてあるのか。
 そして、ネットの発達により、古書の入手は容易になり、電子書籍も普及し、資料や文献を入手する手段も増えた。
 紙の本にこだわる必要がどこまであるのか。

 それに、私はもうン十台半ばとなった。この歳であとどれだけの本を読んで、いかほどのことを成し得るというのか。

 そんな思いから、それまで以上に大量に本を処分していくことにした。

 それまで、私にとって、古書店やブックオフでの処分は、直接持っていくことしか考えておらず、それが高いハードルになっていたのだが、今どきのことだからネットでも買取をやっているのかと調べたところ、ブックオフや類似の業者が多数行っており、自宅に集荷に来てもらうこともできると知り、それでハードルだいぶ下がった。
 さらに、一点一点買い取り価格を確認することもでき、業者によってかなり価格に差があることもわかった。

 そうして、これまで数百冊宅配買取に出し、値段が付かないものは紙ごみに出してきた。
 それでもまだ本棚はいっぱいで、床積み本の山もまだ残っており、さらに処分を進める必要がある。
 これまでも吟味して取捨選択してきたが、いよいよ処分するのがかなり惜しまれる部類に入っていくことになる。
 
 『本の雑誌』2023年2月号が「本を買う!」特集をやっていた。
 中野善夫氏が本を買うことの大切さを力説している。
 こんまりさんのベストセラー本の一節「その「いつか」は永遠に来ないのです」に対して、
しかし、あなたはまだ若い。買って四十年経ってから読む本があることを知らないだけである。永遠とはそんなに短い時間ではない。

と述べている。
 そしてさらに、清水幾太郎のロングセラー『本はどう読むか』(講談社現代新書、1972)を引用して、本は図書館などで借りるのではなく、自分で買うべきものであるとし、また中野氏が同書の教えを真に受けて、読めもしない洋書の小説を買って手元に置いていたら、そのうち読めるようになり、やがて翻訳の仕事もするようになり、「三十年前、四十年前に買った本が重要な資料となった」という。
 中野氏は述べている。
今日明日読む本だけを買っていてはそれこそ駄目だ。いつか読む本を今買いなさい。迷うことなく、今この瞬間に。そして、積みなさい。天に届くまで。


 そりゃあそういうこともあるだろう。そういう人もいるだろう。
 本を置くスペースが十分にあるのなら、あるいはそれらの本が仕事の資料となることがあるのなら、それもいいだろう。

 私は、四半世紀ほど前にPCゲームに興味があって、海外のPCゲーム雑誌を時々買っていた(PCゲーム専門店や紀伊國屋書店で、そうした雑誌が売られていた)。
 付録のCD-ROMでゲームを遊んだりはしたが、それらの雑誌を読みこなすことはできなかった。
 また、やはり四半世紀ほど前に購入したまま読んでいなかった本を、最近、本棚の整理をしたときに読んでみたこともある。
 しかし、そのテーマは既に私の中では色あせていたため、大した読後感を得ることはできなかった。

 人間の能力には限界があるし、環境にも制約がある。
 そして、本を読むべき時機というのも、やはり重要ではないか。

 とりあえず、私が今興味をもっているテーマについて、ある程度まとまった冊数の本が必要だが、それを手元に置くには、ほかの本を処分しなければならない。
 昔読んで感銘を受けた本には、確かに愛着がある。再読することでその気持ちを甦らせることもできるだろう。
 だが、それを再読する必要性が、私にとって、果たしてどれだけあるだろうか。あるとして、それは、今興味をもっているテーマについての本を手元に置く必要性を上回るものなのか。
 仮に手放したとしても、必要があれば、それを再度入手することは容易ではないか。これまでン十年生きてきて、手放した本のうち、再度入手したものがどれほどあるだろうか。
 そう思って、処分を進めていくしかないだろう。


「エルピス -希望、あるいは災い-」感想

2023-01-09 11:53:41 | その他のテレビ・映画の感想
2022年10月から12月にかけてフジテレビ系で放送。
制作は関西テレビ。
最終話まで見た。

Twitterの反応やドラマの感想サイトのレビューのほとんどが絶賛で呆れている。
皆さん事件の真相はどうでもよくて、ただただカッコいい岸本や浅川を見たいだけなのかな。

松本さんがなぜ釈放されたのかがわからない。
目撃証言が嘘だったという証言があったけど、それが本当かどうかは、目撃証言者の反論を聞かないとわからないんじゃないの。
行方不明になって反論を聞けないけど、なら一方の証言だけを真実だと採用していいの?
その目撃証言1つで松本さんは有罪になったの?
殺された被害者は確か3人いるんだよね?

そもそも最初に別人を目撃したという証言があったのに、それがいつの間にか取り上げられなくなったという話だったけど、それならその最初の証言者に当たるとか、なぜ取り上げられなくなったのかを弁護人は追及しないといけないんじゃないの?

被害者のストールから検出された本城彰のDNAが、昔の事件の犯人のDNAと一致した?から、本城が真犯人で松本さんは無罪って話になって、ニュース8でもそう放送されたけど、昔の事件の犯人のDNAとは何から検出されたものなの? それが犯人のものだとどうして言えるの? ストールのDNAが本城のものだとはどうして言えるの? ほかの本城のDNAと対査はしたの? そもそもDNAが検出されたからって犯人と決めつけていいの? それを警察の再捜査も待たずに報道しちゃっていいの?

警察も検察も裁判所もグルだから、マスコミが頑張って真実を世に知らしめるしかない?
マスコミがそんな信頼に値するとどうして言えるの?
マスコミが、これは冤罪に違いないと決めつけて報道していいなら、それは警察や検察が、こいつが犯人に違いないと決めつけて捜査を進めるのと何が違うの?

大門の強姦事件もみ消しが明るみになれば、政権は吹っ飛び、わが国ばかりか世界を揺るがすって斎藤さんは言ってたけど、そんなことになるわけないじゃない。
大門個人の不祥事なんだし、彼や関係者が切り捨てられて終わりでしょう。

冤罪を晴らすこと自体がテーマじゃないことはわかるけど、それでも最低限の納得いく説明は必要じゃないの。

この国では、権力者や有力者が好き放題やっていて、犯罪をもみ消すことも人を殺すことも死刑囚に仕立て上げることも自由自在で、警察も検察も裁判所もみんなグルで、マスコミにもその影響は及んでいて、一般国民はただしいたげられている。
でも、一部の心ある報道陣が、劣勢の中でも、少しでも世の中を良くしようと戦っている。
そんな世界観しか受け取れなかった。
そりゃあマスコミにはウケるでしょう。

別にそういう作り手がいてもいいし、そういうドラマを好む人がいてもいいけど、あまりにも社会をナメているんじゃないかと私には思える。、

これは結局、ブロデューサーや脚本家にそれだけの力量がなかったということなのかな。

鳴り物入りで始まって、当初は期待していたが、釈然としないことこの上ないドラマだった。


インボイス反対派が根拠とする「判例」について-「対価」への消費税分の上乗せは正当か

2022-11-21 11:26:51 | 現代日本政治
 あまりにひどいと思ったのでブログにアップすることにしました。

 来年10月から実施が予定されているインボイス制度に対して、一部で反対の声が上がっています。
 そうした声の中には、免税事業者が受け取った消費税分は「預かり金」ではなく「対価」の一部であって、「益税」なんてものは存在しない、そういう判例もあると主張するものがあります。




《消費税法上も、判例上も、財務省の見解的にも消費税は預り金ではありません。益税なんてありません。》





《橋下徹が「インボイスで課税逃れをしている事業者が消費税を払うようになっているのだからいいことだ」みたいなことを言っているらしいが、自称法律家のくせに、国税が上訴しなかった「消費税分の代金等は対価の一部」という東京地裁の裁判例を知らないのだろうか。》





《→受託先から消費税を預かってるんだから、ちゃんと払えというのは間違い。

消費税は預り金ではなく、正当な対価であるという判決が出ています。》





《他の方が指摘している通り、消費税は預り金ではありません。
これは過去の地裁判決でも確定していて国は控訴しませんでした。
なので益税は存在しないのです。》

 そんな判例があるのかなあと調べてみたら、全国商工団体連合会(全商連)という団体のサイトに「全国商工新聞 2006年9月4日付
」として

判決確定「消費税は対価の一部」
――「預り金」でも「預り金的」でもない


という記事があって、そこに判例として

《(注1)東京地裁平成2年3月26日判決、平成元年(ワ)第5194号損害賠償請求事件、判例時報1344号115頁。同様の主旨の判示が大阪地裁平成2年11月26日判決、平成元年(ワ)第5180号損害賠償請求事件、判例時報1349号188頁を参照。》

と挙げられていたので、そのうち東京地裁の方を見てみました。
 そして、確かに反対派が主張するような内容もあるにはあるんですが、益税否定論の根拠とするのはあまりにひどいと思ったので、こうしてブログで取り上げることにしました。

 判決全文はこちら
 長いですが、内容はそんなに難しくはありません。

 まず、この裁判は、1988年に法律が成立し、翌年導入された消費税について 諸々の問題点があり、憲法違反であるとして、国及び成立時の首相であった竹下登に対して、損害賠償を請求したものでした。
 免税事業者の件は原告が挙げた多数の問題点のうち1つにすぎません。

 そして、原告が、免税事業者について
 
《業者免税点制度は、免税業者が消費者からの消費税分を徴収しながら、その全額を国庫に納めなくてもよいことを認めている。この制度は、(1)〔引用者註:仕入れ税額控除制度〕と同様に不要な消費税分の転嫁を認めたことにより、全部のピンハネを認めたものである。》

と主張し、被告(国側)が

《消費税は、我が国の企業にとって馴染みの薄いものであり、その実施に当たっては種々の事務負担が生ずるので、その軽減を図る必要があるところ、特に、人的・物的設備に乏しく、新制度への対応が困難であることが多く、かつ、相対的に見て納税関係コストが高く付く零細事業者に対しては、特にこの面での配慮がなされなければならないと考えられる。

以上の点を考慮して、事業者免税点制度が設けられたのであるが、

〔中略〕

事業者が取引の相手方から収受する消費税相当額は、あくまでも当該取引において提供する物品や役務の対価の一部である。この理は、免税事業者や簡易課税制度の適用を受ける事業者についても同様であり、結果的にこれらの事業者が取引の相手方から収受した消費税相当額の一部が手元に残ることとなっても、それは取引の対価の一部であるとの性格が変わるわけではなく、したがって、税の徴収の一過程において税額の一部を横取りすることにはならない。》

と主張したのに対し、判決は、

《(二)  事業者免税点制度
(1) 消費税の適正な転嫁を定めた税制改革法一一条一項の趣旨よりすれば、右制度は、免税業者が消費者から消費税分を徴収しながら、その全額を国庫に納めなくて良いことを積極的に予定しているものでないことは明らかである。同法一一条一項が、消費税を「適正に転嫁するものとする」と規定していることに鑑みると、事業者免税点制度の適用を受ける免税業者は、原則として消費者に三パーセント全部の消費税分を上乗せした額での対価の決定をしてはならないものと解される。したがって、消費税施行にともない、いわゆる便乗値上げが生じることはあり得るとしても、それは消費税法自体の意図するところではない

(2) 右制度の目的は、消費税が、我が国の企業にとって馴染みの薄いものであり、その実施に当たっては種々の事務負担が生じるので、その軽減を図る必要があるところ、特に、人的・物的設備に乏しく、新制度への対応が困難であることが多く、かつ相対的に見て納税コストが高くつくものと思料される零細事業者に対しては、特にこの面で配慮をして、右のような業者を免税業者としたものである。右立法的配慮が明らかに不合理であるということもできない。》

と、国の主張を基本的には認める一方で、免税事業者は対価を決定するに当たって消費税分を上乗せしてはならないのが法の趣旨であると述べています。

 また、「預かり金ではない」との主張については、原告が

《(4) 政府広報における説明

政府広報「消費税って何でしょう。」によれば、消費税を税抜きで処理する場合、課税売り上げに対する税額については「預かり金」、仕入税額控除対象額については「仮払い金」として処理を行うよう指導しているが、右のような処理は所得税法に基づく給与所得者からの源泉徴収額に関する源泉徴収義務者の経理処理と全く同様であり、大蔵省及び自治省もまた消費税の徴収義務者が事業者であって、納税義務者は消費者であるということを前提としている。》

と主張し、被告が

《なお、政府広報「消費税って何でしょう」には、確かに原告ら主張のとおり、所得税あるいは法人税の計算上、税抜きで処理する場合には税額分は預かり金とし、課税仕入れに含まれる税額については仕入れ税額控除対象額は仮払金とすること等の記載があるけれども、これはあくまでも消費税相当額を企業会計上どのように取り扱うかという会計技術に関する説明であり、消費税の納税義務者の問題とは無関係である。
また、原告らの援用する各通達は、消費税法の施行にともない所得税法の所得計算等の適用関係について、その運用の統一を図るために発せられたものであり、所得税相当額は対価の一部を構成するものではないという解釈を前提としたり、あるいは法の明文に反して納税義務者は消費者であるとの解釈のもとに定められたものではない。》

と主張したのに対して、判決は、

《原告の主張する、消費税に関する国税庁長官通達や、政府広報の説明内容は、消費税施行に伴う会計や税額計算について触れたものであって、法律上の権利義務を定めるものではない。そこで述べられていることは、取引の各段階において納税義務者である事業者に対して課税がなされるが、最終的な負担を消費者に転嫁するという消費税の考え方と矛盾するものではなく、消費者が納税義務者であることの根拠とはなり得ない。

以上のとおりであるから、消費者は、消費税の実質的負担者ではあるが、消費税の納税義務者であるとは到底いえない。》

と国側の主張を認めました。

 「預かり金ではない」と判決が認めたというのはこの限りにおいては正しいのですが、ここで言う「預かり金」とは、原告が主張するような、所得税の「源泉徴収義務者の経理処理と全く同様」のものを指すのであって、それに当たらないことは制度上そもそも明白であって、これは原告の主張が無理筋なのです。

 判決は、「その全額を国庫に納めなくて良いことを積極的に予定しているものでないことは明らかである」とし、そもそも上乗せしてはならないのが消費税法の趣旨であるともしているのですから、免税事業者が消費税分を上乗せした対価を得ることが正当であると認めているわけでは決してありません。

 付け加えると、判決は、争点の1つである仕入税額控除制度の是非については

《 先に述べたように、消費税の納税義務者が消費者、徴収義務者が事業者であるとは解されない。したがって、消費者が事業者に対して支払う消費税分はあくまで商品や役務の提供に対する対価の一部としての性格しか有しないから、事業者が、当該消費税分につき過不足なく国庫に納付する義務を、消費者に対する関係で負うものではない。

もっとも、消費税の実質的負担者が消費者であることは争いのないところであるから、右義務がないとしても、消費税分として得た金員は、原則として国庫にすべて納付されることが望ましいことは否定できない。

と述べています(これは免税事業者ではなく課税事業者の話です)。

 そして、この判決は国側が勝訴したのだから、国側が控訴しないのは当然のことです。

 にもかかわらず、インボイス制度反対派は、この判決の中の自説に都合のいい部分だけを切り取って、根拠としているにすぎません。「益税は存在しない」なんてどこにも書いてません。

 インボイス制度の導入により、事務負担の増加とか課税事業者となることを強いられるとか、いろいろ問題があるのはわかります。

 しかし、消費者は、税収となるものと考えて、消費税分を支払っているのです。それが税収にならず、事業者の余禄となることに同意して、消費税分を支払っているのではありません。

 この本質的な点についての説明を抜きにして、ただただ事業者側の都合だけを言い立てても、一般消費者の理解を得るのは難しいでしょう。

(引用文中の太字はいずれも引用者による)


反戦運動は反米運動でしかないことの一例-平岡敬・元広島市長へのインタビューを読んで

2022-11-20 11:48:29 | ウクライナ侵攻
 前回、山本昭宏氏がインタビューで述べているように、日本で反戦運動が盛り上がるのは「米国の戦争」に対してだけだったという話をした。
 そしてそれは、必ずしも山本氏が言うように「『加担すること』と『巻き込まれること』を感じやすい」からだけではなく、要は反戦運動は反米運動の一手段でしかなかったからだという話をした。
 
 そのことを如実に示す記事が、8月17日の朝日新聞夕刊に掲載されていたので取り上げたい。
 平岡敬・元広島市長(任1991~1999)へのインタビュー。

https://digital.asahi.com/articles/DA3S15390386.html
(核に脅かされる世界に 被爆国から2022)平岡敬さん まず米国が謝らないと
2022年8月17日 16時30分

■元広島市長(94歳)

 在韓被爆者を長年取材し、冷戦終結後の1990年代に広島市長を務めた経験から、私はつねに、米国が原爆投下を謝らない限り、核兵器はなくならないと言い続けてきました。

 ロシアのプーチン大統領が核兵器を実戦使用しかねない発言をしたけれども、核を持っている国はすべてそう思っています。「使うぞ」と言わないだけ。核の保有自体が脅威なのです。

 冷戦が終わった時、これで核兵器の恐怖はなくなったと私たちは思いました。だけど米国は冷戦に「勝った」と考え、ロシアを弱体化させようとする基本政策をずっと続けてきました。それにウクライナが使われたと私は考えています。

 米国の責任を問わずにきたことが跳ね返ってきている気がします。プーチン氏の立場で考えれば、「米国は実際に核兵器を使ったのに謝ってもいない。米国に責められるいわれは全然ない。使って何が悪い」と

 いま日本で「核共有」や「敵基地攻撃」が論じられていますが、どこかの国を敵視すること自体が平和を阻害する要因です。

 民衆がナショナリズムに乗ったとき、結局、被害を被るのもすべて民衆です。支配者はほくそえむだけ。そういう構造を変えていかないといけません。

 今の状況はロシアと米国の戦争だと私は思っています。非はもちろんロシアにありますが、「戦争で犠牲になるのは市民だ」と言い続けなければならない。即時停戦させるべきなのに、武器をどんどんウクライナに渡すというのは、もっと戦争しろと言うことです。

 ロシアが武力行使に踏み切った背景もきちっと理解しない限り、この戦争の意味はわかりません。マスコミの仕事は「みんな冷静になれ、冷静になれ」と言うことに尽きると思います。もっと冷静になれ、と。(聞き手 編集委員・副島英樹)

     *

 ひらおか・たかし 1927年、大阪市生まれ。中国新聞の記者として在韓被爆者問題を掘り起こし、91~99年に広島市長。95年にオランダ・ハーグの国際司法裁判所(ICJ)で核兵器の違法性を証言した。著書に「無援の海峡 ヒロシマの声 被爆朝鮮人の声」「希望のヒロシマ」など。》
〔太字は引用者による〕

 プーチン大統領が核兵器使用を示唆する脅しをしたことも米国のせい。
 きっとロシアが実際に核兵器を使用しても米国のせいだと言うのだろう。

 「米国は冷戦に「勝った」と考え、ロシアを弱体化させようとする基本政策をずっと続けてきました。それにウクライナが使われた」
 ロシアの言い分そのままではないか。
 「弱体化させようとする基本政策」とは具体的に何を指すのか。
 例えばいわゆるNATOの東方拡大か。
 しかし、国家には、どの軍事同盟に参加するか、あるいはしないかを選択する権利があるのではないか。
 そして、クリミアを支配されたウクライナが、反ロシアに傾くのも当たり前のことではないか。
 それとも平岡氏は、超大国の近隣国には主権など無いとお考えなのだろうか。
 ならばわが国もそうなのか。

 「いま日本で「核共有」や「敵基地攻撃」が論じられていますが、どこかの国を敵視すること自体が平和を阻害する要因です」
 「どこかの国」が自国を敵視して軍備を増強しているときに、それへの対応を検討することがなぜ「平和を疎外する要因」なのか。
 平岡氏は非武装中立論者で無抵抗主義なのか。

 「民衆がナショナリズムに乗ったとき、結局、被害を被るのもすべて民衆です。支配者はほくそえむだけ。そういう構造を変えていかないといけません」
 それはプーチン大統領に言うべき言葉ではないのか。
 侵略に対して抵抗しようとするナショナリズムが支配者をほくそえますだけのものなのか。
 平岡氏は大東亜戦争での中国の抗戦や東南アジアの反日運動に対しても同じことが言えるのか。 

 「即時停戦させるべきなのに、武器をどんどんウクライナに渡すというのは、もっと戦争しろと言うことです」
 即時停戦は侵攻しているロシアに言うべきことではないのか。
 外国から武器を供与しなければ、国力ではロシアに及ばないウクライナが抵抗を続けることは困難だ。
 抵抗のための戦争であってもしてはならないと言うのなら、それはそれで1つの考えだが。

 「ロシアが武力行使に踏み切った背景もきちっと理解しない限り、この戦争の意味はわかりません」
 何故かこの手の人たちはロシア(ソ連)や中国(中華人民共和国)、北朝鮮などに対してだけはこのように言う。
 わが国が真珠湾攻撃に踏み切った背景、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻した背景、米国がベトナム戦争に介入したりアフガニスタンやイラクで戦争をしたりした背景をきちっと理解すべきとは言わない。

 米国が原爆を投下した「背景もきちっと理解」すれば、米国が原爆投下を謝罪する必要はないのかもしれない。しかし彼らはそうは考えない。ロシアの言い分には耳を傾けるべきだが、米国に対してはそうではない。
 米国が核兵器を持っているからといって、ロシアもまた核兵器を持つことが必然ではない。「どこかの国を敵視すること自体が平和を阻害する要因」なのだとしたら。しかし彼らはロシアに対してはそうは考えない。
 謝罪すべき、譲歩すべきなのは常に米国、そしてわが国の側だけ。
 「非はもちろんロシアにあります」と口では言うものの、ではロシアを制止するための行動は全くとらない。あるのはただ米国批判のみ。

 反戦運動・反核運動が反米運動・反体制運動の一手段でしかないことを実によく示しているインビューだった。


山本昭宏「殺したらいけない」がなぜ言いづらい」を読んで-当たり前を無視した無理筋の反戦論

2022-09-05 06:57:52 | ウクライナ侵攻
 8月12日にウクライナ降伏論を説く豊永郁子氏の寄稿を載せた朝日新聞は、さらに17日には、ウクライナの徹底抗戦を疑問視する声がもっとあってもいいと説く山本昭宏・神戸市外国語大学准教授(歴史社会学)へのインタビューを載せた。
 その中に、山本氏の意図とはやや異なるだろうが、非常に重要だと思われる指摘があったので、感想と共に書き留めておく。

「殺したらいけない」がなぜ言いづらい 徹底抗戦が支持される危うさ
聞き手・渡辺洋介
2022年8月17日 10時00分

 ロシアによるウクライナ侵攻が長期化する中、反戦や停戦を求める機運は広がらない。ベトナム、湾岸、アフガニスタン、イラク。過去、日本で反戦が大きなうねりとなった戦争と、何がどう違うからなのか。戦後の平和主義について詳しい神戸市外国語大の山本昭宏准教授(歴史社会学)に聞いた。

 ――ウクライナの徹底抗戦が叫ばれ、「戦争をすべきではない」という反戦や厭戦(えんせん)の声があまり聞こえてきません。

 「日本で反戦運動が盛り上がるのは『加担すること』と『巻き込まれること』を感じやすい『米国の戦争』に対してだったと考えています。例えば、反戦デモが広がったベトナム戦争では、日本の米軍基地から米軍機がベトナムに飛びたつことで戦争に加担しているという意識が背景にありました。2000年代のアフガニスタンやイラクの戦争では、『テロとの戦い』を掲げる米国に加担することで、テロの標的になり巻き込まれることへの反発がありました」

共有されない「戦争は二度とごめんだ」

 「しかし、今回のウクライナ侵攻は米国の関与が間接的支援にとどまっています。日本が加担することも巻き込まれることも感じにくく、巨大な反戦運動にはつながりにくいのです」
〔太字は引用者による。以下同〕》

 太字部分は全くそのとおりで、わが国において反戦運動が盛り上がるのは「米国の戦争」に対してだけである。
 だから、ソ連のアフガニスタン侵攻や、英国とアルゼンチンのフォークランド紛争、ベトナムのカンボジア侵攻、中越戦争、ユーゴ紛争、シリア内戦などなど、米国が直接関与しない戦争は、運動家にとってはどうでもよいことであり、反戦運動が盛り上がることはなかった。

 だがそれは、山本氏が言うように、「加担すること」と「巻き込まれること」を感じやすいからだとばかりは言えないと私は考える。
 2000年代のアフガニスタン戦争やイラク戦争に対して、わが国がテロの標的にされることを理由とする反対論が幅をきかせていただろうか。私には記憶にない。単に、米国が軍事力を行使することへの反発が強かっただけではないか。
 
《 「もうひとつは戦争体験者の減少です。1990年代ぐらいまでは国家の命令で海外に連れて行かれて人を殺したり戦友を殺されたりした経験を持つ戦場体験者がまだたくさん生きていました。家が焼かれ、友達が死に、息子が出征したという戦争体験者も残っていた。こうした体験者の『戦争そのものへの拒否感』が日本社会に反戦の根拠を提供し、長年にわたって戦後日本の平和の土台をつくりだしてきました。しかし、戦争体験者の数は少なくなり、『戦争は二度とごめんだ』という感覚は若い世代にまでうまく共有されていません」

 ――徹底抗戦や即時停戦をめぐる議論をどう見ていますか。

 「ロシアが悪いのは明白です。ですからウクライナの徹底抗戦という態度に否定し難いものを感じてもいます。しかし、戦争体験者がたくさん生きていたら、もっとゼレンスキー大統領に対して違和感を言う人がいてもおかしくないのではないかと思います。自らの戦争体験に基づき、『いかなる理由があっても国家によって人殺しをさせられるのは嫌だ』という思想を持った人が何人も思い浮かびます。彼らだったらプーチン大統領だけではなく、国民に徹底抗戦を命じるゼレンスキー大統領も批判の対象にしてもおかしくありません」》

 戦争体験者ではないが、前回取り上げた豊永郁子氏など、ゼレンスキー大統領の姿勢を批判する人はマスコミでもSNSでもしばしば目にする。ただ、ベトナム戦争のような大きな反戦運動になっていないだけである。

 それに、まだ少数残っている戦争体験者から、実際にゼレンスキー大統領を山本氏が言うような観点から批判する声が上がっているだろうか。単に山本氏の願望にすぎないのではないだろうか。

《やせ細る反戦の思想

 ――どういうことでしょうか。

 「つまり、そもそも『殺したらいけない』と言う人がいたわけです。ベトナム反戦運動のときだったら『殺すな』ということが掲げられました。今回のウクライナ侵攻でも、戦場に行きたくないのに殺し合いに巻き込まれているロシア兵がいるということへの想像力が強く働いたでしょう。体験者が多い社会ならば、停戦したほうがいいんじゃないかと言えたかもしれません。しかし、いまは言いづらい。抗戦か停戦かという二項対立だけではなく、戦争そのものの非道さを問うなど複数の論理を内在していた反戦の思想が、やせ細っているように思います」

 ――もっと戦争反対の声が出てきても良いということですか。

 「戦後日本社会が築き上げてきた平和論からすれば、徹底抗戦を支持する前に、『平和の架け橋になる』という言葉がもっと出てきてもいいと思います。つまり、徹底抗戦を支持せざるをえないという現状から踏み込んで、まずはロシアとウクライナに戦争を早くやめるよう求める手もある。いまは戦争状態にあるため、ウクライナの国内からゼレンスキー大統領に対する徹底抗戦への違和感は出にくいのではないでしょうか」

 「戦争に関しては、白か黒かを完全に切り分けるのは困難です。ロシアとウクライナの双方をより多角的にみるというのが『批判』という行為だと思います。わかりやすくゼロか100かになってしまっていることを懸念しています」》

 だが、その「殺すな」は米国にだけ向けられていた。解放戦線や北ベトナム軍に対して、米兵も同じ人間だから殺してはならないなんて説く反戦運動家なんかいなかった。
 そして、彼らの主張は「米国はベトナムから手を引け」というものであり、北ベトナムと南ベトナムの停戦など求めていなかった。だから実際に米国がベトナムから撤退した後、北ベトナムが南ベトナムに侵攻し、これを併呑しても、彼らは何も言わなかった。結果共産主義政権が40年以上続き、ベトナム人の人権が侵害されていても意に介さない。
 それは反戦運動が反米運動の一手段でしかなかったからだ。
 山本氏が主張する「戦後日本社会が築き上げてきた平和論」「平和の架け橋」など反戦運動のどこに存在したというのだろうか。

《〔中略〕
 目立つ「国家の言葉」

 ――「安全保障の言葉」だけではなく、個人的な感覚に基づいた言葉で平和を語る必要も指摘されています。

 「安全保障の言葉は、国民の財産と生命を守らねばならないという使命を背負った『国家の言葉』でもあります。それを否定することはできません。しかし、ウクライナ危機を語るときには、国家対国家の安全保障の言葉ばかりが目立ちます。繰り返しますが、ロシアは擁護不可能です。ただ、それと同時に、国家は国民を戦争に動員するという側面があることも認識するべきでしょう。戦後日本が培ってきた厭戦の心情からすれば、停戦や反戦を求めたり、ウクライナの徹底抗戦を疑問視したりするような多様な声がもっとあってもいいのではないでしょうか」(聞き手・渡辺洋介)》

 「戦後日本が培ってきた厭戦の心情」とは、戦争は嫌なものだという素朴な思い、そして自らが侵略者になってはならないという自戒の念ではあっても、侵略された時には無抵抗で降伏せよとか、侵略された国を支援せずに降伏を勧めるといったものではないだろう。だからこそ、国民は自衛隊の存続を容認してきたのではないのだろうか。
 そして、かつてのわが国は侵略した側であったが、今のウクライナは侵略されている側である。山本氏は白か黒かで割り切れないというが、少なくともロシアがウクライナ領に侵攻しているのであって、その逆ではない。
 侵略に抵抗している国に向かって反戦や停戦を求める機運が盛り上がらないのは、ごく当たり前のことだろう。
 山本氏はその当たり前を無視して、いろいろと無理筋な理屈づけを試みているだけとしか思えない。


豊永郁子「抗戦ウクライナへの称賛、そして続く人間の破壊」を読んで

2022-08-22 06:26:46 | ウクライナ侵攻
 8月12日付け朝日新聞朝刊に、豊永郁子・早稲田大学教授のウクライナ戦争についての寄稿「抗戦ウクライナへの称賛、そして続く人間の破壊」が掲載された。
 9条平和主義による降伏論の典型だと思われるので、感想と共に書き留めておく。

《〔前略〕
 ウクライナ戦争に関しては、2月24日のロシアの侵攻当初より釈然としないことが多々あった。むしろロシアのプーチン大統領の行動は独裁者の行動として見ればわかりやすく、わからなかったのがウクライナ側の行動だ。まず侵攻初日にウクライナのゼレンスキー大統領が、一般市民への武器提供を表明し、総動員令によって18歳から60歳までのウクライナ人男性の出国を原則禁止したことに驚いた。武力の一元管理を政府が早くも放棄していると見えたし(もっともウクライナにはこれまでも多くの私兵組織が存在していた)、後者に至っては市民の最も基本的な自由を奪うことを意味する。

 さらに英米の勧める亡命をゼレンスキー氏が拒否し、「キーウに残る、最後まで戦う」と宣言した際には耳を疑った。彼自身と家族を標的とするロシアの暗殺計画も存在する中、ゼレンスキー氏の勇気には確かに胸を打つものがあり、世界中が喝采した。これによってウクライナの戦意は高揚し、NATO諸国のウクライナ支援の姿勢も明確化する。だが一体その先にあるのは何なのだろう。

 市民に銃を配り、すべての成人男性を戦力とし、さらに自ら英雄的な勇敢さを示して徹底抗戦を遂行するというのだから、ロシアの勝利は遠のく。だがどれだけのウクライナ人が死に、心身に傷を負い、家族がバラバラとなり、どれだけの家や村や都市が破壊されるのだろう。どれだけの老人が穏やかな老後を、子供が健やかな子供時代を奪われ、障害者や病人は命綱を失うのだろう。大統領はテレビのスターであったカリスマそのままに世界の大スターとなり、歴史に残る英雄となった。だが政治家としてはどうか。まさにマックス・ウェーバーのいう、信念だけで行動して結果を顧みない「心情倫理」の人であって、あらゆる結果を慮(おもんぱか)る「責任倫理」の政治家ではないのではないか。》

 何が「釈然としない」「わからなかった」のか私にはわからなかった。
 侵略に抵抗するため一般市民に武器を供与し、総動員をかけることがそれほど不可解だろうか。
 国際連合広報センターのサイトの通常兵器に関するページには次のようにある。

すべての国は個別的もしくは集団的自衛に対して固有の権利を有し、国連憲章に従って武力を使用することができる。自国の軍隊もしくは治安部隊を武装することとは別に、ほとんどの国は、一般にある種の条件のもとに、民間の警備会社や市民による銃器もしくは武器の所有を許し、合法的な目的のためにはその使用を許可する。


《 日本には今、ウクライナの徹底抗戦を讃(たた)え、日本の防衛力の増強を支持する風潮が存在するが、私はむしろウクライナ戦争を通じて、多くの日本人が憲法9条の下に奉じてきた平和主義の意義がわかった気がした。ああそうか、それはウクライナで今起こっていることが日本に起こることを拒否していたのだ。

 冷戦時代、平和主義者たちは、ソ連が攻めてきたら白旗を掲げるのか、と問われたが、まさにこれこそ彼らの平和主義の核心にあった立場なのだろう。本来、この立場は、彼らが旗印とした軍備の否定と同じではない。だが彼らは政府と軍の「敗北」を認める能力をそもそも信用していなかったに違いない。その懸念は、政府と軍が無益な犠牲を国民に強い、一億玉砕さえ説いた第2次世界大戦の体験があまりにすさまじかったから理解できる。同じ懸念を今、ウクライナを見て覚えるのだ。》

 まあ、当時の「平和主義者」は、そういう者もいただろう。もっとも、正面からそう言い切った者はそれほど多くなかったように思うが。
 むしろ、ソ連の侵攻など有り得ないと、イデオロギーから、あるいは単なる願望から、そう思い込み、思考停止していた者が多かったのではないか。
 
 そして、開戦初期ならいざしらず、ウクライナが頑強に抵抗を続けている今の段階で、「無益な犠牲を国民に強い、一億玉砕さえ説」くことへの懸念をウクライナに覚えるということが私には理解できない。

《 人々が現に居住する地域で行われる地上戦は、凄惨(せいさん)を極め得る。4人に1人の住民の命が失われた沖縄の地上戦を思うとよい。第2次大戦中、独ソ戦の戦場となったウクライナは住民の5人に1人を、隣のベラルーシは4人に1人を失ったという。今、ウクライナはロシアの周辺国への侵攻を止める防波堤となって戦っているとか、民主主義を奉じるすべての国のために独裁国家と戦っているとか言われるが――ともにウクライナも述べている理屈だ――再びウクライナで地上戦が行われることを私たちがそうした理屈で容認するのは、何かとても非人道的なことに思える。米国などは、徹底抗戦も停戦もウクライナ自身が決めることとうそぶくが、ウクライナに住む人々の人権はどこに行ってしまったのだろう。》

 地上戦は凄惨だが、ロシアの占領下で行われた拷問や虐殺もまた凄惨だろう。朝日新聞は何度もその実態を報じているが、豊永氏はご覧になっていないのか。それとも、戦争による破壊よりは、占領下での蛮行の方がまだ容認できるとお考えなのだろうか。
 まさに「徹底抗戦も停戦もウクライナ自身が決めること」だろう。徹底抗戦を唱えるゼレンスキー大統領の下、ウクライナ国民がいやいや戦争させられているというならともかく、そんな証拠もないのに、人権を憂えて抵抗や支援を否定することの方が、私にはよほど「とても非人道的なこと」に思える。

《 20世紀を通じ、とくに2度の世界大戦を経て、私たちの間には国境を越えて人権の擁護が果たされなければならないという規範が形成され、冷戦が終わった1990年代以降はこれがいよいよ揺るぎないものになったと見えた。だがそうでもなかった。欧米諸国の政府は、間断なくウクライナに武器を供給し、ロシアへの制裁における一致団結ぶりを誇示することで和平の調停を困難にし、戦争の長期化、すなわち更なる人的犠牲の拡大とウクライナ国土の破壊を促している格好にある。そしてこれが主権、つまりは自己決定権をもつウクライナが望み、ウクライナ人が求めることなのだからそれでよいのだとする。また、国際秩序を乱したロシアに代償を払わせるという主張も繰り返される。しかし国際秩序の正義のためにウクライナ1国が血を流し、自らの国土で戦闘を続けよというのは、正義でも何でもないように思う。

 色々なことが少しずつおかしい。》

 ではウクライナ1国ではなく、欧米やわが国も血を流すべきだと豊永氏は説くのか。そうではあるまい。そんなことをしたら第3次世界大戦になってしまう。核戦争に至る危険がある。
 豊永氏によると、ウクライナが戦争の継続と支援を望んだとしても、欧米諸国はそれに応じず、和平の調停を図ることが、ウクライナ国民の生命と国土の破壊を防ぐという「正義」にかなうということになる。
 そうなのだろうか。同じことを日中戦争の中国、第二次世界大戦のポーランドに対しても言えるのだろうか。
 「おかしい」のは豊永氏の方ではないか。

《〔中略〕
 さて和平派の立場は、戦争がもたらしたエネルギーや食料の不足などの経済問題、核兵器の使用も含む戦争のエスカレーションへの懸念から説明されることが多い。だが、これらにあわせて戦争による犠牲の拡大について道義的な疑念が広く存在することを忘れてはならない。また、ロシアを、プーチン氏を敗退させることが現実的にどこまで可能かも疑問だ。

 そもそも戦闘はロシアの外で行われている。かつて中国大陸に侵攻した日本が、欧米諸国による経済制裁や膠着(こうちゃく)する戦線に苦しみながらも、決して軍事的に譲歩しなかったことが思い浮かびはしないか。結局、日本が大陸を諦めるのには日本本土の焦土化を要した。さらに戦争の長期化は、ロシア国内におけるプーチン氏の権力を弱体化するのではなく、強化する可能性があることも留意すべきだ。戦時体制を通じて全体主義体制が成立する可能性すらある。》

 日本のようにロシア本土を焦土化することはできないから、ロシアを敗退させることは現実的には不可能ではないかと言う。しかし、例えばソ連のアフガニスタン侵攻は、ソ連国内が戦場になったわけではないが、ソ連軍は約10年で撤退するに至った。
 また、戦争の長期化はプーチン大統領の権力を強化する可能性もあると言う。そうかもしれないが だからといって、ウクライナの降伏による戦争の終結が、プーチン大統領の弱体化をもたらすわけではあるまい。それもまた権力強化につながるのではないか。

《 最近よく考えるのは、プラハとパリの運命だ。中世以来つづく2都市は科学、芸術、学問に秀でた美しい都であり、誰もが恋に落ちる。ともに第2次世界大戦の際、ナチスドイツの支配を受けた。プラハはプラハ空爆の脅しにより、大統領がドイツへの併合に合意することによって。パリは間近に迫るドイツ軍を前に無防備都市宣言を行い、無血開城することによって(大戦末期にドイツの司令官がヒトラーのパリ破壊命令に従わなかったエピソードも有名だ)。

 両都市は屈辱とひきかえに大規模な破壊を免れた。プラハはその後、ソ連の支配にも耐え抜くこととなる。これらの都市に滞在すると、過去の様々な時代の息づかいを感じ、破壊を免れた意義を実感する。同時に大勢の命と暮らしが守られた事実にも思いが至る。

 2都市に訪れた暗い時代にもやがて終わりは来た。だがその終わりもそれぞれの国が自力でもたらし得たものではない。とりわけチェコのような小国は大国に翻弄(ほんろう)され続け、冷戦の終結によりようやく自由を得る。プラハで滞在した下宿の女主人は、お茶の時間に、共産主義時代、このテーブルで友達とタイプライターを打って地下出版をしていたのよ、といたずらっぽく語った。モスクワ批判と教会史の本だったそうだ。私は彼女がいつ果てるともわからない夜に小さな希望の明かりを灯(とも)し続けていたことに深い感動を覚えた。》

 降伏により都市は大規模な破壊を免れるのだから戦争を続けるよりその方がいい。地下活動で抵抗する道もあるよ、ということか。
 ロシアのウクライナ占領地域で何が行われたかが明らかになっているというのに、どうしてこんな呑気ことが言えるのか、不思議でならない。
 「徹底抗戦も停戦もウクライナ自身が決めること」である。
 
 朝日新聞デジタルの本記事には、「コメントプラス」として、三牧聖子・同志社大学大学院准教授とジャーナリストの江川紹子氏の秀逸なコメントが掲載されている。強く共感した。

安倍元首相銃撃翌日の朝日社説に思う

2022-07-10 16:35:56 | マスコミ
 朝日新聞は7月9日の朝刊1面で安倍元首相の死亡を報じるとともに、社説「民主主義の破壊許さぬ」をも1面に掲載した。

銃弾が打ち砕いたのは民主主義の根幹である。全身の怒りをもって、この凶行を非難する。同時に、亡くなった安倍元首相に対し、心から哀悼の意を表する。

 参院選の投開票日の直前に、しかも街頭で遊説中に、現役の有力政治家である安倍氏が撃たれたことはあまりにも衝撃的だ。

 選挙は、民主国家の基礎中の基礎である。そこでは思想信条の自由、言論・表現の自由、投票の自由が、厳格に守られなければならない。

 その選挙を暴力で破壊する。自由を封殺する。動機が何であれ、戦後日本の民主政治へのゆがんだ挑戦であり、決して許すことはできない。その罪の危険さ、深刻さを直視しなければならない。


 太字で引用した選挙の自由の重要さについては、全く同感である。

 しかし、朝日新聞は、安倍政権時代に、首相による選挙演説の妨害を肯定するスタンスの記事を載せてはいなかったか。

選挙演説の妨害を称揚する朝日新聞
https://blog.goo.ne.jp/gb3616125/e/5cee84aecaa464a38ad31e214b00ecb7

朝日新聞「演説中のヤジ、選挙妨害?」を読んで
https://blog.goo.ne.jp/gb3616125/e/636376c375737c82704df8a62ecc3477

 こんな新聞がいくら美辞麗句を連ねたところで、私には全く心に響かない。

政治家は有権者に選ばれ、「全国民の代表」として活動する。任にあらずと見なされれば、選挙で退場させられる。長く政権の座にあった元首相ともなれば、その実績は後世の厳しい吟味を受けるだろう。政治家は皆、いわば「歴史法廷に立つ被告」(中曽根康弘元首相)である。

 そうだとしても、凶器により生身の肉体をもって裁かれるいわれはまったくない。


 それはそうだが、この一節はいったい何が言いたいのだろうか。暴力は許されないが、言論で政治家が厳しく批判されるのか当然だという予防線か。
 政策や人格について政治家が批判を受けるのは当然だろう。しかし朝日は、安倍氏の出自までをも批判の材料にしてやしなかったか。

さりげなく安倍晋三の出自を攻撃する朝日
https://blog.goo.ne.jp/gb3616125/e/cc8fd27ee8720ab7ff5e0ddc0d97ca95 

 戦前日本の一時期は、5・15事件、2・26事件といった政治的テロが頻発する時代だった。その果ての太平洋戦争の敗北まで、いかに多くの犠牲者が国内外で出たか、改めて銘記しなければならない。

 戦後も、政治家や言論機関を狙ったテロがなくなったわけではない。しかし、私たちはそのつど、卑劣な行為への憤りを分かち合い、屈することなく、ひるむことなく、ともかくも自由な社会を守ってきた。その尊い営みを未来に引き継がなければならない。

 まずは捜査当局に、事件の背景の徹底究明を求める。有権者は、大きな驚きに耐えつつ、投票日に臨もう。

 21世紀に入り、世界各地で民主主義の失調があらわになった。米連邦議会への暴徒乱入はその象徴かと思われたが、今回、日本が直面する危機も深い。

 民主主義を何としても立て直す。決して手放さない。その覚悟を一人ひとりが固める時である。


 朝日新聞が民主主義を支持し、手放さないと誓うのは同紙の自由だ。だが、国民全てが民主主義者であり、その存続を願っているとは限らない。にもかかわらず、「その覚悟を一人ひとりが固める時である」と強要し、思想の統制を図る。こんなことで「自由な社会」が守れるのか。
 私は民主制を支持しているが、こんな社説で「覚悟を」「固め」たりはしない。空虚な思いが募るだけである。